キリスト教と脱石油時代

(今週のETV特集は、非常に感動的だった。ボランティアの方々の献身的な活動こそ、日本の義であろう。)
私は、自然科学でない学問に疑問をもっている。
つまり、自然科学でない科学がある、という言い方が「意味不明」だと考えている。
つまり、一般に、人文科学と呼ばれている分野は、なんらかの意味で、自然科学だと言いたいのだが...。
人間は言うまでもなく、生物であり、生物という制限を超えて存在できるはずもなく、生物という制限の範囲で、集団行動を行っている。
そういう意味で、自然科学でない学問はありえない。
この問題を、もう少し、根底から考えてみたい。
今世界中を、「近代社会」化があまねく覆おうとしているが、その「近代社会」とはキリスト教そのものと切っても切れない関係にある。というか、ほぼ同じものと言ってもいいだろう。
では、そのキリスト教とはなんなのだろうか。

橋爪 宗教法(ユダヤ教でもイスラム教でも)の伝統では、法をつくる主体(立法者)は神なんです。Godが法をつくる。人間も法をつくることができますけど、神の法をつくることはできないし、人間のつくる法は、神の法より下位の法。まあ、たとえて言うと、神が「憲法民法、刑法」みたいな法律をつくっているとすると、人間は、東京都公安条例や財務省局長通達みたいなものしかつくれない。これでは勝負になりません。
キリスト教徒がなぜ自由に法律をつくれるかというと、キリスト教会がそもそも法律をつくらないから。初期教会は、ローマ帝国のただの任意団体で、力がなくてつくれなかった。法律は、ローマ帝国の法律を守りましょう。ローマ帝国キリスト教会と関係ない、異教徒の団体ですから、その法律は世俗法です。で、ローマ帝国がなくなった。じゃあ、ゲルマン慣習法があるから、ゲルマン慣習法を守りましょう。イギリスのコモン・ローを守りましょう。そういう法律が時代遅れになった。じゃあ、自分たちで新しい法律をつくりましょう。代表が議会に集まって、立法をつくりましょう。ということで、議会制民主主義が始まった。
社会が近代化できるかどうかの大きなカギは、自由に新しい法律をつくれるか、です。キリスト教社会はこれができた。たとえば、銀行をつくって、利子をとって、企業に当座預金の口座を設定して、小切手を切らせて、手形を割り引いて、みたいなことをやろうと思うと、相当に複雑な法的操作が必要になります。ユダヤ人が考えることは、まず、これはユダヤ法に書いてあるか。イスラム教徒が考えることは、まず、これはクルアーンに書いてあるか、スンナに書いてあるか、イスラム法的に正しいか。キリスト教徒はそんなことは考えない。

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

キリスト教パウロが作ったと言っていい。だから、パウロの書簡が「聖書」の一部となっている。しかし、パウロは「神」ではない。預言者でもない。そもそもイエスの生前に出会ってすらいない、ただの人間ではないのか? そんなパウロの手紙がどうして「聖書」なのか?
パウロの解釈において、イエスは「神の子」となる。しかし、神が来たということは何を意味しているのか?

橋爪 ヤハウェは、自分の意思を伝えるのに、預言者や、イエス・キリストを遣わしたわけですけれど、イエス・キリストが出番を終わって退場したあと、もう預言者が現れることはできない。預言者は、イエス・キリストの出現を預言していたわけで、もう用済みだ。そうすると、本当になにもない時代になるんです。ただ、福音(イエス・キリストの言葉)だけが、書物のかたちで残った。人びとは終末の日まで、これで我慢するしかない。
そうして取り残された人びとと神との、唯一の連絡手段が、聖霊です。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

