BUMP OF CHICKEN「beautiful glider」

カントの純粋理性批判を、ものすごく切り詰めて、一言で言うなら、

  • アンチノミーアンチノミーとしてしかありえないのは、人間が「時間的・空間的」な存在でしかありえないからで、それを矛盾と考えてはいけない

といったところだろうか。一見、対立した意見が共に成立しているように思えるアンチノミーは、それが私たちが人間を、「時間的・空間的」な存在、と
定義
したときに決まっていたことなので、むしろ問われなければならなかったのは、なぜそのように定義したのか、だったはずだ、と。
人間は「地域的」な存在であるのだから、暮らしている場所が違うのなら、体験する内容が違うのだから、同じ共感感情は結局は「完全」にはなりえない、ということになる。
人間は「時代的」な存在なのだから、結局は、過去の人たちが選んだ行動を「完全」に判断することはできないし、未来の人たちへの共感はどうしても自家撞着なものになってしまう。
つまり、ここにおいて提示される世界観はとても、「孤独」な景色となるのであって、

  • だれとも「本当の意味では」分かり合えることのない、この世界に、たった一人とり残された人間の姿

となる。
カントをこういった懐疑から考えることを強いたのが、ヒュームであるのだが、もちろん彼も時代の子であったわけで、その方向の特徴は、デカルト的な独我論と、数学的な文法の形式性にあった、と言えるだろう。
こういった問題に対して、ヘーゲルは(彼のキリスト教的な宗教感情が)耐えられなかった(好意的に言えば、満足できなかった)と言えるだろう。彼はもっと積極的に(つまり、彼の文脈では「キリスト教的に」)、語れるのではないか、と考えた一人といえるだろう(いや。こういった方向で発言していた人は、もっと多くいたはずだ)。
ヘーゲルの「弁証法」とは、そのアンチノミーを「解決」するために、より、
時間的・空間的
に、論理を「根底的に」再構成するところから始まる、というアイデアにある。カントが問題を、時間的・空間的、と言うなら、解決の道は、ここを論理の中に「導入」する方向にしかありえない。
たとえば、私たちがなぜ目の前の問題を突破できないのか。それは、その人の「生まれたときから生きてきたその過程の、さまざまな体験が影響しているのではないか」。なぜ、社会システムは今のような状態にあり、この目の前の問題を突破できないのか。それは、今までの、過去のさまざまな歴史的な事件や慣習が、さまざまに影響してきているのではないか。
そういったことから、ヘーゲル弁証法は、著しく、心理学的になり歴史学的になる。
しかし、問題はじゃあ、問題はこういったアプローチによってなら、必ず解決に向かうのか、と問うことだろう。私たちは答のない問いを「怖がる」。ヘーゲルの哲学とは、本質的には、哲学ではない、と考えるべきで、彼がやっていたことは最初から最後まで、キリスト教であって、信仰であったと考えるべきで、彼は宗教的に生きることの方を選んだ、と言うべきなのだろう。
そういう意味では、本質的には、近代の問題は、あいかわらず、カントの引いた線の上にあると考えるべきなんじゃないか、と私は思っている。
私たちは、
時間的・空間的
な存在である、ということは、逆から言えば、私たちは、デカルト的な独我論的な存在であるということと同値である。つまり、私たちは個人主義的に生きるしかできないし、それにともなって直面する、さまざまな「アンチノミー」を避けることはできないのだ。
つまり、そうである限り、私たちは間違い続ける。いや。そうじゃない。間違うことは
論理的
なのであって、そういった「アンチノミー」を、なにか私たちが理性的であったり、合理的であれば、避けられるようなミステイクのようなものと考えてはいけない。

手を振ったあなたの無事が 今でも気に掛かる
夜明け前

個人主義は必然的に、そういった「選択」の膨大な量によってもたらされる、全体によって生まれる秩序のようなものであって、私たちはその複雑で答えのない、現前性に耐えなければならない。

やりたい事に似た逆の事 誰のための誰
分かち合えない心の奥 そこにしか自分はいない
もう答え出ているんでしょう どんな異論もあなたには届かない
もう誰の言う事でも 予想つくぐらい長い間 悩んだんだもんね
いつだってそうやって頑張って考えて 探してきたじゃないか
いっぱい間違えて迷って でも全て選んでいくしかなかったグライダー
雨雲の中

私は以前、このブログで、映画「紙屋悦子の青春」の評価について、自分なりに忸怩たる思いを書いたことがある。最初に映画館で見たときは、戦争への素朴な怒り以外にあまり感想らしいものも思わなかったのだが、時間たつにしたがい、あの映画の中の、
「美しい」までの閉じた世界
をもっと自分たちの「自明性」の延長で受け取らなければならない、と思うようになってくる。私たち日本人は、もともと、ああいった「感情」の中を生きてきたのであって、あれが「普通」だったのだ、と。
日本人とは、あれだったのだ、と。
しかし、他方において、じゃあ、これでいいのか、とも思うのである。明石少尉の選ぶ、一種の「自殺」は、本当に肯定しうるようななにかなのか。いや。そう受け取る「べき」なのか。もし、こういった態度に抵抗できるとするなら、それはどういった
場所
からなのだろう...。
そんなことを考えながら はたと、立ち止まってしまうのである。
どうやって、それを自分は「知る」ことができるのだろう...。

恐くても誰も背中押さないよ 押す方も恐いから
それくらいあなたは勇敢な人 まだ泣けないまま 飛び出してからずっと
ぶつかってぐらついてパラシュート引っ張って 絡まっていたりしないか
キリ無い問答不安材料 でも全て抱いていく墜ちられないグライダー
誰にも見えないさ
いつだってそうやって頑張って考えて 探してきたじゃないか
疑ったって手掴んで 大切に信じるしかなかったグライダー
雨雲の中
夜明け前

もしかしたら、「私」はそれを知ることはできないのかもしれない。でも、こう問うてみることはどうだろう。そういった「私」を「知って」いてくれる人がいるかもしれない、とは。「手を振ったあなたの無事が 今でも気に掛かる」と思ってくれた「誰か」が...。

COSMONAUT

COSMONAUT