武田邦彦『リサイクル汚染列島』

(最近の週刊誌は急に、仕事してる感がたかまってますね。原発の危険性を調査する記事ばかりになった。売れてるのかは知らないけど。)
ウランという物質が、どうして核分裂を起こさずに、今まで、地球上に残り続けたんですかね。太陽はずっと、核融合をやっているみたいですけど。
まあ、それはいいんですけど、そのウランを、原子の分裂を起こさせて、そこで発生するエネルギーを爆弾に使える(「戦争」に利用しよう)と考えたのが、フォン・ノイマンというわけだ。
それ以降、この核分裂エネルギーは、戦争のさまざまな場面で利用されることになった。まずは、アメリカによる、広島長崎に落とされた原子爆弾。これは、アメリカだけでなく、世界の国々がきそって開発するようになる。ソ連や中国だけでなく、インド、パキスタン、しまいには、北朝鮮まで。
しかし、こんなものですむだろうか。ひとたび、軍事利用が許されるなら、大型爆弾だけではないだろう。核分裂エネルギーをもっとさまざまな場面で使いたいだろう。まず有名なのが、原子力潜水艦。次が、劣化ウラン弾、だろう。
言うまでもなく、軍事利用が許されるなら、平和利用をしてなにが悪い、となる。これだけ、大きなエネルギーをどうして利用できないなんてことがある。それが、原子力発電所となる。
しかし、である。
こうやって、原子力の人間活動での利用は、多岐にわたるのだが、問題は放射性物質だろう。どこまで管理できているのだろう? いや。よく考えてみよう。
だれが「本気で」管理しよう、と思うだろうか?
もともと、原子力の利用を考えたのは、 そのエネルギーが欲しかったからで、それに付随してもたらされる、放射性物質ではなかった。つまり、こんなものは邪魔なだけで、いらないわけだ。
もしここが、敵国の戦場なら、自分が相手を殺すか殺されるかを競っているのに、そんな不要な放射性物質を「ちゃんとしなきゃ」なんて思っていられるだろうか。相手を殺して、自分たちの戦況を有利にできたなら、そんなものがどうなろうと知ったことではない、となるだろう。
同じことは、原子力発電所にも言える。彼らの第一の使命は、エネルギーの供給である。言うまでもなく、この使命を果せないなら、彼らの存在理由はない。だとするなら、そのために付随する放射性物質の管理は
二の次
とならないだろうか。
(たとえば、肥田舜太郎という医者の方が、広島長崎の被爆者について、
ぶらぶら病
つまり、「他人からは」なまけて、いつもゴロゴロしているようにしか見えない「原因不明の」病気について報告している。

ぼくなんか、一番ビックリしたのは、ダルいっていうのは、自分も経験があるから、その程度のダルさっていうのは分かるよね。ところが、初めて来た患者が、受付では、被爆者って言わないんだ。被爆者、差別されてますから、黙ってて、ぼくの前に来るとだね、私に、「広島から来た肥田先生ですか?」って訊くんですね。「そうだ」って、言うと、安心してね。「私も広島から来た被爆者です」って、初めて言うんですよ。「どうして来たの?」っていうと、「かったるくて動けないんです」って。で、まあ、どんな風に被爆したとか、どこで被爆したとか話しを訊いてるうちに、この男がね、「先生ごめんなさい」って言って、向こう側で、私の机の上でこういう格好(肘をつく)するんです。失礼ですよね、普通は。「えー?」と思ってたら、そのうち、床へね、椅子から降りて、あぐらかくんだ、下へ。「先生ごめんなさい。椅子に座ってられません」。そのうちね、床へね、横になってこうなっちゃう(肘をついて)。「こういう形でしか、私は起きてられないんです」。
screenshot

多くの人たちは、工学部と理学部の違いを、一般通念としては、ほとんど区別できてないんじゃないだろうか。例えば、医学にしても、ほんとうに多くのことが「まだ分かっていない」ことで、いっぱいじゃないですか。分かってないのに、低線量被曝は人体に影響がないとか、(中西準子いわく)「不安リスク」扱いでしょう。心配するとか、疑うって、当たり前じゃないんですかね。国民は専門家じゃないんですけどね。分かってないからこそ、さまざまな治療方法が「工学的」に大量に生まれ続ける。また、分かっていないんだから、各個人が予防原則で行動しようとするわけで、それを
デマ
扱いですからね。自分が今、工学部と理学部の、どっちの「センス」で考えようとしているのかに自覚的にならないと、また文系批判になってしまう...。)