こうして、キリスト教は、ある意味「聖霊」一元主義となる。あれゆる正当性は「聖霊のお導きにより」の一言に収斂する。ということは、どういうことなのか。「神でも人間でもない」ということである。
神は、もうこの世界にあらわれない。あらわれないが、ある聖性をもった「権威」を与えるときに、「聖霊」が言及される。権威付けのために。つまり、
神がいなくなった
世界で生きている、というのと変わらない。
いずれにしろ、キリスト教がヨーロッパでそれなりの確固とした地盤をもった、勢力を拡大してこなければ、今のようなキリスト教の隆盛を誇ることはできなかっただろう。そこでは、日本の仏教や神道にも似た、以下のような構造がある。

橋爪 結婚は本来、世俗のことがらで、キリスト教と関係なかったんですけども、教会は何百年もの長い人をかけて、それを秘蹟サクラメント)だということにした。教会が認める結婚が、正式な結婚になった。主権者である神の許可によって、結婚できるというわけです。どういうふうにこれが政治力になるかというと、封建領主の権力基盤は土地で、それを相続するでしょう。相続権は、正しい結婚から生まれた子どもに与えられることになっていったから、教会の協力がないと、封建勢力はみずからを再生産できない。世代交代のたびに、教会にあいさつが必要になる。王位継承や土地相続のたびに、教会に介入のチャンスが生まれる。これが政治的パワーになった。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 中世を考えてみると、封建領主は、ほんとうにローカルな存在で、ここまでがフランスでここから先がドイツ、といったような区別はなく、さまざまな民族やローカルな言語が多様にまだらに拡がっていた。そこで共通項になるのは、カトリック教会しかなかった。これが中世だとすると、時代が進んでいくにつれて、強い王(キング)が出てくる。ネイションを形成する核になるのが、王です。王は、封建領主と違っている。封建領主は、自分の所領で税を集め、裁判権をもち、伝統に拘束されているけれども、所領を治める君主である。ところが、所領は自分の私有財産なので、相続の問題が起こり、つぎの世代になると所領の範囲が変わってしまうのです。子どもがいたら分け、遠い親戚の所領を相続し、すごく複雑でいつもオセロゲームのように、テリトリーを更新し続けている。これに対して王は、自分の所領かどうかにおかまいなく、ある範囲(領土)を一括して統治する。日本には「一円支配」という概念があって、室町から戦国期にかけて、さまざまな荘園や領主から税金を取る、いわばキングみたいなものが出てきて、大名と呼ばれた。ヨーロッパで、それに相当するのが、王(キング)です。
封建領主や貴族と、王とは、すごく仲が悪い。角逐や戦争を繰り返しながら、王が勢力を伸ばしていく。イングランドにも、フランスにも、あちこちに王が出てきた。
ここで教会と王(キング)の関係が焦点になる。教会は王を支援して、戴冠という儀式を考えた。あなたは正統な王です、みたいな証明の儀式です。教会はこうして、少なくとも名目上、王に対する優位を確保した。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

自然科学とはいつ始まったのだろう? こういった質問はミスリーディングだろうか。いつから始まったんじゃなくて、人間がさまざまに行ってきた営みは、すべからく、自然科学であるなら、いつから、という問題設定は無意味といったことを言いたくなるかもしれない。しかし、明らかに、「変わった」と思われる時期がある。

