鈴木貴博『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』

私はそもそも、ワンピースもガンダムもあまりいい「消費者」ではない。ガンダムも、まともに見たのは、初代ガンダムくらいで、それも、子供の頃だから、ちゃんと見ていたとは今では言えないくらいの記憶しかない。
ワンピースはさらにひどくて、昔は、間違いなく、コミックで読んでいた記憶はあるのだが、ジャンプを読まなくなるのと一緒に、まったく読まなくなった(最近、15巻くらいまで読み直したレベル)。
だから、掲題の本について、論評する資格なし、となるのだろうが、そこをなんとか読解してしまうのが、私の読書法というもので、テキストはテキストで「閉じる」、と。そう、作者そっちのけで、勝手に分かったようなことを言うのが、私流となる。
ただ、そういった問題を除いても、この二つには大きな違いがある。それは、間違いなくワンピースは
子供向け
に作られた人工的な世界だということだろう。つまり、どらえもんなどと同じく、あるフレームを作者が設定し(殺すという言葉がでてこなかったり、セックスやそういったことを匂わせる大人の営みが徹底して描かれなかったり)、ある種の子供への影響を避けた範囲で、大人世界の複雑さを子供に示唆するような。そのため、ワンピースの世界は、ストーリーの感動とは別に、常にその「嘘くささ」が強調されることになる(私が、一般に子供向けと呼ばれるものに興味がないのは、こういった側面を無視した議論は空疎だと思うからだろうか)。
つまり、ここにおいては「作者」が考える「道徳」を物語として、「強制」する世界となる。では、その作者の道徳とはなんなのかが、まずは分析せざるをえなくなるだろう。
ワンピースを読んで最初の違和感は、ルフィの子供時代の記述で、そこにおいて、幼いルフィが慕う海賊の船長が、ルフィに向かって「友達」と叫ぶシーンであろう。もちろん、感動的な場面なのだろうが、どう考えても、年齢的には「友達」と呼び合うことは不釣合いだ。
長幼の序ではないが、ある程度の年齢の間には、呼び方において、分類されるのが、東アジアの儒教文化の特徴であろう。確かに、ルフィはその船長と、まるで「さし」で、ため口で語り合っている。
もちろん、ルフィは幼いのであって(まだ、小学生くらいだろう)、つまり、弱い。しかし、そういう意味で言うなら、だれもが幼なかったと考えるなら、ルフィが順調に育てば、あと10年もすれば、立派な大人になって「強くなって」いるだろう。そのような時間軸で考えるなら、船長がルフィを「友達」と呼ぶことに「なる」ことは、どこか予想させるものがある。
近年のリキッド・モダン・ソサエティにおいて、企業内において、ほとんどの仕事は、年齢に意味がなくなっていく。むしろ、幼い頃からITに慣れ親しんできた新入社員の方が、場面によっては知識があり、成長も早い。
しかし、こういった傾向が比較的近年の現象であることは言うまでもないだろう。軍隊においても、どこにおいても、階級は絶対であって、そういったものによって秩序を形成する。
ワンピースの世界は、暴力の世界である。例えば、第二巻だったかにあらわれる、モーガンは、その地域の海軍の将校でありながら、その地域(国家)の、一番えらい存在として登場する。一番えらいならば、