原子爆弾原子力潜水艦劣化ウラン弾原子力発電所。すべて、これらが原子力エネルギーを使うときに付随して生まれる放射性物質の管理(閉じ込め)を、どこまで
まじめ
にやっているのだろうか? 今でも、世界中には、戦後、何度も何度も世界中で行われた原爆実験のときにばらまかれた、放射性物質が土壌に蓄積している。
よく考えてみよう。原子力発電所にしても、たとえ事故を起こしていなくても、一定の量の放射性物質が、原子力発電所内に欠かすことのできない、大量の水の中に入って、海に捨てられているという。つまり、ある程度の量が海水の中に捨てられることは、原子力発電所の運営で許されている。その濃度が高くなければ、という条件の下で。
しかし、これはどこまで守られているのか。今回の福島原発のように、あそこまでの大きな事故になれば、海も「ちゃんと」調査しなければならないだろうし、それで海があそこまで高濃度になれば、それは嫌でも分かるだろう。
しかし、海水の濃度を計るといっても、どの場所をいつ計るかで、全然違うだろうし、そう考えると、そんな簡単な話ではないように思えてくる。
今回の事故での東電の対応を考えると、彼らはかなり定常的に、原発の事故を経験していたのではないか、と思わさせられる。そして、そのたびに、それなりの放射能漏れを起こしていたのではないだろうか。もちろん、建屋がふっとび、メルトスルーなんていうレベルまでは起こしていなかったので、今回は嫌でも、世間の監視の下で作業をさせられているが、小規模の事故で、何度も放射性物質を空気中や海に、捨てていたのではないだろうか。だから、
自称「低濃度水」
を国際的なコンセンサスをとる理由も感じないままに、捨ててしまった。
いや。もっと言おう。そもそも、原発の運営には、放射性物質の漏洩は、デフォルトの現象なのではないか。人間が作業をしていて、どうやって、放射性物質が外に漏れないようにできるだろう。もちろん、「ほとんど」を漏れないようにすることは、ちゃんとやっていることまで疑っているわけではない。しかし、残りのちょっとくらい漏れたって「しょうがないだろ」と言われても、それは、彼らがいつも管理している量と比べてちょっとということでしかなく、通年でトータルで蓄積して、どうして少しとなるのか、である。
70年代まで、原発の廃棄物は実は、海に捨てられていた。といっても、浅瀬の海に捨てたわけではない(そんなことをしたら、福島だ)。非常に深い深海に捨てている。もちろん、普通に考えるなら、そう簡単にそんな深い海の底にあるものが、我々が暮らす浅瀬の海にまで影響を与えないように思うが、しかし、海が繋がっていることには変わらないのだから、場合によっては、いくらでも海面に影響を与えるのだろう。そして、これを禁止したのが、ロンドン条約である。
原子力潜水艦も、これ。どうやって、廃棄処理をするのだろう。)
私たちは、戦時と平時を簡単に分ける。武器と、武器でない機械を簡単に分ける。しかし、そうだろうか。そんなに違うのだろうか。
原子爆弾にしても、原発にしても、ある種の「エネルギー」を求めて、使われる。だとするなら、この二つを区別することに、プラグマティズム的な意味はあるのだろうか。
アメリカは銃社会と言われるが、その被害の多くは「暴発」と言われる。しかし、よく考えるとそれは当然のことだ。だって、そのピストルを使用者は、ずっと持っていなければならないのだから。こんな危ないものを、「いざというとき」のためにいつも所持していなければならない。よく考えれば、これほど危ないことはないだろう。だって、危ないから、人を殺せるんだから。
同じことは、原発についても言える。これは武器じゃないんですよ、と言ってみたところで、「暴発」したら、武器と同じような効果をもたらす。当然である。
使っている
ことには変わらないのだから。だから、危ないのだから。
武器は暴発する。だから、武器なのだ。そう考えると、戦争に備えて武器を保持することは、その武器を他国に向けて使う機会とは別に、その武器が暴発して
自国
に牙をむく機会にも備えなければならないことを意味する。
日本には、毎年3万人以上の人が自殺をする。これは、自殺と認められた数であって、実際はもっと多いのかもしれない。自殺は、自分を
殺す
