考えることの強度について

原発は、とにかく直近は推移を見守るしかないのだろう。
給水ポンプが燃料切れで止まったために燃料棒が完全露出した件は、東電の作業員の初歩的な確認ミスという報道があった。こういった訓練をしていなかったということなのだろう。しかし、そのことによってもたらせられるかもしれない可能性は、あまりにも大きいのかもしれない。
人間は理性的な存在であるというより、反射的な存在であると、自覚した方がいい。これからも、作業員のミスが予想される。日々の余震に感情、理性の根底を揺さぶられながら、作業員たちはあまりに苛酷な環境での作業を献身的に行ってくれている。
私はそういった殉教的な献身を、外から意味づけるような議論に懐疑的であったが、どうしても、この問題を今後も考えざるをえないという気持ちを改めてさせられた。
私たち人間にとって「苦手」なことは、まさに、
理性的
なことなのだと思われる。カントがリスボン地震で考えたこととは、カントの時代にまさに全盛をほこった、ニュートン力学のことであったはずなのだ。
ニュートン力学はなぜここまでの圧倒的な存在感を示すことになったのか。
私たちは日々、世界を把握しているのだが、それは、「感覚的」に把握している、と言うべきようなことで、さまざまな事象が、「錯覚」と共に認識される。
早く見えた、とか、大きく見えた、とか。
しかし、そういった判断は多くの場合、間違えやすいわけだが、それは感覚の「特性」というべきで、間違えというより、感覚がそういうように「してしまう」という方が正確だろう。「あまりに」早かったり、「あまりに」大きかったり、すると、私たちの「感覚」の方が勝手に麻痺してしまう。
だからこそ、ニュートン力学は、あまりに大きな意味をもった、と考えられるだろう。なぜニュートン力学は偉大であったか。それは、私たちの「感覚」が間違えやすい、さまざまな(ニュートン力学的な)「尺度」それぞれの、
関係
を、単純な式で表現したから、といえるだろう。
位置
時間
大きさ
重さ
早さ
加速度
たとえば、地震で波がおしよせる。問題は「早さ」である。波とは、線形性そのものであり、重ね合わせの原理により、最も効率的に、エネルギーを伝播するわけである。非常に早い。だからこそ、気付いてから、避難するまでの「時間」が重要なわけである。
また、この地震津波の被害は、あまりに「広すぎた」。ここまで、被害地域が広いと、物量も、人のリソースも、移動も全然足りなくなる。
(これこそ、中央集権国家の弱点そのものと言っていいだろう。あまりにも、広い地域を「一瞬」で把握し「一瞬」で手当をできるほど、中央権力は、人手も力量もあるわけがない。彼らは「たんに」そういった作業が苦手なのであり、向いてない。常にそういう事態において、国家が「取捨選択」を始めるのはいつものことだが、それを「しょうがない」とか言っている連中はクズであろう。私たち国民にとってはそういうわけにいかないのだ。といっても難しいことを言ってるわけではない。たんに、国家への変な幻想を捨ててください、というだけだ。)
では、原発の場合はどうか。たしかに、高濃度の放射線の人体への影響は、甚大である。しかし、問題は、その放射線が、どれくらいの速度で、どれくらいの濃度で、拡散するか、となるわけである。
専門家がずっと言っていることを一言で言うなら、原発の事故とは、広島、長崎の爆弾のように、「一瞬」で、何キロも先にいる人々の皮膚がただれるようなエネルギーが拡散されるような性質のものではない、ということではないだろうか。
ですから、「この」危険性の場合は、もしかしたら、原発が危機的と分かった時点で、民族大移動的に、ゆっくり、計画的に(パニックにならないように)移動するという形でも、ある程度は、対応できるかもしれない、という性質だと言いたいのだろう。
しかし、原発に早さはそれほどないとしても(風向きや雨の影響などは、非常に重要なポイントだが)、問題は「量」だということになる。副島第1原発の3号機はプルサーマル計画でしたか。非常に高濃度になっているはずで、1号機とは事情が異なる、ということは理解しておいた方がいいだろう。
また、ある原発で、あまりの「量」が外に放出された場合、その環境で「だれも」作業ができなくなる可能性がある。他の原発にさえ近づけなくなる、という意味である。予断を許さないとは、こういうケースと考えるといいのだろうか。
このように考えるなら、いろいろな意味での「長期戦」が、これから私たちを待っている、と言えるだろう。
今の計画停電がいつまで続くのか。スーパーでも買占め的な品薄が続いているが、この状況は改善するのか。被災者の避難がいつまで続くのか。
現代社会とは、エネルギー社会であり、電気がなくなると「ほとんど」なにもできなくなる。ほとんどの「便利グッズ」はガラクタと変わらなくなる。一瞬で「江戸時代」に戻るわけだ。
だとするなら、この東日本に、世界中から、救援物資を集めてもらって、

  • できるだけ近場で生みだせる自家発電機能を、できるだけ多く設置する。
  • 人々に「不足」感を感じさせない。
  • 人々に今までと同じ行動をさせる。

なんとか、この東日本に「苦労」をさせない努力が求められる。つまりは、災害ユートピアの実現だ。自生的なコミュニズムを「今こそ」機能させられないだろうか。
いいのである。世界中が資本主義のエゴイズムに覆われていたとしても、この東日本という場所のこれからの震災期間だけは、なんとか、
コミュニズム
的な助け合いの災害ユートピアを実現させたい。
困っている人がいたら、周りが助けてあげて、一人でも「困っている」ことで、精神的に追い詰められている人を減らす。そして、物の不足を無くす。これだったら、世界中の人たちが協力してくれるなら、ある程度は実現できる可能性がある。
そうは言うが、あまりに広い地域に、あまねく渡っていることは、今回の困難の特徴であって、どう物を運ぶのか、どれくらいの速度でそれを行えるのか、など、限界があることは分かっている。
しかし、やるべきことのイメージはできるはずである。これで、今後の目指す場所がイメージされたことと思う。
人間は「連続」的な存在である。急に、考えを変えられない。時間がかかるのである。なぜなら、非連続に変化「できない」からだ(物理学の法則を超えて変化きない)。だとするなら、私たちは、できだけ、今までの生活習慣を維持した方がいい。
同じことをやる。
(だから私も同じように、このブログを書いているのだが。)
長い闘いは始まったばかりであるというのなら、だったら、じっくりゆっくり考えていこうではないか。
いままでやっていたことの延長で、少しずつ、今まで起きたことについて、考えてみる。そしてこの変化に適応していけるように、少しずつでも意識して行動する、というふうに心がけた方が、さまざまなことが、スムーズに(案外早く)変化していけるかもしれない。