嫌悪し合う人々

近年、よく言われるのが嫌韓であるが、それ以上に、今、日本中を席巻しているのが、「嫌悪しあう人々」だろう。
それは、ネットを見ていれば、よく分かる。たとえば、ツイッターにおいて、彼らは、「自分」というアバターを登場させ、次々と、
今ここ
で思ったことを、ミニブログ化する。しかし、その内容は、恐しいまでの
本音
である。死ねばいいのに。うざ。気持ちワル。くさい。ばいきん。反権力とかダッセー。えらそうに、正義ぶってんじゃねーよ。人に命令するとか、なにその上から目線。...
近年言われるように、日本は、もともと身分社会であって、日本語そのものが、身分化しやすい。特に、ツイッターは、現在、裕福な家の人が使っていることが多い。彼らは、
成功者
であり、当然、子供も手厚い親の「愛情」を受けて、いいとこの学校に入る。そうなると、必然的に、彼らの「友達」つまり、旧友とは、そういった、いいとこのセレブな人たちになる。そして、そういったセレブな人たちほど、彼ら同士の紐帯は強くなる。当然、彼らは、彼ら同士が、みんな、お金持ちなので、話す内容は、当然のように、
貧乏人差別
となる。だって、友達が金持ちしかいないのだから、貧乏人に「共感」しようにも、知らないわけですから。貧乏人がさらに貧乏になろうが、それが、どういうことなのかをまず「理解」できないわけだ。
「そんなことより」、俺たちが、どうやったら、もっとお金持ちになれるか。そりゃー、もっと貧乏な連中から、むしりとるしかねーよなー。
私は、近年、ますます、この方程式は、完成していると思う。日本の進学校とか、お金持ちが行く私立の、エスカレータ式は、完全に、階級を完成させたのではないだろうか。
もう、貧乏な人とお金持ちは、日本において、ほぼ完全に、関わり合うことなく生きられるようになっていないだろうか。
(たとえば、以下の「子ども手当」をめぐって、行われた議論は、この日本が本当に恐しい社会になってしまったんだな、と痛感させられるだろう。

ところが、訓覇研究員は、昨今の「子ども手当」をめぐる日本での議論を目の当たりにして、驚天動地の衝撃を覚えたという。子どものいない家庭は「私たちには子どもがいないのに、どうして子どものいる家庭のために養育費を負担しなければならないのか」と憤っている。あるいは「私たちには子どもが恵まれていないのに、どうして子どもに恵まれた家庭のために負担をしなければならないのか」と唱えている。
こうした子どものいない家庭の主張に、子どものいる家庭が反論している。「あなた方が年老いた時のことを考えなさい。あなた方の年老いた時の生活を支える年金は、私たちの子どもが負担するのですよ」と。

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

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この発言の「恐ろしさ」とはなんだろう。つまり、まったく「一緒に支え合って生きている」という感覚がないことだろう。子どももお年寄りも、みんながみんなを支え合っているという感覚がない。自分が得か損かしかない。いやはや、国が滅ぶわけだ。戦争に負けるわけだ。)
しかし、そういったセレブたちの「会話」を「覗く」ことは、なんとも言えない、興味深い、近年の傾向を見せているように思う。本当に、こいつ人間的に、どうしようもない、世間知らずの、ぼんぼん野郎だな、と思うような、ポリティカル・コレクトネスに、ひっかかりまくりの、鬼畜の差別的言論をポコポコポコポコ、連発してくる。しかも、そういった連中が、匿名のユーザーばかりでなく、少しは名の知られた、有名人や言論人だったりするから、いやはや、日本社会は恐しい。

元々荷風という人は、凡そ文学者たるの内省をもたぬ人で、江戸前のただのいなせな老爺と同じく極めて幼稚に我のみ高しと信じわが趣味に非ざるものを低しと見る甚だ厭味な通人だ。彼は「墨汁奇譚」に於て現代人を罵倒して自己の優越を争うことを悪徳と見、人よりも先んじて名を売り、富をつくろうとする努力を罵り、人を押しのけて我を通そうとする行いを憎み呪っているのである。
荷風は生れながらにして生家の多少の名誉と小金を持っている人であった。そしてその彼の境遇が他によって脅かされることを憎む心情が彼のモラルの最後のものを決定しており、人間とは如何なるものか、人間は何を求め何を愛すか、そういう誠実な思考に身をささげたことはない。それどころか、自分の境遇の外にも色々の境遇があり、その境遇からの思考があってそれが彼自らの境遇とその思考に対立しているという単純な事実に就てすらも考えていないのだ。
荷風に於ては人間の歴史的な考察すらもない。即ち彼にとっては「生れ」が全てであって、生れに付随した地位や富を絶対とみ、歴史の流れから現在のみを切り離して万事自分一個の都合本位に正義を組み立てている人である。

坂口安吾全集〈14〉 (ちくま文庫)

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そういう意味では、今では、一億総「永井荷風」状態だ。ネット上に巣喰うセレブたちの誰もが自分が貧乏な家に生まれなかったことを、言祝ぎ、「金持ちの家の子供になれたから、こうやって、高学歴になれた」と、ほっとしたと、つぶやき、つくづく、貧乏人は嫌だと、うなずきあう。
こんなに高価なものを買ったと自慢し、何日もかけて、高価な世界旅行をしたといっては自慢し、お金儲けの何が悪い、とひらきなおる。
こういった連中の、幸せ自慢を「覗き」つくづく、こういった連中とは、お友達にはなれないなあと、あまりにこいつらの幸せ自慢が、怒髪天を突き、自分たちの今の生活の少ないお金で、節約して、なんとかやりくりしている毎日との違いが、恐しくて恐しくて、せいぜい関わり合わないように距離を置くことしかできない。
そうして、ソーシャルという
社交界
の華やかな、日々の営みは、国家を代表するヒーロー。国を守る英雄。彼らにふさわしい、家柄の家庭の令嬢たちによって、各自の英雄たちを礼賛する「フォロワー」の数を競い、日々、たあいのない、幸せ自慢の「あいさつ」という社交が繰り返されていく...。