神野直彦『「分かち合い」の経済学』

いつものように、videonews.com の紹介だが、近年、さかんに、大マスコミ様による増税論議がかまびすしい中、こういった利権まみれの、全然中立じゃない大マスコミという大本営連中の言うことを、へーこら、と聞いていたら大変なことになると、と。今、なにが起きているのか。どういった方向こそ目指されるべきなのかを、と。
税とは、なんだろう。税は一種の国家が国民をコントロールする「手段」である。国家はなんらかの理由によって、国民にある方向の行動をしてほしいと思ったとき、一つの手段として、税による強制が行われる。
そして、まず、押さえなければならないのは、税は「今あるもの」だということである。今、法律によって、税が課されている限り、それは、存在する何かだということである。このことを忘れてはならない。
では、それをふまえて、税を考えるとは、どういうことを言っているのか。つまり、その
差異
を考えることになる。一年前から、なにかが変わったとするなら、それによって、一年後に、その人が、その一年前とは、違った生活慣習を身につけなければならないことを意味する。
消費税とは、物を売る行為に税金をかけるということである。その場合に、
どちら
に税金をかけるのか、が問題になる。売る人なのか買う人なのか。一般に消費と言っているのだから、みんな自分がこの税を払っている、と思っている。実際に、レシートには、その税額が書いてあるのだから。つまり、自分の税金を売る側に「代わり」に払ってもらっている、と。
しかし、それは嘘である。
売買とは「暗闇の中の跳躍」なのであって、売れたという事実によって、始めて、契約があった、ということを指摘できる性格のものであり、代わりに払うもなにも、それも含めて買う側は買うかどうかを決めているわけである。つまり、ここには「買うか買わないか」という天と地ほども違う選択行為があるわけである。売れた後に事後的に「それは代わりに払ってもらう」とか言ってる人は、そもそも、商売をやったことがない「観念論者」なのだ。
この税を払っているのは売る側である。つまり、販売の直接の窓口が払う構造になっている。ということはどういうことか。
税とは一種の「行為」や状態に対する「懲罰」にあたる。つまり、消費税は物を売ることは悪だと教育する法律だと言えるだろう(タバコ税というのがあるが、あの高額の税金は分かりやすいだろう)。
では、この法律を受けて、国民はどうするだろう。なによりも、物を売らなくなるだろう。売っちゃだめ、と言われているのだから。
そして、消費者は物を買わなくなる。みんな、
自給自足
を始めるのだ。もちろん、人々は自分一人で、なにもかものサービスをまかなえるほど、原始人化していない。どうしても、人手がいる。つまり、家族や友達といった、身近な人間関係による、お金を介さない売買(贈与)による生活を始めるようになる(実際に、スウェーデンなどでは、人々はそうやって、余暇は地方の別荘で、農業をやりながら暮らしているという)。
では、ここで考えてみよう。物を買うことは「悪」だろうか。ある意味、そうだとも言えるだろう。物は贅沢品であり、地球環境を壊してでも、自分はその快楽を享受したいから、物を買っている、とも言える。
物を売ることが「悪」なら、どうするか。国家が物を売っている人を、税金を介して、管理していく、ということになる。つまり、だれでも物を売っていいわけではない。物を売っていいのは、自分はちゃんとした正統な手続きを経て、ちゃんとした事務手続きを怠らずに商売ができる「大企業」だけ、ということになる。外資を含めた、巨大スーパーマーケットだけが、商売をやっていいのであって、それ以外のもろもろの中小の所は、さまざまな細かな減税のための控除を申請する手続きを行う人件費を賄えないのだから、自然と商売をやめていく。
言うまでもなく、日本には非常に多くの小売をやっている、個人事業主を含めた中小の企業がある。これらを一網打尽にできれば、外資を含めた、巨大スーパーマーケットは今以上の収益を上げられるだろう。そして、そうやって、競争他社を撲滅し、その地域の
独占
を実現したら、少しずつ、福祉サービスを減らして、年貢を増やしていけばいい。
しかし、そうなったとき、そうやって仕事を失った、人々はどうやって生活していくのか。彼らは露頭に迷い、また、一から次の商売を勉強しなければならない。
これが、斎藤貴男さんの言う、消費税を上げることによって起きる、日本の未来である。
もちろん、こうやって、無慈悲に非効率的な、非生産的な業界を徹底的にたたきつぶして、その地域の市場を破壊することに、生きがいを見出す、鬼畜こそが、経済の才能なのだろう。人間的におかしな奴ほど、他者をたたきつぶすことに、自分の情熱を傾ける(彼らは、ある意味、暇なのだ)。
では、なぜ、大マスコミと政府の中枢は、これほどに消費税増税を規定路線としようとしているのか。まず、大マスコミはこうやって政府中枢と談合的な関係を維持していけば、自分たちの経済活動を
非課税
にできると考えている。一部の食料品や衣料品と同じように、大マスコミは「特別」に非課税にしてもらえるなら、いくら消費税が上がることによって、国民が苦しむことになろうと、
関係ない。
そもそも、なぜこれほど非正規雇用が増えたのかは、非正規雇用が消費税の非課税対象だからであろう。つまり、非正規にしなければ、日本の企業は儲からないように税制上強制したのだから、当然なのだ。
それにしても、なぜ経団連のような、旧式の重厚長大な重化学工業系は、消費税増税を執拗に求めるのか。

