小林正嗣『マルティン・ハイデガーの哲学と政治』

私は一般に哲学における、ニーチェ人気の歴史には、ある種の倒錯があると考えている。

ニーチェほど、二〇世紀の思想に広範な影響を残した十九世紀の思想家はいない。ファシズムに影響を与え、またハイデガーの徹底的な読解の対象となった。ニーチェは、実存主義の源流の一つと見なされてもきた。ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者たち、つまりフーコードゥルーズデリダにとって、最も重要な過去の哲学者(の一人)はニーチェであろう。彼らフランスの哲学者に導かれて、今日のカルチュラス・スタディーズの研究者たちは、ニーチェを好んで引用する。要するに、ニーチェは、、二〇世紀の思想にとって、ほとんど普遍的なインスピレーションの源泉となってきたのである。右派も左派もともに、ニーチェに触発されてきたのだ。
だが、しかし、ニーチェの思想が、彼が生きた一九世紀の特殊な文化的環境に深く組み込まれ、そうした環境による歪曲を被っていることも、容易に見て取ることができる。たとえば、ニーチェの「奴隷のルサンチマン」への著しい嫌悪は、彼がパリ・コミューンを同時代的に体験したことに由来している。あるいは、ニーチェの「超人」の思想が、一九世紀後半の進化論の流行に規定されているということは、明らかである。

<世界史>の哲学 古代篇

<世界史>の哲学 古代篇

私たちがニーチェにイメージするのは、古代ギリシアやそれと「同時代」に位置する、イエス・キリストの時代だったりするわけで、つまり、彼をこういった時代の
代弁者
と考えてしまう。ところが、上記にあるように、そうじゃないわけだ。彼が古代ギリシアにふれるのは、彼が文献学者というキャリアに根差した当然の態度なのであって、彼もただの
近代人
だと考えるべきなのだろう。人々がニーチェに酔いしれるのは、あたかも、古代ギリシアの「哲学者」が、まるで、近代に「蘇り」、近代人のような
口ぶり
で、近代的な態度で議論を展開しているように見えて「びっくり」して、興奮しているということなんじゃないか。古代ギリシア人の「素朴」な言説が、あれよあれよと近代人の口ぶりで、
文学的に洗練
されるというわけで、ある種の「勘違い」をしてしまった、ということなんではないですかね。
ニーチェが新聞を嫌悪していたのは有名な話ではあるが、ということは言うまでもなく、ニーチェの時代には新聞がすでにあったわけだし、上記にあるように、パリ・コミューンを生きている。つまり、十分に
近代人
なわけだ。
同様なこととして、たとえば、ハイデガーの「存在と時間」において、なんと「数学の危機」の話がでてくる。

みたところもっとも厳密でもっとも堅牢な科学である数学は、「基礎論の危機」におちいっている。形式主義直観主義の間の論争は、この科学の対象たるべきものへの第一義的な近づき方の獲得とその確保とをめぎっておこなわれているのである。

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

フッサール現象学から考え始めたハイデガー数学基礎論から話し始めることは、ある意味「当たり前」のことであるわけだが、ハイデガーのこの本における「哲学」然とした、つまり、アリストテレスから考え始めるような
アナクロティズム
を考えたとき、これが「哲学」と呼ばれることの「錯誤」をもたらしているようにも思える。
言うまでもなく、ハイデガーナチスと同時代(どころかその成立に深く関わっているとさえ言いたくなる)人なわけで、当然、ヒットラーのあのラジオやテレビの演説と同時代に生きていたわけで、こういった
ヴァーチャル・リアリティ
を当然の皮膚感覚として考えた人が、素朴な古代ギリシア人の
わけがない
のだ。その感性は現代の私たちの方にもっと近かったはずで、そういった倒錯から、喰わず嫌いをしていてもしょうがないんじゃないか。
掲題の本はハイデガーの、哲学とは「政治」のこと、という定義から始める。

とはいえ、ハイデガーは、あくまで哲学者であり、体系的に政治思想を展開した作品は存在しない。しかしながら、ハイデガーは、一九三四年/三五年の講義の中で、「政治」について、以下のように発言している。

「この事業に参与することは、最高の、そして本来的な意味における『政治』なのであって、それゆえここで何かを成し遂げる者は、『政治的なこと』について語る必要はないのである」。

この事業とは、「民族」を成就することを意味している。つまり、ハイデガーは、自らの哲学において、「存在が現れる空間」としての「民族」を成就することを「政治」と呼んでいるのである。

