ジョン・グレイ『自由主義論』

あれほど、ジャスミン革命について話していた論者が、アメリカのウォール街デモに言及、取材しないのは、なんなのだろう。きっとこれは彼らの考える、
ソーシャルネット
の「悪い」使い方だからなのだろう。もちろん、こういった動きは日本にも波及するだろう。そういった彼らの「道徳」は彼らの口癖をまねて言わせてもらうなら、
こういった歴史の動きに反対してもしょうがない
であろう(これが歴史決定論者の常に繰り返される末路だ)。基本的に現在、「成功」している人たちにとって、どんなことであれ彼らの生活基盤が揺がされるような事態は、「保守」の一言によって否定される。これは、全共闘以降の日本の言説が、経済成長の前に、総「保守」化してきた延長で今だに考えていることを意味しているにすぎないと言えるだろうか。
保守派とは、一つの哲学的な姿勢について言うことができるだろう。それを、掲題の本に代表させることもできると思っている。つまり、ある種の、体験的、経験的な
漸近
的な社会変革「のみ」が肯定されうる。そういった過程を「超越」する言わば、「革命」のような、飛躍を含んだ実証性の薄い「物語」は危険な「罠」を内包している可能性があるので認められない。
しかし、そういった漸近が、「間に合わない」とき、アメリカのウォール街デモになる。そして、まさにこういった動きを「加速」したのが、彼らがその可能性を礼賛し利用し続けてきたネットメディアだというのは一種の皮肉に思える。この動きは早晩、日本にも波及するだろう。日本のネットメディアの「保守」性は、たんに歴史的であったと考えた方が正しいようにさえ思えなくはない。
一般に、「自由」という言葉について考えることには、なにか意味があるだろうか。
私はここに、「自由アナーキズム」を宣言する。
それは、一般に使われている自由という言葉に対する、異議申し立てであり、ということは、一般に曖昧に自由という言葉が、ルールという
強制
と「同値」に使われることへの、異議申し立てとなる。以下、詳しく述べてみよう。
自由というものを、慣例的な使い方を「離れて」独自の「定義」から、考察を始めることに私は反対だ。つまり、自由を考えるのなら、それを使っている一般の方々が使っているような用法から、出発するのでなければ意味がないと思う。そう考えるなら、なによりも(バーリンの言う)「消極的自由」から始めなければならないだろう。
ある人Aが、別のある人Bに、家の納屋に閉じ込められたとき、「AはBの拘束から自由になることを求める」という主張が発生するだろう。ここで大事なことは、これはAの側が考えることだ、ということである。Aはこの状況をBを原因とした「不自由」と考える。つまり、大事なことは、自由は「自由を求める」人が、ある誰かに「要求」する命題について言われる、と考えるべき、ということである。

  • 「自由」の要求:A --> B

つまり、ここではAが自分を自由にしろと要求しているのは、Bである、ということだ。
私がここで問題にしているのは、いわゆる「リテラル」な問題である。上記の定義から考えるなら、次のことはまずもって「文法的に」認めなければならない。

  • Aが「どんな理由によってでさえ」Bに自由を要求することは「文法的に」認められる。
  • 「どんな場合でも」AがBに自由を要求することは「文法的に」認められる。
  • ここにおいて重要なのは、これがBへの「要求」であることだ(つまり、デモといった明示的な行為が深く自由と関係している)。

つまり、私が言いたいのは、あくまでこの自由というのは、「文法」の問題だと考える、ということである。そうであるなら、それは「発話」者がこの言葉を使うかどうか「だけ」が問題にされていて、そこにルールの存在を「前提」にしない、ということである。
ここで言った「ルール」とはなにか。それが一般に言われる「自由主義」のことである。ここにおいては、自由とは「自由を求めることが権利としてルール化されている」という意味で、ルールの
別名
となる。たとえば、上記におけるBを「国家」と考えてみよう。