大澤 しかし、よく考えてみると、自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。
ぼくらが、今日、「自然科学」として理解しているような真理のシステムは、簡単に言えば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった「科学革命」以降のものだと考えてよいと思います。
たとえば、中世の哲学者の自然観や自然学を聞くと、ぼくらにはどこかおとぎ話のように感じられます。中世においては、アリストテレスの『自然学』が絶大な権威をもっていた。アリストテレスはとても緻密に自然を観察していて、個々にとりあげてみても、現代のわれわれが見てもびっくりするほど正確な記述がある。しかし、根本のロジックが、ぼくらの合理性とは相容れない。たとえば、「土」は下へと向かう目的因をもっているので、土を多く含むものは地面に落ちるのだ、などと説明されると、考え方の基本や前提がわれわれとはまったく違うとしか思えない。
それに対して、科学革命以降の知は、たとえ現代の科学から見て間違っていることがたくさんあったにせよ、根本の考え方はわれわれと同じ方向を向いていると思えるのです。実際、いまでも高校や中学の理科で習うことの多くは、この科学革命の時期に確立したアイデアです。その中心はニュートンの物理学でしょう。
もちろん、ミクロに見れば、科学革命以前に西洋以外の地域で発見された知識や技術もありますよ。火薬は世界で初めて中国で発見さたとか、日本の和算は西洋とは独立にかなりの水準にあったとか。それは事実です。しかし、一つの知のシステム全体として見ると、やはり、今日の主流になっている自然科学は西洋で生まれたものであって、他のそこのものでもありません。
そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教革命の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者----今風に言えば「科学者」ですが当時はそんな呼び方はありませんから哲学者----は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 世界を神が創造し、物理現象も化学現象も生物現象も、神がつくったそのままのネイチャーであるならば、そこに神はもういないんです。世界を神がそうつくったという、痕跡があるだけ。どういうことかと言うと、たとえば、これを日本の神道みたいに考えれば、山には山のカミ、川には川のカミ、植物には植物の、動物には動物のカミがいるでしょう。山に穴を掘ったり、自然の実験・観察をしようとしたりすると、カミと衝突してしまうわけです。カミに、それはやめてくれ、と言われてしまう。日本では工事をするのに必ず地鎮祭をするけれど、昔だったらそんなことをするぐらいなら、工事はしなかったんじゃないか。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 そうそう。で、一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて、人間がいちばん偉い。人間が神を信仰し、服従することは大事ですけれども、神がつくったこの世界に対して、人間の主権があるんですね。ほんとうは神の主権があるんですけど、それが人間にゆだねられている。スチュワードシップというのですが、空き家になった地球を人間が管理・監督する権限があるんです。その権限には自由利用権も含まれていて、クジラの脂身がたくさんあって油が採れるとなれば、クジラを獲ってロウソクをつくってもいいし、石炭を掘り出してもいいし......。こんなことは、キリスト教徒しかやらないんです。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 ユダヤ教イスラム教は、宗教法(すなわち、世界のなかの人間への、神の配慮)があるから、すぐれた知識人はまず、この宗教法の解明と発展を考える。それに対してキリスト教は、宗教法がないので、どう生きれば神の意思に沿うことになるのか、途方にくれる。祈りの生活を送ってみたり、神学をやったり、哲学や自然科学をやったり、創意工夫しなければならない。特に宗教改革が、自然科学にはずみをつけた。
プロテスタントは、神を絶対化します。神を絶対化すれば、物質世界を前にしたとき、理性をそなえた自分を絶対化できる。理性を駆使する自分は、神の似姿になっていると言ってもいい。理性を通じて、神と対話するやり方のひとつが、自然科学です。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

たしかに、現代の自然科学の枠組みのがっちりしたものは、ほとんどガリレオ・ガリレイニュートンの頃に引かれた枠組みから、ほとんど変わっていない印象を受ける。つまり、この頃、ほぼそのガラは出来上がったんじゃないか。
しかし、そう考えたとき、上記のような整理は、とても不思議な印象を受ける。明らかに、自然科学はキリスト教の「中」から生まれているし、そもそも、そのキリスト教的な
態度
と切っても切れない深い関係にあるように思える。もちろん、これがいい悪いを言いたいのではない。そうではなく、ただ「こうある」ということを理解しなければ、始まらないと。
私が問いたかったのは、これは自然科学だけではないだろう、ということであった。一般に人文科学と呼ばれているものが、こういったものと

と考えがちだ。たとえば、いわゆる世間には「経済学」なるものがある。しかし、このエコノミックスは、なんの学問なのかと問うたとき、むしろその学問の
中途半端な囲い込み
が気になってくる。

