ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

このあまりにも有名な本を実際に読んだ人というのは、どれくらいいるのだろうか。
例えば、著者はこの「神話」について、端的に述べている場所がある。

経済学者は、公共サーヴィスと私的サーヴィスをまったく区別しないであらゆる種類の生産物のサーヴィスを全部加えるが、そうすると公害も公害対策も、統計上は客観的に有用な財の生産という同一のものとなってしまう。「アルコールや漫画や歯磨の生産も......核弾頭の生産も、そこでは学校や道路や水泳プールの不足を拭い去ってしまう」(ガルブレイス)。
機械の劣悪化や老朽化は統計には表われないし、たと表わても黒字として表われる! 職場までの交通費も帳簿上は消費支出として記録される! それは生産のための生産の魔術的目的論の数字化された論理的帰結だ。生産されたものはすべて生産されたという事実によって神聖化される。生産されたもの、計量可能なものはすべて肯定される。

帳簿に書きこまれた集団的執念である生産性は、なによりもまず神話としての社会的機能をもち、この神話を成り立たせるならすべてが善となる。矛盾に満ちた客観的現実を、この神話を裏づける数字に変えることさえ許される。

国家財政を計る指標(たとえば、GDP)とは、まさに「神話」そのものである。この、まったく文脈も意味も違う「生産=成長」は、一切合切をこの

に放り込まれる。「ごった煮」鍋の中には何が入っているのだろうか? それはそれは、見るもおぞましい「黒魔術」である。

女性の家事労働も学術研究も文化もおこには入ってこないが、反対にまったく関係のないいいくつかの項目がただ計量可能であるというだけの理由で姿を現わすこともある。

こういうことである。「あらゆる」世の中に存在する「計量可能物」は、この鍋の中で、ぐつぐつと煮える。一体どんなキメラがこの鍋の中で、生まれるのか。
こういったイメージは、ある種の、不吉な予感を感じさせる。
言うまでもなく、こういった感覚は、別に、国家単位の統計に限ったことではない。会社だろうが、家庭だろうが、学校だろうが、あらゆる「マクロ」が同様の神話と同一化する。言いたいことは、こういったマクロが
フツー
と思われ、疑問を呼ぶことなく、スルーし、常態化していく、日本のバブル以降の消費社会の異様さ、ということである。
こういった認識は、ある「過剰」と不可避と言える。

豊かさがひとつの価値となるためには、十分な豊かあではなくてあり余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分との間の重要な差異が維持されなければならない。これがあらゆるレベルでの浪費の機能である。浪費を解消したり取り除いたりできると思うのは幻想にすぎない。なぜなら、すべてのシステムを方向づけるのは浪費だといえるのだから。それはガジェットと同様、定義づたり限定したりできないものである(どこまでが役に立ち、どこからが無駄なのか分りはしない)。

この現代消費社会において、あらゆる「ごった煮」が導く利益とは、もう、一義的ではない、ということなのである。なにをやることが、利益となるのか。奔放な散財によって、後輩にさんざんおごったとして、その時は、リーダーの財布の中身は、空になったとして、そのプロジェクトが成功するなら、十分なリターンがあったと考えてもいいのかもしれない。
わからない。
それが、「ごった煮」である。あらゆる因果は、「生産=成長」、つまり、
神話鍋
に投げ込まれ、キメラとして煮上がる。
この煮上がった「もの」こそ、ガルブレイスの言う、産業システム、である。しかし、「彼」は、たんにそう「ある」のではない。彼=システムは、
自己運動
を始める。

戦略的レベルだけで考えれば、システム全体の目的と存続のためにはたとえば軍事費や自動車やカラーテレビなどの方が、教育や病院や子どもの遊び場などよりずっと確かで管理しやすく有効である。この消極的識別は実際の集団的サーヴィスを対象としているわけではない。事態はもっと深刻である。システムは自分が生き残るための条件しか認識しようとせず、社会と個人の内容については何も知らないのだ。

