石森正数『それでも町は廻っている』

掲題のマンガは、その「完成度」とは別に、ある種の、
おもしろくなさ
が自分には気になっていた。その感覚ってなんなんだろう、という感じなのだが。
一方において、マンガ「スケッチブック」

スケッチブック 1 (BLADE COMICS)

スケッチブック 1 (BLADE COMICS)

を以前から、私が
今まで読んだマンガの中で最高傑作
と、なんとなく感じていたこととの、その、同じギャクマンガとしての、「差異」において、考えてみようかと。
なぜ、最初、掲題のマンガを、おもしろくない、と自分が思ったのかは、実際に作者があとがきで、以下のように、告白していることと関係している。

コミュニケーション不良の代表みたいに言われている大東京のたもとは人情の町でした。田舎者の僕は上京するのが恐ろしくて仕方が無かったのですが、その町が大いに気に入り、半年も経った頃には商店街の店々の皆と自然に顔見知りになりました。そして、商店街を舞台にしてコミュニケーションの教科書になるような漫画を描こうと心に決めました。

私は、このマンガを
社会学の教科書
のようなものと思い読み始めました。作者は自称しているように、
コミュニケーション = 教科書
として、描こうとします。主人公、嵐山歩鳥(あらしやまほとり)は、3人兄弟の一番上として、抜群の
コミュ力
を発揮します。おっちょこちょいで、いつもバカなことをやっている彼女の姿の評価は、一般の学歴社会では、落ちこぼれですが、ことこの、コミュ学において、その価値は反転します。彼女は「優等生」なわけです。優等生として、模範的存在として、
コミュ道徳教科書として、こうやって、私たちは、作者の書く教科書を学ばされているわけです(この関係は、アニメ「とある科学の超電磁砲」における、超能力という暴力と、現代社会の、学歴社会、との相似性、と比較できるかもしません)。
しかし、そう言ってしまうと、身も蓋もありません。上記の引用は、もう少し、興味深い何かを示唆しています。作者は、この商店街の、

という単位を重要視します。歩鳥(ほとり)がコミュ学優等生であることは、あくまで、その「商店街」内でのみ、通用するコードとなっています。彼女は、子供の頃から、その商店街のマスコットガールのような存在であったわけで、そんな中で、のびのびと育ってきた、という作品設定を受け入れることによって、私たちは、この作品に共感できる構造となっています。
(そういう意味で、第65話における、歩鳥(ほとり)が子供の頃から、この商店街にあった、ラーメン屋が閉店する話は、重要です。歩鳥(ほとり)のアイデンティティは、この町と、つながっています。しかし、今、日本の全国各地で起きていることは、町の崩壊です。自営業的な中小小売業者が次々と閉店していく中で、大型スーパーによる、
日本列島改造計画
が、進んでいく。人々が、町という、アイデンティティを失い始めている時代に、この作品は、どういったアンチテーゼを提示できるのか。そういった視点が必要でしょう。)
他方において、マンガ「スケッチブック」はどうでしょうか。こちらは、完全な、四コマ漫画になっています。そういう意味では、ストーリーがありません。常に、それぞれの四コマが、一つのネタに対応しているという意味で、王道のマンガと言えるかもしれません。
そういう意味で、前者の作品と比べることには、一見無理があります。
しかし、後者においては、この作品における、主人公、梶原空(かじわらそら)という存在の、なんとも言えない、
重力
が作品全体の通奏底音を決定していることに、注意が必要です。第一話において、極度の人見知りの空(そら)が、高校の美術部に入部するプロセスは、非常に興味深く思われます。

