杉井光『神様のメモ帳』

このラノベにおいて、ニートの「定義」は一般と違っている。いわば、非常に広く使われている。
一般にニートとは親の家での同居または親のお金で生活し、学校へ行かず、働きもしない、親に寄生しているような生活をしている人たちを言うだろう。
しかしこのラノベにおいて、その定義は、むしろ「なぜそういった生活を行うようになるのか」に近くなる。
なぜ、子供は学校へ行かなくなるのか。なぜ、働きに出ないのか。それはむしろ、「逆」を問うことによってその問題を照射する。
なぜ、子供は学校へ行っているのか。なぜ、働きに出るのか。
子供が学校へ行くことは言わば「普通」のこと、である。つまり、幼稚園から小学校をやってきた延長にそれはある。昨日、学校へ行っていたのなら今日も学校へ行くのだ。
働くこともそうだろう。最終学歴を卒業すれば、今までの日本においては、だれもが就活をやって企業に働きに出たものだ。そのエスカレーター式の
儀式
を通過することは、未開部族と同様に普通のことなのだろう。
しかし、その「自明性」を疑うことは異常なことだろうか。なぜ学校はあるのか。大学に行くと分かるが、大学教授とは「研究者」であり、教育者ではない。大学は教育機関ではない。その中に位置付けられる大学生とは、本来は研究者予備軍でしかない。修士過程や博士過程を進むことで、大学に残る人たちとは、研究者なのだ。つまり、これは逆から言える。私たちが、小学校から中学校、高校と勉強してきたことは、こういった(大学が必要とする)研究者になるためのトレーニングと考えられる(つまり、小学校、中学校、高校とは、大学の「手段」)。
しかし、多くの人たちはこういった言い方に違和感をもつであろう。なぜなら、自分自身が研究者になろうなど、ちっとも思っていないからだ。大学を卒業する、ということは、一つの「肩書」になる。企業への就職のパスポートの一つとして扱われる。大卒「用」就職口というものが、どうもこの日本には用意されているようで、 どうもそこが企業「の」エリートコースのようだ。つまり、なぜ子供は学校で勉強するのか。その卒業資格が、

  • 大学内研究者
  • 各企業内エリート

の二つの「入口」のパスポートだと、だれもが思っているから(ここで大事なことは、このエスカレーターが「寄り道」をしていない、ということであろう。日本的な雇用慣行において、留年や浪人は御法度となる。なぜなら、「同期」の共感感情から、逸脱してしまうからだ)。
掲題のラノベは、その「反対」を考えればよい。もし、そのエスカレーターに外れた人がいるなら、その人「たち」は、ある「共感感情」で結ばれる可能性はないか。自らを「ニート」と呼ぶ彼らは、学校を中退するが、
なにもしていないわけではない。
彼らはむしろ、充実して日々を生きているとさえ言えるかもしれない。しかし、彼らはそれをニートと呼ぶ。それはある欠損の感情と切っても切れない。
上記のエスカレーター
から逸脱したからだ。主人公の藤島鳴海(ふじしまなるみ)は、自分に母親がいないことを
欠陥品
と呼ぶ。

「藤島くんて兄弟いるっけ?」
ぽつりと彩夏が問う。
「姉が一人」
「へ。仲いいの?」
「あんまり。最近は毎日返りが遅いからよく怒られる。でも飯をちゃんと作ってくれるくらいには仲がいいかな」
「あれ、お姉さんがご飯作ってるの? 親は?」
「父親は一年に五日間くらいしか家にいないし母親はもうこの世にいない」
「あー......ごめん」
「母親のこと訊かれてもう死んでるって答えると、なぜかみんな謝るんだけどさ」と僕は言った。「なんでだろう。べつに僕は怒ったりしないのに。それともこういうところで怒るのが普通なのかな」
「うー......ん?」彩夏は視線を宙にさまよわせる。「無理に怒ることはないと思う」
「そうかな。なにが普通なのかよくわからない」
「藤島くんは、そんなに自分を欠陥品みたいに思うことないよ」
「そっちが最初に欠陥品だみたいなことを言ったんじゃなかったって」