動作を意味する。自らが自らを殺す。私たちはここに、本人の強い「意思」を読み取り、その人の「超人」的な精神力に、「とても自分はそうなれそうもない」と思う。しかし、本当にそうだろうか。そもそも、自殺とは、結果において、他人が判断することである。もしかしたら、その人は、ぎりぎりになって、やっぱり生きたいと思ったのだが、もう間に合わなくて、自分を殺めてしまったのかもしれない。最後の一瞬は、正気に返って、やっぱり生きたいと思ったのかもしれない。そんなに簡単じゃないはずなのだ。
同じことは、原発についても言えるだろう。この「戦争の道具」が暴発すれば、もちろん、甚大な被害がもたらされる。ところが、彼らは「自殺したい」と思っているわけではない。しかし、どうして、日本の電力会社が、本気で、原発が暴走しないようにやってくれると信じられるのか。また、本気でやったって、そもそも、防げないかもしれないわけだろう。だとするなら、それは真面目にやってるやってない以前のことなのかもしれない。本気で考えたら、原発廃止しかありえないとしたら、原発を続けることは真面目に考えていないことと「同値」になる。ということは、最初から、原発はもったいない、原発を止めたら、いくら損するから、反反原発派という人は、
真面目に考えていない
と同値になってしまいませんかね。
そもそも、日本は日本人「ではない」。日本は日本人「以外」である。つまり、日本とは日本列島のことであり、日本人はその上に置かさせてもらっている、その程度の身分にすぎない。土地を区切って、「ここは自分のもの」とどんなに人間社会のルールで、人間社会内でいばってみたところで、日本の本当の主人である日本列島には、笑止千万。東日本大震災では、万を超える人たちが死んでしまった。
原発をこの日本列島で動かすことは、自分たちに引き金を引いて、自らの喉元に付き合てることを意味する。お前がその引き金を引こうが引くまいが、日本列島はいつでも、お前の意思など関係なく
暴発
する。それを、「未曾有の災害」だとか「千年に一度」とか言ってみたところで、だれがこれを
自殺じゃない
と考えてくれるだろうか。
さて。結局のところ、福島原発の補償は幾らになるのだろう?
参考になるのが、BPの石油流出事故だろうが、BPの、原油ダダ漏れは、幾らになったのだろう? 福島原発は「低線量」と自称して、汚染水を海に捨てた(というか、今も、さまざまなルートでだだ漏れなんじゃない?)、日本は、完全に世界から、ジト目で見られる存在になってしまった。
どうせ、薄まるから、「大丈夫」って、そんなことを言ったら、世界中の国々が、放射性物質を海に捨て始めるでしょう。
日本は、なにがなんでも、海に捨てることだけは、回避しなければならなかったのではないだろうか(そんなことができたかは別として)。日本が放射性物質を海に捨てた途端に、日本は被害者から加害者に変わった。
BPは、海に原油を拡散させ、世界中から、今でも補償を要求されているが、日本は放射性物質なわけで、その「毒」性から言って、比べものにならない。
今後、信じられないような桁の額の賠償を、世界中の国々から請求されないと、どうして言えるだろう。そうした場合に、東電は払うのだろうか。払えるのだろうか。
この前の、ほりえもん収監時のニコニコの番組で、上杉さんや東さんが言っていたが、この構造は、完全に、第一次世界大戦後の、ドイツだろう、と。
戦争とは、他者に「迷惑」をかける行為である。そういう意味で、原発事故も、世界中に「迷惑」をかける行為であることは変わらない。
(ここで、上記の差異を、「戦争は明確に人殺しを選択すると解釈できるが、原発は意図的に他人を傷つけようとしていない」というところで考えようとする人もいるだろう。問題はそういった場合、日本が相変わらず、国内の全原発廃止の路線を選択していないことが、問題となる。たしかに、起きた事故は、「こんなことが起きるという想像力がなかった」で理解はされるかもしれないとしても、それ以降も原発維持を選択することは、「どうして次の事故が起きないと思えるのか」という問題になる。そもそも、危機管理能力が今までなかったから、こういった事故を起こし、今度から、ちゃんとします、と言ってどうして信じてもらえるか。ただでさえ、日本は地震大国で、今、活発に地層が世界中で動いている。日本が
特別
であることを理解しないといけない。こんなデンジャラスなところに、50基以上もあるのは、日本だけなのだ。こういった事情を考えて、それでも、
