白井仁人「量子力学への統計力学的アプローチ」

(前半は、掲題のエッセイと、なんの関係もない話が続きます。)
大衆運動についての研究こそ、私のこのブログの最終テーマであった(それは、私がエリック・ホッファーから、示唆され「勝手に」継承しただけのことなのだが)。
そういう意味で、社会科学系の本はよく読む。もちろん、こういったことは、社会科学系の方々の専門分野であり、私たちシロートはそれを外から眺めさせてもらっているにすぎない(ウィトゲンシュタイン風に言うなら、私たちシロートは、中から(中の人として)ではなく(これを、リア充と言う)、
周辺
(つまり、外)から考察する)。
大衆運動がどのように生まれ、大きくなり、場合によっては、カタストロフィーにまで至るか。エリック・ホッファーにとって、その考察の一つのきっかけは、ナチス・ドイツにあったのであろう。
もちろん、現代において、考察するならば、それは、中国などの独裁国家(軍隊)であったり、アメリカの世界支配だったり、日本であれば、検察や官僚の「権力」だったりするのであろう。
しかし、私が強調しているのは、たんに、そういった「分かりやすい」権力、についてばかり言っているのではない。
大衆運動とは、もっと、私たちが日々行っている、日常的なこと、であると考えた方がいい。というか、極論を言うなら、上記のようなさまざまな「権力」も、
最初は、
そういったところから始まったわけである。
あらゆる
大衆運動がそうでないわけがない。つまり、私が言いたいのは、ここには、明らかに、
個人的な
態度の問題がある。あらゆる、大衆運動の性質を決定するのは、そういった、人それぞれが、個々で実践する「態度」にこそ、その「全て」がある。
そう考えたとき、では、その「個人における」態度とは、どういった種類のものがあるということになるのか。私たちは、それを「二つ」に分類できるだろう。

  • 自生的(認識的)
  • 他者コントロール的(洗脳的)

(以下、上記を「前者的立場」、下記を「後者的立場」と適宜呼ぶことにする。)
この世界を認識の対象と考える態度を前者と考える。つまり、自分を「外」に置き、「中」というセカイを自分が観察している、という態度である。自然科学における、証明とは、このことを言っている。この態度は、自分の判断の予断が介入する可能性はあるが、基本は実際に目の前で起きていることの、記述でしかないわけで、その萌え萌えいづる、この世のよしなしごとを書きつづっているだけというわけで、比較的真実性が高い。
後者は、言わば、人文系の態度と言えるだろうか。こちらにおける特徴は、自分を「外」に置かないところにある。ここでは、観察というより、「結果」という表現が正しい。自分をプレーヤーの中に含めることで、自らの行動が、事態に大いに影響を与える。自分がある意図に則った行動をすることによって、人々に影響を与え、人々を動かしていく。こちらにおいては、観察とは、ある意味、存在しない。見ながら、瞬間瞬間でセカイに自ら働きかけていく、オートポイエーシス・システムとなっており、不快な状態は、瞬間瞬間において、とり除かれるわけであるから、「観察して不快を発見する」と言った瞬間に、その不快はなくなっている、という意味で、「観察」という静的な状態を切りとることの、意味が限りなく怪しくなる。
後者の特徴とはなんだろうか。これこそ、ポストモダン的には、「自己言及性」となる。自分が自分に言及するという事態は、ときどき、意味不明な言明になる。
俺が今言ってることは嘘だから。
つまり、こいつの言ってることは、嘘なのか、嘘じゃないのか。どうも、人間が話す言葉は、自分について言及を始めると、途端に怪しくなるようだ(いまさら、ゲーデルの第二不完全性定理をもちだすまでもない)。
例えば、詐欺師が、なんとかお客を騙して、お金をまきあげようとしている、としよう。しかし、後者的立場で考えるなら、大事なことは、「結果」である。中間段階で何が起きていたかは、ここで問う必要はない。最終的に、詐欺師が、お客から、お金をまきあげられていれさえいれば、「快」が実現されているということで、それまでのプロセスなど
たいしたことではない
となるのだろう。しかし、ちょっと想像してみようではないか。その中間段階で「何が起きていたのか」。もしかしたら、相手をナイフで脅すなり殺すなりして、ポケットからサイフを奪っていたのかもしれない。または、ヤクを注射して、ラリらせて、そいつの残りの人生を廃人にさせていたかもしれない。もちろん、ここまで物騒なことにならないのがフツーでしょうが。また、催眠術のようなもので、相手自身がまともな判断がつかない意識状態で、一筆書かせたかもしれない。これじゃあまだ、物騒だ。もう少し、おさえめにできないだろうか。
この辺りからが、営業の人たちに近いテクニックになってくる。
マーケティングにおいて、大事なことは、とにかく「どんな理由でもいい」から、相手が「お金を詐欺師に渡す」ことだと言えるだろう。結果として、詐欺師がお客に何かを渡したかどうかは、たいしたことではない。多少、自分が話す表現の中に、相手を「脅す」表現が入っていることによって、お客が「怖さ」を感じて、買ったとしても、それは、
テクニック
ということになる。いくら「脅す」ような表現が挟まれていたとしても、文脈上、なかなか意味がとりにくいなら、それは、文章上の論理性からは、
無意味
なゼロ情報量のゴミ文章でしかない、ということになるだろう。