  • 階級が上の存在は下の存在に対しては、「命令」する側であって、「命令」される側にはならない。

一番えらいので、だれもこの人に逆らえない。言うこと、やられることに従わなければならない。
ここで、なぜ、こういった「ルール」が成立しているのかが「暴力」の実力となる。海賊は、街を荒らし、金品財宝を奪う。同じように、国家は国民から「定常的」に「略奪」する。逆らう市民は、暴力によって制裁を加え、それでも逆らう場合は、一族郎党、全員殺す場合もある。もちろん、市民はこういった制裁に納得しない。では、どうするか。実力で、この一番えらいという奴を倒せばいいわけだが、これが「できない」ということがこの街の「暗黙の前提」になっている(そうでなければ、ルフィの倒し甲斐がない、ということになるだろう)。
基本的に、ワンピースの世界は、伝統的な週間少年ジャンプのフレームの上にあるという印象である。彼らは自らを海賊と定義しておきながら、なわばりをもたない。彼らが目指す土地に向けて、常に前に進み続ける。彼らの実力なら、ある程度の土地を「彼らの領土」としてもいいはずだが、彼らはそういったことに興味がない。
彼らが興味があるのは、彼ら一人一人にとっての「夢」である。ただし、重要なことは、彼ら一人一人にどれだけのヴァイタリティがあろうとも、この「夢」をかなえるには、自分一人では「難しい」という自覚があることだろう。
そこで彼らは、チームとなる。ルフィはこの船旅の友となってくれるメンバーを探す。ただしそれは、彼の「右腕」となる存在であるのだが、彼に服従しているわけではない。言わば、どんな理由によってでもいいので、同じ方向で協力し合える存在と言えるだろう。

ルフィたちは社会と仲間のどちらかを選ばなければならないときには、仲間ないしは家族を選ぶ。それは必ずしも初めからそうだったわけではない。ひとりひとりが過去に暗い体験を持ち、仲間に出会い、絆が深まることでそのような選択をするようになる。
ルフィたち麦わらの一味の航海士ナミは子供の頃に住んでいたココヤシ村を海賊団に蹂躙される。魚人たちに虐げられる村人を見て、子供だったナミは自分ひとりで戦うことを決める。それは自ら魚人海賊団に入り、ほかの海賊から奪った金で村を買い取るという孤独な戦いだった。
そのナミがルフィたちと出会い仲間としての絆が深まっていく過程で、魚人海賊団から村人達を人質にされて「魚人海賊団に戻るか、村人が殺されるかを選べ」と究極とも言うべき選択をつきつけられる場面がある。
それまでの心の弱い彼女だったら仕方なく自分が犠牲になって(つまりルフィたちから離れ魚人海賊団の一味に戻ることで)村を救おうとしたはずだ。しかし魚人海賊団と必死で戦うルフィたちに勇気を与えられたナミはどちらも選ばずに魚人に立ち向かうことを選択する。「ごめんみんな!!! 私と一緒に死んで!!!」と告げるナミの姿に弱い村人たちも一緒に魚人に立ち向かう勇気を振り絞る。
このエピソード以降、物語の中では何度も主人公たちの誰かに対して、「死ぬか、服従するか」を選ばせる絶対強者が登場するが、そのたびに誰もが勇気を持って死ぬのでも服従するのでもなく、仲間を信じて戦うという決断を下す。彼らのそのゆるぎない友情と決断にしびれる読者は多い。

これは、戦争を考えると分かりやすいかもしれない。戦争は一人では行えない。さまざまな「駒」が集まり、始めて、一つのオペレーションは成立する。つまり、ここに参加している兵隊同士の共同行動が非常に重要である。彼らは、もしその「役割」を手を抜くと、自分が死の境界を彷徨うことになるだけでなく、同じオペレーションを行っている味方の兵隊にも、そういった問題に直面させることになる。
そこで、ゲーム理論である。お互いが協力することによって、オペレーションが成立するなら、お互いは助け合うことが「合理的」となる。
これが「朋友」である。
私はついこの前、現代社会における「友達」の不可能性について書いたが、それは現代社会を規制する(法的な)条件だとしても、ある「例外状況」においては、そのルールは成立しなくなる。
はるか古代ギリシアの頃から、軍人たちはホモセクシャルな関係を比較的、選択してきた。これは、日本の江戸時代の武士についても言えるし、三島由紀夫のような人にも言える(自衛隊においても考えられるだろう)。その特徴は、「死を覚悟すること」が、さまざまな反転を生むと言えるだろうか。
死はハイデガーもそうだったように、ある「極限点」のような役割をする。死を覚悟するということは、「死なないようにする」ということと同値である。死を覚悟しなければならない状況において「生きよう」とすることは、さまざまな慣習的な振る舞いについての「懐疑」を必然的に生みだす。
もし、ルフィのような、圧倒的なパワーをもつ存在に守ってもらえるなら、自分はこの戦場を生き残れるかもしれない。そのかすかな望みは、自らの存在を問う。つまり、愛は「死」によって、その「存在」をあらわすのである。
ではこういった傾向は、儒教文化において、どのように扱われてきたのだろうか。