合理化を鍵概念として近代ヨーロッパの行く末を診断したヴェーバーは、一九一九年一月、ミュンヘンにて行った講演「職業としての政治」において、政治を次のように定義している。すなわち、「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」。ヴェーバーのこの定義は、自立化した政治的秩序が、究極的には対内的、対外的な権力配分の維持を自己目的化することになり、政治が合理的な官僚組織と整備された規則の体系によって運営される即物的な支配の場となることを意味している。
ハイデガーもまた、あらゆる人間的な関係が即物的関係になることに、近代の本質を見ている。すなわち、ハイデガーは、近代の本質を、一方で人間が表象の確実さをもって真理とするような認識を行う合理的主観となること、他方であらゆる存在者を包含する世界が合理的主観による認識の対象となること、この二つの出来事の交差と捉えているのである。このような近代合理主義によって構成される世界を「存在」を忘却した世界と捉えるハイデガーにとって、諸個人を理性的個人として析出し、彼らの作為により秩序を構築する近代政治思想における政治は、存在忘却を引き起こす原因以外の何物でもない。それゆえに、存在論の観点から存在忘却の克服を試みるハイデガーは、自らの哲学的試みを「本来的な意味における政治」と称するのである。

ニーチェは保守派だろうか、進歩派だろうか。
同じように、ヘーゲルについても昔から論争がある。彼の著作は、明らかに国家主義者にしか見えないわけだが、それは「歴史的事情」がそう語らせずにいなかったからで(当時の、国立の大学にいたわけだから、そういった部分はさし引いて考えてやらないと「かわいそう」ということらしい)、むしろ彼の主張の主題は、自由の考察であり、市民社会における自由を考えた部分にこそ本質がある、と(これらはかなり好意的な解釈なのだろうが)。
同じことは、ハイデガーについても言える。ハイデガーが学長時代の一年はかなり、ナチスと親和的な発言をしている。しかし、一年後学長を辞めるわけだが(辞めさせられたということなのだろうが)、それは、ハイデガーの主張がナチスの生物学的民族主義と相容れなかったから、と好意的に掲題の著者も擁護する。しかし、たとえそうだったとしても、ハイデガーの哲学が多分に、当時の侵略戦争を否定するものではなかったと考えざるをえないんじゃないか、と言ってみるなら、ハイデガーの哲学はそんな「安全」なものだろうか。私はあまりこういった面で、擁護したい気にはならない。
たとえば、ハイデガーの「存在と時間」のアイデアをどういったところに認めることができるだろう。単純に考えるなら、カントの「後」にヘーゲルが、その「発展」として現れたと考える立場における、なんらかの「不十分」感の補完として、
存在
というアイデアをもってきた、と言えるのかもしれない。カントの問題は「物自体」のことと言ってもいい。彼はそれを言わば、
無定義用語
として提示する。ヘーゲルはこういう態度を嘲笑したわけだ。そこで、彼独自の弁証法をつくったわけだが、それは言わば、
物自体「だけ」の世界
のようなものであったわけで、逆に観念論的な空想さが増しただけのようにも思えるわけで(それをカントは妖怪だったかと呼んだわけだ。カントはヘーゲルを同時代において批判していることを忘れてはならない)、そういう印象を受ける人ほど、むしろヘーゲルをカントからの「後退」と考える。
ハイデガーはこの物自体を、ヘーゲルのとりくみを言わば「失敗」ととらえ、ヘーゲルとはまったく別に、「彼なり」の物自体解釈を「存在」という言葉によって取り組んだ、と言ってもいいのかもしれない。

ハイデガーによれば、「主観」概念は、歴史の中で転換している。古代ギリシアにおいて、「主観」すなわち「基体」は、即時的に眼前にある物を意味した。しかしながら、このような理解は、デカルトをもって転換する。周知のように、デカルトは、伝統的認識の一切を疑い、それでもなお疑い得ないものに辿り着いた。それは、一切の知にとっての礎であり、存続し続け、いつまでも留まるもの、すなわち「基体」であった。確実なものを求めて一切を疑う時、最終的に残るのは、疑いそれ自身であり、疑いという思考をする自分の自我のみである。
このように、古代ギリシアおよび中世において、「眼前にあるもの」という意味であった「主観」が、デカルトによって「自我」という意味へと転換するのである。もちろん、ハイデガーは、この転換がデカルトのみによってなされたとは考えていない。それに先立つ前提として、以下の三つの「解放」が掲げられている。
すなわち、第一に、キリスト教会の超自然的生の秩序とドグマの権威からの離脱としての解放である。この解放の反動として、世界における人間の立場は、世界を制服し支配するものへと変様することになる。そして、第二に、生育した自然の拘束から人間が離脱するという形での解放である。この解放により、自然は機械的なものへと解釈し直されることになる。最後に、第三に、共同体、つまり根源的な秩序から人間が離脱するという形での解放である。この解放は、自己意識を持った個人としての人間を社会秩序の原点あるいは元素とした「国家契約」(Staatsvertrag)という新たな国家概念の起源となった。
以上のように、「主観」概念が転換し、人間の自我が「主観」として理解されるようになることを、ハイデガーは、近代に位置づけている。自らの理性と計算とによって人間を自己確立されることとなった近代哲学における基礎概念の転回は、ハイデガーにとって存在忘却の原因と捉えられる。すなわち、自我が根源的な確実性を備えた基体となることで、人間の「存在」がもはや問われなくなる。つまり、人間の自我が自明なものと化し、人間固有の在り方を問ういかなる問いも、後回しにされてしまうのである。

