放射能都市

計画停電は、東京の場合は、場所によっての実施に、今のところはなっているようだ。本当の中心部は今のところ、電気を止めないようにしているということなのだろうか。
しかし、この措置が今の、スーパーでの日用品の買い占めの状況をあおってしまったことは間違いないように思える。やるにも、もう少しやり方があっただろう。
普段から、こういう非常時にどのように、人々が行動するのかを研究して、政治側がどのようにアナウンスを行うべきなのか、そういった研究が、進んでいないのかもしれない。確かに非常時というのは、たまにしか起きないので、こういった研究への需要が感じらないということなのか。
昨日の朝の山手線は、ずいぶん空いていた。自宅待機になっているサラリーマンがけっこういるということなのだろうか。今はパソコンがあれば、自宅でも仕事はできる。何日かなら、それで済む人は多いのかもしれない。
JRや私鉄の運行軌間の短縮や本数の減少は、基本的な東京の移動のリソースに関係してくるだけに、市民生活への影響は大きい。
普段はほとんど売れることのない、2リットルのペットボトルの水や米や保存食やトイレットペーパーのようなものが、近くのどこのスーパーにも売っていない。
ある種の商品は、仕入れさえうまくいけば、いくらでも売れるような状態が続いている、ということだろうか。いや逆なのか。今後のことを考えて、流通自体をストップさせているのだろうか。
やはり、原発がここまでのダメージに陥ったのは、あまりに巨大なビック・ウェーブの関係だったのではないか、という見解をテレビで見かけた。原発周辺に存在していた小さい建築物は、ことごとく、地震後、存在しなくなっている映像を見たが、ああいったものは、おそらく、今回のレベルの揺れでも、なんとかなったのだろうが、波は別だった。ことごとく流してしまって、防御システムが、ことごとく使えなくなった。
しかし、この前にも書いたように、三陸海岸沖のプレートは、毎年のづれの大きさが、2、3倍という最重要地域だったことは間違いないわけで、こういったことに目を閉ざしていたのではないかと、どうしても言いたくなってしまう。
これが、
理性の不安
なのだろう。
一部の原発関係者が、今回を乗り切れば、日本の原発を海外に売れる、とテレビで主張していたそうだが、なんとも忸怩たる思いにさせられる。
あらゆる行動には「責任」があると考えるべきと私は考える。
どんな小さなことにも。
そういう立場からは、原発を作る側は、その原発が壊れたとき、被害者に「保障」ができないなら、その「責任」を果たせないと考えるべきだと思うのである。自分で自分の責任をぬぐえないのなら、基本的にそんなことをやるべきでない、となるだろう。じゃあ、どうするのか。末代まで、少しでも稼いで、人々につぐなっていくのか。子供たちにそんな責任を背負いこませるわけにもいかないのだろう。
じゃあ、そういった責任は「どこに行くのか」。
そこで、多くの場合、「民主主義」が登場する。
「みんな」が決めたじゃないか。それを今さら、作って動かしている側だけの責任にされてたまるか。実際、「利益を享受」してたんだろ。
しかし。おそらく、「実際に」作って動かしていた人、つまり、技術者たちは、そう考えないだろう。これは、エリートの仕事だから、だ。おもちゃでも、戦争の武器でも、ないのである。他人様に被害が及ぶのなら、その賠償は当然発生するのであって、仕事をやるとはそういうこと、現場から逃げることなんてできないわけだ。
原発の歴史は、私たち「そのもの」の歴史でもある。
私がたしか、中学生の頃、住んでいた県にあった原発の社会見学に、クラスで行ったことがあった(そういったクラスは、当時はけっこうあったと思う)。
でも、私は、その「原発」という言葉に対して、ほとんど知っていなかった。
なんだか、最新機械の、石油ではない別のエネルギーというくらいで、冷めた目で見ていた。もちろん、「はだしのゲン」で、原爆のイメージはあったのだが、その繋がりで、なんとなく危険で恐い、でも「最新鋭」くらいの、
クール
な、低い興奮、とでも言うのだろうか。そんな感想だった。
高校にはいって、原発の危険性を指摘する、いくつかの本があることも、なんとなく知っていたが、それほど興味をもって、読むという感じではなかった。ただ、高校の美術の授業で、絵を描くのだが、いろいろな建物の中に、原発の施設を描いた記憶がある。べつに、とりたてて誰にも注目もされなかったが、なんとなく「描くべきこと」くらいのイメージだったのだろう。
それ以降、私と原発に直接関係することはなかったが、もちろん、この危険性が頭から離れることはなかったとは思う。
原発技術者の後藤さんが、柏崎刈羽の事故のときに、原発でも壊れる、格納容器も場合によっては壊れることを確信した、と記者会見で語っていたが、ああいった本当に作っている人で、かつ、その耐久性のテストを行っていた人が、そのように語っていたことは、あらためて、この事態を、どういった
言葉
で説明すべきなのだろうか、ということを考えさせられる。
なぜ、政府は、半径20キロとか30キロと言ったか。20キロであれば、まだ容易に避難させられたから、だろう。しかし、この距離を広げれば広げるほど、人口密集地域を含むことになり、避難を誘導することが難しくなる。
そもそも、東北地方全域にわたる、この地震で「避難されている方々」は、あまりに多いわけだ。彼らへの復興支援をしなければならないことは間違いないにもかかわらず、あまりにも、その地域が広く、人口も多い。
こういった、広域に渡る災害対策に対してどのような施策が行われるべきなのか。学術的にも、確立しているのだろうか。
普通に考えるなら、原発に近い地域の人、とくに、子供たちを、できるだけ原発から離れさせたい。できれば、物流が安定している西日本に「疎開」できるなら、それがいいように思える。
しかし、「疎開」などと、不謹慎にも戦争の比喩を使うとしても、はたして、いつになったら戻れるのか。そもそも、戻れるのか。戻るべきなのか。その地域にとって、今、重大な選択に直面していることを思うと、軽々しくものを語るべきではなく思われるし、地域主権を主張してきた自分の立場さえ問われているように思われる。
災害地域はあまりに広い。こういった面からも、状況とその推移を見守っていく必要があることを痛切に思う。
今回の事故で、東北の人への差別がおきないだろうか。日本人への差別がおきないだろうか。日本の「復興」の道のりは厳しい。
今後、地球上の国々は、こういった事故を繰り返し、多くの国々で、チェルノブイリのような、立ち入り禁止区域が、次々と生まれ、人々の生活できる地域は狭まり、多くの国々で、
より高い放射能濃度の中で人々が生活する
ことが普通の日々となるのかもしれない。
多くの白血病患者が生まれ、ガンが今以上に日常的な病気となり、しかし、たとえそうなったとしても、人々は人々を治療し生きていく。次の子供の世代に何かを残していく...。