(この欠陥品という呼称は、アニメ「とある科学の超電磁砲」の左天涙子のセリフとも対応する。まさに、スティグマ)。むしろ彼らは、そういった自分が「普通」でないという感情と、
ニート
を同一視していると言っていいかもしれない。母親のいない子供は、日本の母親のいる「ほとんど」の子供と、その点で絶対的に共感できないある、差異を抱える。

「学校やめたとか思ったこと、あるの?」と彩夏が振り向く。
「毎日思ってる」
街灯の逆光の中で、彩夏の顔が翳る。
「......今も?」
僕は言葉に詰まった。即答できないということ自体がおかしかった。
彩夏は切実そうな目でじっと見つめてくる。
僕は目をそらして、「今は。そうでもない、かな」と嘘をつく。
「そう」
柔らかい微笑み。
「でも、ここはたぶん嘘つかなくてもいい場所だと思うよ」

彩夏は乾いた笑い声をあげる。
「あれはさ。あたしの嘘なの。あたしもね、喋るの不器用だから。ほんとは藤島くんと話したかっただけ」
頬に彩夏の視線を感じた。僕は頭を動かせなくなってしまった。
「中学は全然行ってなくてさ。家で勉強してたの。この学校に入って、最初からやり直そうって思って、なんとか、なんとかね......。五月くらいまでは、昼休みも放課後も毎日、屋上で過ごしてたんだけど。だましだまし、みんなと喋って、なるべく屋上には来ないようにして。でもほんとは、心の仲ではずっとひとりで、土いじりしてるときがいちばん安心して、でも」
彩夏は夕空を見上げた。
「ある日、どうしてもつらくなって、屋上に来たら、藤島くんがいた」

