橋爪大三郎『ふしぎなキリスト教』

大澤真幸との対談。)
金曜日の東京新聞の、管総理の退陣劇の分析は、ずいぶんとネットで話題になったようだ。

「初の市民運動出身宰相は、この国の禁忌に触れたのではなかったか」
菅下ろしの急激な広がりを、こう読む東京新聞
浜岡原発の停止。
送電網の分離案。
事故調査・検証委員会の設置。
そしてG8での「2020年代で自然エネ20%発言」。
これらに呼応するかのように、自公の菅下ろしが加速した、というのだ(゚Д゚)
「実際、自民党石原伸晃幹事長は6月2日、不信任案への賛成討論で「電力の安定供給の見通しもないまま、発送電の分離を検討」「日本の電力の三割が原発によって賄われているのに、科学的検証もないままやみくもに原発を止めた」と攻撃。菅下ろしの最大の理由の1つが原発問題にあることを"告白"した」
自民の幹事長が、ここまで露骨に原発を擁護してしまっては、もはや自民に脱原発は期待できないかもしれないね(-ω-)
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管降ろしの大合唱は、まず、なにを理由に辞めろと言っているのかさっぱり分からない。だれも、まともに答えない。とにかく辞めろ。与党も野党も辞めろ辞めろの大合唱。
なぜ?
なぜ、はない。
どうも変だ、としか言いようがない。さらに、鳩山元総理の「辞めると言ったのに辞めないとはペテン師」って、自分が過去に何言ったか覚えてないんですかね。
原発という「ボロネオの環」において、ベテラン政治家は軒並み原子力村の村民だそうで(与謝野さんなんて、東電の元社員ってorz)。
東電は、この政治のゴタゴタの間をぬって、次々と「新しい」過去のデータを、発表して、訂正のオンパレード。
そもそも、東電の賠償スキームはどーなったんでしたっけ? 
原子力賠償法は、どう考えても、「責任」の主体をはっきりさせる「ための」法律には思えない。あまりに災害が大きすぎる場合、電力会社の責任が免除される可能性が、この法律にはある。ということは、たとえ、時の政権がどんなに、東電の責任を主張しても、そんな政権を、ぶっつぶして、東電は責任がないという政権にしてしまえば、
東電は一円も払う必要がなくなる。
そうなれば、東電の株価は今のように下がることがなくなるということですかね。もっと言えば、国がどんなに東電に賠償をしろと言っても、東電が国を相手に裁判をすれば、いつまでも最終決着をしない。
ということは、どういうことなのだろう。つまり、
だれも決められない
ということなんじゃないだろうか。いつまでたっても、東電がなにをして、国がなにをして、という「厳密なスケジュール」が決まらないから、全然、事態が前に進まない。復興が前に進まない。被災者もいつまでたっても、自分が幾ら賠償されるのかが分からないから、この先の人生設計を決定できない。
そうこうしているうちに、電気料金はうなぎ上りに高騰し、消費税は増税の連続。それらの、電気料金の増分と消費税の増分を「全部」、東電の賠償金の肩代りに回せば、そりゃあ、
東電は潰れない、のだろう。
(以下で、
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町田徹さんは、BPの賠償スキームを、今回の東電で適用する案を提案されているが、上記の理由からも、はたして、この問題の解決案を「決定」できる政治家は現れるのだろうか?)
高橋洋一さんが、以下の ust で、
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どうして、大手マスコミがこぞって、消費税賛成なのかを説明していた。イギリスの例が分かりやすいようで、免税品目に新聞をすべりこませるためのバーターがすでに存在するのだろう、という予測だった。大手マスコミしか、見ていない年配層も、まだまだこの日本には多いわけで、未来はどうしても絶望的に思えてしまう...。
格納容器の底は穴が空いていたそうで、京大の小出さんは、もう燃料は、下のコンクリの地面にまで落ちてるんじゃないか、と推測されている。
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しかし、ものすごい熱を発するのが、核燃料だったのだから、回りを溶かして、どんどん地下に落ちて行くんじゃないのか。もし、それが地下水と合流したら、どういうことになるのか(小出さんは、たとえ、回りを溶かして下に落ちていっても、どこかで止まりはするだろう、とは言っている)。
そういったことから、京大の小出さんは、なんとかして、回りを掘って行って、核燃料が地下水と交わる前に壁のように遮断する、「公共工事」が必要なんじゃないかと言われている(しかし、あの高濃度の環境ですからね)。
いや、いいですよ。核燃料が地下水に到達しても、そのまま海に流れても。でも困るんじゃないんですか? だから、必死で、福島原発で作業をされているんじゃないんですか? まず、こういった作業が必要なのかどうなのか、ですよね。必要なら、どんなに困難でもやるしかないんでしょ。どっちなんですかね?
結局、なにか、おかしいわけだ。
今、プラグマティズム的に何が問題で、どういった対策が必要で、そのためのプログラムは動いているのか?
そもそも、日本人にこの事態を、収拾させられるのかな?
巷の議論は、くだらない、ヤクザの当たり屋のような、因縁づけ、ばっかりじゃないですか。ようするに、口先ばっかりで、行動力のない、ラウド・スピーカー。よっぽど自分がかわいい、ナルシストなんでしょうね。