ワタシは 絵は結構好きだ
出掛けるときは いつもスケッチブックを 持って行く
そして心に入って来た 景色を残すのだ
それはきっと カメラ代わりなのだろう

この作品において、空(そら)が、ほとんど唯一といっていいような、自己主張をしている場面です。この作品を読む読者は、まず、この空(そら)という存在を受け入れなければならない構造になっています。間違いなく、空(そら)の人見知りは、彼女の
スティグマ
として描かれています。前者の作品におけるモノサシで見るなら、彼女は
コミュ力落第者
となります(アニメ「とある科学の超電磁砲」でいえば、彼女は、佐天涙子、に対応します)。いつも、引っ込み思案で、自分から主張しない彼女は、多くの
コミュ教科書マンガ
において、脇役にもなれない存在と言えるでしょう。たまに、かませ犬として、作品を、サシミのつまにされて終わりでしょう。作品は、強制的に、主人公の「自己主張」にフォーカスを合わさせられる
暴力
を受け入れることを強要される構造となっています。
他方、この作品において、空(そら)という、不思議な存在を受け入れた読者にとっては、この作品世界において、ある緊張感が生まれます。各登場人物が、空(そら)に、どういう距離感で接するのか。常に、この作品は、そういった
重力
の中で、進んでいく。空(そら)以外の各登場人物は、非常に不思議な位相において、存在を定位されます。各登場人物は、独特の特徴をもって描かれるわけですが、一言で言うなら、その描かれ方は、「主人公」的な方向に流れません。
客観的
です。独特の特徴があることは、
コミュ教科書における「答」
のようなものではなく、言わば、主人公の空(そら)の引っ込み思案と、
等置
されるというような、位相における、スティグマのような、描かれ方となります。この作品において、登場するキャラは、一人としてフツーじゃない、ということになります。どこか、欠陥がある。しかし、この重力場において、
それはそれ
として、確固といて居る場所が提供されている。つまりここに、独特のマンダラが生成される、とでも言えるのでしょうか。
こういった世界観が、どのように生まれたのでしょうか。たとえば、ウィキに、「原作者の小箱が実際に体験した出来事をもとにしたネタも多い」と書いてありましたが、私は、こういった部分を重要視します。
一つ一つのネタは、はっきり言って、情報理論的な意味での、情報ではありません。それほど重要でもないし、言っていることも、それだけ? みたいなものの連続と言えるでしょう。しかし、ギャグマンガとは本来そういうものなのでしょう(もともと、その絵が、かわいくて楽しくなるのだろう?)。なぜ、日本において、これほどまでに、ギャクマンガが消費されてきたのか。もっといえば、テレビ文化における、お笑い、がステータスを確立してきたのか。それはむしろ、その
リアリティ
において、と言えるでしょう。言ってしまえば、
この現実が一番おもしろい
わけです(明らかに、九州の高校を舞台にしたこの作品は、著者の高校生活での、目線を、再現している)。つまり、この現実をそのままとして描くことこそが、なによりも、消費者に求められている、と考えるべきでしょう。もっと言えば、なにがおもしろいかは、
読者が決める。
作者がネラって描く「メタ説教」は、どこか、優等生的答、を読者に強要するものであり、本来のギャグマンガの「王道」ではない、と考えるべきということです。
ではここで、掲題のマンガの分析に戻りたいと思います。
私はこの前者の作品を、
おもしろくない
と総括しましたが、そう私が総括した理由は上記から理解されるでしょう。しかし、作品とは一義的なものではありません。
主人公の、歩鳥(ほとり)の行動は、破天荒ですが、コミュ教科書的な意味で、優等生的模範行動であることは、この作品の基本線ですから、読者はこの部分の不満をあきらめなければなりません。
では、そうした場合、彼女の周りをとりかこむ、サブキャラの位置関係にこそ、この作品の可能性の中心を見るべきことを示唆していると考えることもできるでしょう。
まず、指摘しておかなければならないのは、歩鳥(ほとり)の父親の顔が描かれないことです。これは重要です。家族の中で、肩身の狭い思いをしている父親像を提示することで
始めて
歩鳥(ほとり)は、歩鳥(ほとり)となれる。父親を否定することで、始めて、歩鳥(ほとり)たちは、人格を獲得できている(これは、子育てのマンガではない)。彼女の自己主張は、ある禁欲によってしか、描けなかったことの意味をおさえる必要があるでしょう。
次に、注意を引くのは、二人の兄弟、弟のタケル、その下の妹のユキコ、の描かれ方です。大事なことは、歩鳥(ほとり)から見て、二人は、
まだ人格が確立していない
未成熟な人格として描かれていることです。歩鳥(ほとり)は、そんなバカなことを思い付き、勝手に、行動を始める二人を、「子供」として扱います。作品自体も、そんなアホキャラとして、二人を描くわけですが、大事なことは、歩鳥(ほとり)から見た場合に、
そのように見える
ということです。実際の二人が日々、どういうことを考えているかは別だということです(そういう意味で、二人の兄弟にとっての、父親的な位置に、歩鳥(ほとり)が設定されていると言えるでしょうか)。
しかし、なんといっても、興味深いのは、紺双葉(こんふたば)ではないだろうか(彼女について書くために、私はこのブログを、ここまで、書いてきたと言ってもいい)。
彼女のこの作品での役割は、言わば、
外部
です。歩鳥(ほとり)とは、この作品において、モンスターと言えるでしょう。ブレーキの壊れたトラックのように、つき進む、歩鳥(ほとり)の周りで、多くのサブキャラは巻き込まれていく。ひょんなきっかけで、歩鳥(ほとり)と知り合うことになった、紺(こん)先輩にとって、この町と、歩鳥(ほとり)がどのように見えているのかを描いたのが、第38話となります。
卓球部に所属しながら、音楽を趣味とし、ベースを弾く彼女は、髪を金髪に染めているが、そのことは、クラス内で、浮いている、ということを意味する。そんな彼女は、高校卒業後、両親の勧めで、イギリスに留学するか、日本に留まるか、で悩む。
彼女は、この町との、縁(えにし)が弱い。仲のいい友達も少ない。そんな、彼女が、もしこの日本に留まるとするなら、それはどんなトリガーとなるのだろうか。
この町の近くに、アパートを借り、一人暮らしをする彼女のもとに、ある日、両親が訪ねてくる。そのタイミングに、ちょうど、アパートを訪れた、歩鳥(ほとり)は、玄関で、包丁を持って立っている、ある成人の男(実は父親)を見かけ、後先考えず、飛びかかる。

紺先輩の父親 双葉 お友達を 大事にな。あの子は お前のために 包丁持った見知らぬ男に 飛びかかって来たんだ。普通 逃げるか 腰抜かすよ?
紺先輩 .........。あいつは 後先考えてねー だけだっ。

紺先輩にとって、学校生活は楽しいのか? 彼女が、イギリスに行かない理由はあるのか? この町にいる必然性の存在しない、紺先輩という
外部
とは、つまりは、私たちのことであり、彼女に「ここ」に居場所がないということは、どこにも居場所がないということであり、それは、いつまでもさ迷い続ける私たちを意味している。歩鳥(ほとり)という、ブレーキの壊れたトラックが、私たちを深刻な考察に導く...。

それでも町は廻っている 1 (ヤングキングコミックス)

それでも町は廻っている 1 (ヤングキングコミックス)