橋爪 ユダヤ教は、利子を取ることは禁止。キリスト教も、利子を取らない時期が長かった。イスラム教も、利子を取ることは禁止。みんな利子を取らないんです。
これはもともと、ユダヤ教の律法から始まった。ユダヤ教は、利子を取ってはいけないのだが、そはユダヤ教徒同士の場合で、異教徒から取ることは禁止されていなかった。だから、キリスト教徒は、ユダヤ教徒からお金を借りればいい、利子を払って。ユダヤ人も、キリスト教徒から借りればいいわけです。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 ではなぜ、利子を取ってはいけないのか。利子それ自体がいけないのではなくて、利子を取ると同胞を苦しめることになるから。借金を申し込むのは、多くの場合、困窮した人です。困窮した同胞に借金を頼まれたら、利子を取って追い打ちをかけてはいけない。利子なしで貸してあげなさい、という規定なのです。
ユダヤ教はこういう規定がたくさんあるのが特徴で、たとえば、質入れ。上着をかたに取って貸し付けた場合、上着を日没までに返してやりなさい、とある。なぜかと言うと、当時、上着は夜寝るときに毛布のかわりになっていたので、上着がないと、夜寒くて困る。貧者の場合、ほかにないから上着をかたに取るんだけど、夕方になったら返してやらなきゃいけない。石臼を、かたに取ってはいけない。どうしてかと言うと、石臼で小麦をひいてパンをつくるので、石臼がないと生活に困るからです。こういう規定がいっぱいある。利子の禁止は、その一貫だった。借りる側が、困窮しているわけではなく、ビジネスを始めるから貸してくださいなら、禁止しなくてもよいはずです。でも、そういう貸し付けを含めて利子は禁止だった。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

橋爪 はじめキリスト教は、市場メカニズムに懐疑的で、商品の価格を自由に決めさせなかった。中世にはジャスト・プライス(正当価格)というものがあって、靴がいくらか、パンがいくらか、価格は伝統的に決まっていた。それによって、それぞれの職業が守られていた。価格を需要供給の関係に任せれば、あくどい商人がもうけるに決まっているのです。ですから、アダム・スミスが需要供給の関係で商品の価格が決まる市場メカニズムに、「神の視えざる手」が働いていると、そええを正当化したのは、どんなに革命的なことだったかわかります。となれば、人びとに必要なものをどんどん安価に生産することは、正しく望ましいし、勤勉に働いて生産を増やすのは、やっぱり望ましい。
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

この自然が「こうある」ということは、神がこの世界を作ったときから、そうであることを意味するにすぎない。それは解明の対象であって、それ以上もそれ以下でもない。同じことは、人文科学にも言えるはずだ。
これだって、神が決めたルールを超えるなにか、であるはずがない。であるなら、そこでの学問も、「自然科学」と違いがあるわけがない。
たとえば、政治学社会学に対して、経済学という名前で呼ばれる学問では、多くのさまざまな
仮定
が前提されている学問であるという印象を受ける。経済が演繹であるとするなら、そこには、さまざまな仮定が存在する。さまざまな差異を「中性化」することによって、始めて計算に乗る。
しかし、問題はそういった、消毒され無毒化された、さまざまな差異であったはずなのだ。
そういった意味で、経済学と今世間で呼ばれている学問は、政治学社会学の一部を構成する分野でしかない、という印象を受ける。
言うまでもなく、人間が作りだしている、この市民社会も、一つの地球上の、熱循環システムを構成する一部にすぎない。このシステムの内部において、その制限内で存在「できる」なにかにすぎない。
地球上のある地域の人たちが、ある商品を、なんらかの意図のもと、買いまくっている、とする。では、この商品の値段はいくらに均衡するのか。
まず、その商品の材料が

