古川和男『原発安全革命』

私は基本的に、たいていのことは「構造化」できるという考えの方が、しっくりくることは確かだと思っている。
たとえば、インターネット上における、匿名と実名(顔出し)で言えば、この関係も一つの「構造」の問題だと考えている。

  • 国家 ⊃ 実名(顔出し)
  • 国家^c ⊃ 匿名

つまり、実名言論は、最初から国家に対抗する発言をするつもりがない。逆に、国家側に立って国家に反抗的な国民を「非国民」として、訴える役割を進んで実践しようとする(まさに近年話題の、逆パノプティコン。というか、戦前の日本の治安維持法やドイツのナチスに進んで協力した、マスコミや国民の心性だと言えるだろう)。
他方において、匿名言論はその逆になる。つまり、かなり社会通念上、問題の多いことを発言「したい」(そういう形でしか真実に迫れないと思っている)からこそ、本音で書きたいからこそ、こういった形態を選んでいるわけで、だからといって、それによって完全な匿名性が守られるなどとは少しも思っていない。
つまり、これは「構造」の話だということである。もし国家がインターネット上の発言における匿名を許さなければ、こういった匿名言論に今参加している人たちは、ここで発言しなくなる、ということを意味するだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
もちろん、彼らがインターネット上で発言しなくなるのではなく、
こういった
発言をしなくなる、ということである。つまり、実名言論を「建前」として始めることになんの違和感もないが、ただそこでの発言は「建前」だというだけである。
しかし、これは「当然」の反応なのではないだろうか。わざわざ、実名でつぶやいておいて、国家に危険人物と判断されるようなことを、だれが好き好んでやるものか。
もちろん、「例外」はある。それはそこに「金銭」がからむ場合だ。自分の発言を商品として売っている場合には、それは「リスク」の問題となる。それだけの価値があれば、人に買ってもらえるのだから。そう考えたとき、問題は、「無料のつぶやき」になるだろう。こういったものには、
なぜこの人はつぶやいているのか
という、そのつぶやきの「商品価値」が問題になるだろう。つまり、「本当にそれは無料なのか」。あるイデオロギー的な傾向をもった発言を続けることによって、ある団体から金銭的な援助を受けているのかもしれない。つまりは、「分からない」ということになる。
私がなぜこのことを「構造」と言うのか。自分は本気で、左翼や反権力を吹聴している人を嫌悪しているという人がいたとしても、それを言うを
なぜ「実名」で発言できるのか
ということの自覚があるなら、そもそも自分が左翼や反権力を吹聴している人を嫌悪することと、自分が実名論壇に属していることへの関係に自覚的にならざるをえない
つまり、自らが、どういった「構造」の中で、
自由
に発言しているか、がここでは問われているわけである。
こういった問題を考えるに、近年の最大のトピックである、311以降の原発言論における、池田信夫のトンデモぶりは、典型的な例だと言える。
池田の決定的なダメさは、彼自身が自分の振る舞いを「経済的な問題」だと「最初」に定義したことであろう。つまり、そう自分を説得してしまったがゆえに、原発安全「以外の可能性の検討」についての発言を自らに「禁止」してしまったわけだ(なぜなら、安全でなければ、非経済的になるから)。
しかし、これこそが、「新自由主義」の隘路だったわけだろう。彼らの言説は、ハイエクを代表として、一つのパラドックスに陥る。つまり、彼らが何かを語れば語るほど、
なにも決定できない
ということである。つまり、自分たちが決めることは、自分たちの自由の基盤を毀損することに「必然的」に陥るのだから、自分たちで自分たちの問題を解決してはならない、という逆説である。つまり、問題こそが存在してはいけない、ということになる。
原発はたとえ爆発しても、安全でなければならない。たとえ、放射能福島県全域にばらまいても、安全でなければならない。つまり、プルトニウムは安全でなければならない。原発で働く作業員は、どんなに放射能を浴びる作業を行うことになろうとも安全でなければならない。なぜなら、そうでなければ、原発を今までのように、作り続けることができなくなり、原発製造企業は儲からなくなり、
非経済的
だから。つまり、どんなことがあろうとも、世界中の人たちに、原発が安全であることを説得しなければならない(安全であると認めさせて、日本ブランドは少しも毀損されていないと認めさせて、世界中に日本製品が311以前と同じように売れ「させなければならない」、原発を作り続けなければならない)という、どこが「自由」なのか分からない
不自由
な強迫的なまでの強制的言説に推移していく(たとえば、中西準子のリスク論計算とは、そのリスクによって国民の「平均寿命」が下がるかどうか、がメルクマールとなっていたわけで、どんなに体調異常を国民が感じたとしても、寿命が「平均」である限り、国民は「健康」と考える、というわけである。しかし、これはあまりに私たちの実感からは、かけ離れた基準と言わざるをえないだろう。そこで、各個人の「幸福 QOL」(quality of life)を考慮しようということになる。しかし、そもそもこういった問題設定が、この問題が「国民が選ぶ」問題だという本質を隠蔽することになっていることに自覚的でないわけだ)。
しかし、私たちが考えていることは、そういうことではない。原発を止められる「自由」についてであろう。たとえ、どんな理由があろうと、どんな理由が「なかろうと」、自分たちの意志で、止めたければ止められるのか、が問われているわけである。そういった自由が自分たちにあるのかこそが、問われているわけで、これを「科学」的真実究明の問題と勘違いしているのが、リフレ派(=左翼=デモ)と同型にとらえる、なんとも「凡庸」な実名言説の傾向と言えるだろう(池田のブログは、まるで、一時期はやった、UFOや宇宙人が存在すると吹聴した、テレビ番組を思い出させるような、トンデモな強引な口ぶり、であろう。まさに、転向左翼的な「左翼」ぶり、と言ってみたくなる)。
では、もし「そうではない」原発論がありうるとしたら、と問うてみようではないか。無理矢理、危険なものを「安全」と強弁するような、「科学」的議論ではなく、この問題に真正面から回答を与えようとするなら、どういったものになるか。
掲題の本では、その一例として、興味深いだろう。