この話は、前回やった自由論の話とも関係していて、おもしろい。近代的な意味での「自我」から出発して、その自我による「認識」によって、なんでも説明していこうという姿勢は(たとえデカルトから始まったとしても、その思想的な補強として、キリスト教神学的な伝統があったのだろうとは思うが)、やはり異様な感じを受けなくはない。むしろ自我というのは、さまざまに
分裂
していて、その「社会」性を前提にした方が普通で、私たちが構成している「主観」は、
相手
を中心にイメージされているようにも思われる(少なくともアニミズム的にはそうだろう)。
しかし、どうしてこういった傾向が比較的、受け入れられるようになったのだろうか。私はここで、それをヴァーチャル・リアリティのテクノロジーの発展段階に対応して考えてみたい。
ハイデガーの言う現存在とは、つまり人間のこと、というか「人間のような認識」を行うのは、人間だけだから、人間だけ、という意味で人間のことを言っている、ということになる。
(しかし、たとえば、昔、NHKスペシャルでやってた、カンジとかいうボノボという種類のサルが、板にたくさんのボタンがあってそれを押すと、さまざまな違った音(英語の単語)がでることで、人間と
会話
をしていた映像があったが、もしこれを発展させることによって、カンジが「文章を読んだり、書いたり」し始めたとき、カンジは現存在となるのだろうか。もちろんこれの他の動物や、ロボットのヴァージョンも考えられるだろう...。)
そういう意味で、人間を本質的に他の動物と区別する形で、特徴づけるものとは、ヴァーチャル・リアリティくらいしかないんじゃないかと私は考えている。
文字を使うことは、他の動物だって、その瞬間だけならやらないことはないだろう。しかし、それを「記録」することは人間くらいしかやっていない。これがハイデガーの言う、

と考えることもできるのかもしれない。詩はある抽象性を伴っている。つまり、その具体的な場面で「のみ」意味をもたせる言説というより、

  • どんな人がどんな場面で読んでも、なんらかの意味が生まれるように

詩を作る側が、微妙な抽象性をもたせているように思える。つまり、なんらかのマス・コミュニケーションになっていると言えるのではないだろうか。
まずは、古代ギリシアでも文字を書いて、そして、書かれたものを「複写」したわけであろう、ただし、人による書き写しで。こうやって、記録されたものを人々は読むようになる。これだって、立派なヴァーチャル・リアリティであろう。
やがてルネサンス時代になり、活版印刷が生まれ、よりその複製は、ヴァーチャルなイメージを「本物と変わらないくらいの品質」で、「自動的に」再現し始める。そして、ニーチェの時代になれば、
新聞
という「日常」が始まる。毎日毎日送られてくるその「ニュース」は、言わば、「新しい」常に新鮮な、今を記録したヴァーチャル・リアリティである。しかし、これは、たしかに内容は新しいのだが、その形式は、
日常
と言うべき、反復される何かである。毎日毎日繰り返されるということは、つまりその機能によって、本来ある機能は「不要になる」ということを意味するわけで、つまり、そこになんらかの「堕落」が始まっていると考えられる面をもっている、ということであろう。
(たとえばこういった視点から、このことをニーチェに代表される「実存主義」の起源を考えることもできるだろう。

現存在は、たんにほかの存在者の間にならんで出現するにすぎない存在者ではない。それはむしろ、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされているということによって、存在的に殊別されているのである。してみれば、現存在の存在構成には、それがおのれの存在においてこの存在へむかって、ある存在関係をもっている、ということが属しているわけである。そしてこのことはまた、現存在はおのれの存在においてなんらかの様式と明確度において、自己を了解している、ということを意味する。この存在者には、おのれの存在とともに、かつこの存在を通して、この存在が自己自身に開示されている、ということがそなわっているのである。存在了解は、それ自体、現存在の存在規定なのである。現存在の存在的殊別性は、それが存在論的に存在するということにある。
ここで、「存在論的に存在する」と言ったのは、まだ、「存在論を形成する」という意味ではない。だから、存在論という名称を、存在者の存在へ向けられたあからさまに理論的な問いを表わすために言葉として留保しておくとすれば、ここで言おうとした現存在の存在論的存在は、前=存在論的な(vor-ontokofisch)存在と呼ぶべきものである。けれどもそれは、ただ単純に存在者として存在するというのとおなじことではなく、存在をなんらかの形で了解するという仕方で存在するということを意味しているのである。
現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合いうる存在そのものを、われわれは、実存(Existenz)となづけることにする。そして、この存在者の本質規定は、なんらかの事象的実質(それが「何であるか」)を述べておこなわれるものではなく、むしろ現存在の本質は、そのつどそれの存在をおのれの存在として存在しなくてはならないということにあるのであるから、それゆえにこの存在者の呼び名として、純粋な存在表現たる現存在という名称がえらばれたのである。
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