  • 「自由」の要求:A --> 国家

この場合、Aには国家に「その」自由を求めて「いいのか」が問われていることになる。いや。もっと正確に言うなら、Aが国家に求めたら、国家はAの要求を受け入れてAを自由にしなければいけないのか(そういうルールが存在するのか)が問われている、というわけだ。
しかし、私の上記の立場からは、この議論を認めるわけにはいかない。「自由」とは、あくまで「文法」の問題と考える自分の立場からは、Aは「どんなこと」についてであっても、国家に自由を要求できなければならない、となる。
このように、自由をあくまで「主観的」な用法に限って考えることの意味とはなんだろう。
一般に考えられている自由主義とは、私に言わせれば「ルール」主義のこととなる。なぜそれを「自由」と呼ばれるかは、それが「国家」の規制に関するものと解釈されているからだが、だからといって、ある人Aの自由への要求にそのことが影響するどうかは、まったく別の話と考えるべきだ、と言っているのである(あくまで、ある人Aにとっての主観を問題にしているのだから)。
こういう意味で、私に言わせれば、自由についての巷の議論は、逆説的に「強制」の議論となっていると解釈できるわけで、つまりは凡庸なのだ。
どうして、こういうことになってしまうのだろう。
それは、「ルール」というものを、「科学」的な真理推論を通したとき、つまり
普遍的
ということを考えてしまうからでその、一般通念と関係しているように思える。ここでは、大澤真幸さんの議論を整理する形で、その意味を検討してみたい。

たとえば、『源氏物語』を綿密に解釈するためには、平安時代の貴族の男女関係においては、男が妻や恋人である女のもとに夜、訪問するのが一般的であったということ、男が三夜連続して女のもとに通えば、その男は女に結婚したいという意志を表明したことになること等々の無数の慣習を知っていなくてはならない。当時としては常識に属していたはずのこれらの知識の大半は、今日の一般の読者の常識知の目録の中からは消えてしまっている。
もっとはるかに時代が近い作品に関してすらも、それを規定している当時の常識は、今日の読者や観衆からは失われている。たとえば、リヒャルト・ワグナーについての近年の研究は、彼のオペラを正確に理解するためのさまざまな手掛りをいくつも提供してくれる。オペラの中に、よろけるように歩いたり、金切り声で歌ったりする人物が登場すれば、この人物がユダヤ人だと、一九世紀のドイツのオーディエンスは、ただちにわかったのだという(だから『ニーベルングの指輪』のハーゲンはユダヤ人だ」)。

<世界史>の哲学 古代篇

<世界史>の哲学 古代篇

このように考えてきたとき、なにかを「ハイコンテクスト」と切り捨てることは「凡庸」である。つまり、ハイコンテクストでないものなど存在するはずがないのに、ローコンテクストがありうるかのように振る舞う「児戯的」パフォーマンスの、ネットでの氾濫をまねいているようにも思える。
こういった状況に対しての、ジョン・グレイの立場は、つまりは、懐疑主義的、知的アナーキズム的(ファイアアーベント的)な、
部分否定自由主義
だと、大澤さんは整理する。

