恐い人

原発の問題とは、結局のところなんだったのかな、と考えると、三つあって、

  • 原発が、チェルノブイリや福島。いや。それ以上のシビア・アクシデント事故が、けっこう簡単に起き「た」ということ(今回の福島も非常に深刻な事態が続いているが、原因を問うまでもなく、いわば対策らしいものは、ほとんどなんにもやってなかったと言わざるをえないような状況だったわけだし、そもそも「ちょっと間違えば、ちょっとしたことで、あんなもんと比較にならないようなもっと悲惨な事故になっていて全然不思議じゃなかった」ということなんですね。そういう視点で見ないとなんの意味もない)。
  • そういった事故が起きたときに、どういった事態となるのかを国民は知らなかったし、もちろん教育もされていなった。
  • そして、そうやって事故が起きる前に、「多くの人たち」が「あまり深く考えることなく」原発推進を軽い気持ちで発言してきていて、さまざまなところでコミットしてきているために、かなり大きな「転向」なしには、今さら「原発はやっぱり反対」と言いにくくなってしまっている(とくに、プライドの高い人たちですよね。今まで人にあやまったところを見たことのないような人たち。見ていて痛々しいくらいでしょう)。

こういったところじゃないだろうか。いろいろな有識者の発言を読んでいると、まず目につくのが、広瀬隆さんへの罵詈雑言ですよね。ああいった、一時代に、真正面から反原発を、市民運動的に言っていた人たちを、さまざまに「いちゃもん」をつけて、それで「一般市民」は、
原発的生活
をしてきたわけで、今さら、広瀬隆さんが正しかったなんて、口が裂けても言えないんでしょうね(特に、市民運動となると、罵詈雑言がすごいのなんのって...。よほど恨みがあるんでしょうかね...)。
やはり、この原発の被害の大きさを考えると、オウム真理教による、地下鉄サリン事件を思い出さざるをえないんじゃないだろうか。この、地下鉄にサリンをばらまき、無差別に人を殺すことを目的として、オウム真理教によって行われた行為は、「急性」の死者も多数出したし、その後、大きな障害をもって生きている人も大勢いる。
他方において、原発はどうなのだろうか。
もちろん、原発を動かしている電力会社の人も、政府も、日本国民を殺すために、原発を動かしていたわけではない。しかし、
結果として
かなり「特徴的な」無差別な拡散が実際に起きている。もちろん、こういった物質は、広く「拡散」はするし、それによって「濃度」は薄まるのだが、なにせ、
絶対量
がハンパない。しかも、障害は晩発性で、何年もたってから、癌や白血病などとして、
なかなか原因が判別しにくい
形で現れてくる、と言われている(今回の福島も、あまりに「量」が多いだけに、日本自体の地域の人口の分布が、かなり変わってくるんじゃないか、と考えるくらいに、今も深刻な事態が続いているように思う)。
私が言いたかったのは、この「タイムラグ」についてだった。今、比較的に多くの人が冷静なのは、急性症状がでていないからで、大事なことは、症状が現れるのに、時間がかかることでしょう。つまり、私たちにはこの「タイムラグ」を想像力で埋める能力が求められているんですね。この時間差を考慮するなら、この福島の事故は、どうして、
地下鉄サリン事件
に劣るだろうか。むしろ、それ以上に、多くの人々に影響を与えて、大きな事件になっているわけだろう。恐しいのはこの、
無差別性
なわけで、問題はある人が癌や白血病になるかならないか、ではなくて、そういった
加害行為
が、非常に広く、
無差別
に行われる、ということだろう(そういう意味では、日本の北半分は、少なからず、風で運ばれ、放射性物質に触れるわけだ。しかし、食料になると、日本全国に運ばれるわけで、そういう意味では、被害者は日本人全員ということにさえなってしまう)。
私はここまで、「加害性」という考えから、福島原発事故地下鉄サリン事件の相似性を問題にしてきたが(そういえば、オウム真理教も、国家のような、政治システムをもってましたね)、だいたい四つの反発が考えられる。