システムとは、たんにシステムであるがゆえに、システムである。国家も、家庭も学校も会社もシステムであるわけだが、ある時から、そのオートポイエーシス的性格があらわれる。なぜ、そのシステムは存在するのか。
システムが存在するために、システムは存在する。
このトートロジーこそ、システムのシステムたる所以となる。あらゆるものを、鍋に入れ、ごった煮してしまったセカイにおいては、個々の人や目的を区別するための
シルシ(刻印)
はもう残っていない。すべては、忘却の彼方。あらゆる価値はフラットになり、同一直線上に並べられ、のっぺら棒になっていく(ちびくろサンボの虎とはちみつのように)。私たちは彼女の顔を思い出せなくなる...。
しかし、このような、はるか彼方の辺境まで、たどりついた人類を前にしても、システムは、ただただ、自らが活動を「続ける」、ことだけを「目的」として、自己運動を続ける。
こいつは、なんなのだろう?
なにをしているのだろう?
ただ、そのシステムがシステムとして続くことだけを「目的」とする、オートポイエーシス
掲題の本は、いわゆるポストモダンを代表する著作として、80年代以降の、高度経済成長社会を説明するものとして、評価さてきた。80年代以降の、大量生産社会の実現とは、つまりは、

  • 大量流通
  • 大量消費
  • 大量広告

の「システム」の成立を意味する。その現象の、「文化人類学=宗教学」的な意味を後付ける理論が求められたわけである。大量の生産物が日々、市場にもたらされるということは、大急ぎで、それらが、
消費
されなければならない。大量の消費者が、そのサービスを買ってくれなければ、このシステムは
回らない。
こういったことから、広告こそ、まさに最前線の研究対象として、せり上がってくる。大量の人々を「動員」して、消費にまわ「させる」(=マインド・コントロール)ことによって、やっと、このシステムはシステムとして、自らの図体を維持していくことができる。
しかし、これは、なんなのだろうか。細部を見ても、杳として実体が見えてこない。そのはずである。だって、最初から、「無くす」ことによって始めて存在を始めたのだから。つまり、
統計値
である。国家は自らの、存在の評価を統計値によって誇示する。
統計値=国家
私たち、一人一人の市民は、このなんだか分からない、リバイアサンに、毎日を翻弄されるようになり、しだいに、この国家と自らとの「違い」という表現「そのもの」に悩むようになる。
なぜなら、私たちとは、まさに、このガルブレイスの言う、産業システムの1パーツであり、つまりは、キメラ=神話鍋、の中の1材料、にすぎないからだ。
人々は、このセカイの、現象学的還元=「括弧に入れる」、抽象化の「記号学」全盛の現代の中で、自分という表現の「うたかた」さに疲れ始める。自分は神話鍋で、ぐつぐつ煮込まれ、もはや、どうやって他人と区別すればいいのかも分からない、
なんだかわからないなにか
に突き落とされているようだ。現代の、鬱病を代表とした、精神医学全盛時代の始まりである。
あらゆる人間活動は、この神話鍋で煮込まれることから逃れることはできない。よく、サブカルチャーという表現があるが、サブカルチャーとはこういった、
消費化
を前提とした文化という意味である。あらゆる小説、音楽、マンガ、アニメ。すべては、なんらかの、消費と不可分に存在する。なんらかの意味で、
消費
を実現しない文化は、このボードリヤールの言うポストモダン=消費社会、においては存在しえない。あらゆる人間活動は、この消費社会的、枠組みの「外」に存在しうることはありえない。そういう意味において、
現代において、あらゆる文化は、サブカルチャーである。
こういった事態において、真っ先に「敗北」(膝を屈っ)した学問が、社会学、と言えるだろう。社会学は完全に、国家統計学の「一部門」に堕する。消費社会的な、オートポイエーシスシステムの自己存続運動を、
護教的に
意味付け、自己存続運動(=国家)の正当性を、後付け的に意味付けていくだけの、たんに保守的な学問になり下がってしまった(このあたりが、近年の、マイケル・サンデルなどの、政治学の隆盛に比べての、社会学イデオロギー的衰退の原因なのだろう)。
言うまでもなく、日本のバブル崩壊以降、失なわれた20年、9・11リーマンショック、と、上記に描いてきたような、大量消費社会の、枠組みは、少しずつ、その図体を維持できなくなり、その自明性が疑われるようになってきた。格差社会の拡大や鉱物資源の高騰化とともに。
ところが、である。
掲題の本において、すでに、こういった事態を説明しうる、ある示唆がされている。