古い日本人が仁義に重きを置いて行動する美学は、『ONE PIECE』の世界観にも色濃く反映されている。釈迦に説法かもしれないが、儒教で言う仁とは友愛の心、義は正しい行いをする心の意味。そして2つが合わさった仁義となると近しい間柄の人間に対する欠かせない礼儀や義理の意味になる。それらの概念はすべて漫画『ONE PIECE』の作品の中で重要な意味を持ってくる。
結果的に、尾田が描いた『ONE PIECE』の影響を受けたワンピース世代も、古い仁と義の心を知らず知らずに大切にするようになった。それと対比するガンダム世代はというと、実は『昭和残侠伝』で高倉健や池辺良を追い込む新興暴力団の側の経済合理的な考え方に感化されながら育ってきたという大きな違いがある。

ルフィたちワンピースの仲間たちの紐帯はどこにあるのか。彼らの関係は一種の「義兄弟」と言えるだろう。ジャンプ文化は、非常に「ヤクザ」カルチャーに近い。彼らは正義に厚く、なによりも義を通すことを大切にする。そこでは、自らの利益に優先してでも、自らが信じる正義を生きる道とする。こういった姿は、どこか、日本のヤクザ文化における、国定忠治の物語を思い出させる。
国定忠治の時代において、三国志水滸伝がかなり、一般的な江戸カルチャーになっていたのだろうということは想定できる。実際に、江戸時代は何度も「飢饉」に襲われ、国民の生活は困窮を極める。しかし、国家
官僚
による、年貢のとりたては熾烈を極める(こういった傾向性は、現代においても変わらない)。そういった時代において、あえて、民草の側に付き、独自の「政治」を行い、民草に「福祉」を提供する「カウンター・ガバメント」は、たとえ短い期間だけ存在が許された「ユートピア」だったとしても、その役割は長き歴史において、語りつがれる(ジャンプ的伝統が、こういった文化の延長にあることを忘れてはならない)。
国定忠治は、自らが、キリストのように磔にされ、死ぬ前に、孝経を読み上げている。これは、江戸時代の大衆において、孝経が一つの流行になっていたことを意味する。
その孝経の世界の特徴とはなんだろう。その特徴は二つあり、

  • あらゆる物事の源泉を「孝」によって説明しようとする。

(このことが、日本の陽明学を特徴づける。)

天子の孝を延長して論じており、孝が普遍的であることを構成している。因みに、この章のように、孝が天・地・人(三才)という世界のすべてに関わるとする、<孝の絶対化あるいは神秘化>をしている点から、日本では孝がすべてとるう中江藤樹大塩平八郎のような、陽明学的な孝解釈が生まれる(一九四ページ)。

孝経 全訳注 (講談社学術文庫)

孝経 全訳注 (講談社学術文庫)

  • 諫言の重要性を強調する。

(以前、大澤真幸さんが幕末における、武士たちの諫言の文化に注目していた部分を紹介したが、こういった特徴が、孝経から説明できることは興味深い。)

しかし、儒教において、『孝経』が諫言の重要さの理論的根拠となっていることなど、今ではほとんど知られていない。
孝経 全訳注 (講談社学術文庫)