ジョン・グレイは、自らもそう認める堅実な自由主義者だが、そのことにおいて、自由主義のこうした困難を体現するような主張を表明している。グレイによれば、自由主義を積極的な普遍主義として提起すること(「イデオロギー化すること」)は不可能であり、他のタイプの社会に対して自由主義的な社会がより優れているとする根拠もない。彼は、自由主義を(部分)否定する自由主義者なのだ。もう少していねいに、グレイの論を紹介しておこう。
グレイは、自由主義の歴史を総括し、自由主義が普遍的な妥当性を要求するときには、これまで三つのことのおずれかがその論拠として援用されてきた、とする。第一に、人間の(相対的な)無知を根拠とする自由主義がある。個々の人間の知的な能力には限界があるため、諸個人の間の自由競争と淘汰こそが、結果的に、知識をもっともよく成長させう、というのである。代表的な論者は、ハイエクである。しかし、この主張は、旧ソ連の例が示すように事実に合致しない(自由競争が抑圧されていても、科学的知識の大いなる発展があった)上に、そもそも、知識の成長が善であるとは必ずしも言えない、とグレイは指摘する。つまり、このタイプの自由主義は、知識の蓄積を無条件に善と認めるような社会においてしか成り立たない。第二に、合意を根拠とする自由論がある。代表的な論者はロールズだ。「無知のヴェール」を被った者たちの間の全員一致の合意によって、自由主義が支持されるはずだ、というのだ。しかし、グレイは反論する。全員一致の合意に到達するためには、特定の利益や価値観が特権化され、前提にされていなくてはならない、と。言い換えれば、完全な無知のヴェール----あらゆる利益や価値観を中立化してしまうような無知のヴェール----のもとでは、社会契約は不可能なのだ。第三に、幸福を根拠とする自由論がある。その代表者はミルである。人間が真に幸福になるのは、自由主義的な社会のみだ、というわけである。しかし、この論は、特定の幸福概念を前提にし、強制しているに等しい(奴隷であることに幸福を覚える者もいるかもしれない)。このことは、(特定の生活を幸福と感じるような)アリストテレス的な----それゆえ反自由主義的な----人間概念に与することであって、自由主義にとって自己矛盾的だと、グレイは述べる。
<世界史>の哲学 古代篇

たとえば、ハイエクの議論は以前に整理したように、つまりは、人間の「有限性」に関係している。完璧な人間がいないように、完璧な知識は存在しない。そもそも、そういったものを想定することが傲慢なのであって、そうであるなら、そうであることを前提とした社会システムを目指すべきだ、というのがハイエクの立場となる。
しかし、そのことはハイエクの感覚としては、「全否定」を意味していないようなのである。つまり、そういった社会においても、ある種の「進歩」「善」が、
ダーウィン的)生物進化=適者生存
において「あらわれ」を示す(ハイデガーみたいですね)。

ハイエクによる批判のポイントは、「アルキメデスの点」のような場所に立ち、社会についての総観的知識を獲得することなど誰にもできないというところにある。設計者自身が多くの知的伝統や道徳的伝統の複合物であり、それらの伝統に対する設計者の批判は、受け継がれてきた概念や基準のストックの一部を他の概念や基準を評価するために用いた内在的批判にすぎない。それゆえ、包括的な計画は、何よりもまず認識論的に不可能なのである。それはさらに、常に社会秩序は、生物としての人間に不変に与えられるものの直接的表現か、さもなければ意図的考案物のいずれかでなければならないとする、ギリシアソフィストたちが行った自然と人為の区別に根を発する重要な誤りを表している。ハイエクが語るところでは、貨幣、慣習法、言語、科学などの社会的制度は、人間の行為がもたらした非意図的産物なのであり、実践や慣行のプラグマティックな競争を通じた自生的秩序の中で自立しているものなのである。
また、しばしばハイエクは、ある伝統や生活様式が継続しているのは、それが全体的な効用をもたらすからに違いないと論じている。彼は、様々な生活様式ダーウィン的生存競争にさらされると仮定しているのである。

しかし、これは少なくとも自明ではないだろう。つまり、ハイエクの議論には、どこかロジカル・タイプの混同がみられる。もともと、ハイエクの不可知論は、
メタ
の議論だったはずなのに、いつのまにかそれは、「人間の無意識」によるシステムの
進歩への漸近性
という「価値」に、すりかえられている。しかし、そもそも進歩という定式化を認められない、というのがハイエクの不可知論だったはずで、安易な進歩史観との並列を許さない面があったはずである。
つまり、ハイエク自由主義は、なにかを積極的に語ることが許されない「ジレンマ」に陥っていると言わざるをえない。

様々な議論や考察は、すでに存在している自由主義を強化(あるいは弱体化)させるかもしれない。しかし、対立する政治的伝統と道徳的伝統の唱道者たちを統合するようないかなる理論も存在しない。従って、次のように述べることが正しいのである。「自由のために献身する人にとって、自由を重要にするものはない。彼には献身する理由などないのである」。

