情報強者たちと距離をとることについて

ここのところ、量子力学の本を読んでて、こりゃダメだな、と思った。話が深すぎる。そりゃ、トーゼンな話で、こいつの基礎研究だけで、一生涯を賭けている人が100年前から、世界中にごまんといるのに、私一人が、どうあがこうと、そんな離れ技ムリだ。
シロートの手習いなんて、そんなもん。ダテにプロはプロじゃない。
でも、シロートはシロートなりに、やるしかないし、それはそれで楽しいもんだ。
ただ思ったのは、こうやって、いろいろ眺めることが、多くの時間を必要とするだけでなく、理解するための手続きを要求していることなのだろう。
量子力学は、一言で言えば、技術的には、ある意味完成していて、さまざまな応用が生まれているが、その原理的な「解釈」が、おきざりにされている。
つまり、技術としては完成していても、「理論」としては完成していない。だから、どうしても、その説明が、渾沌としてしまう。私たちは、一つの事象に、一つの説明を求める。これを教科書的態度とするなら、量子力学は、まだ、
教科書
が存在しない、ということなのだろう。しかし、これこそが、ファイアアーベントが言っていた意味での、

なのではないだろうか。知とはむしろ、さまざまな応用の解釈において、存在するのであって、アプリオリに、答があるものではない。だって、人間は有限なのだから、むしろ、答に辿り着けないことの方が普通のことなのだろうから。
有限な人間には、どこまでのことができるのかを問うたのが、カントだとするなら、私たち一般人は、たんに、どこまでもやってみるっきゃないんでしょ。
しかし、そんなふうに、たまにはアカデミズムの雰囲気をあじわっていると、世間の戯言も、自然と耳目を離れる(ソーシャル・ネット社会なんて、くそくらえ)。
草食男子ならぬ肉食女子じゃないけど、この情報化社会に、一度は距離をとってみることは、精神衛生上、たまにはいいのかもしれない。
どうでもいいことに、どうでもいいように、反応できることが、まさに、情報肉食強者たちの「余裕」であって、さすがは、受験戦争を勝ち上がった歴戦の勇者。それくらいのパフォーマンスがなかったら、ムリっすよね。つまり、彼らは、
強者
ってことなんでしょ。私たち弱者は、むしろ、自分たちの殻を、どうやって守れるのか、と考えた方がいいのかもしれない。強者たちの強者自慢を、まるで、場末の新興宗教の教祖のように、崇めたてまつることに疲れたわけだ。
つまらないことは、素直に、つまらないと無視でいーんじゃないでしょうか。といいますか、ヒマなら、たまに気にとめてやりましょう。体調が良かったら、ホメ殺してやりましょう。相手にしないと、うるさいし。
そういう態度が信者として、信仰心がなっとらんと、情報強者にヒステリーを起こされるかもしれませんが、ガンムシで。