実存とは、ある自分が自分に見出すなにものか(アイデンティティ)のようなものだと言えるだろう。しかしそれは、どこか著しく「近代的な」態度に思える(古代の人々は、そもそもそんなことで驚いたり悩んだりしないだろう)。つまり、実存という、どこか「文学的な」問いは、明らかに、近代における、さまざまなヴァーチャル・リアリティが自己言及的な言及を「ヴァーチャル」に(メタに)問うことを
日常
にしたことにこそ、その意味があるように思える...。)
そして、ハイデガーの時代にもなれば、ラジオやテレビなど、そのヴァーチャル・リアリティのテクノロジーはどこまでも、大衆化していく。ヴァーチャル・リアリティの特徴は、言わば人間のさまざな認識活動を、ヴァーチャルに代替する、ということになるわけだが、それは逆に言えば、
本当にそれをヴァーチャルなものに代替させていいのか
という問いを生む。

ハイデガーは、日常的な現存在について、次のように述べている。すなわち、「現存在は、差しあたってたいていは、おのれの世界によって心を奪われている」と。そのような、日常的、平均的な現存在を世人と呼ぶ。それでは、以下で、日常性における現存在としての世人および頽落についてのハイデガーの定義、説明を検討していこう。
ハイデガーは、世人の存在性格として、次の六点、すなわち、「懸隔性」(Abstandigkeit)、「平均性」(Durchnittlichkeit)、「均等化」(Einebnung)、「公共性」(Offentlichkeit)、「存在免責」(Seinsentlastung)および「迎合」(Entgegenkommen)を挙げている。それら諸概念間の関係として、懸隔性、平均性、均等化は公共性を構成している。そして、ハイデガーは、懸隔性、平均性、均等化の三概念を、それぞれ、現存在が、「他者に対して優位を保ちながら、他者を押さえつけることをねらうこと」、「他者へと態度をとる関係のうちで遅れを取り戻そうとすること」、「他者との区別を均すこと」と説明する。
そして、ここでハイデガーがとりわけ問題とするのが、その際の他者とは誰か、という点である。日常的な現存在は他者に隷属してしまっており、他者が現存在から「存在」を奪取してしまっているのである。その際、他者は、特定の他者ではなく、あらゆる他者がそうした他者を代表し得るのである。いかなる特定の人でもなく、たとえ総計ではないにせよ、すべての人々であるような他者、それこそが、世人なのである。これが、ハイデガーによる世人の定義である。
このような世人が持つ問題点をハイデガーは、次の二点に見ている。すなわち、第一に、世人が、おのおのの現存在から、「決断」(Entscheidung)、「判断」(Urteilen)を回避させる点である。なぜなら、平均性、均等化により、各現存在は、決断および判断を、他のひと、すなわち、世人がする通りに合わせようとするからである。そして、このことが、第二の問題点を生み出す。すなわち、決断および判断を回避させることが、現存在から「責任」(Verantwortlichkeit)を取り除くのである。
ハイデガーは、このような、世人がもたらす、決断回避、責任免除という状況は、容易には解消しがたいと捉える。なぜなら、現存在のうちに、「楽に行い」(Leichtmachen)、「軽く考える」(Leichtnehmen)という傾向が存在しているからである。そのため、「世人はおのれの執拗な支配を保ちつづけ強化することになる」とハイデガーは考える。

(こうやってみると、ゼロ年代内のセカイ系の問題意識と、ハイデガーは非常に近いという印象を受けますね。)
世人(ダス・マン)とは、まさに現代における、人間そのものと言っていいだろう。私たちはすでに、人々をなんらかの統計的な「平均」として見ることから逃れられなくなっている。それは、ヴァーチャルに提供される「人間なるもの」のイメージのことであり、人々はさかんにそれについて論じていても、それはヴァーチャルな「人間ではない」なにかでしかないことには変わらない...。
しかし、こういった問題意識は、ハイデガーの時代など比ではなく、現代の方がそのヴァーチャル・リアリティのテクノロジーの発展はすさまじく、人々は翻弄されっぱなしだと言っていいわけだろう。だとしたら、なおのことその「処方箋」が求められているのではないか。
一般に、こういったテクノロジーの問題を考えてきたのが、マルクス主義だったわけだが、近年はマルクス主義自体を考えている人たちがほぼ絶滅してしまって、だれもこういった問題意識すらもたなくなった、というのが現状だろうか。