貧困は「残りカス」みたいなもので、成長の増加によってやがては吸収されることになっている。とはいえ、貧困は、脱工業化社会の世代においてもけっして姿を消すとは思われないし、貧困を取り除こうとするあらゆる努力(とくにアメリカ合衆国での「偉大な社会」構想)は、システムのある種の機構とぶつかっているように見える。発展のそれぞれの段階において、システムは、経済成長の余分な裾飾りや全面的豊かさへの一種の不可欠なバネとしての貧困を機能的に再生産するといえるかもしれない。

固有の論理に従ってシステムがこのひずみのなかで自らを維持し、自己の目的を達成しようとすることがわかれば、ひずみが一時的でかりそめのものだとするいいわけは何の役にも立ちはしない。このシステムが一定のひずみ率のまわりに安定していること、つまり富の絶対量がどうであろうとも、体系的不平等を含みつつ安定していることは、とにかく認めることができるはずだ。

というのは、どんな形態の社会であろうと、生産された財と自由になる富の量がどれほどであろうとも、あらゆる社会は構造的過剰と構造的窮乏とに同時に結びついているからである。過剰とは、神の取り分、いけにえの部分であり、あるいはぜいたくな支出、剰余価値、経済的利潤、見せびらかし的予算となるべきものである。いずれにせよ、ある社会の富と構造を決定するのは、あらかじめ差し引かれたぜいたくの部分だが、この部分は常に特権的少数者の取り分であって、カーストや階級の特権を再生産する働きをしている。

こういった意味で、この本は、マルクスを正統に継承する認識の延長で考えている。まるで、現代のこの、日本の格差社会論を先取りしているかのような上記の認識は、80年代以降の「消費社会」に形作られてきた、私たちの認識を、
次のステージ
に進む必要を示唆しているようにも思える。あらゆることが、広告(コマーシャル=マインドコントロール)によって説明されてきた、ポストモダン的セカイ。それは、
国家=統計学
的な観念論のセカイだったと言えるだろう。こういった枠組みは、上記に示唆したように、そう簡単につぶれることはない。
しぶとい
のである。どんなにこの社会が回らなくなっても、格差社会が極限化しようと、オートポイエーシス的に生き残り続ける。なぜなら、このシステムの目的は、私たち一人一人と違うからである。システムは、ただただ、このシステムがまわることにしか関心がない。しかし、私たちは違う。私たち一人一人には、各自それぞれの価値や目的がある。しかし、それらと、このシステム自体がもつ目的には、直接の繋がりはない。
それが、統計学である。
私たちは、掲題の本の「次」に書かれるものを待っているように思える。私の違和感は、上記の最初の引用にあるような、「マクロ」的な、あらゆる差異を無視して、数量化「されえるもの」の、ごった煮、に対してでした。こういったアプローチの、黒魔術的なレトリックのうさんくささを疑うということは、ある種の、
中央集権的コントロール
の効率性への疑いを意味しているように思えます。全体をまさに、神の視点、のようなものを想定し、そこから預言者のように、説明し、指示していく、そういったスタイルの機能不全こそ叫ばれている問題であるように思える。
もっと、自生的に生まれる秩序。ドゥルーズの言うリゾームが示唆するような、社会イメージによって、構想される都市計画。こういったイメージこそ、次の時代の、ポストポストモダンにおいて、書かれるべき、消費社会の神話、ではないだろうか。

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版