ロベルト・エスポジト『三人称の哲学』

原発問題が、国策に関連したものであることを認識することは、これを「公害」問題の延長で考えたとき、ある「人間」の定義の問題が再燃する不吉な予感にとらわれる。
たとえば、福島のあの惨状において、今だに、あの場に留まり作業をしている人がいるという事実は、驚きを通り越して、その「不可能性」に思い至らざるをえない。
間違いなく、被爆することが分かっていながらの作業を強いるのであれば、それなりの高額の代償を支払わざるをえないだろう。しかし、そのことが、原発の「コスト」を引き上げ、商品としての価値を損なう。
しかし「公害」とは、もともとそういうものであった。国も企業もその「危険」を国民に知らせなければ、国民は次々と病気を発症し苦しみの中を生きることになる。しかし、たとえそうなったとしても、国や企業がその理由を国民に知らせることがなければ、国民はなぜ自分が苦しんでいるのかを自覚することなく、生涯を終えることになるのかもしれない。
たとえば、福島のあの、なかなか作業がはかどらない光景を眺めるに、もしも、
奴隷制
が日本に存在したなら、事態はもっと早く収束したんじゃないか、と空想する人はちらっとはいるのではないだろうか。つまり、
徴兵制
だ。国民を強制的に、福島原発の中で、作業をさせる。陪審員制度のように、ルーレットで国民を選び、作業をさせる。だって、一年に浴びていい放射能のぎりぎりまでなら、作業できるんだそうだからね。
原発は国策なのだから、その
公共事業
が滞ることは、国家の死を意味する。徴兵されることは、国家の奴隷となることを潔しとすることだとするなら、私たちは、今。この、福島原発という
鬼畜米英
に再度、戦いを挑んでいる。零戦カミカゼ突撃を行い、魚雷「廻天」が、血の血判状と共に、潜水艦に玉砕突撃を行い、福島原発という
巨人(「進撃の巨人」)
を前に、天皇様、今。私たち日本国民は、死に場所を見つけました。自ら死を選ぶことがこれほどまでに幸せなことなのだということを知ったのです。
ホッブズが「万人の万人にたいする闘争」と言ったとき、私たちはある疑惑にとらわれる。
闘争?
誰と誰の闘争だって?

ホッブズの装置のいわば人類学的な側面、つまり「万人の万人にたいする闘争」における自然状態の更新を、ショーペンハウアーが否定することはありえないだろう。ことによるとショーペンハウアーは、それをもっと極端な結末へと導くことになる。自然とは、世界を統治する生の抑えがたい意志の表明のことでもあるが、その自然は、水晶のような無機質レヴェルのものから、植物や動物のレヴェルにいたるまで、そのすべての構成要素のあいだの激しい闘争によって横切られ、構成されているというのである。ここにおいてその闘争は、その矛先を自分自身に向けるほどまでに破壊的なものとなり、一種の絶えざる事故蕩尽へと行き着くことになる。

若いヒドラ老いヒドラから枝のように生え出て、のちになるとそれから離れて分かれるが、まだ老いヒドラに固着しているあいだ、すでにそこに現れてくる餌を求めて老いヒドラと争い、一方が他方の口から餌をもぎ取る始末である。しかしこの種のもっとも際立った例として示しているのは、オーストラリアのブルドッグ蟻である。つまり、この蟻を切断すると、頭の部分と尻尾の部分とのあいだに戦いがはじまり、前者が後者を歯で襲撃し、後者は前者を刺すことによって勇敢に防衛する。双方が死ぬか、あるいは他の蟻に引きずり去られるまで、戦いは半時間も続くのが常である。

よく知られているように、人間は死んだ後も、爪や髪が伸びる。つまり、人間とは、どうも二種類の「自分」で構成されているようだ。

  • 意志でコントロールされる「なにか」
  • 意志と関係なく不随意に生命活動を維持している「なにか」

ところが、私たちはそれらを「ひとつ」として、自分をイメージする。というか、こんなもの、そう簡単に分けられるのか。そう簡単に前者は「これ」などと言えるのか。
よく知られているように、フランス革命時に作られた、フランス人権宣言と世界人権宣言は、まず、見た目上、根本的な違いをはらんでいる。