  • お金をあげる:お客 --> 詐欺師
  • ある商品を渡す:詐欺師 --> お客

この交換において、とにかく大事なことは、間違いなく前者だ。なぜ前者が起きたのか。そして大事なことは、
理由はどうでもいい
ということである。私は今後、こういったマインド・コントロール的な、
文化系
的な会話「技術」が、非常に研究されるようになるのではないか、と思っている(それは、今後も、各国が軍事技術や宇宙軍事利用技術の開発を止めることがありえない、のと同じ意味でである)。
人間は、しょせん、生物という機械でしかない、と考えるなら、ある「ネジ」を一時的でも、壊すだけで、詐欺師の命令に逆らわなくなるのかもしれない。その、トリガーを引くということは、どういうことだろう。大事なことはそれは、「なんだっていい」ということなのだ。何度も言っているように、後者においては「結果」だけが、全てなのだから。ただ、一つだけ言えることは、

  • 働きかける:詐欺師 --> お客

という何かがある、という「事実」である。
たとえば、こう考えたっていい。その働きかけを、詐欺師、自身が自覚している必要さえない、と。つまり、「観察」はいらないのだ。無意識をよそおった無意識でもいい。
いや、これと、まったく逆だっていいのだ。やたら、くそ真面目で、いっつもニコニコ。どんなときも親切にしてくれる。だったら、買ってあげたくなるでしょ? どっちだって、結果は同じだ。
頭のいい人が、人間的に信用されないのは、こんなところにあるのかもしれない。頭がいいという、そういう「無邪気さ」が、逆にその人の、才能なのかもしれない。
(この辺りまでくると、自分で言ってて、何を言ってるのか分かんなくなってくるんだけど、結局、意図とか、動機とかを仮定するってことが、よく分かんなくなるんですよね。だって、そういうものが「無自覚」だっていい、という話にまでなるので。そうなると、もう「自分」が判断するとか、そういう話でなくなってますね。じゃあ、だれかが、そいつの「意図」を証明する?)
これを、もし、前者的立場、の方で考えるなら、どう言えるか。いずれにしても、商売とは、こういった「全て」を含んだ上で、商売なのであり、私たちは、その「全体」において、このセカイを把握しなければならない、といったことなのだろう。
前者的立場、に立つなら、後者的立場は、うさんくさい。理系が会話ベタとかいう偏見も、こういった、肉食コミュ力、と関係しているのだろう。理系は、自然の観察、という、草食的ストイックによる前者的立場、の「王国」だからだ。それが、カール・ポパーの、反証可能性定義、だったはずだ。つまり、理系はどこか、プラトニストなのだろう(もう、ドーテーと同義くらいに、プラトニックと言ったていい)。
そうすると、ちょっとやっかいなことになってくる。
上記で、後者的立場が、自己言及的であることと関係していると書いたが、そうすると、自分という「人間」という「自己」に言及するためには、「どんな場合でも」、
少なからず、後者的立場に足を踏み入れざるをえない、というふうにも言えるだろうからだ。
つまり、人文科学は、究極的には、後者的立場でしかできないことになってしまう。
(実証研究の、統計処理は、そもそも、膨大なサンプルによって「始めて」意味が生まれる。しょせん、「数えるくらいしかいない」地球上の人間に対する、統計処理など、最初から「なんちゃって」レベルなのかもしれない。)
自分...
何言ってんだろ。
話のついでだ。では、もっと踏み込んでみようではないか。それが、量子力学だ。
量子力学は、ある意味、人類が生み出した、
唯一の
知的革命だったのではないか、と言ってみたくなる。なぜかと言うと、量子力学の知見が、私たちの「常識」と相性がよくなかったからだ。
ニュートン古典力学にしても、アインシュタインの相対論にしても、言ってみれば、冷静に私たちが、この世界を眺めれば、どこか、推論で導けた部分があるのではないか、と思われるのであるが、量子力学はまったく違うと解釈された。
つまり、この知見の特徴は、明らかに、「測定技術の向上」がもたらしている。つまり、それまでの人間には「視えなかった」のである。しかし、それが「ある意味」見えたとき、人類は愕然とした。
でも「見える」とは、どういうことなのだろう?