この炉では、核分裂連鎖反応を止めるのは容易なので(反応のコントロールが容易なのが液体燃料の大きな利点のひとつである)、通常の緊急時は、すぐに反応を止め、そのまま炉内で核燃料(正確にいうと核燃料を溶かし込んだ溶融塩)を安全に冷却することができる。大地震・大津波などの非常時には、核燃料を炉の下部から地下の冷却水プール内のタンクに落とす。そうすると、連鎖反応は自然にストップする。炉で連鎖反応が起こるのは、そこに中性子を減速させる黒鉛があるからで、核燃料が冷却水プールに落ちれば、燃料のまわりに黒鉛がなくなり、したがって中性子も減速されず、臨界が起こらないのである(難しい話とお感じの方もおられるかもしれないが、本文中で、臨界とは何か、中性子とは何か、減速とは何かを、極力分かりやすく解説しているので、そこを参照していただきたい)。
核燃料溶融塩は、連鎖反応が終わったあとも崩壊熱を出すが(ご存知のように、この崩壊熱で福島原発は大変な辛苦を味わっているのであるが)、地下に落ち、冷却水(ホウ酸水)で急速に冷やされると安定なガラス個体になり、後は自然に冷めてゆく。「崩壊熱の暴走」を心配する必要は原理的にないのである。
万一、核燃料の一部が、地下の冷却水プールではなく、なんらかの事故で炉から漏れ出たとしても、炉外に黒鉛がない以上再臨界になることはなく、空気で徐々に冷却され、ガラス固化体となるのみである。テロにあって炉が破壊されても同じことで、溢れ出た核燃料はガラスのクズ状となり、それ以上飛散することはない。炉は高温格納室と炉格納建屋に守られており、放射性物質が漏れ出る危険性はほとんどない。核燃料は高圧ではなく常圧であり、高圧に伴う各種の危険性も回避できる。