一七八九年の人権宣言以来、人間と市民というふたつの極の隙間を埋めようとしているのが、「ひと[人格・人称](ペルソナ)」の概念である。一七八九年の宣言を、一九四八年の世界人権宣言と比較してみるならば、違いは一目瞭然だろう。前者が市民権を革命的に強調するのにたいし、後者の新しい意味論上の焦点は、人格(ペルソナ・ウマナ)の尊厳と価値についての無条件な権利要求にある。こうした転換の動機は、かならずしも、人権を国民へと否応なく狭める限界から人権を救い出さねばならないという必要性にのみあるわけではない。そればかりかこの動機は、啓蒙主義の文化と神学の言語とから派生したさまざまな要素と反響を同時にただひとつの指示対称で引き受けることができる、ひと - ペルソナという語の二重の響きをかねそなえた概念を見つけだすのは難しい。

フランス人権宣言が相手にしているのは「市民権(シヴィリアン)」であって、ずっと、国民とかその土地の市民の権利の話をずっとしている。ここは非常に重要である。たとえば、普通選挙が認められるのは、どこの国でも、かなり近代になってからであって、当然に

という問題意識が上記の「人権」にはつきまとう。
対して、第二次大戦後にその反省を受けて作られた、世界人権宣言には、ある抽象的な「人間」、
パーソン(ペルソナ)
がほぼ文面を覆うようになる。

しかしながら、スエトニウスが証言しているような、改まった席で先祖のマスクをつけるといった古代のしきたりを、キリスト教典礼に翻案したまさにその慣習こそが、ひと - ペルソナと身体とを結びつけもすれば同時に引き離しもする空隙を垣間見せている。実際デスマスクは、人間存在をその身体の次元において表象するよりはむしろ、天上での生の視点にたち、なにより精神的な次元ないしは心の質を表わす役割を担っている。明らかに神学的な痕跡をもつこの移行は、動物、植物、理性の三つの魂というアリストテレス的な区分とも一点において接している。つまり、この三つのうちいちばん最後の魂にのみ、ひと - ペルソナの観念が関わっているのである。

私たちが仮面をかぶる(女性が化粧をする、ネット上でアバターとなる、...)ことは、ひとつの、私たち具体的なシヴィリアンであることを脱却し、抽象的な「人間」となるための、
手続き
として提示されていることは、ある皮肉を感じさせる。仮面をかぶる(ペルソナ)ことが真の人間となることであると...。
古代ローマ帝国とは、現代から見ると不思議な世界である。歴史ある帝国を支配していたのは、その長い歴史の過程で生みだされ続け、蓄積し続けた、奇妙な「法」が乱雑にからまりあう世界である。

家長権は、生殺与奪をはじめとするその強い特権のためだけではなく、むしろ、そして何よりも、その実質的で永続的な移譲不能性のために、主権のカテゴリーにきわめて似通ったものとなっていた。これこそが、息子の人格体制----すなわち絶え間ない脱人間化の過程----に刻み込まれた要素なのである。この脱人間化は、ローマ法においてつねにそうであるように、けっしてある一定の結果にたどり着くものではなく、一般的な規範と例外との、つねに揺れ動く関係の動的な関数なのである。かくして、死を与える父の権力は、最初期の過酷さにくらべて軽減され、古典期には長女および三歳以下の男子にたいする行使を禁じられていた。もっとも、しばしば例外が規範をみずからの上に折りたたむように、この禁止は奇形児や不貞を働いた娘には該当しないのだが。しかし、直接に殺すことのできない子供であっても、子供は、奴隷の条件とまったく同等の条件へと突き落とされたにもかかわらず、新しい父の家長権の下に入ることはないが、それというのも、ただ本来の父の家長権の下に留めおかれるためである。この後者の権限は「父が息子を三度売れば、その息子は父から自由になる」という定式によれば、三度つづけて売られてはじめて、自由獲得とともに消滅するのである。その場合のみ、息子は、モノのように三度売られた後、養子の身分----それもまた非人称化される身分である----へと移る前、一時的にひと - ペルソナに戻る。

古代ローマにおいて、市民(シヴィリアン)とは「家長」のことである。そういう意味では、子供でさえ「家長」の奴隷である。
奴隷とはその生殺与奪の権利が家長にあることを意味することにあるなら、それは一種の人間のモノ化と言うことができるだろう。モノとなる人間は、つまり、
商品
となることを意味する。しかし他方において(古代ローマの法は)、「奴隷」としての子供はその血の繋がりにおいて、三度繰り返されない限り、
子供
という家長とのペルソナから「自由」になれない(逆に言えば、家長はその子供という責任を引き受け続ける)、と言うのだ。
仮面をかぶる(ペルソナ)ことが真の人間であるということは、なにを意味しているのか。仮面をかぶることは、その人の過去からの具体的な
徴(しるし)。
さまざまな経験の差異を、一切捨てて、ある抽象的ななにかとしてひとしなみにくくられる、ということを意味する。