かつて筆者が「ひげを生やした電子」[筆者の書いたエッセイ]で言ったように「機器でだけ結びついた自然は貧しい」のである。それはあたかも国勢調査で日本が分かると錯覚するのと同じである。もちろんある方法(機器)で得られた情報は貴重であり嘘でもない。

佐藤文隆量子力学の身分」
現代思想2007年12月号 特集=量子力学の最前線 情報・脳・宇宙

測定結果が、その法則の測定値との「整合性」を主張しているだけで、今だに、それを測定している人間自身も、自分たちが、なにをやっていることになっているのか、なにがなんだか、よく分かってない、ということだったんじゃないだろうか。
量子悩で有名なペンローズは、この事態を、簡単に以下のように整理する。

量子力学はあいまいで非決定論的だとよく言われるが、その考え方は間違っている。量子レベルにとどまる限り、量子力学決定論的で正確なのである。量子力学では通常、シュレーディンガー方程式が用いられるが、"量子状態" と呼ばれる量子系の振る舞いを支配するその法則は、決定論的である。

量子力学で非決定性(または不確実性)が現れるのは、いわゆる "測定" (観測)を行うときだけであり、観測者が測定を行うと、必然的に量子レベルから古典レベルへと事象が拡大されてしまうのである。

しかし、非決定とは、何事だ。自然が非決定って、そんなことでいーのか?
この辺りの問題を、コペンハーゲン解釈で、ベタにつっ走ると、どういうことになるんでしょう。それが、射影仮説、ってやつですね。これにベタに取り組むと、どういうことになるのかを説明してくれているのが、以下の論文である。

清水明「量子測定の原理とその問題点」
screenshot

この著者は、その射影仮説を以下のように、整理する。

射影仮説には,次の2つの役割がある.
(A)異なる測定値に対応する状態ベクトルの間の干渉をなくす.
(B)干渉のなくなった2つの状態ベクトルのうちのどちらかを抜き出す.

清水明「量子測定の原理とその問題点」

だって、「収縮」つまり、波が無くなった、って言うんだから、こう考えるしかないだろー。つまり、どっちかに、その波がシャエーされたんじゃね? 
それにしても、この(A)。やっかいそーですねー(フォン・ノイマンがとりくんだやつですね)。しかしさー。この(B)。こっちも、大変そーですねー見るからに。
とりあえず、(A)から(B)が、ショーメーできたらいーよーねー。でもさー。ちょっと考えると、これ。どんな、
論理体系
だったら証明されうるんでしょー?