  • 地球上にあと、どのくらいの期間、掘り出しても、失くならないだけ「残っている」のか。

これによって、その商品の材料の「相場」が決まる。
次に、

  • その商品を「使う」ことによって、その地域の生活環境はどこまで破壊されるのか。

これによって、その商品を使う人にとってメリットがあっても、近所迷惑によって、周辺住民が生活できなくなって、生活が成り立たなくなる可能性があるということであろう(家の裏庭に原発を建てて、いらなくなったからといって、放射能ダダ漏れにさせたままで、その家の住民がアメリカにトンズラされたら、困るわけだ)。
一般に、経済学の教科書を読むと、値段は、需要と供給で決まる、とある。しかし、その意味はなんだろう? そう言っいきった場合に、あまりに多くのことが、「抽象化」の名の下に捨象されていないだろうか。
その製品が作られるまでの、エネルギーはどうやって調達されるのか。どれくらいの、埋蔵資源を蕩尽し、残りの埋蔵資源はどれだけに減少するのか。これらの資源は、もっと他の貴重な用途にとっておくべきではなかったのか。それらは、周辺環境にどれだけの影響を与えるのか。どれだけの水を汚染して、農業にも飲料水にも使えない水に変えてしまうか。どれだけ大気中に、汚染物質をまきちらして、人々の健康被害を増大させるのか。どれだけの土地が、人の近づけない場所に変わるのか。
ところが、一般的な教科書にこういったことは書いていない。こういったことは、いわゆる、環境学的なカテゴリーになってようやくあらわれる。
学問が、なんらかの、単純化、抽象化、であると言うとき、じゃあ、そういった枠組みから漏れたものはなんなの? と問い直してみざるをえなくなる。
こういったことが、私が、経済学を、政治学社会学の一部を構成する分野でしかない、と言う理由となる。
経済学は、どこか、各企業(老舗の会社)に、代々伝わる、創業者の掟、つまり、「経営学」と区別されていないところがある。ある企業がどういった経営をすべきなのか。コンサルは、「べき」論を重ねて、経営を革新させ、経営を赤字から黒字に変えようとする。この延長で、国家を考えるなら、ある企業が儲かるには、国家はどういった行動を「してもらいたい」か、という問題とシンクロしてくる。経済学と一般に呼ばれてみるものは、どこか、これと似ている印象を受ける。
しかしね。
国が法人税や、消費税を変えることで、各企業の収益がどうなったとか、
だから?
つまり、それって、自然科学的になに?
その間に、どれくらいの、有限な資源の消費が増大したのか? どれくらいの有限な資源によるエネルギーが日本で消費が増大されたのか? それらのエネルギー消費は本当に必要なのか? 人間社会にとって、どうしてもやらなけばならなかった消費だったのか?
その間に、どれくらいの水や土地が汚されたのか? それらは、どれくらい人間の市民生活を脅かすものだったのか? 
しかし、政治学社会学にとっての問題は、各企業の儲けがいくらかではない。むしろ、そういった各企業があまりにも自由に振舞うと、さまざまな秩序の崩壊に至らないとも限らないから、ある程度のコントロール下に置こう、という考えであろう。

食料高騰には四つの理由が考えられる。第一にインドや中国など経済成長の著しい国々の消費量の拡大。中間所得層の人口が増えて食の欧米化が進み、同時に肉の消費量の増加とともに飼料の需要増が伸びた。たとえば、中国の大豆需要は過去一四年間で四倍になった。第二に生産国の異常気象による収穫量の減少だ。オーストラリア東部の建国以来という洪水によって、小麦生産量が予想収穫量の四割にとどまった。小麦輸出国のロシアは猛暑に見舞われ、作付面積の約二割にあたる一〇〇〇万ヘクタールが壊滅状態となり、二〇一一年七月まで穀物の輸出禁止措置を発表した。ウクライナも禁輸に同調した。
さらに、エネルギーと食料のからみも複雑になっている。中東・北アフリカ産油国を巻き込んだ民主化運動で原油価格が急騰し、これが食料価格に跳ね返った。一方で、米国ではトウモロコシを原料とするバイオエタノールの需要が拡大し、ガソリンに混ぜる量の上限を一〇%から一四%に引き上げた。米国農務省が二〇一〇年末に発表した米国のトウモロコシの期末在庫量は、消費量のわずか〇・七ヶ月で史上二番目の低水準にまで落ち込むと予想している。
そして、価格の短期的な大きな変動は、投機マネーのかっこうのターゲットになった。日銀は三月の金融政策決定会合で、「先進国の金融緩和を背景に、投機資金の流入が拡大していることが食料などの市況の押し上げ要因になっている」と発表した。とくに、景気回復が難航する日米欧が超低金利政策をつづけるために、世界的なカネ余りに拍車がかかって投機マネーが商品市場に流れ込んでいる。