ここで、ちょっと考えてみよう。
もしも、ある野心的な方が現れて、この日本のこの教育制度を根底から覆すようなシステムを、現在はびこっている、国家教育システムに、
癌細胞
のように、巣喰い、はびこるように構想するとするなら、どういったものを考えるだろうか。
たとえば、この問題を、ネット上の匿名問題の延長で考えてみよう。
ある人がなぜ、「名前」という肩書を常に上掲しているのか。それは、その人が日本で生まれたときに、市役所にその名前を申請したから、と言えるだろう。日本国家は、生まれる子供の「戸籍」を管理することで、
揺り籠から墓場まで
その人の人生を「日本人」として、管理する(ここで、もしその子供の名前を役所に申請せず、その子供の出生届が申請されなかったとしよう。それが、桜庭一樹の『ファミリーポートレイト』になる。
当然、その子は学校に通うことはない。なぜなら、学校に行くことが、日本国家の戸籍を前提にした行為であるのだから。その子は、日本国家が行うことを義務としている、子供への福祉の提供を行うことはない。その子はまさに、自由主義国家、アナーキズムのように、自分で自分を食べさせ、生きていくことになる)。
しかし、それは「役所に申請した」(ある種の)アカウントにすぎない。つまり、そのアカウントを私たちが親しく付き合う仲間同士の呼び名で使わなければならない、という「義務」はない。というかむしろ、そういった
国家と個人の束縛
から自由な場であることが、個人間関係の重要な役割であろう。大事なことは、役所に届け出たアカは、国がその人を管理するために必要とするユーザーIDでしかない、ということだろう。そもそも、そんなものをわざわざ、個人的な活動のために振り回すという行為が、どこか国家の権力を肩に着て発言している、と思わなくもない。
では、一般にどういった場面においては、個人はその役所に申請したアカを使うだろう。それは、当然であるが
国家の行動に関係した場面において
と言えるだろう。商売人が自らの名前を公開するのは、商品売買によって生まれる「税金」の管理が、その名前と紐付いていることと関係している。つまり、国家の行為によってもたらされる行為を私たちが行う場合は、どうしてもこの、役所申請アカを使わざるをえないから使っている、と言えるだろう。
ひるがえって、勉強や学問とはなんだろう?
大学で行われている学問は「真理の探求」であって、そのことに
国家
はなんの関係もない。べつに国家があろうがなかろうが、物理学の学説は、なんの影響もないだろう。つまり、こと「勉強」ということに関するなら、上記の「小学校、中学校、高校、大学」のエスカレーターは、その一つの手段ではあっても、唯一の手段ではない、ことが分かるだろう。
学校に行かない子供は、たんに、学校に行っていないことしか意味しない。たとえば、学校に行っていないからといって、学校での中間テスト、期末テストが、できないとか限らない。
たとえば、インターネット上に完全フリーの電子教科書を、だれにも見れる場所に置き、何度でもテストできるネット上の中間期末テストツールをフリーで公開して、それを受けた点数の「蓄積」が、もし生まれたとして、それはその個人の「学力」をなんらかの意味で表していると考える人たちが、どうして生まれないと言えるだろうか。
学力は、ある一定の基準が生みだすものだとして、学問の方法は一つじゃない。どんな方法によって獲得したかに依存しない。
こういったフリーの学力算定ツールをもし、今あるウィキペディアのようなフリー参加型のボランティアが生成していったとして、もしこういったものの「実力」を評価する人たちが現れ、実際に人事採用に「学歴以上に」こちらを使い始めたとき、どういった社会が生まれるだろう。
(こういったシステムが今もないとは言えない。たとえば、ITの世界における、たとえばオラクルのブロンズ、シルバー、ゴールドは、完全にオラクル社のテストによって授与しているにすぎない。国家とはなんの関係もない。こういった資格制度は非常に増えているのではないだろうか)。
前後の話をつなげると、上記のテストを受けるとき、「その人」の紐付けにおいて、国家申請アカを使わなきゃいけない道理はないだろう。一般に、ネットの世界で流通しているさまざまなアカを使ってもいいだろう(この、はてなのアカでもいい)。つまり、あるアバターの同定ができればいいのであって、わざわざ、なになに大学なにない科卒業なんて書く必要はない。
しかし、こうした場合に以下のような反論が予想される。そういったアカでは、就職活動はできないだろう。上記で書いたように、就職活動は商業活動だから、国家税金活動となり、実名の世界に入る。
これについては、以前、柄谷さんなどがさかんに話していた、「地域通貨」が重要になるだろう。
私たちが、隣に住んでいるご家庭に、夕飯の余りものを「おすそわけ」したからといって、税金はかからない。それは、個人的な贈与であって、経済活動でないから、と考えるだろう。
これを応用したのが、地域通貨と言えるだろう。ここには確かに、貨幣はある。しかし、この世界において、なにかを買うということは、基本的には、
なにかを贈与する
と同じと考えるべき、となる。ある日、友達が家に来て、屋根の修理を手伝ってくれたとしよう。こんな個人的な行為に、日本社会はわざわざ税金をかけないだろう。
これと同様のこととして、この地域通貨を介して、「仕事」をお願いするように人々がなったら、どうなるだろうか。この地域通貨に参加している人たちは、ある意味の、上記の屋根を修理してくれる「友達」のような関係と仮構するわけだ。そうやって、お互いでお互いの「贈与」を地域通貨によって実現する。
もちろん、国家はこの「行為」に税金をかけたくて、しょうがないだろう。そして、おそらく国家はあらゆる手段を使って、この地域通貨を課税する。
じゃあ、それで終わりだろうか。
そんなはずはないだろう。私はそれを先ほど「癌細胞」と言った。誰だって、隣のお家におすそ分け、するのに「税金」を取られる社会は、おかしいと思うだろう。そんな個人的な行為にまで、国家が介入するのは、おかしい、と。だったら、この地域通貨も「進化」するはずだろう。さまざまにその法律の穴を突き、まさに「癌細胞」のようにその形態を変形させ続ける。だって、これは、そういった「感覚」をヴァーチャルに実現するために生まれたのだから。
多様な社会形態を模索することは、国家による一元管理と矛盾する。国家主義者は、最後は国家「道徳」主義者へと進化し、人々の考え方、生き方そのものに、介入してくる。管理を重要視するなら、国家による一元性は魅力かもしれない。しかし、私たちはそれを受け入れられない。それが、掲題のラノベに通底する
ニート
という共感感情にある。自分自身に感じる、ある欠陥感覚、ある落伍感覚はまさに、その人自身の自己イメージに関係し、そしてそれがこの社会と自分が「戦っていく」最後の武器なのであって、それを見失うことは、自分を捨てることなのだろう...。

神様のメモ帳 (電撃文庫)

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