  • 私たちが「普通に暮らしていて」受ける、福島原発からの放射性物質は「微量」なんだから、こんなものの被害を、うんぬんすることが話にならない。
  • そもそも、福島原発は国家事業であり、民主主義から考えれば、自分たちが「選んだ」のであって、その結果を、だれかの責任に押し付けることこそ、筋違いだ。
  • なぜ福島原発が動いていたのかを考えれば、それによる「メリット」があったわけだろう。その御利益をさんぜん受けてきて、いざ被害の火の粉が自分に降ってかかってきたからって、「責任者出てこい」は虫がよすぎる。
  • その国家的な利益を考慮すれば、「被害者の被害など微々たるもの」で、その国益と比べ物になるはずがない。そもそも、原発は国家事業なのだから、この方針に反することを言うこと自体が非国民行為だ。国益とはそういうもので、戦中にみんな天皇の名の下に死んでいったように、戦後は国民のエネルギーのために、国民は原発放射性物質によって、癌や白血病になって死ぬことを、むしろ、名誉なこととすら思わなければならない(そう思わないことそのものが、非国民の利敵行為であって、極左集団にきまっている)。よって、原発推進は、なにも間違っていない。

こんなことを考えていて、話題のマンガ「イキガミ」を思い出した。このマンガの世界では、国民の千人に一人は、「必ず」国家によって、殺される。なぜ、国家は国民を殺すか。国家が国民を殺すことによって、
国民が人生の一瞬一瞬を本気(マジ)で生きようとすることになり、人生を有意義に生きようとするようになるので、国に活力が生まれて、国の力が増大して、税金も増えて、国力が増大するから。つまり、国家によって国民は殺される「義務」がある、というわけだ。
なかなか、おもしろい問題ではないか。
なぜ、国家は国民を殺してはならないか。もちろん、国家は国民を殺す場合がある。法による裁き、つまり、死刑だ。
また、戦争になれば、他国民を国家は殺すことを命令する。
国民の「義務」の名の下に。
じゃあ、なぜ国家は、「なんの罪のない」国民を殺してはならないのか。
たとえば、徴兵制という制度がある。これは、国家が国民に強制的に軍隊に入隊することを命令することができる制度だが(戦中の赤紙が典型的)、当然であるが、軍隊に入隊して、戦場に出れば、
自分が殺される
確率は、ずっと増す(それが、戦争だ)。ということは、どういうことだろうか。国家は国民が、だれかに殺される「確率」が高まることを命令できる、ということなのだから、つまりは、
国家は国民を「死に導く」(確率を高める)「権利」を有する
ということになるだろう。つまり、国家は、その国民に罪があろうがなかろうが、その国民の命を好きなようにできる、ということにならないだろうか。
私には、福島第一原発のあれだけの惨状を前にしながら、今だに、原発は日本に必要であると言っている連中が、
恐くてしょうがない。
こういった連中は、言ってみれば、今この惨状を前にして、県を追われ、散り散りになっている「福島県民」を前にして、
あんたたちの被害など「たいしたことはない」
と言っているのと、なんの違いもないわけだろう。おそらく、何人かはこの福島第一原発が、ばらまいている放射性物質によって、癌や白血病になるのだろう(もちろん、私は専門家じゃないから分からないが)。しかし、上記の連中にとっては、
そんな微々たる人数
国益のための、国家によるエネルギー算出の命題のためには、むしろ必要な犠牲くらいにしか思っていないのだろう。しまいには、自動車やタバコだって、いっぱい死んでるとか、火力発電だって爆発事故が起きれば、死者くらいでる、とか。
つまりは、国家によって(国家が加害者になって)国民が死ぬのは当たり前と思っているということであって、つくづく、人が人を殺してまで、エネルギーをばかみたいに浪費するような生き方を、
しょうがない
と思うような、(お金さえむしれればいいというような)非人道的な生き方はしたくないものだと思うが、上記のような連中はどうも「お金が全て」のようで、この地震国日本で原発が危険なことは、今回の福島原発で「証明」されたと思うんだけど、だったら、少しでも日本の原発を減らせるように、国民みんなで要求していけないものなのかなと思うものだけど、
あれだけの事故を前にして、「もっともっと日本は原発を作らなければならない」ってorz。
そういった言葉がすらすらと口から出てくる、
あんたの人間性が恐いよ。