要するに,どちらか定まらないものから,どちらか一方だけを選び取るためには,いつも定まった値をとるようなダイナミックスに従うものが必要なのであ。しかるに,この世界のすべてが量子論のユニタリー時間発展に従うと考えると,そのような,常に定まった値をとるダイナミックスに従うものが存在しなくなってしまうので,困るのである.射影仮説は,このやっかいな問題を断ち切る役割も担っているのだ.
ちなみに,この問題を突き詰めて考えると,数学基礎論で論じられるような問題や「意識」の問題に突き当たるだろう.ウィグナーやペンローズなど,多くの偉大な物理学者が,こういう問題に言及する(せざるを得ない)のは,このような理由によると思われる。例えば,「そもそも,どんな理論体系であれば,このような問題が発生しないですむだろうか?」という問いを発して深く考えてみれば,誰でもこのような問題を一度は考えざるを得なくなるであろう.あるいは,そこまでいかなくても,有名な「ウィグナーの友人のパラドックス」(ウィグナーにとっての状態ベクトルと友人にとっての状態ベクトルが異なる)を考えてみれば,自分の意識だけを,上述の「いつも定まった値をとるようなダイナミックスに従うもの」として特別扱いするしかないようにも思えてくる.

清水明「量子測定の原理とその問題点」

どうも、この方向からベタに、解釈問題に向かっていくのは、けっこうヘヴィーなんじゃないかな。
ということで、たとえば、このブログの掲題の論考では、この量子力学における、解釈問題に対する、「統計力学」的アプローチ、を紹介している。
ここでは、その論考にそって、量子力学における、解釈問題、をあらためて、検討しようと思う。この論考では、それを三つに整理する。

  • 波動関数の収縮
  • 粒子波動二重性
  • 物理量の非確定性

著者は上の二つ(つまり、二重スリット問題)は、アインシュタインが主張した、統計解釈で説明できる、と言う。

ここで統計力学流体力学に目をやると、そこでも量子力学と同様に確率に対応付けられた関数(速度分布関数や密度関数)が使われているが、収縮の問題など生じていない。その理由は、分布関数や密度関数に個々の系の状態を対応させないからである。分布関数は個々の系ではなく系のサンプル集団全体の分布を表すと考えると観測時の変化は単に考察対象をたくさんのサンプルから一つのサンプル(観測結果)へ移したことに過ぎなくなる。だから収縮の問題は生じない。
これと同様に、量子力学でも波動関数が個々の系の状態に対応するなどど考えずに、系のサンプル集団の分布を表すだけだと考えれば良いのではないか。

では、三つめ(つまり、ベルの不等式)なのだが(ベルの不等式の問題については、私は、

足立聡「Bell の不等式について」
screenshot

が分かりやすかった)、それについての著者の説明は、少し私の趣味に合う。

量子力学では物理量は演算子で表される。これは古典量子力学にはなかった特徴である。時間や位置の関数ではなく演算子として表されることが、常に値を持っているわけではないことを表している。統計力学流体力学電磁気学、或いは、統計学にまで範囲を広げて眺めてみても、演算子で現わされる量(変数)は存在しない。しかし、物理量だけでなく理論形式にまで広げて分析すると、統計力学統計学の理論形式は量子力学ととてもよく似ていることに気づく。例えば、統計力学では分配関数Zの対数に微分演算子を作用させることで巨視的な変数の平均値を得る。これは量子力学の方法とよく似ている。

つまり、量子力学統計力学は、見かけの内容を「無視」して、数式上、ある、形の相似性がある。そこから、著者は、むしろ、統計力学内において、
不確定性関係
が、確率変数と統計パラメータ間で成立することを示す。ということは、どういうことか。量子力学における、位置か運動量のどちらかが「統計パラメータ」に対応するんじゃないか、と言いたいわけだ。
さあ、どっちでしょう。まあ、フツーに考えたら、運動量、でしょうね。

この解釈に対して例えば次のような疑問が浮かぶ。「運動量やスピンが系の統計集団の性質ならば、その値は実験の統計結果から導出されるはずである。しかし、実際には個々の実験で値が得られるではないか」。これは尤もらしい主張だろう。例えば、ある方向に対する電子のスピンの測定実験を行えば、個々の実験で上向き(+)か下向き(-)の値が得られる。しかし、これは本当に個々の系が持つ値と言えるのだろうか。それともその実験結果を含む統計集団に与えられた値と見るべきだろうか。
ここで注意しておきたい点は、上向きと下向きという測定値が表している量がスピンの方向ではないということである。

こういった考察で、ベルの不等式の問題も解決した、ということになるらしい。
ここまできたら、以下のような疑問にとらえられる欲望を抑えることはできねーだろー。つまり、シュレーディンガー方程式に対応する、統計力学側って?