こうして、自由主義を含むあらゆる普遍主義が、特殊な歴史的・社会的なコンテクストに規定されており、そこで表明されている普遍的な規範原理は贋物だとされる。こうした批判は、先に述べたように、二〇世紀の終盤以降に広く一般化するようになる。しかし、この批判の----内容ではなく----基本的なスタイルやねらいは、ごく標準的で古典的なマルクス主義によるイデオロギー批判の圏内にある。マルクス主義は、中立性・普遍性を装うイデオロギーや制度が、特殊な生産関係に規定されており、そのことによって、特定の階級----ブルジョアジー----の利害を特権化している、と批判する。こうした批判の中にある「生産関係」を、社会関係や社会構造の全体へと一般化すれば、あるいはこうした関係や構造を構成する要因としての支配や権力の概念を刷新すれば、現代風の批判ができあがるだろう。
<世界史>の哲学 古代篇

では、ハイデガーが「存在と時間」の中で提示した、この問題への「処方箋」はなんだっただろう。掲題の著者はそれを否定的に分析するが、間違いなく「単独者」のイメージだと思われる。

アレントが、死から単独者を導き出す論理は、次の言述に集約されている。すなわち、「自己の最も本質的な特性は、その絶対的な自己中心性、それがすべての仲間から根底的に分離していることである。この本質的な特性を規定するためにハイデガーが導入したのが実存論的なものとしての死への先駆だった。というのも、死のうちでこそ、人間は絶対的な個体化の原理を自覚するからである。ひとり死のみが、人間をその仲間たる人びと----『世人』として彼が自己であることをたえず妨げる者たち----との結びつきから引き話す。なるほど死は、現存在の終わりかもしれない。しかし同時に、死は、究極的に重要なのは私自身であるということを保証するものである。無そのものとしての死を経験することにおいて、私はもっぱら自己であることのみに自らを捧げる機会を手にし、原理的な責めの様態において、自らを巻き込む(共)世界からきっぱりと自らを解き放つのである」という言述である。
以上の言述において、アレントが「死への先駆」(Vorlaufen in den Tod)を重視していることが見て取れよう。つまり、死への先駆によって、自己は、「自己であることのみに自らを捧げる機会」を持つようになり、そのことが、自己と世界との関係を絶つのである。そして、アレントは、世界から隔絶された単独者としての自己を、本質的な自己として捉えるのである。このことは、「自ら自身を世界の外へと引き離す死にあってのみ、人間は自ら自身であるという確信を得る」という言述からも推察し得よう。

本節では、『存在と時間』における死および死への先駆の概念を分析していく。これらの概念は、『存在と時間』における現存在の本質を単独者として捉える諸研究が、自己の主張の根拠として用いる概念である。まずは、その際に引用される『存在と時間』におけるハイデガーの叙述を示しておこう。

「死は、おのれに固有な現存在に無差別に『属している』だけなのではなく、死は、現存在を単独の現存在として要求する。先駆において了解された死の没交渉性は、現存在を現存在自身へと単独化するのである。この単独化は「現」を実存のために開示する一つの仕方なのである。この単独化があらわにするのは、最も固有な存在しうることへとかかわりゆくことが問題であるときには、配慮的に気遣われたもののもとでのすべての存在および他者と共なるあらゆる共存在は、何の役にも立たないということ、このことである」

第一章第二節で検討したように、『存在と時間』における現存在の本質を単独者として捉える諸研究のうち、とりわけ、アレントおよび伊藤は、上記の引用文を中心的な根拠の一つとして、次のことを主張していた。すなわち、第一に、死への先駆によって、日常的な現存在は本来的な現存在となることである。そして、第二に、本来的な現存在は単独者であることである。
第二の主張については、前章より異論を提起しており、本章においては、第四節において、再び検討したいと考える。しかしながら、第一の主張については、筆者もまた、同じ立場にある。すなわち、アレントおよび伊藤が述べるように、死への先駆は、本来的現存在となるための契機として位置づけられるものと考えるのである。