原発の日本においての問題とは、何をおいても、地震だったわけだろう。既存の原発が、ほぼこの問題に無力だったことは、311が証明した。そうである限り、今言われている、ストレステストなるものによって、はたして、国民は原発再稼働を容認できるだろうか。少なくとも、現状維持は、なんとしても国民が許してはいけないだろう(北朝鮮による、ノドンなどのミサイル攻撃に、ほとんど既存の原発が無力であることを忘れてはならない。日本は他国からの核攻撃の恐怖を考える以前に、国内にミサイルや地震による、核「自爆」装置を持っていることを理解する必要がある)。
そう考えたとき、上記にあるような、「安全」は現行の原発との大きな差異となっていると言わざるをえないだろう。
では、放射性廃棄物の問題はどうなっているのか。一万年以上の「管理」を要請する既存の原発は、言うまでもなく、「ナンセンス」の極みであろう(そんな先の未来を「想定」すること自体が、人間の歴史の冒涜以外のなにものでもない)。

トリウムを燃料とすれば、プルトニウムはほとんど生まれない。それどころか、本書で提案する「トリウム溶融塩炉」でなら、プルトニウムも炉内で有効に燃やせる。プルトニウムの消滅に一役買えるのである。
トリウムは自然界に存在する物質の中でウランに次いで重いもので、中性子を吸収することで核分裂性のウラン233となる。この生成されたウラン233を「火種」にして、連鎖反応を引き起こさせるわけである。
幸いなことに、トリウムは世界中にある。埋蔵量も充分だ。ウランのように偏在していると、寡占国による政治支配を生むが、トリウムにはそんな心配はない。
しかも、核兵器への利用がとても難しい。なぜ難しいかは第六章に記したが、難しいからこそ核冷戦時代にトリウムが不当に無視されてきたともいえる。ウランからトリウムへの変換は、ウランとプルトニウムがもたらしてきた核兵器の脅威からの解放をも意味する。

核分裂で生まれる放射性元素の処理について、もう少し具体的に触れておこう。表8-1(左頁)をごらんいただきたい。
三〇年以上の半減期をもった核分裂生成物の中で、表8-1に示されたA、B群は、右に記したように、燃料塩内に溶解しているので塩中に留め、燃料塩サイクル内を循環しているうちに次第に消滅させる。特にA群は、FUJIの塩中で熱中性子を吸収して安定な核種になり、より有効な消滅処理が進むだろう。B群の放射性同位体は、加速器溶融塩増殖炉内の高エネルギー中性子により放射能が消滅する。
塩に溶解しない金属性の放射性同位体C群は、化学処理して集めてから加速器溶融塩増殖炉のプールに黒鉛の容器に入れて沈め、高速の中性子による消滅が図られる。
ただし、これらの消滅作業を積極的に実施すると、その消滅に使われた分だけ中性子が核燃料増殖に回らなくなる。発電炉FUJIも加速器溶融塩炉も柔軟な設計性能をもつので、消滅作業が炉の運転に支障をきたさないようにはできるが、中性子が貴重な時期、すなわち45頁図1-2(D)の曲線が立ち上がっている時期には望ましいことではない。二一世紀末近く(二〇七〇年以降)の「後退期」まで、一部は分離貯蔵しておいてから消滅させるのがよい。
この後退期には、軽水原発などから出る核廃棄物がまだ多量に保管されて残っているだろうが、これらも引き受けて発電炉FUJIや加速器溶融塩増殖炉で消滅させることができる。後退期に入れば、ウラン233などの核燃料が余分になり、積極的に消費し消滅させなければならないが、これら核燃料を分裂させて得られた中性子が、積極的に核廃棄物の消滅作業に使え、一石二鳥である。
このような作業にフッ化物溶融塩が最適な作業媒体であることは、もうよくおわかりだろう。すでに提案したように、FREGAT方式で使用済み個体ウラン(あるいはプルトニウム)燃料をフッ素化処理すれば、廃棄物はフッ化物となり、容易に処理できるのである。
「万年問題」といわれた核廃棄物対策が、「百年問題」に還元できたことになる。