地球クライシス (新書y)

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21世紀において、食料は足りるのであろうか。現在の世界の食料生産は、大きな耕地を大量の化学肥料をまいて、大量に育てる方法となる。しかし、そういった農業はいつまで続くのだろうか。
たとえば、今、中国の海洋漁獲高がどんどん増えている。というか、取りまくり。

中国国内の近海は乱獲で資源が枯渇している。東シナ海は依然として中国の重要な漁場だが、かつて四八七種の魚類がいたが、現在は二三八種しか確認されていない。一時はこの海域の漁獲量は六分の一にまで下がった。
近海の資源枯渇のために、他国の周辺海域にまで出漁せざるを得なくなった。中国の遠洋漁業は一九八〇年代半ばにはじまったばかりで歴史は浅いが、遠洋大型漁船は二〇〇〇隻を超える。中国が協定を結んで経済水域内で操業している国は三六カ国におよぶ。むろん、公海での漁獲も盛んだ。
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もともと、そんなに中国は海洋魚類を食べていたのかは知らないけど、いずれにしろ、日本も中国も、どこかでこういった乱獲を止めなければ、いずれ、世界中の海から取れなくなる。そして、取れなくなってから、また元の漁場を復活させようとしても、そう簡単にいくものではない。破壊するのは簡単だが、復活することは、神にも挑戦する作業であることは、日本のトキをみれば分かる。
近年、世界中で言われていることは、水不足である。

水や海や川から蒸発して雲になり、雨となって地上に降りそそぐことで循環している。水資源の総量は減少しないのにもかかわらず、水資源の危機が叫ばれている。それは、総量は変わらなくても利用可能な量が減るためだ。循環していても排水や廃液で汚染されて使えない、道路が舗装されて雨水が地中に浸透しにくくなる、といったものだ。さらに、もっとも利用量の多い農業では年々使用量が増え、農薬や化学肥料による汚染が進んでいる。
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たとえば、地下水を使い尽してしまい、土地に塩が吹き上がってくれば、そこはもう、農地には向かないだろう。また、たとえ水があっても、さまざまな農業用の化学肥料が溶け出して、
人間が飲めない水
になっているかもしれない。
そもそも、世界のエネルギーは今の「生活」を
あと何年
維持できるのであろうか?

石油のピークが来たとき、日本の食料供給はどうなるのでしょうか。船などの輸送機関も、石油に頼っています。我々は、食料まで地球の裏側から運んで来る国です。中国から野菜も輸入しています。今後船賃がさらに高くなったとき、どうなるのでしょう。車、飛行機も大変です。石油ピークの最初のインパクトは、運輸機関に来るのです。

資源とは、濃縮されている、大量にある、経済的な位置にあるものとご理解ください。大量にある、だけでは駄目です。太陽エネルギーなどの自然エネルギーは、大量にあり、目の前にありますが、濃縮されていません。

リチャード・ハインベルグ(R.Heinberg)の『The Party's Over(20世紀のパーティーは終わった)』という本が、今読まれています。彼は、アメリカで行われたパワーダウンという講演で、これからはリローカリゼーション(Relocalization)の時代と言っています。ローカルフード、ローカルウォーター、トランスポーテーションもできるだけローカルに、それからローカルエコノミー、エッセンシャルグッズをローカルで、となります。これは地方分散、地産地消など、日本の言葉と共通します、同じ意味です。

