先進国の教育

エマニュエル・トッドが言っていたことで、もう一つ印象的だったことは、先進国の「教育」問題である。

現在の先進諸国における識字率や教育水準の問題というのは、高等教育の普及によって新たな階層化が起きているということです。その一つの帰結は、多数派が高等教育を受けられない状態にあり、格差が広がっていることです。

自由貿易は、民主主義を滅ぼす

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発展途上国から、先進国へ向かう過程において、急激に、教育レベルが上がる。それは識字率の完全普及と同期をとる形で。
ところが、その上昇曲線も、ある一定のレベルに到達した頃から、逆に、その曲線は下がり始める。
なぜなのか。
ヨーロッパやアメリカにおける考察から、その傾向が、日本においても類推できることを著者は確認する。
(たとえば、アメリカのオバマ大統領は、黒人の父親と白人の母親の子供だが、父親はアメリカ人ではなく、アフリカのケニアの人だという。アメリカの黒人とアメリカの白人は、同じアメリカ人と言いながら、驚くほど通婚率が低いと、著者は指摘する。21世紀になっても、あい変わらず、人種問題が厳然としてあることを認識しなければならない。)
たとえば、エリートたちが、潤沢なお金にものをいわせて、自分の子供たちを、なんとか、最高学府で学ばせたいと考えたときの、一番簡単な方法はなんだろう。
一つ目としては、貧乏人がみんな、エリート学校に行けなくすればいい。そうすれば、高等教育は、お金持ちの子供たちだけの「権利」になる。
そういった思想の延長から生まれたものが、「ゆとり教育」だったのだろうと推察している。貧乏な子供は、
のびのび遊ばせておく。
頭が、ばか、にしておけばいいのだ。つまり、公立学校は、
教育をしてはならない。
いかに、貧乏人の子供たちが集まる、公立学校を、骨抜きにして、貧乏人をバカな脳ミソのままにしておくか。
さて、もう一つが、「お金さえあれば、いい学校に入れる」システムにすればいい。これが完成しているのが、私立大学だろう。今では、一芸入試だとか、エスカレータ式私立高校とか、一般のペーパー試験で入ってくる子供が、どんどんいなくなっていると聞く。
しかし、こういった施策の特徴としてみえてくることとはなんだろう。それは、子供の学力の低下である。先進国が、どんどん、教育をやらなくなる。
(今は教育とはニヒリズムの時代なのだろう。)
今、東アジアの子供たちは、猛烈に勉強している。中国の一人っ子政策から、子供を親が溺愛するのと同時に、社会の貧困階層からの脱却を目指し、必死になって勉強している。
特に、大学生がそうなんじゃないか。
ところが、日本の大学は、あいかわらずレジャーランドでしかない。会社に入るまでの、「受験勉強に勝ち上がった自分へのご褒美」としての、薔薇色のキャンパスライフというサークル・モラトリアム(その実体は、合コン・ライフ)。
ところが、これだけ、他の東アジアの子供たちとの、競争が激しくなってくると、途端に、日本の子供の「もやしっ子」ぶりが顕著になってくる。
例えば、上記の、ペーパー試験を「さぼって」裏から、大学に入ってきた「もぐりっ子」たちは、激烈なペーパー試験を勝ち上がってきた、歴戦の勇者たちに、劣等感をもたないだろうか。自分への自負心を持ちづらいのではないだろうか。こういった子供たちが、どこまで真面目に大学の勉強にとりくむのか(教師も、ある意味、下等な学生と身分化していないか)。
私立大学は、最後は、お金儲けであるので、どうしても、
お金
で判断する。どれだけ寄付してくれるかが、その子供の「評価」と同値になり、子供とは、あくまで「サービスを提供するお客様」でしかなくなり、勢い、スパルタ式の教育は影をひそめる。
就職も同じである。どれだけ自分が、いい家柄かが、最後のところで、選ばれない理由だったりする。
子供たちに、ギラギラとした、ハングリーさが感じられなくなる。他人と戦って勝つという体験をしている子供が少なくなり、いざ社会に出ても、それまでに獲得しておかなければならないはずの生活力足りない若者が散見されるようになる。
日本は、これだけ、他の東アジアの国々に追い上げられているのだとするなら、普通に考えるなら、それ以上の、その上を行くような、教育をやらないとシャレにならないように思えるが(ただでさえ、給料が高いわけだし)、公教育がここまでやる気がなくなると、そりゃあ、国力はどこまでも落ちていくだろう。
もっと、高校でも、多くの外国語を学べたっていいだろうし、とにかく、少しでもアドバンテージを獲得できるようにしないとしょーがないんじゃないかと言いたくなるのだが(せっかく、国力があるのだから、それをアドバンテージにして、貧しい国にはできないような、手厚い教育をやればいいと思うのだが、こういったモチベーションが減衰していくのが、先進国の特徴だ、というのが、著者の見解である)、さて、こういった問題意識を、こんなふうに言ってみたとして、一体、
だれ
がこの問題を問題視してくれるのだろう? いいとこの、お坊ちゃんは、上記のことから、「明らか」に今のままであれば、高等教育を受けられ、社会のトップクラスに居続けられるのだから、少しでも、貧乏人さんたちが「目覚めないでいてくれれば」となるであろうし、貧乏人さんたちは、彼らで、すっかり、
ゆとり教育」という名の、頭がばかになる教育で、なにが自分たちにとって、不利になるのかの、判断力さえ、こうやって大の大人になってさえ、認識する能力が育ちづらくなる...。
(別の観点から言わせてもらうなら、ある意味、今、幸せな「リア充」に対して、私はなんの感情もない。わざわざ、お近付きになりたいと思わないかわりに(そういった方々の、幸せ自慢を、ありがたく、拝聴したい感情もない)、そういった幸せな人がもっと幸せになられることも、大変結構なこと、と思うだけである(成功者には最初から興味がない)。
むしろ、このブログでは、この今のセカイで、いろいろなことが、なかなか、うまくいかず、暗中模索している、そういった「自分がそうであるような」ものへの「共感」を表明しているにすぎず、こうすればいい、などというのは、おこがましい話である。)
これが、先進国の宿痾だとして、しかし、早晩、東アジアの国々も、同じ道を辿るのだとするなら、池田信夫さんの言う「あきらめる勇気」は、そもそも、すでに「勇気」など必要ないまでに、「あきらめ」という状態が、実現してしまっているというオチなのかもしれない...。