もったいない
からと動かし続けたとして、世界の人は日本が「反省」していると考えるだろうか。他人に迷惑をかけるということが、どれだけ「深刻」なことであるか。反省とは何か。むしろ、日本が原発をやめないことが、日本の世界中からの、
他国に迷惑をかける「KY」な国
というふうに見られ、さらなる日本の「斜陽」を加速するのかもしれない...。)
日本は完全に、世界中からの「いじめられっ子」になった。
いじめの構造でよく言われるのが、おうおうにして、いじめっ子がいじめられっ子をいじめるときに、なんらかの「理由」を自分の中でもっている場合が多い、ということである(もちろん、それが正当かどうかは度外視して)。たとえば、クラスでいつも、自分勝手に騒いでばかりいて、みんなが勉強に集中できない、授業がはかどらない。その態度を改めようとしない(または、できない)子供は(今の北朝鮮への日本の態度のように)、なんらかの懲罰的な態度を示さないと、相手に分からない、という態度になりがちだ。
日本は今回の原発の事故で、海を汚して、「すみません」。じゃあ、何をするのか? お金でつぐなうのか? そもそも、お金でなんとかできるものなのだろうか? いくら、だれに払うのか? 払われなかった人は被害者じゃないって、どうして言えるのか?
この構造は、「戦後処理」に非常によく似ている。正義論は、自由主義にしてもそうだけど、「他人に迷惑をかけない」ことが前提になる。「他人に迷惑をかけないなら、なにをやってもいいだろ?」。これが自由主義の自由。しかし、戦後処理にしても、こういった事故処理にしても、その前提の「他人に迷惑をかけない」を満たさない命題なわけで、問題はこういったときの、
倫理
はどういったものなのか? というわけだ。
最初から、議論の前提を満たさない。最初から、こういったフレームが、
役に立たない
アポリアに対して、どういった作法を選択するのか。
たとえば、日本の戦後処理における特徴は、海外の「被害者」に対して個人補償をしなかったことだろう。政府間補償だけを行うということは、その政府間補償を行ったときの、相手国の政権の
正当性
が、非常に重要になってしまう。そう考えるなら、多少金額がかさもうとも、ドイツのように個人補償を行った方が、世界的な「許し」の感情を調達できたのかもしれない(これは、今後においてさえ、課題ではあるのだろうが)。
日本の戦後において、保守派を中心に、「日本は悪くなかった」と主張する人々が存在する。大東亜戦争肯定論というもので、例えば、日本のアジア侵略の「意図」は、アジアを救うだったのだから、それ自体が悪かったとは言えないだろうとか、日本がアメリカと戦争したのは、世界中が石油を売ってくれなかったのだから、しょうがなかった(今回と同じく、これもエネルギー問題だったわけだ)。
この議論の今回版が、「放射性物質は少量なら、そんなに健康に悪くない」論、となるだろう。量が少なければ、急性症状で死ぬことはない、じゃあ、長期ではどうかというと、有意な相関関係を疫学的にはほとんど発見できていない。発見できていたとしても、ごくわずかで、そもそも、そんなに長期間だと、高齢の方々にとっては、ほとんど寿命と変わらなくなってしまう。
じゃあ、問題はなんなのか、だろう。大東亜戦争肯定論と同じで、こういった主張が、「他国に迷惑をかけた」ことの反省を、他国に示さなければならない態度として、プラグマティックにどこまで有効なのか、が問われることになる。
ラノベ電波女と青春男」で、圧倒的な違和感をおぼえる場面が、エリオが、自分が中退した高校の文化祭を訪れ、アイドル歌手と一緒に、体育館で全校生徒の前で歌をうたう場面だろう。そこで、彼女は自分が、高校に在籍していたときに、さまざまに学校に迷惑をかけたことを、
謝罪
する。自分が中退した高校で、である。これはなんなのだろう? もちろん、エリオ自身が学校に迷惑をかけていた、という自覚をもっていて、それを素直に言うことはそれだけのことなのかもしれない。しかし、どうして辞めた人間が、謝りに来るなどという「自虐」的なことになるのか。むしろ、辞めさせたのは学校の方であり、辞めたことによって、人生設計が狂ったのは、今謝っている方ではないのか? そう考えるなら、むしろ謝るのは、彼女じゃなく、学校の方ではないのか、と思わないのだろうか?
