正当なる表出=正当なる表現

それにしても、昨日の河野太郎さんという自民党の政治家の対談は、とても興味深かった。それは、話の中身がどーのこーの以上に、なんと言うか、ぐびぐびお酒を飲みながら、くちゃくちゃ食べながらだからなのか、饒舌で、しかもこういった場面に国民がどういった反応を
期待
しているかをよく分かって、しゃべられている。あーこれって、
「日本の」政治家
っぽいなーと思った。こういっただらしない感じが、田中角栄的な日本の政治家なのだろーなーと。それは、悪い意味ばかりじゃなくて、なんと言うか、お座敷的な社交性とでもいうのか、たとえば、あるさまざまな利害が対立している問題に「ガチンコ」で突撃すると、潰し合いになる。昔の日本の政治だったら、天誅とか不遜罪とか、そういうのを繰り返してきたわけで。問題は潰し合いになることというか、
本気で戦わなければならないときにやることはいいんだけど、どーでもいーよーな場面でまで、全力でぶちあたってると、体がもたない。
そもそも、政治家は専門家ではない。政治家は国民が選んだ、
国民の側
の存在であるんだから、彼らは私たちの味方であることは間違いない。だとするなら、そういった政治家にやってもらいたいことというのは、限られる。過大な期待も過少な期待も正しくない。
そして、もう一つ、興味深かったのが、番組の最後に流れた、高円寺での反原発デモの映像だ。今、この映像はテレビに流れているのだろうか。ネットで見れるのだろうか。
こんなふうになってたのか、と。
大音量で、近所迷惑だったみたいな話もあるようだが(それについては、映像を見て納得)、そういうこと以上に、
こういう形であるなら、ある「一定の範囲の」若者たちは、「表現」を始めるんだな
というのを納得させられた。
よく考えれば、こうやって毎日、福島の原発の惨状が毎日のように報道されてきて、怒らない国民なんて、ありえないと思うわけである。だったら、まず、その怒りを表現しないことの方が、不健全だ。
その言ってることが、めちゃくちゃかどうかなんて、どうでもよくて、この状況に怒りを表現しない人の方が、あんたの感情のバランス、大丈夫? って思わざるをえないんですけどね。私、理性的じゃないですかね。

  • 「ばーゆむー、それぐらいわかれよなー」(これゾンの、天才少女はるなちゃん)

うー、わっかんねーwww
私たちの子孫たちが大切に受け継いできてくれた、日本の大地。そのある場所が、人間の過ちによって、はるか未来に渡って、だれも住めない近寄れさえできない大地にさせられて、ご先祖様にもうしわけないと思わないのか。我らが大地を汚されて、怒りに震えない日本人ってなんなのかな(農本主義者の片隅にも置けないな)。
明らかに、今にも死にそうな、おじーちゃんオエライサンたちが、原発推進みじんたりとも揺るがず、って、あんたどーせ、すぐ死ぬんだろ。あんたの意見なんて聞いてねんだよ。問題は、これから生きていかなきゃなんない
子供
たちの世代じゃないか。これから生まれてくる
未来の日本人
じゃないか。なんでこれからの未来を背負っていく若者の意見を聞かないで、じじばばが「勝手」に、原発推進揺るがず、なんてKYなことを、のたまい続けてんだよ。
だいたい、今の原子力のエネルギーって、若者に関係あるのかな。学校卒業しても、こういった大規模なエネルギーが必要な大企業は、「若者間に合ってます」状態で、どーせ採用されない。ところが、大規模エネルギーのほとんどって、こういった
大企業用
なんでしょ。もうすぐ、おじーちゃん、おばーちゃん世代になるような人たちばかりが、会社のトップを固めて、若者を締め出してる。
エネルギーが必要みたいな議論をするのは勝手だけど、だったら、もう少し若者が生きやすい社会を、じーさんばーさん世代は考えて、実践してから、言わないと、なんの共感も得られなんじゃないですかね。
河野太郎さんも、高円寺の大声で原発反対をラップやってた若者も、お酒を飲むとか、音楽による表現活動という
形式
を与えると、これほど
饒舌(じょうぜつ)
になるって、意外と日本人ってそういうものなんじゃないか、という印象をもった。問題は、ある「スタイル」を提供することだったんじゃないか。ある形式が、全体の雰囲気として、「そういうもんかな」となると、一つの納得の地平が形成されて、ひっこみじあんの日本人も、
表現活動
を始める(んじゃないかな)、と。

  • 「せーめる、うーける」(デュラララ、のオトメロードモードの狩沢さん)

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