そもそも、自分とはなんなのか。自分などというものを「同定」することになんの意味があるのか。私の意志とはなにか。たとえば今、私がなにかをしたいと思ったとしよう。しかし、次の瞬間には、そんなことは少しもやりたくないと思っているかもしれない。しかし、その二つの瞬間の感情になにか関係があるだろうか。いや。たとえ、なかったとしても、それがなにか不思議なことだろうか。
私は、上記で「主観的」な自由を問題にしたが、そもそもそれを主張しているのは「誰」なのか。いや。
誰の誰
なのか。

さて、一方の半球の運動準備野に損傷をもつ患者には、たいへんやっかいな症状がでる。たとえば右脳の運動準備野に障害がある場合には、左半身が勝手に動いてしまう。運動準備野が破壊されているため、「動かしたい」とか「動きそう」といった感覚が事前に生まれず、言わば予告なしにいきなり行動が生じてしまうのである。右手が、鍋に触れたところ、あまりの熱さに、火傷しかけたとしよう。そうした状況であるにもかかわらず、患者の左手は、鍋をつかもうとしたりする。もっとやっかいな例では、左手は、勝手にさまざまな「悪さ」をする。左手が不意に何かを壊したりするため、右手の方は、それをあわてて制止しなくてはならない。
つまり、右脳の運動準備野に損傷を負っている、このケースでは、左半身がまったく「自由意志」に服さなくなってしまったかのように感じられのだ。あるいは、むしろ次のように言うべきかもしれない。左半身が、患者自身のそれとは別の、固有の自由意志をもっているかのように振る舞いはじめる、と。この症例ほど、脳が内部に他者を抱えているということを、したがって脳自身が<社会>であることを、劇的に印象づける例はないだろう。

生きるための自由論 (河出ブックス)

生きるための自由論 (河出ブックス)

(私たちは、あまりに単純な社会モデルをイメージしすぎているのかもしれない。人間と人間の社会があるなら、人間の中のさまざまなもの同士の「社会」があったとしても不思議ではない。そのように考えれば、そういったものの間の、
自由の要求
も考えられるだろう。しかし、それは「主体」なのだろうか。誰の誰の誰の...。こういう意味で考えるなら、自由の主体を、主観的に定義することはミスリーディングなのだろう。つまり、自分ではなく「相手」が問題だと考える方がすっきりする、と...。)
では、ここではもう一度、大澤さんの議論に戻って、彼の自由論を私の上記にある立場から検討してみたい。
例えば、なぜ人々はお金儲けを、どんなにお金が増えて、たくさんもっている人も「もっと、もっと」と、さらなるお金儲けを続けるのだろうか。この運動には、限りがないように思えるだけでなく、どこか、本来の目的であった、そのお金でなにかを買う「ため」ではなく、ただただ、ひたすら、
お金を溜める
ためだけに、行動しているんじゃないか、という印象さえ受ける。

資本主義においては、人は、余れば余るほど、欠乏感に苛まれる。一方ではあり余っているのに、他方では、足りないのだ。こうした論理を端的に具現しているのが、守銭奴である。実際、マルクスは、資本の原型は、守銭奴=貨幣蓄蔵者にあるとして、次のように論じている。

貨幣蓄蔵者は、黄金物神のために自分の欲情を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実なのだ。他方で、彼が流通から貨幣として引き上げることのできるものは、彼が商品として流通に投じたものでしかない。彼は、生産すればするほど、多くを売ることができるわけだ。だから、勤勉、節約、そして貪欲が、彼の主徳をなし、多く売って少なく買うことが、彼の経済学のすべてをなす。