もちろん、「孝」とは、親孝行のことを言っているのだが、これは東アジア文化においては、土俗的慣習にもつながる面をもち、つまり、先祖との繋がりを無上の価値とする考えに関係する。
一見すると、儒教とジャンプカルチャーは、相性が悪いように思える。たとえば、孝経において、なによりも重要な関係は、親である。親こそが、なによりも優先して、尊重しなければならないのが、孝経の価値観になる。
では、「次」はなんだろう。もちろん、「兄弟姉妹」である。つまり、一番親族として、近しい存在こそが(過去の先祖から繋がる)東アジア土俗宗教の伝統となる。
では、上司や支配者との「君臣」の関係はどうなるか。こういったものは、孝経の説明からは、
上記の親や兄弟姉妹の関係がうまくいっていれば、「自然」とうまくいく
という説明になる。つまり、孝経の特徴は、まずもって「孝」を無上の価値としたために、どうしても「君臣」の関係が後景に退いていることが特徴であり、また、これが日本儒教(日本陽明学)の特徴と言ってもいいのかもしれない。
例えば、以前、とりあげた福沢諭吉についての、子安さんの分析を再度、引用してみよう(なお、下記内の引用個所は、翻訳本によって、代替させてもらっている)。

およそ人間世界に、父子・夫婦の関係がないところはなく、長幼・朋友の関係がないところもない。だからこれら四者は、たしかに人間の先天的関係で、これは人類の本性ということができよう。だが、君臣の関係はそれと違うのである。地球上のある国には、その関係のない処がある。現在共和政治の国々がそれである。これら共和主義諸国には、もちろん君臣の道はない。しかし政府と人民との間にそれぞれの義務があって、政治が非常に進んでいる国もある。(第三章 文明の本旨を論ず・66)

現代語訳 文明論之概略

現代語訳 文明論之概略

ここで福沢は父子・夫婦や兄弟・朋友という関係は「人の性」だといえても、君臣はそうではないといっている。「人の性」とは人間的性質(人間の本性・自然性)ということで、儒教のいう五倫(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友)のうち君臣以外の関係は人間に本来的な関係といえても君臣はそうではないと福沢はいっているのである。それは世界の事実によって認められる。現に君臣関係なしで政治体制を構成し、すぐれた治風を示している国々が世界にあるではないかというのである。さらに福沢は君臣関係が天稟のものではないとするならば、その関係はいわば後天的に約束事として構成されたものであり、したがって変更可能なものであるはずだといいきるのである。

故に君主政治を主張するものは、まず人類の本性とはいかなるものかを考えて後に、君臣の義を説くことが必要である。即ちその義とは、はたして人類の本性に基くものか、あるいは人類の発達以後に、偶然の事情で君臣の関係を生じ、その関係についての約束を君臣の義といったものか、事実に拠って、その発達の前後を明らかにすべきである。冷静公平に天然の法則というものを察するならば、必ず君臣の関係は偶然にできたものであることを見出すであろう。そしてそれが偶然の約束にすぎぬことを知ったならば、次いで、その約束が便か不便かを考えなければならぬ。(同上・66-67)
現代語訳 文明論之概略

もし虚心に君臣関係という事態を認識するならば、ある君主に臣従するという関係はその人にとって事後的に偶然の事情によって生じたものであることを認めうるはずだと福沢はいうのである。それは決して人間の本性にもとづくような関係ではない。事後的に結ばれた約束関係である。そうであればこの関係は絶対的なものではなく、その関係が有益であるか否かの判断にしたがって可変的だということになると福沢はいうのである。君臣という関係が人間の本性に属するような先天的な事態ではなく、人間によって設けられた後天的な事態ととらえる経験主義的な認識が、同時にその関係を功利性という経験主義的原則を当てはめることで変更可能な事態とするのである。ここから福沢の次の言葉があることになる。

すべての事物について、便不便の議論の余地があるということは、その事物に修正改革を加え得る可能性がある証拠である。修正改革の可能な関係というものは、天然の法則ではない。たとえば親子の関係などは逆にすることは不可能だし、女性を男性に変えることもできない。だから、父子・夫婦の関係は、まぎれもなく、変革し難い天然の法則といわねばならぬ。これに反して、君主は変じて臣下となることもある。かの湯武の放伐はそれである。あるいは君臣の地位が全く同列になる場合もある。わが国の廃藩置県はそれであろう。(同上・67)
現代語訳 文明論之概略

「修治を加えて変革すべきものは天理にあらず」とは、「夫れ君臣や父子や、天倫の最も大なるものなり」という忠孝一本の理念に支えられた国体論に向けて明治の経験主義哲学が放つことのできた最良の批判である。

