ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ 大都市の死と再生』

今月の、朝なまは、この前、勝間さんなどが出演して、私がこのブログで批判した時とは、ずいぶん雰囲気が変わってしまっていた。
全体的にずっと、原発懐疑的になっていた。
こういった形に変わった直接の原因がどこにあったのか分からないが、さすがにこの事故の、今だに、収束のめどさえついていない状況がそうさせているのだろう。
結局のところ、原発をどのように考えたらいいのだろうか?
たとえば、

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というウィキがあるが(少し眺めた程度だが)、まず、原発推進派がなにを言っているのかに耳を傾けることが最初なのかもしれない。なぜ、こういった人々はこういうことを言うのか。次に、近年さかんに、原発の警鐘を鳴らし始めた人々の主張だろう。なぜ、彼らは目覚めることになったのか。その確信の経緯も参考になる。
どうも、この原発の問題の「全体」を、バランスよく記述して、まとめてある、サイトがあまり見かけないことが気になる。上記のサイトのように、より「全体」が眺められるサイトが求められていないだろうか。これだけ大きな問題になっているのであれば、このテーマにしぼった、超巨大サイトが求められているはずなのに、どうも情報がまとまらない。
なぜ、このサイトを見れば、原発のことがなんでも分かるというサイトができないのだろう。どうして、ネット住民はこのことに危機感をもたないのだろうか。なんのために、ネットはあるのか。もし脱原発を目指すのなら、それにふさわしい
サイト
が必要ではないのだろうか。しかし、なぜそういった動きがネットのポータルと結実しえないのだろうか。
原爆の開発に、フォン・ノイマンが深く関わっていることは、有名であるが、そういう意味で数学の世界と原発にも大きな繋がりがあると言わざるをえないだろう。
上記のサイトでは、日本数学会の声明を評価するコメントが並んでいる。

原子力に限らず、科学技術一般に関係する政策の適切な立案と遂行が、国民生活に与える影響の大きさを、私たちはあらためて深く認識させられました。これほどまでの大きな犠牲を強いてしまった失敗の中から、今後に活かすべき教訓を私たちは学びとらなくてはなりません。私たち数学者がもっている専門的知識は数学に限られるにせよ、それでも科学者の一員として、科学技術政策への数学者の関わり方は十分であったか、そして数学者として今後貢献できることは何かを、私たちは真摯に自問していこうと思います。
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それにしても、ここまでの福島の原発の事故の大きさを考えると、
3・11以前
がなんだったのか、がどうしても考えさせられる。
例えば、長年、官僚に近い存在として、原発推進に関わってきた人物として(そして、震災以降、ずっとだんまりをきめこんでいる)、以下のような人物がいるそうだ。

原子力が夢の技術とは思わないが、わが国のエネルギー状況と、今のような管理技術を考えれば、もう少し利用されてもいいと思う。残念ながらリスク不安が大きく、原子力発電所の建設が市民に拒否される状況が続いている。

環境リスク学―不安の海の羅針盤

環境リスク学―不安の海の羅針盤

(この人こそ、今の原発推進の人たちの、ネタ元なんじゃないかと思っている。)
一時は原子力のなんかの委員もやってたそうだが、大事なことは、この人が環境リスクの専門家として、政策にも関係していた、ことでしょう。こういう「本当の」専門家自体が、
進んで
原発なんて「リスク低い」と言ってしまうわけですね。むしろ、市民や市民運動家といった、無知な大衆による、「リスク不安」の方が問題だと。こう言いきられてしまうと、素人は困ってしまうわけでしょう。それだけに、「本当の」専門家たちの責任は重大だったんじゃないだろうか(さて。この人のHPが更新される日は来るのだろうか...)。
実際、この本を読むと、いかにして、男社会であるアカデミズムで、女の自分がサバイバルしてきたか、とか、紫綬褒章もらったとか、そういった自分の立身出世のマッチョな話ばかり書いてある。