この消費税は、非常に、「経済強者の」大企業にとって、あらゆることで旨みが吸える税制となっているわけだ。

じつは、彼らは消費税の税率をいくら引き上げても痛痒を感じないのである。彼ら巨大企業は経済取引上強者であり、常に価格支配力を有しており消費税を自在に転嫁する。しかも、輸出戻し税制度により消費税をまったく納めないばかりか巨額の還付を受ける。還付金額は税率が上がれば上がるほど大きくなる。つまり、彼らは消費税の税率引き上げによりまったく被害を受けないばかりか、場合によると後転効果により利益を生むことさえ可能なのである。

消費税のカラクリ (講談社現代新書)

消費税のカラクリ (講談社現代新書)

これが、いわゆる「輸出戻し税」である。東アジアに多くの日本企業が進出しているのは、中国やインドが同じように、この税制を採用しているところにあるだろうと、著者は指摘する。
そもそも、なぜ、こういった税制が推進されてきたのだろうか。

輸出企業に対し税金を還付することは実質的には輸出補助金に該当し、ガット協定に違反するはずである。それを「ガット協定に違反しないように、国内で負担した間接税の還付である」と主張するため、原材料納入業者に彼らが納付した税額を証明する請求書(インボイス)を発行させたのである。
消費税のカラクリ (講談社現代新書)

screenshot

つまり、消費税を高くすれば高するほど、「おいしい生活」ができる連中がいる、ということである。しかし、もちろん、そうだからだめだと言っているわけではない。日本にとって、それが必要だとすべての国民が思うなら、どうしてその選択を否定する謂れがあるだろう。
では、この税制の特徴はなんだろう。つまり、経団連を始めとした、重厚長大の重化学工業の「財閥」が、BRICs や韓国などの新興国との競争に勝ち続けるための税制だと言えるだろう。国民は彼らに、
貢ぐ
のである。それによって、彼らが「ようやく」そういった国々との競争力を維持できるようになる。
日本の戦後の歴史を眺めたとき、一つだけはっきりしていることは、それは「戦前の財閥の復活」こそが、目指されてきたということだということだろう。つまり、
身分の復活
である。日本の戦後からの歴史において、たとえ一度でも、お金持ちの税金を「高く」したことがあるだろうか。バブル以降の失われた10年において行われたことは、徹底した金持ち優遇税制だった。それによって実現した姿は、アメリカをはるかに凌ぐ金持ち優遇税制であった。

新自由主義の狙いは、富める者の富をさらに富ますことにある。「小さな政府」のドグマも、社会的支出のために富める者が相応の負担を貢納することを否定するための方便にすぎないのである。

そして、それ以降、日本の経済はまったく復活しない。
できなくなったのだ。
日本の死は、そのとき「完成」した。そして、そうだからこそ、役割を終えた自民党は下野できたのだ。
自民党がバブル以降に行ったのは、徹底した、所得税法人税の、高額納税者への「減税」である。今困っているのは、その時に、減税したために入ってくるはずだった税金が入ってきていないことから全てが由来していると言えるだろう。
では、なぜ、竹中平蔵があれほど、自信満々に、金持ち優遇を行ったのか。自らが語るネタ元が(以前に引用したが)下記だ。

つまり、所得再分配といえば聞こえはいいが、実際には、そのようなレトリックを本気で信じる人などいないということである。

フェアプレイの経済学―正しいことと間違っていることの見わけ方

フェアプレイの経済学―正しいことと間違っていることの見わけ方

なぜここまで断言できるかというと、娘を持った経験からである。娘を公園で遊ばせていて、私はなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。
もちろん、親は子どもにたいして、譲りあいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動は恥ずかしいという感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくでというのは論外で、普通はなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉をする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っても盗んではいけない、と。
フェアプレイの経済学―正しいことと間違っていることの見わけ方