ここに、日本の「いじめ」の構造の特徴が、よくあらわれている。「いじめ」られる人には、「いじめ」られる原因がある、と考える。だから、「いじめ」られている人が「謝罪」をする。つまり、いつまでも「いじめ」の構造は、みじんたりとも揺らぐことはない。「いじめ」られる側も自ら、率先して、いじめられることを生きるし、いじめる側も、自分がいじめをすることを生きる。)
そもそも、日本製品を世界の人は買ってくれるのだろうか? 日本製品を世界の国々は「輸入」してくれるのかな? 農産物、魚介類、は当然として(適当に選んでサンプル調査だといって、信じてもらえるのだろうか)、そもそも、日本のような地震大国で原発をやって、ここまでの事故まで起こしているのに、原発をやめる気配もなく、東電を含めた日本のエネルギー産業の財官を含めた、さまざまな問題があると指摘されてきながら、そういった問題を改革しようという素振りもない。つまり、「反省」しない国の製品は買わない、と世界中からボイコットされないのか?
そもそも、こういった環境汚染的な話に、私たちは、どういったリテラシーをもつべきなのだろうか。
この問題を考えるのに、掲題の本はたいへんに啓蒙的である。

家電リサイクル法が施行されてまもなくのこと----。
ある大学の研究室には二つの冷蔵庫がありました。そのうちの一つは先生や学生が本を読んだり、パソコンに向かってレポートを書いている研究室にあり、その冷蔵庫の中にはコーラやアイスクリームが入っています。
もう一つの冷蔵庫は実験室に置いてあって薬品や毒物を入れて研究用に使っていました。薬品は分解しやすいものもあるし、光に弱いものもあるので、悪くならないようにしっかりと冷蔵庫に入れて管理していたのです。
研究室の冷蔵庫は、食料品や冷たい飲み物が入っていることや、なんといっても学生が生活する場所にありますから、使い方もていねいで長持ちします。家庭用冷蔵庫は平均して七年から八年使われますが、この研究室の冷蔵庫ももう何年も使っています。
一方、実験室の冷蔵庫の中にはプラスチックでできた棚やポケットがたくさんついていて、そこに環境ホルモンダイオキシン類似物質、さまざまな分解生成物、ときには電子製品を研究するための「ヒ素」が貯蔵されています。そして毎日のように学生がそれらを出し入れするのですが、その間にも薬品をこぼしたり、あるときには瓶を取りだすときに落としてしまい冷蔵庫の中で瓶が割れ、毒物で汚れることもあります。その毒物は冷蔵庫の棚にしみ来んで、そのままになってしまうのです。そんなふうに汚れた冷蔵庫ですが、やがて故障がちになると捨てることになります。そのときも毒物がしみ込んだプラスチックの棚は取り外されません。冷蔵庫を捨てる学生が悪いわけでもないのです。ある学生が冷蔵庫の中で毒物をこぼしたのはもう一年ほど前で、その学生はすでに卒業していましたし、そんな話があったことを聞いた覚えのある後輩もどこに何をこぼしたのか知るよしもありません。第一、捨てるほど汚れた冷蔵庫ですから、ところどころに色がついていますし、それが毒物であるとか、どのシミが無害であるかの区別をつけるのはできないのです。
毒がついている可能性があるので本当は焼却したいところです。しかし家電リサイクル法が施行されると、そのまま焼却に出したり、廃棄物貯蔵庫に持っていって捨てるわけにもいきません。冷蔵庫をそのまま捨てたら世間から「大学はリサイクルも守らないのか!」と非難を浴びるかもいれないからです。
学生は真面目な気持ちで冷蔵庫をリサイクルに出すに違いありません。
毒物がしみ込んだ冷蔵庫はリサイクル工場へ運ばれ、そのポケットは工場で取り外されます。本当はあまり再利用する価値のないものかもしれませんが、家電リサイクル法が施行され「リサイクル率の目標」が設定されていることもあり、何とかしてリサイクルしようと工夫するでしょう。