リスク論とは関係ないが、市民参加というとき、私は常にある種のたじろぎを感ずる。私は社会の中で多数派の意見であったことがない。いつも少数派だ。だから、自分の考えを採用せよという根拠は何か? そのことをしばしま考えた。
市民の意見を聞け! と言うと、自分の考えは否定される。自分の意見は少数派だ。しかし、これを採用せよ! これでいいのかと。そして、二つの考えが、いつも交錯している。つまりまとめるとこうなる。

  1. 自分の意見は正しい、だから聞いてほしい、発表させてほしい。そうすれば、皆にわかってもらえる筈だという考え。
  2. 自分の意見は、今は、多くの人には理解されなくとも、政治家や学者には理解してもらえる筈だ、だから、政策に採用してほしい。やがて、皆にも理解してもらえるというもの。

2では、政策決定が、国民の将来を託された英明な少数の指導者によって行われることを前提にしている。
1は、国民が英明であり、常に国民の多数意見こそ、いいものだということを意味する。
そして、結局私の心の中では、1と2がいつも交錯していて、単純ではない。市民参加とは何かをいつも考えている。多数の市民と自分の考えが違うとき、市民参加とは何なのか?
環境リスク学―不安の海の羅針盤

(しかし、いつも自分は孤立していたと言い切ってしまう人って、なんなんですかね。)
この、2の前提、として書かれていることがすべてなわけでしょう。無知な大衆が、ダイオキシンを恐れたり、環境ホルモンを恐れたり、BSEの前頭検査をやったりという
非科学的
なことをやるから、国は道を間違えるんだ、と。
たとえば、彼女のリスク論の出発点として、こんな興味深い話が書いてある。

流域下水道の説明図を、図1 - 9に示します。左側は従来からあった、単独公共下水道です。A市にはA市の下水処理場があり、B市にはB市の下水処理場があります。右側は流域下水道です。A市には下水管網がありますが、処理場はなく、B市の下流に作られた共同の下水処理場に集められて処理される、これが流域下水道です。
これは、二つの市の場合ですが、現実には一〇も二〇もの市町村の下水が集中されるのです。つまり、上流の都市の下水は下水管で下流まで集められ、集中処理されて海に放流されます。この計画を見たとき、水循環が完全に断ち切られていて、一回使えば捨ててしまうという考えでできているのが流域下水道だと思いました。日本の河川は、上流から下流まで何回も使われながら下流に至る、そこが特徴だと聞いていたので、非常に疑問をもちました。そして、”下水道は川を蘇らせる”という標語がたくさんあるにもかかわらず、現実の下水道はそうなっていない、むしろ、川をなくしてしまうではないかと怒りにも近い気持ちになりました。そして、水循環を促進するような下水道をつくるべきだと考えたのです。
環境リスク学―不安の海の羅針盤

つまり、家庭から出される、さまざまな排水、工場の排水を、もし川にもう一回戻せば、当然、そこの川の場所から、私たちの飲み水を汲み上げなければならないわけで、普通の庶民の感情としては、大丈夫なのか? と思うであろう。しかし、これを国家運営側で考えたとき、川に戻さなければ、市の運営コストが膨大になってしまうかもしれない。
じゃあ、どうするか? リスクを「計算」しよう、となる。そうやって循環させた飲み水は「少しは」汚染されている。でも、その影響が少なければ、私たちの日常生活の利便性を維持するには、「受け入れられる」のではないか、と。
しかし、どうだろう。これって「リスク」なのかな。普通に考える「リスク」という言葉の意味が、どこか転倒していないだろうか。今の生活の利便性のために、この「リスク」をどこかに抑えこまなければならない。抑えこめなければ今の暮しを維持できない。目的がすりかわっているわけだ。
問題は、こういった態度に、
リスク・コミュニケーション
はあるのか、というところなんじゃないだろうか(上記の引用で彼女が自分は孤独だったと自称している場所は、特に、そのことを思うわけだ)。
アメリカの都市計画の歴史において、一際異才を放つ女性がいる。
ジェイン・ジェイコブズ
であるが、この、学歴もないただの田舎のおばちゃんが、都会で雑誌社の雑用見習いのようなことをやっているうちに、アメリカ中の都市計画の圧倒的権力者であった人物(モーゼス)と対決するようになり、その彼女が何度も「勝利」する伝記を紹介したのが以下だ。