一神教 monotheism は、多神教 polytheism と対立している、とふつう言われる。でも、よく考えてみると、もう少し違ったところに対立軸がある。一神教ユダヤ教キリスト教イスラム教)のほかに、古代にはいろんな宗教がほぼ同時に興っているでしょう。インドでは、仏教。中国では、儒教。これらが典型的ですが、共通点があって、それまでの伝統社会の、多神教と対立しているんです。
伝統社会の多神教は、まあ日本の神道みたいなもので、大規模農業が発展する以前の、わりに小規模な農業社会か、狩猟最終社会のもの。素朴で、自然とバランスをとっている人びとの信仰なんです。山林原野もあって、その土地に育った人びとが大部分で、よそから映ってきた異民族はあまりいない。だから、自然と人間は調和し、自然の背後にいるさまざまな神を拝んでいればすむ。
日本は、先進国としてはめずらしく、こんな信仰が現在まで続いているんですけど、これほど幸運な場所は、世界的にみても、そう多くない。
それ以外のたいていの場所ではどうかというと、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こって、社会が壊れてしまう。自然が壊れてしまう。もとの社会がぐちゃぐちゃになる。ぐちゃぐちゃになってどうするか、というのが、ユダヤ教とかキリスト教とか、仏教とか、儒教といった、いわゆる「宗教」が登場してくる社会背景なのです。そういう問題設定が、まず、日本にはない。だから、そうした宗教のことがわからない。
で、ぐちゃぐちゃになっても、人間が人間らしく連帯して生きていくにはどうしたらいいかの戦略なんですけれど、一神教と仏教と儒教には、共通点がある。それは、もう手近な神々に頼らないという点。神々を否定している点です。

偶像崇拝がなぜいけないか。大事な点なので、もう一回確認しておきます。偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です。

日本人はニーチェが好きだ。好きで好きでたまらない。なんでだろう、と思ったとき、ようするに、ニーチェキリスト教を批判するからなんですね。でも、ニーチェにとって、キリスト教批判は「自己批判」なのであって、自らの前半生を「否定」するくらいの、身を切る思いをしてやってる。ところが、これを日本人は「日本人礼賛」と受けとってしまう。
日本人がニーチェ好きの理由の一つに、ニーチェが宗教を否定したことがある。これがまた、日本人受けがいい。宗教などという「非科学」的なもの、と否定しているときが一番、日本人のナルシシズムが光輝くようだ。
しかし、日本人が宗教を否定するその、立ち位置は、限りなく怪しい。日本人が好きな「科学」とはなんなのだ。

一神教の奇蹟の考え方を、よくあるオカルト信仰と勘違いしてはいけない。むしろ、オカルト信仰とは正反対です。世界は、Godが創造したあと、規則正しく自然法則に従って動いている。誰も、自然法則を一ミリでも動かすことはできない。その意味で、世界はすみずみまで合理的である。でも必要であれば、たとえば預言者預言者であることを人びとに示す必要があれば、Godは自然法則を一時停止できる。これが、奇蹟です。世界が自然法則に従って合理的に動いていると考えるからこそ、奇蹟の観念が成り立つ。
よく、この科学の時代に奇蹟を信じるなんて、と言う人がいますが、一神教に対する無理解もはなはだしい。科学をつくった人びとだからこそ、奇蹟を信じることができるんです。科学を信じるから奇蹟を信じる。これが、一神教的に正しい。

なぜセカイは「科学的」だと考えるのか。いや、違う。セカイが「科学的」だと考えるなら、
徹底的
に考えなければならない。一切の妥協を許さず。
どんな小さな問題であっても、科学で説明できないものがあってはならない。
日本人に、ここまでの信念はあるのかな。

山本七平さんが挙げている例なのですが、山本さんがフィリピンで戦って、アメリカ軍の捕虜になった。山本さんは将校で英語が話せたので、アメリカ軍の将校にいろいろ質問された。「進化論を知っているか?」。天皇が現人神だと信じて狂信的な戦争をしている日本人は、きっと進化論など知らないのだろうというわけです。山本さんの答えは、「日本人はみんな、進化論をよく知っているし、正しいと信じてますよ」。これに、目を白黒させたのが、アメリカ軍の将校です。なぜ進化論と、天皇が現人神であることと、両方を信じることができるのか理解できない。
整理しましょう。進化論は、サルが人間に進化したと考える。天皇も人間である。それなら、天皇の祖先をさかのぼると、サルになる。いっぽう現人神は、神(天照大神)の子孫が天皇だと考える。天皇の祖先をさかのぼると、神になる。サル→天皇、神→天皇、は形式論理からいって、矛盾するはず。日本人はその両方を信じている、というのです。アメリカ軍の将校でなくたって、これは理解できない。
日本人は、自分が矛盾したことを信じていると、気がつかないし、気にしない。
たぶん、それは、学校教育のせいです。進化論を習うのは、理科の時間、現人神について習うのは、歴史の時間。別な時間の別な科目だから、互いに関係ない。学校も気にしないで、理科の時間と歴史の時間に、矛盾する内容を教えている。教わる側は、学校の教えることは正しいからと、両方ともまる暗記する。この態度は、いまの日本人にもそのまま当てはまるのではないでしょうか。

科学を徹底的に科学で考えるためには、それ相当の信念が必要なんじゃないですかね。だとするなら、そういった信念は、
どこから来るのかな。
もし、科学を徹底して科学で考えさせられる、なにかがあるとするなら、それは、なにかに強いられるなにか、でしかないんじゃないですかね。一神教において、科学的であることは、唯一神への信仰と切っても切れない関係にある。信仰を捨てることと、科学的であることを放棄することが、ほぼ同一の位相にある。

救われたいと心底願うには、この社会が間違っていると思っていないといけないんですよ。日本人はこの社会が間違っていると思っていないから。たとえば、いまの家に満足しているのに引っ越しなんて考えないじゃないですか。仮住まいで不満があって嫌で嫌でしょうがないから、どこであれ引っ越ししたいわけですよ。そのときに、引っ越し先に、二ヶ所あるという、そういう話ですよ。

そうそう。だから、前提として、日本人は現状に満足していて、いじめられ民族じゃないんだ。

日本人はどうも、セカイは楽しい、と思っているようだ。よかったね。幸せで。

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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