ハイデガーは、五つの要素をもって、実存論的な死を定義している。すなわち「現存在の終わりとしての死は、現存在の最も固有な、没交渉的な、確実な、しかもそのようなものとして無規定的な、追い越しえない可能性」である。簡単にではあるが、五つの要素について、確認していこう。
「最も固有な」(eigenst)とは、死が、そのつど現存在自身がおのれ自身のものとして引き受けなければならないものであることを意味している。次の、「没交渉的な」(unbezuglich)という要素は、現存在の本質を単独者として解釈する諸研究が、その根拠として着目するものである。それは、死が、「このようにおのれに切迫しているときには、現存在においては他の現存在とのすべての交渉は絶たれている」ということを意味する。
次に、「追い越しえない」(unuberholbar)という性質を先に確認しておこう。なぜなら、残る二つの性質について、ハイデガーは、以下で確認するある共通の特徴を付しているからである。「追い越しえない」という性質について、ハイデガーは、「存在しうることとして現存在は、死の可能性を追い越すことはできない。死は、現存在であることの絶対的な不可能性という可能性なのである」と述べている。これは、つまり、死を乗り越えて、なお、現存在が存在し続けるということが不可能であるということを意味していると言えよう。
残る二つの性質は、日常的な現存在である世人によって、隠蔽される傾向にあるという特徴を共通に持っている。まずは、二つの性質の意味を確認しておこう。まず、「確実な」(gewiss)とは、すべての人間が死亡するということの最高度の蓋然性である。次に、「無規定的な」(unbestimmt)とは、死がいつやってくるのかという時期の不確定さ、裏を返せば、死があらゆる瞬間に可能であるということを意味する。この二つの性質が隠蔽あれるとはどういうことであるのかを、次に確認する。
世人としての日常的な現存在の死へのかかわり方は、「いつかは、しかし当分はまだない」という言葉で示される。このかかわり方において、まず、死の無規定性という性質が隠蔽されてしまっている。なぜなら、この「しかし」という表現によって、死はあらゆる瞬間に可能であるということ、つまり時期の無規定性を隠蔽してしまうからである。このかかわり方は、一見、死の確実性については承認しているかのように見える。しかしながら、ハイデガーは、それについても否定的である。なぜなら、「ひとは、確実である死のことを知っている(wissen)のだが、それでいて本来的には死を確実であるとさとって(gewiss)『いる』わけではない。現存在の頽落しつつある日常性は、死の確実性を識別している(kennen)、それでいて確実であるとさとること(Gewisssein)からは回避する」からである。

このあたりが、カール・シュミットやエルンスト・ユンガーにも通じる、ドイツ的な文学的な「孤立=独立=自立」のイメージだろうか。たとえば、今回の東日本大震災でも、多くの人々が亡くなった。まさに、あの「瞬間」だけは、「日常」は消滅する。死が、ヴァーチャルなイメージであることをやめ、そのもの死として、「現れる」。そして、死そのものと向き合ったとき、ヴァーチャルな「日常」という仮面は、剥がされ、剥き出しの
単独者
が現れる。そこで、「それでも」どう生きるのかを問われるわけである。
(私は、日本がなかなか脱原発を宣言できないことに、こういった「官僚」主義的な、非属人的機械主義の凡庸さを感じざるをえない。日本の官僚も大手マスコミジャーナリストも、言うことは同じで
自分はちゃんとやった
という「いいわけ」だろう。この様子は、ナチスの官僚を思わせるような不気味さがないだろうか。ちゃんとした手続きを経て、ちゃんとしたルールでやってることのなにが悪い、という態度は、つまりは、凡庸な「傲慢」さを感じなくもありません。専門家の発言を「取捨選択」するのも、その専門家が信頼できるか、を判断するのも言わば、
手続き
の問題であって、その中で、こいつは信用ならないという選択も
手続き
によって正当化される。すべてが、そういった非属人的な機械的官僚主義が、日本の原発50基超えを許し、地震危険地帯に次々と立地される
国家体制
を許してきたわけでしょう。
私たちがここで問うているのは、東日本大震災の大勢の死者を前にして、脱原発を、今ここ、で「決断」するか、のはずです。あなたが「ちゃんとやった」かどうかなんて、どうでもいいわけです。)
最後に、こういったハイデガー存在論について、自分なりに考えてみたい。前回も言ったように、自分の「自由アナーキズム」の立場において、日常的な用法を離れて、言葉を「定義」することを容易にしないとしたとき、この存在という言葉の、こういったメタな用法は、当然認めるわけにはいかない。

三、「存在」は自明の概念である、と思われている。なにを認識し、なにを言明するにしても、存在者にむかってどのようにふるまい、また自己自身にどのように関わり合うにしても、そのすべてにおいて「存在」という言葉がなんらかの仕方で用いられており、そしてこの言葉はそこで「わけもなく」了解されている。「空が青い(青くある)」、「わたしは嬉しい(嬉しくある)」というようなことを聞いて、だれにでもその「ある」がわかる。
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