アレントは、『全体主義の起源』のなかの「国民国家の没落と人権の終焉」と題された章で人権の終焉を考察するにあたって、理論に謳われたものに実践で応答することの不能性や、基盤を欠いた法の脆弱さに言及するのではなく、むしろよりいっそう深い何か、法の形式それ自体にひそむ内在的な装置に言及している。つまり、状況や外的な理由のために、法の形式は、たんに人間であるという以外の呼称を欠いた人間を保護することができない、というのではない。そうではなくて、法の同じ機能がそうした保護を予見していない。より正確にいえば、むしろ阻害しているのである。同様に、言葉のより剥き出しの意味において理解された人間は、それにもかかわらず、ではなく、それゆえに、自身の受けるべき恩恵から排除され、権利を欠いたままである。

人権の概念は、人間であるということ以外のあらゆる資格やしかじかの関係を失った人々がはじめて登場したまさにその時に、崩れ去ってしまった。[......]もしある人が政治的身分を喪失した場合、その彼は、人間の生まれながらにして奪うことのできない権利が含意するところに従うならば、そうした権利の宣言が準備していたような状況のもとにおかれるはずである。しかしながら、これとはちょうど正反対のことが生じる。単に人間である以外には何者でもなくなった人は、他者によって同類として扱われるのに必要な属性を失っているように見受けられる。

世界人権宣言が求める人間(ペルソナ)になることが、フランス人権宣言において、たからかに宣言された、市民としての権利、具体的なその土地に生まれ生きる我々の諸関係(同類感情、ナショナリズム)を捨象した何かとして考えられることに、大きな意識の分裂を感じさせる。
そもそも、こういった掲題の著者の関心のネタ元はどこにあるのか。実は、ほぼ同じような関心で同じようなことを、シモーヌ・ヴェイユが指摘しているわけで、掲題の著者は、その問題意識をたどり直しているにすぎない。

ヴェイユは、セクト主義者と見かねないほどのラディカルさで、ヒトラー主義の根源にローマの経験を認めるとともに、当初から人間をモノへと変形させることに向かっていた司法の伝統がもつ遂行的な権能をはっきりと参照していた。「われわれに権利の概念を遺してくれたといって古代ローマを賛美するのは、まったくとんでもないことである。なぜなら、ローマにおいて、そもそもこの概念が最初どのようなものであったか、その本質を見分けるために検討してみるならば、その特性は使用や濫用の権利によって規定されていたということがわかるからである。実際、どのような所有者にも使用したり濫用したりする権利があったのが、大部分、人間だったのである」。そしてそれゆえにヴェイユは、支配的な思潮に抗い、義務にたいする権利の優位に関するマリタンのテクストに正面から立ち向かいながら、権利と人権のあいだにある至高の連関をきっぱりと告発しているのである。

権利の概念は、それ自身の凡庸な性格のために、当然ながらペルソナの概念を背後にともなっている。というのも、権利はペルソナの問題にかかわるからである。権利の概念はこの次元に属しているのだ。権利という語にペルソナという語を付け加え、ペルソナの権利を含んでいるものを真の現実化と呼ばれるものへと繋ぎ合わせれば、いっそう重篤な悪を犯すことになるだろう。

私とは誰なのか? もし私の臓器を他人に「売れる」とするなら、どこまでを売ることができるだろう。腎臓、肝臓、心臓、脳 ...。そうやって売っていったものの、どこに「自分」はいるのだろう?

みずからの身体について、身体を改善したり、管理したり、修正したり、さらには貸したり、売ったり、抹殺したりすることによる、自由処分権を請け合う者であれ、あるいは、身体は上や国家、自然の不可触の所有物であるゆえに自由に処分できないものであると明言する者であれ、みずからをモノへ翻訳することを前提せざるをえない。

ナチス・ドイツ古代ローマ的なものの再興として現れたことが、ユダヤ人をモノ(奴隷)的に「管理」していくアウシュビッツの姿だとするなら、他方における、自由主義(資本主義)においても、たとえ、人間の「人権」は不可侵な存在であり、その体を売ることはできないと考えたとしても、結局は、一回、人間を「モノ(商品・奴隷)」と想定して吟味せざるをえない(思考回路)ところに、この問題の根深さを感じる...。

三人称の哲学 生の政治と非人称の思想 (講談社選書メチエ)

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