魏志倭人伝にも、忠孝の話があるように、日本の歴史において、その成立当初から、儒教の影響は大きかったわけだが、しかし、平安時代以降くらいから、朝鮮半島のように、あまりにも大きな影響下になかったこともあって、宋学朱子学)から比較的距離が置けたこともあって、宋学以前の儒教道教(もちろん、仏教)などの古い形の伝統が残ったという面があるのかもしれない...。)
しかし、このワンピースもそうだが、こういったマンガ的文化において、親や実の兄弟姉妹との繋がりは、あまり強調されない。むしろ、まったくの他人同士であっても、戦場における、友情、契りが成立することこそ、作品をもりあげる要素のように思える(たとえば、ワンピースにおける、ナミは、育ての親も、姉妹も、血の繋がりのない関係だったことが、彼女の人生観を決定している)。
しかし、三国志を考えてもらえば理解されると思われるが、この「逆説」にこそ、意味がある。まったくの他人同士は、さまざまな関係を経て、
義兄弟
の契りを結ぶ。これは、もちろん兄弟姉妹の「比喩」であるが、「だからこそ」そこまでの表現を使って、この関係を説明することに、大きな意味をお互いが感じるわけである。
真の兄弟ではないが、真の兄弟と「同じ」と言うことは、上記にあるように、非常に大きな意味がある。それは、
君臣の関係の上に位置するわけだから。
たとえば、こんなふうに考えてみよう。ある村があったとき、その村は、長い間、ほとんど人の出入りがなかったとする。この状態が、何百年、何千年と続いたとき、その村の人たちが生きていくということは、長い間の近親相姦を繰り返すことを意味するだろう。そうなったとき、はたして、それぞれの村人同士の「遺伝子」の違いをうんぬんすることに、はたして、どれだけの意味があるだろうか。ほとんど、村人全員が「兄弟」のようなものとなるだろう。
しかし、生物学者たちが指摘するように、近親相姦を繰り返すことは、遺伝子の劣化をもたらす。つまり、別の血を、外から取り入れることは、重要となる。では、このことを逆に考えてみよう。そうやって、なんらかの巡り合わせによって、外から別の遺伝子がこの村に入ってきたとしよう。その時点においては、もちろん、その異邦人は「他者」である。しかし、その人が遺伝子をもたらすことになった、

の村において、その人の遺伝子は「兄弟」の遺伝子となる。ということは、どういうことだろう。つまり、その人は「未来を考慮に入れるなら」兄弟なのだ(たとえ、その「友人」との関係は終始他人だったとしても、その縁が近縁の人たち同士の血縁を生むかもしれない)。
ルフィたちは海賊である。この場合の海賊とは、宝を求めて世界を彷徨う人たちと言い換えられるだろう。しかし、その宝とは何か。宝とは「価値」である。価値とは、自らが判断する何かである。つまり、彼らは、ある「価値」を問うているのであって、そういう意味では、物質的ななにかなど「どうでもいい」。
彼らが、旅の途中で出会う村には、その村を守り生きることを無上の「価値」としている人たちがいる。彼らの航跡は、そういった村々を、次々と渡り行く。どんなにその土地が居心地がよくても、彼らは離れ、次の土地に向かって、別れ、行く。
あらゆる共同体は、外部からの訪問者を必要とする。それが、彼らの「価値」を補い、相対化し、共同体を活性化し、共同体の寿命を伸ばし行く。そういう意味では、あらゆる共同体は「他者」を必要とする。共同体は必然的に、「旅人」が存在しなければならない。
もちろん、旅は「危険」である。旅を生きることはギャンブルであるが、こういった旅人がいなくなることはない。それは、そういった存在が本質的に人間社会が必要としているからであろう。
村を守り生きることを誇りにする人たちにとっての、その土地という「価値」は、こういった「旅人」によって「担保」される。つまり、そういう意味では、旅人の

は、村人の土地への「誇り」を、相互的に補い合う関係にあると言えるだろう...。

「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱

「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