つまり、存在とは西欧の言語に一般に見られる、英語でいう「be 動詞」のことであって、それ以上でもそれ以下でもない。そういったものを、
名詞化(概念化)
することによって、なにかを言った気になることは滑稽であるだけでなく有害だろう。
ではなぜ、ハイデガーはわざわざ「存在」という言葉を使うのか。それは、上記にも書いたが、ドイツ観念論への批判を意味していたわけで、つまり、あらゆることを
認識論
(つまり、主観と客観の「一致」)によって説明しようとする態度の「狭さ」を言っていたわけだろう。

基礎概念とは、それぞれの科学のあらゆる主題的対象の根底にある事象領域についての諸規定であって、この領域はこれらの規定においてあらかじめ理解され、そしてこの理解があらゆる実証的研究を先導することになるのである。したがって、これらの基礎概念が真正の証示と「基礎づけ」を与えるためには、それに相応して先行的に事象領域そのものを究明しなくてはならないわけである。ところで、これらの事象領域は、それぞれ存在者そのものの境域から得られるものであるから、ここで述べたような形で基礎概念を汲みあげる先行的な探求とは、この存在者をそれの存在の根本構成について解釈するという仕事にほかならない。かような探求は、実証的諸科学に先駆しなくてはならないし、また先駆することができるのである。プラトンアリストテレスの仕事が、その例証である。この意味でおこなわれる科学の基礎づけは、ある科学のそのときどきの現況をしらべてその「方法」をつきとめるというような、おくればせの「論理学」とは、原理的に区別さるべきものである。それは、特定の存在領域のただなかへいわば率先して飛びこんで、それに具わる存在構成をはじめて開示し、こうして得られた諸構造を問いの透明な指針として実証科学の用に供えるのであるから、この意味ではそれは先導的な論理学である。たとえば、哲学的にみて第一義的なものは、歴史学の概念形成の理論ではなく、また歴史学的認識の理論でもなく、さらにまた歴史学の客観としての歴史の理論でもなく、本来的な意味で歴史的に存在するものを解釈してそれの歴史性を究明することなのである。同様にまた、たとえばカントの『純粋理性批判』の積極的収穫も、そもそも自然一貫に本属するものを発掘する作業に着手したことにあるのであって、なんらかの「認識論」のようなものにあるのではない。カントの超越的論理学は、自然という存在領域の先験的事象論理学なのである。
存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫)

つまり、ハイデガーの哲学はヘーゲル的な認識論の狭さから、再度、カントの論理学を救い出す作業だと言っていいだろう。私はここの引用部分に大いに共感するのだが、一点違うと思うのは、ここにおける「本質主義」だろう。つまり、ハイデガーはこういった態度が、なにか特別な「哲学」の中だけのなにかだと思っているところではないだろうか。
私はむしろ、ここの引用にあるような態度は、一般的に見られる(数学基礎論で言うなら)モデル理論のことでしかない、と考える。つまり、ここでハイデガーが言っていることは、むしろ、さまざまな分野で一般に見られるなにか、だと思うわけである。
では、認識論の狭さを、こういった存在(=モデル)によって、代替する考え方において、どうやって認識論の「正しさ」(また、その限界)を乗り越えるのか。
このように考えたとき、(以前も紹介したことがあるエッセイであるが)非常に自分にとっての「日常」の感覚が、もっとも雄弁に物語っているように思える。