彼が言いたいのは、税金は国民からの盗みなのだから「いけない」ことなのだ、と。しかし、そう言うなら、貧しい人が自分の持ち分から、割合としてたくさん、むしられるために「生活さえままならなくなる」消費税は、最悪の税制だということにならないのか。
ところが、なぜか、彼らはそのように考えない。もし、自分たちが税金を払うことによって、受ける「利益」があるとするなら、それは一人一人「平等」のはずだから、むしろ、払う金額を平等にしなければならない、と。
しかし、そうだろうか。
貧乏人は失うものなどないわけだし、国家が安泰だからといって、自分の生活の苦しさが改善するわけじゃない。ところが、お金持ちにとって、社会秩序が維持されていることは、無上の価値なんじゃないか。自分たちがなぜ、泥棒によって、自分たちの財産が盗まれないのかは、それを監視している警察を始めとした、財産保持機構があるからだろう。そういったことによって受けている恩恵は、金持ちは貧乏人に比べるべくもなく大きいんじゃないのか。だったら、それに見当った税金を支払いたいと思うことの方が、社会的資本の価値とは何かを理解する当然の振る舞いではないだろうか。
たとえば、「おこぼれ」ということも、よく言われる。
しかし、これにしたって、成長してるんなら、バブルの頃がそうであったように、売り手市場になって、多少はあるのかもしれないが。それ以降、「世界中」が買い手市場なわけでしょう。
起きるわけがない。

トリクルダウン理論とは豊かな者をさらに豊かにすれば、その御零れが滴り落ちるという理論である。トリクルダウン理論アダム・スミスの古き時代から唱えられている。しかし、それには二つの前提がある。
一つは、富はいずれ使用するために所有されるということである。もう一つは、富を使用することによって充足される欲求には限界があるという前提である。そのため、豊かな者がより豊かになると、富によって充足される欲求には限界があるため、使用人の報酬などを引き上げるので、トリクルダウンが働くと考えたのである。
ところが現在では、富は使用されるために所有されるわけではない。富を所有すると、富の前に人々が平伏し、人々を動かすことができるからである。支配する権力を獲得する富が所有されると、トリクルダウンは生じることがない。

つまり、経済成長や貯蓄税とセットでなければ、トリクルダウンは最初から「矛盾」なわけだ。
いずれにしろ、この、減税を元に戻せばよさそうである。それなのに、できない。それをできる政治家がいないからだ。一度手に入れた権利を金持ちたちが、そう簡単に手放すことはないだろう。これは、
権力闘争
なのだから。そもそも、弱肉強食のこの世の中において、だれもが「平等」だと思うことは幻想だ。お金をたくさんもっている人と、もっていない人では、他人に与えられる影響が違うことは自明だろう。

民主主義ではすべての社会の構成員に、同じ権利が与えられて決定する。簡単に表現すれば、一人一票の権利が与えられて、その社会の意思が決定される。
ところが、市場では社会の構成員に、同じ権利が与えられるわけではない。市場では購買力に応じて、権利の大きさば決定される。つまり、所有する貨幣量に応じて、決定権が行使されるようになる。
そうなると豊かな者が決定権を握ることになる。つまり、豊かな者が要求するような財・サービスが市場で供給されるようになる。貧しき者の生活を支えるような財・サービスは、市場では取引されることが少なくなってしまう。社会全体として、どのような財・サービスを生産するのかを、豊かな者が決定してしまうようになる。