アメリカでの開発事業はジェイコブズの活動によって全く変わってしまった。建設業者も自治体政府の役職員も、一様に近隣地域の利害に対して配慮し、手続きを進めるにあたりあらゆる段階でコミュニティを巻き込むのである。彼らは「コミュニティ得点合意」を提供して、公園、低廉住宅、デイケアセンター、そのほかもろもろの便宜を図っている。一般市民を冷たく踏みにじっていると思われるのを恐れているのだ。

ジェイコブズ対モーゼス: ニューヨーク都市計画をめぐる闘い

ジェイコブズ対モーゼス: ニューヨーク都市計画をめぐる闘い

近代文明論において、「都市」の定義は非常に重要です。都市とは、なんなのか。なぜ都市は、現代の社会において、その正当性を勝ち取り、今のようにあるのか。
ある意味、近代の全ての問題は、都市論に集約していると言えるでしょう。
しかし、です。じゃあ、都市って何? って、あらたまって聞かれると、なかなか答えられないことに気付きます。これほど重要な存在である都市を、私たちはなんだと考えればいいのか...。

見知らぬ人々は、わたしが住んでいる街路ではものすごい財産となっていて、特に治安の資産が大いに必要とされる夜にはそれになおさら拍車がかかります。運のいいことに、わたしたちの街路には、地元の人が利用する酒場が一軒と、角を曲がったところにもう一軒あるだけでなく、周辺の近隣や市外からさえ見知らぬ人を絶えず引き寄せ続ける有名な酒場があるのです。なぜ有名かというと詩人ディラン・トマスが昔そこに通ったからで、作品にも出てくるのです。この酒場は実は二つのちがったシフトで動いています。朝から午後早くにかけては、アイルランド系荷揚げ人夫など、地域の職人たちの古いコミュニティが集まる、昔ながらの場所です。でも午後半ばからは、雰囲気がまったく変わり、ビールがぶ飲みの大学コンパじみたものとカクテルパーティのごた混ぜとなって、それが深夜過ぎまで続きます。寒い冬の夜にこのホワイトホース酒場の前を通ってドアが開いていれば、会話と活気のしっかりした波が飛び出してきます。実に暖かいものです。この酒場への人の出入りが、わたしたちの街路を朝の三時までそこそこ人通りの多いものにしてくれますし、いつ歩いて返ってきても安全な通りにしてくれるのです。

ここには、大変におもしろいパラドックスがあります。都市には、さまざまな背景をもった、さまざまな生活形態を選んでいる人々が、辺り一帯から集まってきます。普通に考えると、そんな知らない人ばかりがいる場所は恐いと思うでしょう。しかし、大事なことは、同じことを相手も思っている、ということでしょう。
むしろ、お互いを知らない人々が、一カ所に集まる「ゆえ」に、逆に、安全度が増してしまうのです。もし、ある地域に同質の、互いに知り合いの人たちばかりいる場合、彼らの行動も同質になってしまうために、同じような行動形態を選択してしまい、同じような見逃がしを、お互いが選んでしまいがちです。また、お互いが親しいだけに、同じ方向で、簡単にある人を差別する、という方向にさえ流れがちでしょう。
でも、あまりにも多様な人たち同士が、一カ所に集まると、なにが起きるか。お互いが、それぞれ、味方というものがいないから、逆に、みんながみんなを
平等
に扱い始めます。お互いが、相手を「平等」に眺めることで、困っている人を見かけたとき、「その相手が自分の友達だから」助けよう、といったような、バイアスなしに、
みんな平等に
変な行動をしている人はいないか、と見ることになるわけです。これが、
都市
だと、彼女は言うわけです。
そう考えたとき、活気のある都市とは、どういった都市と言えるか。多様な人々が集まる都市、と言えるでしょう。
さまざまな職種をもつ人々が、集まる(吉祥寺の商店街とかイメージしますよね)。大事なことは、この多様性です。多様であることが、その都市の生命力を決定する。
(そう考えたとき、中央政府が徴税し、弱い事業者がどうしても、その負担の尻拭いをさせられざるをえない、
日本の消費税
こそ、小規模の事業形態を許さない、最悪の政策だと言えないでしょうかね。くわしくは、斎藤貴男さんの新書を以前紹介しましたが、さらにこれからも考えてはいきたい話ではある。)
いずれにしても、なぜ彼女の都市の定義は、こういったものになったのでしょうか。