形式化のパラドックスソフトウェア工学でもおきる。形式的技法(formal methods)とよばれるソフトウェア工学の形式化の目的は、単純化してしまえば「ソフトウェアやハードウェアの正しさ」を形式的証明を使ってチェックすることである。最近ではCPU設計などにモデルチェックという形式的技法が使われるのは常識となり、インテルマイクロソフトも形式的技法の研究者を雇っている。
形式的技法を使うとソフトウェアやハードウェアの信頼性が飛躍的に向上する。形式的証明による信頼性・厳密性の向上、これこそ、ヒルベルトの先駆者であるフレーゲ、ペアノ、ラッセルが目指したものだった。形式的技法は、それをソフトウェアの世界に対して、コンピュータで処理可能なヒルベルトの形式的体系を使って行うものなのである。対象が数学でなくソフトウェアであることを除けば、形式的技法こそ形式的こそ形式的体系の正統であるともいえる。
その形式的技法の最初の応用例の一つが、一九八〇年代末に英国で開発された Viper というMPUだった。Viper の開発プロジェクトでは、MPUが期待どろちに働くことが数学的に証明されたのである。そういう作業を行うときには、まず、仕様というものを形式言語で書く。仕様は作るべきソフトウェアの機能は、こうこうであって欲しいと書いた文書である。
たとえばMPUで実数計算を行う浮動小数点演算ユニットの場合、国際規格で決められた計算の方式を、その機械が忠実に再現できるかどうかを証明することになる。その場合、仕様は浮動小数点演算の国際規格を論理式で書いたものになる。そのためには仕様記述言語と呼ばれる形式言語が使われるが、Viper の場合はケンブリッジ大学で開発されたHOLという証明ソフトウェアの形式言語が使われた。
もちろん形式的技法を使って Viper チップという物理装置自体の正しさをHOLで証明することはできない。その物理装置の内部構造が、いったん、HOLの形式言語の論理式にコピーされ、それの正しさが証明チェッカーで確かめられるのである。ここに形式化のパラドックスが生じる可能性がある。そして、証明論の場合とはまったく別の形で、それが実際に起きたのである。
形式的技法に、この問題があることは観念論や哲学的評論としては古くから知られていた。しかし、これはあらゆる数学的方法にまつわる宿命である。方程式を立てて問題を解く場合も、現実と合わない方程式をたてれば、同じ問題が発生する。しかしそれでも数学的方法は十分役にたっている。ターゲットは工学的応用である。観念論や空虚な哲学は問題外である。実際に適用して役にたてばそれでよい。
そういう理由で形式的技法が相手にする世界では、こういう問題は少ないと信じられていた。工学的な見方からは、証明論における S や S' のような形式化の理論的違いは机上の空論である。形式化の限界についてのリプトンたちの有名な議論はあるが、形式化の不確定性の問題は現実には問題にならず、洗練法などを使って慎重に努力さえすれば、いかなる離散的システムも問題なく形式化できるというのが暗黙の前提であったといえる。専門家の間では、それよりはむしろ巨大な仕様や証明のサイズの問題の法がクローズアップされていたのである。
ところが現実に Viper プロジェクトで発見されたことは、証明の巨大なサイズの問題は、何とかねじ伏せることができるが、一方で、形式化により、現実を形式的仕様で写し取る作業で発生する誤りは無視できないという事実だった。さらに、Viper プロジェクトでは、それらの誤りは、形式的な方法でなく、むしろ平行して実施されていた伝統的検査技法で発見されたのである。
形式化は非常に困難かもしれないが、いったん、仕様とプログラム開発過程の形式化が実施されれば、誤りを徹底的に排除することが可能であり、テスト、デバッグ、検査などの伝統的技術は必要なくなるというのが形式的技法のうたい文句だった。しかし現実は異なり、現実を形式化するという過程においてこそ致命的な誤りが忍び込む危険性があり、それは形式的でない方法の助けをかりて発見されるのである。
実は、これは形式化の工学的応用だけでなく、数学の形式化においてもおきる。Viper プロジェクトと同じころ、私は数学の形式的証明からバグの無いプログラムを自動生成するPXというシステムを開発し、それを使ってプログラムを作成する実験を行った。私が作ったのはプログラムの正しさの証明ではなく、数学の形式的証明だった。PXを使えばプログラムは証明から自動生成されるから、直接プログラムを書く必要はなくそのかわりに数学の定理をコンピュータで証明すればよいのである。
そのとき私が見たものは、正しい数学の形式的証明から生成されえたバグのないプログラムではなく、まちがって形式化された数学の定理から生成されたバグのあるプログラムだった。コンピュータは、形式的証明を完璧にチェックしたが、定義や補題の形式化の誤りのチェックには、まったく無力だったからだ。そして現実には誤りは定義や補題の形式化に集中的に起きたのである。
さらに皮肉なことには、Viper プロジェクトと同様、この難局を救ってくれたのは、形式的方法でなく非形式的方法だった。間違った証明から生成された間違ったプログラムを、プログラマが普通に行うような方法でテストすることにより、形式的証明による方法だけではとても実現できない効率で、元の証明の誤りを見つけることができたのである。数日間の証明のテストでひとつを例外として誤りのすべてが発見され、最後のひとつの例外だけが形式的技法を用いて一ヶ月以上かかって発見されたという実例さえあった。これは特殊な例ではなく、コンピュータによる数学の形式化、ソフトウェア工学における形式的技法では、こういう例はいくらでも見出すことができるのである。
(林晋「形式化と無矛盾証明のパラドックス」)

パラドックス!

パラドックス!

(別に、カリーハワードの定理をいまさら強調するまでもなく、論理とプログラミングには、ある「同型」性があることが指摘されているわけで...。)
こういった感覚は、科学論のクーンにおける、「練習問題」の比喩や、柄谷さんの「探求」における、科学論での「水泳」の比喩とも整合的に思える。
システム開発における、ウォーターフローだろうとアジャイルだろうと、その「正し」くなりなさは、こういった「デバック」という過程

  • 古典的な「非」形式的検証方法

「こそ」が、「その範囲」で意味をもたせるというのは、なんとも「工学的」だが、他方において、これをハイデガーの言う「存在」と呼んでみたくなるわけである。
こういった結論を、こういった自らの「日常」から説明することに、なんとも言えない皮肉を感じるが...。

マルティン・ハイデガーの哲学と政治―民族における存在の現れ

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