もし、一万年以上の話が百年単位の話にできるなら、「次善」の問題として、議論の余地があると(それでも、企業の寿命をはるかに超えるわけで、経済的な実現可能性を問題視しないわけにはいかないことには変わらないが...)。
そもそも、近年における原発の問題とは、「テロ」の問題だったはずだ。私たちは今だにこの問題の答を見付けられていない。

このような世界情勢が実現できれば、プルトニウムはもちろん、天然ウランも欲しがる者はいないだろう。ただしテロリストは別である。天然ウランと重水または純度の良い黒鉛があれば、原始的な炉で比較的容易にプルトニウムが作れる。太古であったが、ウラン鉱床内で天然のウラン炉が稼働したこと(第二章参照)を思い起こしていただきたい。
したがって、このトリウム利用の新時代に、天然ウランの厳重な国際管理を実現させなけばならない。今はまだだれひとりそれを主張する人がおらず、また容易なことでもないが、これは「麻薬」や「銃砲」規制と同類であり、困難だからといって放置できる問題ではない。ウラン資源は比較的に偏在し、すでにかなり詳細に調査管理されているから、国際的対処は充分可能と考えたい。

(ニコニコでやってた桜テレビの番組も含めて)私の掲題の本を読んだ印象は、「次善」の策としては、考えられなくもないということだろうが、これを「あえて」進めるかどうかは、また、別だろうという印象だろうか。つまり、まだまだ「研究」の段階なのだろう。ただ、そのためのお金すらまともにつかない、311以前の傾向があった、ということなのだろう(なんてったって、既存の原発は「安全」だったんですからね。代替案を考えることすら、お金の無駄だったんでしょうね)。もし、既存の「原発村」を、そのまま原発廃止にすれば、そこの「地域振興」が、途絶え、ひいては村の存続が危ぶまれる。極端な変化を嫌う保守主義の考えからすれば、広瀬隆さんも言っていたように、今ある原発村を廃止するときには、なんらかの「経済支援」の継続は、国民感情として必須であるだろう。そういった「代替」として、こういった「別の発電設備」で代替していく方向も考えざるをえない、といったくらいの印象だろうか。
そもそも、なぜ日本において、これだけの原発があるのかと言えば、原発から生まれるプルトニウムが「戦争利用」できるからだろう。つまり、国家は軍事的に利用できない限り、国家予算をさいてまで、国民「サービス」を提供することはない、という典型例として原発を考えることができる。
(もし、科学を「経済」として考えるなら、一切の科学の発展は、既存の既得権益を脅かすことを理由にして、グローバル資本主義によって握り潰されるだろう。上記の桜テレビでも話されていたが、例えば、一切のガンやエイズを完全に治療する薬が、巨大グローバル企業の外から、現れることが可能かどうか、と考えればいいのではないだろうか。そんなことになったら、既存の製薬会社は次々と潰れるかもしれない。ということは、そこでさまざまな「裏社会」による、(ゴルゴ30を彷彿とさせるような)忍者的な企業間テロが想定できるかもしれない。
同じような話で、なぜアップル社がソニーとの音楽端末での競争で、優位を保てたのかは、ソニーが系列内に、本来は利害が対立する
利益相反
する音楽や映画などの著作権を「守る」側を内包していたから、どうしても「自社内著作権の保護」を優先する商品しか発売できなかったから、アップル社の iTunes に敗北したと考えるのが普通だろう...。)
このように考えるなら、どのように戦争を廃絶していくのか(極小化、無効化していくのか)と、どのように「非核」世界を実現していくのか、という問題には大きな繋がりがある。戦争による紛争解決を、あきらめたくない連中は、いつまでも、既存の原発にしがみつき続ける...。

原発安全革命 (文春新書)

原発安全革命 (文春新書)