なぜそのようになっているのか(つまりシュレーディンガー方程式の起源)について理由を考えるべきかどうかはわからないが、フリーデンはシュレーディンガー方程式やクライン - ゴルドン方程式などがフィッシャー情報量最小という仮定から導出できることを示した。(平衡)統計力学ではエントロピー最大則が成り立ちそこから様々な量が求められるが、量子力学ではフィッシャー情報量最小則が成り立つというのである。

この解釈の特徴は、量子力学を、統計力学のアナロジーで考えることである。数学においては、おうおうにして、こういうことが起きる。量子力学の使う武器を見てみると、シューディンガー方程式にしても、虚数単位がでてきて、びっくりするかもしれないが、式そのものは、非常に簡単な見た目になっている。実際、ほとんど、線形性(波ですから、当然ですが)くらいしか、仮定していない。
ということは、普通に考えるなら、そんなに複雑じゃないのだろう、となる。つまり、意外と「似た」現象に私たちが格闘してきた可能性がある、ということである。
それが、統計力学だというのが、著者の主張だが、これを理解するには、統計力学がどういった学問なのかを理解する必要があるだろう。そして、その先に、著者は量子力学の「実体」を指摘する。

統計力学では微視的な変数と巨視的な変数の二種類を考える。個々の分子が持つエネルギーは微視的な変数であり、温度や圧力、エントロピーは巨視的な変数である。微視的な実在(つまり分子)から見れば温度や圧力、エントロピーなど存在しない仮想的な変数である。一個一個の分子のふるまいは確率的であるため分子が持つエネルギーは統計性を持ち大きく揺らいでいる。それが確率分布を作り出し、それを特徴付けるパラメーターとして巨視的な変数を生み出している。巨視的な変数は熱浴など環境によってコントロールされほとんど揺らぐことなく因果的に変化する。
量子力学への統計力学的アプローチは、これと同様に運動量やスピンなどエネルギー・運動量変数を巨視的な変数(見かけの変数)と見なす。個々の系が持つ変数は位置や時刻などの時空変数(座標)のみでありエネルギーや運動量など持たない。微視的な実在から見ればエネルギーや運動量、スピン角運動量など存在しない仮想的な量である。一個一個の系のふるまいは統計性を持つため系の位置は大きく揺らいでいる。それが確率分布を作り出し、それを特徴付けるパラメーター(巨視的な変数)としてエネルギーや運動量を生み出している。巨視的な変数は他系との相互作用を含む環境によってコントロールされ、ほとんど揺らぐことなく因果的に変化する。このような描像である。

え?
困りましたね。運動量やスピンなどを持たない「存在」?
おい。こいつ。なに?

一つのモデルは、図2[時間軸にそって、点が、(ちょっとずれてOKな感じで)比較的密に並んでいるイメージ]のように時空中にばらまかれた点の列である。この点列は遠くから見ると世界線のように見えるが実際には微分不可能な不連続な点の列であり、自己同一性を持たない。点列中の二点の差から速度を定義できるが、それに何の意味もない。点列全体の動きは点列のサンプル集団(統計集団)の分布が全体としてどのように変化するかで決まる。その確率分布は幾つかのパラパラータ(E, px, py, pz)によって指定されるが、それらは環境(実験条件など)に応じて相対エントロピーが全体として最小(ΔS = min)になるように非局所的に決まっている。そのため離れた地点での分布間に相関が生まれる。