現代農業、食料基盤の根本的な見直しが必要です。自然と共存する地産地消、さらに、化石燃料からつくる肥料、農薬を使わない農業を、ということです。

これからは「自然と共存する道」を探ることです。20世紀の都市集中は、石油が可能にしたものです。ですから、21世紀は「自然との共存」、「地方分散」とならざるを得ません。科学技術もこの路線で考える。

日本には、まだまだ鉄道があります。地下鉄もあります。東京では車を使わないで、その気になればどこでも行けます。日本は鉄道、市電も含めて再評価すべきです。

石井吉徳「20世紀の型文明の行方----「脱石油戦略」を考える」

持続性学―自然と文明の未来バランス― (名古屋大学 環境学叢書) (名古屋大学環境学叢書)

持続性学―自然と文明の未来バランス― (名古屋大学 環境学叢書) (名古屋大学環境学叢書)

20世紀とは「石油文明」であった。その石油が今、終わろうとしている。もちろん、だからといって、今すぐ石油がなくなるわけではない。しかし、
ピークは過ぎた
と言われている。上記にもあるように勘違いしてはいけないのは、オイルシェールなどの、石油物質はまだまだあったとしても、「濃度」が違う。品質が違う。いい品質のものは、あらかた使ってしまった、ということは、もう(安価な私たちが)「石油」(と呼んでいたもの)はない、と言うことと変わらない、ということである。
そういった高品質の石油が、高価になっていくとき、船が動かせない。ということは、海外から食料が入ってこない。当然、あらゆることが
地産地消
となるだろう。しかし、日本はそういった時代の到来を待ち受けているのだろうか。
今言われているのは、原発が石油から、脱石油時代のエネルギーが到来する間をつなぐエネルギーとして、日本のオプションの一つになりうるのかという問題であるが、そもそも、その石油のピークが超えたと言われている。今後、どこまで
脱石油時代
を想定した国家作りを目指しているのだろうか。今だに、原子力への未練を断ち切れない人々には、どうせ原子力にしても石油にしても、使い尽してしまえば、地球上からなくなることを考えたうえで主張されてほしいものである(その前に、福島の原発をどうにかできるんですかね。これをなんとかしないで、今後の原子力政策をうんぬんするって、なんの冗談ですかね...)。

まずパンを食べてミルクを飲んで肉を食べる食生活をする人々は、一体どういうことを過去1万年の間にやってきたかということです。このような食生活を確立したのは、メソポタミアです。メソポタミアには現在、森のない風景が広がっております。図3が花粉分析の結果です。シリアのガーブバレイというところの分析結果ですけれども、麦作農業というのは、1万2000年ほど前に誕生するわけです。ところが、驚くことに1万年前にすでに激しい森の破壊をしているのです。そして5000年前には、周辺の森がほとんど消滅しているのです。これは驚くべきことです。
この地域に住んでいた人々が、なぜ激しく森を破壊せざるを得なかったかというと、実は人間に必要なタンパク源に原因があるわけです。ヒツジやヤギを飼って、そのミルクを飲んでバターやチーズをつくって、また肉を食べる。この食生活が森を破壊したのです。この地域に住んでいた人々は森が嫌いだったわけではありません。森の神も崇拝していたわけです。ところが、ヒツジやヤギは朝から晩まで草を食べて若芽を食べます。人間がいったん森林を破壊した後に、放っておけば森林は再生していくるわけですけれども、ヒツジやヤギは再生に必要な若芽を全部食べてしまうわけです。ですから、このヒツジやヤギの頭数が増えれば増えるほど、この地域の森は徹底的に破壊されていくわけです。

安田喜憲「環境考古学からみた持続可能性」
持続性学―自然と文明の未来バランス― (名古屋大学 環境学叢書) (名古屋大学環境学叢書)

この話は有名でありながら、非常に分かりやすい。メソポタミアギリシアもヨーロッパも、どこもかしこも、禿山ばかりだ。いや、中国だってそうだ。遊牧民が、どんどん森を砂漠に変えた(これが、経済原理)。
じゃあ。
砂漠を森に変えてもらおうかな。難しそうだな...。