冷蔵庫からポケットの部分を取り出し、潜在できれいに洗って、再び成形しますが、すでに材料は傷んでいますので、冷蔵庫には使えません。そこで、きれいなケツに成形せ生まれ変わえいます。毒がしみ込んだ冷蔵庫の材料から作られたバケツはスーパーの店頭に「リサイクル品」として並びました。
さて、子供のために環境を守りたいと思い、そのためにリサイクルを信じ、リサイクル品を好んで使っているある母親が「リサイクル製品」と書かれたそのバケツをスーパーで買い、家に帰ります。
夏の暑い盛りだったので、そのお母さんはそのバケツにきれいな水を入れて子供に水遊びをさせたかったのです。お母さんは家に帰ると早速そのバケツを取りだして、庭で水を入れ、子供に水遊びをさせました。
お母さんはそのバケツの中に毒物が入っていることなど夢にも思ってはいません。まして、実はバケツに使われた材料が、ある大学の実験室で毒物を入れて使っていた冷蔵庫からリサイクルされてできたものであるなど想像もつきません。ただ「リサイクル品」という表示を見て、環境に優しい商品だと信じて買ってきただけなのです。そのお母さんにはきれいに見えましたが、買ったかりのバケツでもあるので、それをよく洗い、水道の水を入れたのです。
もし、お母さんがそのリサイクル品に毒物が含まれていることを知ったら、「子供に可哀相なことをした」と悔やむに違いありません。

明治以降の近代化において、基本的にリサイクルという仕組みがなかった。それが、2000年代に、さかんに、リサイクルが言われる。じゃあ、なんでもリサイクルで、また使えるようにすれば、「もったいなくない」(原発は、もったいないから、もうちょっと使い続けよう、みたいなものだ)。しかし、それは「実証的」ではない。リサイクルしないという方法は、少なくとも半世紀以上行われ続けて、それなりに「安全」だった。しかし、それまでと違う扱いをしようというのだから、さまざまな問題がそこには伏在しているのかもしれない。
近代以降の「複雑社会」とは、それ以前と違うことをやっているので、その安全性が実証によって担保されていないところにある、と言えるだろう。近代以降の社会の中においては、あらゆる毒物が、人間生活の中で「チャンポン」されてしまっていて、まったく区別ができない。
近代以前は、もちろん、「無知」が被害を拡大したかもしれないが、民間伝承などにより、それなりの危険なふるまいを人々はしていなかった。日本で考えれば、ほぼすべての日用品が植物から作られていた。植物なら、なくなっても季節が巡れば、また生えてきますし、土に返しても、もともとそこから生まれたのだから、安全だろう。
(私は今後、かなり早くから、現代人も、あらゆる日常品を、身の回りの植物のみから、作るような「江戸時代型ライフスタイル」になるのではないか、と思うのだが、どうなのだろうか...。)
そもそも、そういった危険なものができるだけ、拡散しないようにする(もっと言えば、買われない、売られないようにする)ことだと思うのだが、おそらく、こういった考え方(エコロジスト)が経済人たちを「恐怖」させる。東電の株を買っていた人も、まさか、日本全国が原子力エネルギーを使っていること自体を「悪」だと思い始めるとまでは、考えていなかっただろう(その原発推進を堅持する東電の株を持っているという行為自体が、「悪」に加担する連中と考えられるというわけだ)。今後、こういった

  • 価値志向的

な経済活動が露骨に現れてくるのではないだろうか。そしてそれが、コトラーだったかのマーケティング3.0じゃなかったかな。