これが、量子的
実体
だと、いうのだ。しかし、なんだろう。このセカイ。とにかく、私たちが、あきらめなければならないのは、その「自己同一」性だということのようだ(まあ、確率的ってところから、想像はできたが)。こんな存在が「ある」と言われて、どんな反応をしたらいーんでしょーねー。
なぜ、量子力学なのか。
それは、もうすぐ迫っているから、である。コンピューターの半導体は、それを小さくすることによって、「進化」してきた。しかし、そろそろじゃね? もう、これ以上小さくしようったって、そのさらに小さくした部品「そのもの」が、量子的影響を免れられなくなる。
じゃあ、どうなるのか。コンピューターの進化は、ここで終わるのか? そんなことねーだろー。コンピューターが「量子化」するんだ。コンピューターは、まったく、違うものになる。計算だってそうだ。まったく違った、計算アプローチ(量子的重ね合わせに注目した)の可能性が探られるようになる。
コンピューターだけじゃない。さまざまな量子的な巨視的現象が、実験で観察されるようになり、その実用化も進む。私たちは、ある日。知らないうちに、
「量子」的都市
に住んでいることに気づく。あらゆることが、量子的な現象によらずに、その「存在根拠」を説明できない、ハイテク都市...。
しかし、それはテクノロジーだけだろうか。私たちの思考方法も、量子論理的なものになっていくのかもしれない。だって、あらゆるものが、量子力学的存在となったセカイで、どうして人間だけが、その思考形態を、
旧時代
の(ニュートン的な)形態を維持できるだろう(しかし、それは、さすがにもう少し未来の話のようだが...)。
上記で、ペンローズにふれたが、では、悩における、神経系の活動に、どれだけ、量子的現象が、役割を演じているだろうか。人間は、論理的に思考する。数学的に証明する。
やった、「このセカイがどうなっているかが分かった」。
でも、そう「証明」している所は、そいつの頭の中(つまり、悩)なんですけどね。つまり、この世界を、この世界の「中の一部分でしかない」悩が、十全に、記述(つまり、コピー)するって、どんだけ、自己言及、なんかいなと。
(しかし、その「量子的実体」が、自己同一的じゃない、っていうんですからね。今さら、ヒュームにまで、さかのぼるつもりはないけど、とにかく、この関係が、おもしろいですね。)
結局、上記に書いた、量子力学統計力学的アプローチにしても、さまざまな量子力学的現象の解釈問題の「いいわけ」的な説明を提供しただけで、その「実体」なるものが、我々の想像を超えたキテレツな存在であることは少しも変わらない。

これらの流れを単純に総括するなら、ハイゼンベルグ - ボーアらの最初期の対応、すなわち「観測」を不可欠な要素として持ち込む、の復活である。確かに量子力学八〇年の歴史は最初期のこの状態から「観測も量子力学的過程」という意識で「観測」という異物を理論内部から排除する方向に進んだ。多世界もデコヒーレンスもそうである。しかしミクロ世界とマクロ世界の理論に共通言語はなく、量子力学はミクロをマクロに翻訳する理論を与えているのではないかと筆者は考える。マクロ世界とは客観主義的に言っているのではなく人類の認知能力(五感と悩での認知)の世界という意味である。

佐藤文隆量子力学の身分」
現代思想2007年12月号 特集=量子力学の最前線 情報・脳・宇宙

どうやら、私たちは、あのアインシュタインが、残していった、シュレディンガーの猫、にとりつかれてしまっているようだ。おい。猫よ。お前は生きてるのか。死んでるのか。どっちなんだよ?
今じゃ、この日本中も、猫にとりつかれてしまった。どこも、かしこも猫だらけ。霊験あらたかな、量子猫の御利益は、かなりなもののようで、ハイテク都市日本、の未来の栄枯盛衰はひとえにこの、量子猫様のご機嫌次第ということのようで、そして、アニメ「けいおん」の、あずにゃん、も猫耳がデフォルトになる、と(まあ、その話は、いいや)。

現代思想2007年12月号 特集=量子力学の最前線 情報・脳・宇宙

現代思想2007年12月号 特集=量子力学の最前線 情報・脳・宇宙