うちの下の息子は「ぼくはグリニッジ・ヴィレッジを隅から隅まで知ってるよ」と自慢します。そして街路の下に見つけた「秘密の通路」を見せに連れて行ってくれるのです。それは地下鉄への階段を一つ下りてから別の階段を上がる道でした。そしてまた、二つの建物の間にある、幅二十センチほどの秘密の隠し場所も見せてくれました。息子は、朝の通学途中で、人々がゴミ清掃車用に出したものの中から秘密の宝物を拾い出して、学校からの帰りに持ち帰れるよう、その隠し場所に隠しておくのです(昔、わたしにもそういう隠し場所があり、同じ目的で使っていました。でもわたしのは二つの建物の間の割れ目ではなく、崖の割れ目だったし、息子の見つけた宝物のほうがいいものでした)。

都市とは、「子供のもの」です。人間社会は子供が「存在」できるから、存在しているのであり、そういう意味で、考えるべき唯一の問題は、その都市が子供にとって、生きやすいかどうか、だということなのです。
そもそも、それ以外のことは、どうでもいい。

ところで、現在の日本の状況は彼女[ジェイコブズ]の目にどう映るのだろうか?九九年時は平成不況の真只中。日本の若者が、親の世代がリストラや低賃金にあえいでいるにもかかわらず、気ままなフリーター暮らしをする様子を報道した新聞記事を説明し、彼らが地べたに座り談笑している様子(「ジベタリアン」が流行語になった頃でもあった)を示した写真を見せたのだが、反応は意外なものだった。同年インタビューにていわく、
T-- 日本の若者達は現在の経済的状況に無関心のようです。これは新聞のコピーですがご覧のように街路に座って...。
J-- 仕事がないからですか?
T-- いえ、彼らは高校生か大学生かと思います。二十歳か十八歳ぐらいかと。
J-- 学校は卒業したのですか?
T-- いえ、いえ。学校には行っているのですが、授業が終わってから、通りにじかに腰をおろして何か食べながらこのようにダベっているわけです。
J-- でも、表情は悪くないですね。

都市の本質とゆくえ: J.ジェイコブズと考える

都市の本質とゆくえ: J.ジェイコブズと考える

インタビュアーは、日本の不況の象徴として、こういった反規範的な行動を行う子供たちの退廃ぶりを強調しようとするのだが、ジェイコブズはむしろ、彼らが「楽しそう」にしていることに注目する。

J-- 一九三〇年代の大恐慌期のアメリカで恐ろしかったことは、二五パーセントに上った失業者のほとんどが、自分自身の失敗によるものだと思っていたことでした。彼らは、経済が失敗したからだと思わずに、彼ら自身が失敗したと思っていたのです。
T-- 自分達自身が失敗したと。
J-- そうです。それが心理的に多くの人々によくない影響を与えました。それが今日の失業----人々は、その原因が経済の失敗にあると考えており、自分自身の失敗のためではないと理解している----と違うところです。失業は不運ではあるのですが、現在は自分達自身が招いたことではないと考えていることです。日本のこの若者達はどうですか?彼らは、彼ら自身の失敗が原因ではないと考えているのですよね?
T-- そうだと思います。
J-- そうです。経済が悪いので、彼らが悪いわけではないのです。受け身で依存性が強すぎる人間は誰しも好きではないのですが、失業は自分の失敗だと考え自尊心を失ってしまうよりは、はるかに健全なことなのです。私が、彼ら(新聞記事の若者達)について、表情は悪くないといったことの一つの意味には、自尊心を失っているようにはみえないということがあるのです。
都市の本質とゆくえ: J.ジェイコブズと考える

私たちに興味があるのは、子供たちの「表情」だけなのです。

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生