<世界史>の哲学 古代篇

どうしてこのようなことになるのだろうか。お金は見れば分かるように、たんなる紙であるし、もっと言えば、たんなる電子情報でしかなかったりもする。こういったものをたんにそれだけで使おうとしても、トイレットペーパにもならないだろう。
お金をお金たらしめているのは、人々がそれと、商品を交換してくれる、とみんなが思っていると思っているから、と言えるだろう。
つまり、貨幣を貨幣たらしめているのは、その貨幣を交換してくれるだろうと、その人が考えている人たちとの「関係」をイメージして貨幣を考えているのであって、こういった人たちを排除して貨幣を考えることはできない。
つまり、貨幣という対象は、その貨幣の先にある人たちとの関係(原因)を暗喩していることを意味する。

この点を説明するためにラカンは、欲望の対象と原因とを区別した。主体は、直接には対象を欲望しているが、欲望を真に惹き起こしているのは、その対象ではなく、原因の方にある。したがって、主体が対象をいくら得たとしても、原因の方は残っているために、欲望は消えることがないのだ。
生きるための自由論 (河出ブックス)

自由(の要求)を、相手との関係を無視して考えられなかったように、自分が自由になるということは、
相手
を前提にした話であることを無視できない。

だが、他者の、第三者の審級の視点が導入されたときに、事態は一変する。他者の視点から捉えたときに、私の行為は、承認や否認の対象になる。
生きるための自由論 (河出ブックス)

私は、その他者(第三者の審級)の承認(・否認)のまなざしを、信用取引のように、先取りしながら行為することも可能になる。その場合、私の行為は、他者(第三者の審級)の審問への応答 response という形式をとることになる。したがって、私の行為は、他者の意志や欲望に、つまり想定された他者の欲望・意志に規定される、まさにそのことにおいて、自由な選択たりうるのである。ここで、日本語において、「可能」を----つまり自由な選択を----表現する動詞語尾が、同時に「受身」をも意味していたことえお想い起こしてみればよい。この言語上の事実は、何かを自分が自由になしうるということ、そのことが、他者の意志によって規定されているかのように感じられているということを表現しているだろう。
生きるための自由論 (河出ブックス)

こういったところが、大澤さんの自由論となる。
こうやってみると、この「他者」論を含めて、大澤さんの議論は、ほとんど柄谷さんの以前の議論を後から、彼なりに補強してきた印象を受けなくもない。
たとえば、柄谷さんの「探求」においては、特殊性(一般性)と、普遍性(社会性)が対置されていたが、上記でも検討したように、よく考えると、普遍性というものを、なにか積極的に言うことは、なかなか難しいという印象を受ける。
しかし他方において、(これはジョン・グレイの議論についても言えるのだろうが)特殊なハイコンテクストの議論も、結局は、
一般的
な議論「でしかない」、というか、一般的でなければ、表現できない(だれにも伝わらない)わけで、そういう意味では普遍的という言葉と、五十歩百歩なわけだ。
そういったところから、柄谷さんの「探求」では、後者の普遍性(社会性)を、言語(文法)における、
固有名
の役割の検討によって、表象させていくようなアクロバティックな議論展開だったわけだが...。ということはこれは、なにを示唆している、と言えるだろう。もちろん、
歴史
だろう。固有名ということは、そこに具体的な歴史があることを示唆しているわけだろう。もちろん、それぞれの歴史はまさに、特殊性(一般性)でしかないわけだが、その一回性を
固有名性
において検討することで、なんらかの歴史的な認識を得られるのかもしれない。
自由の要求について考えてきたわけだが、それは歴史の不可知論に関係する、と。もちろん、その探求の結果が、進歩を意味するとは限らない。ましてや自分が進歩するかどうかなの、どうでもいいことだ。
しかし、そういった不可知論が、あらゆる考察は無意味ということを意味するわけではないのだろう。それは、まさに「歴史とはなにか」と同値の問題であって、歴史の一回性は、決して「同じ」ことが二度起きることはなくても、まったく、そこに
法則的なもの
を見出せないかといえば、そうとも限らない。それなりに、ある規則を想定したくなるような現象も指摘できる。そういった検討がまったく、いつも無意味とは限らないものなのだろう。
たとえば、ジョン・グレイが嘲笑するカントの哲学は、ジョン・グレイが言うように、本当に普遍主義なのだろうか。たとえそうだったとしても、これを、ある種の「仮定」。つまり、
モデル
と考えることはできないだろうか。そもそも、ジョン・グレイがいちいち批判する、普遍性の「反対」は、結局のところ、ある
地元的な実感
の延長の特殊性を、「一般性」と主張しているだけでないのか、と揶揄もしてみたくなるわけで、そう考えるなら、あらゆる知は、
モデル
として提示「せざるをえない」とさえ言えないだろうか。このように考えるなら、そもそも積極的なことを言おうとしている、カントの姿勢の方が、ジョン・グレイの凡庸かつ狭隘な「合理」性より、ずっと生産的にも思えてくる。
では、ジョン・グレイの立場からは、どういった形で積極的な主張を展開していけるのだろうか。