そう考えるなら、世の中が「財閥」(金銭の多寡)によって、動かされるようになることは、一つの想定しうべき姿となるのだろう。
国内に完全なるお金の不均衡が「完成」したとき、人々は、そういったお金をもっている連中に「おべっか」を使うようになる。そうすることで、自分の存在感を維持する。中産階級を口先でののしり、口先で「操作」し、金満家に媚を売る。どうせ、中産階級は、学問のない馬鹿だと陰で嘲笑する。自分に不利になることも分からず、人気者が自分の味方になってくれてると思って「信じる」。
しかし、彼らはそういった連中を食い物にすることによって、のし上がってきた、寄生虫である。お金さえ儲かれば、あとは口先でなんとでもなると本気で思っている、軽薄な連中なわけだ。
日本は島国であるだけに、平和で、人々が抵抗しない。まさに、ガラパゴス。そういった連中にとっては、格好の「狩り」の場なのだ。そのため、実に簡単にこういった、身分政策、貴族政策が成功してしまう。
日本の歴史とは、権力者による、庶民からの搾取の歴史である。つまり、そうだからこそ、必然的に、その対抗運動としての、米騒動などを繰り返してきた。この厳然たる事実を、口先でごまかし、国民を操作しようとする言論人たちこそ、危険な日本を迷わす存在だと言えるだろう。
では、どういった社会が目指されるべきだろう。それは、なぜ世界中の先進国が福祉的国家を選択しているのかに関係する。
リキッド・モダン・ソサエティにおいて、人々に求められることは、「知識」である。人々は、古い産業形態で稼げなくなったら、流動性をもって、次の職場を獲得しなければならない。大事なことは、
新しい産業
である。BRICsを見ても分かるように、彼らが今やっていることは、たんに昔、先進国がやっていたことにすぎない。彼らがやれば、次のまた、安い労働力の存在する地域が草刈り場となる。しかも、あれだけの人口がこういったサービスを享受し始めたとき、どういった環境汚染が生まれるか。そうやって、焼畑農業的に次々と転々としようが、彼らがやっていることが、昔からある産業であることには変わらない。
そうであるなら、先進国にやれることは、次の未来の産業を生み出そうとする努力しかない。そのためには、なによりも求められることは、そういった新しい産業に適応できる、労働者の「再教育」となるだろう。
つまり、たとえ大人になった後でも受けられる、教育制度(職業訓練制度を含む)の必要性となるだろう。
たとえば、なぜパートというような雇用形態が日本に定着してしまっているのか。彼ら主婦たちが、子育てをしながら行える仕事がそういったものしかなかったからだろう。しかし、そのために、極端なまでの、正規雇用者との「差別」が定着してしまう。
つまり、日本の雇用システムは、子育てをする主婦を、正規の労働システムの一部に取り込めていないのだ。
しかし、それは変だろう。
ここに、なぜ、先進国が福祉国家の方向に向かわなければならないかの理由がある。リキッド・モダン・ソサエティにおいて、人々は次々と新しい知識を身につけ、次の職場に挑戦していかなければならない。ところが、そういった方向を選択した途端に、子育てをできなくなる。つまり、そこで、子供をもつ生き方をするか、そういった方向の労働を選ぶのか(男並み)の二者択一を迫られてしまう。
よく言われる、セーフティーネットがなぜダメなのか。それは、そういった生活保護を受けられ「た」人と受けられ「なかった」人の間で、あまりにも大きな差が生まれてしまうからである。
つまり、生活保護をめぐっての、あまりにも、大規模の「ゲーム」が生まれてしまう。
子供や老人は、働けない。じゃあ、こういう人たちを、そのまま放置しておけば、飢えて死ぬだろう。しかし、一般にそういうことが起きていない。つまり、上記の選択をだれかが行っているのである。
自分を犠牲にして。
しかし、そういう国家では、現代の、リキッド・モダン・ソサエティにおける、優秀な労働者の未来像とは、一致しないわけだろう。つまり、目指している未来と、実際にやっていることが、一致してないわけである。
だとするなら、選ぶ未来は一つしかない。子供や老人は、国家が子供手当や年金で面倒を見る。基本的な教育は無料にする。医療費も基本的に無料にすることで、大病をわずらったときのことを心配した、無理な貯蓄をしなくてすむようにする。

しかし、医療サービスが貧しくとも豊かであってもユニバーサルに提供されていれば、生活保護の受給者が病だからといって給付額を増加させる必要はない。生活保護受給者が幼児を抱えているからといって育児サービスと児童手当がユニバーサルに提供されていれば、学童を抱えているからといって生活保護の受給額は増加しない。
つまり、生活保護は本人の食料費と衣料費という生活費を一律に給付すればよいということになる。そうなると、生活保護費は僅かで済む。

一見、こういった政策はお金がかかりすぎるように思うかもしれない。しかし、上記にもあるように、これによって、生活保護に使うお金は本当の必要最低限にできる。なによりも、国民に生きることの「安心」や「自信」や「誇り」を生みだせるだろう(それ以外に必要なものなどあるのだろうか?)
ここで大事なことは、こういったユニバーサルな政策が、
非常に限られた基本的な生活を営む「最低限」
だということである。つまり、これは、リキッド・モダン・ソサエティが要請している最低限の必要条件だということであって、大量の箱物を国家が作る、というような
社会主義
とは別物だということを理解しなければならない。たとえば、インドのように、国民全員に iPad のようなタッチパッドのデバイスを配ればいい。そうすることで、一丸となって、日本の「知識」社会化を「具体化」していくだろう...。

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)