ポパーは、広範囲に及ぶ社会的変革の達成を目指した大規模な社会工学が、特に効果をもたらさないものになりがちだとする重要な仮説をいくつか唱えている。第一に、全体論的な野心に基づいて巨大な規模で実施される社会工学の計画においては、あまりにも多くのことが同時に行われるであろうから、どの施策が結果としてどのような変化をもたらしたのかを見極めることが著しく困難となろう。通常、社会科学では、自然科学とまったく同じように、異なった政策の結果の比較を可能にしてくれる安定した環境条件が必要なのである。

私たちがイメージできるのは、しょせんは私たちの身の丈に合ったものでしかないだろう、と。
(こういった認識は、原発が分かりやすいだろう。この原発がどういった条件で暴走するか。それを本当の意味で分かっている人は、世界中でもどれだけいるか。というか、いるのだろうか。
自分たちの想像を超えているものを、理性的に「分かる」はずもない凡庸な、よっぱらい老人が、
賭け
として、日本は原発でギャンブルをやれ、と恫喝されて、どうして若者は「へーこら」と聞かなければならないだろう...。)
では、ジョン・グレイの立場から、自由の「政治」を考える場合はどうか。

ミルは、資産税ではなく、今日我々が財産取得税あるいは相続税と呼ぶ、資本の贈与者ではなおく受取人に課税する制度を提案したのであった。
そのような税のメリットは、それによって個人の富が広く分散するがゆえに、他の制度とは異なり、個人から国家への富の移転を必要としない点にある。富の分散を促進する相続税の改革をミルが支持したことは、彼が累進所得税に反対したことと照らし合わせてみると、彼の社会的不正義に対する急進的な認識と多くの社会主義者を駆り立てている認識との違いを浮き彫りにする。ミルの急進的な社会正義概念は、財産の再配分と当時の産業社会における所得の再分配を彼に求めさせたが、それはいかなる特別な平等主義的傾向も持ってはいない。ミルは、政府であろうと個人であろうと、それらが巨大な富を持つに値いしないという理由によって、そして富の大規模な集中が最終的には自由を脅かすようになるという理由によって、それらが莫大な富を相続することを非難しているのである。

自由とは、あくまで主観的な、相手への要求であることを言った。だとすれば、その物質的な条件は、
あまりに、物質的に「囲い込み」をしている主体を許さない
ということになるだろう。たとえば、ある県のほぼ「すべて」の土地を、どこかの人か、どこかの企業が、買った場合を想定してみよう。今後のグローバル企業が、圧倒的にお金を稼ぐ世界に至ったとき、原理的にはありえると言わざるをえないだろう(実際、戦前の豪農とは、そういう人たちだった)。みんなが、土地を借りて、小作人となり、育てた野菜の儲けの「ほとんど」を(戦前のように)土地所有者に払わなければならなくなったとしたら、こんな未来は
自由
だろうか。それは、個人だろうと、国家だろうと関係ない。こういったものに対抗する独占禁止法的「理念」が、どういった形で、今後のフラット化する社会を規制する「自由の条件」となりうるか...。

自由主義論 (シリーズ・現代思想と自由主義論)

自由主義論 (シリーズ・現代思想と自由主義論)