國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

日本の歴史において、応仁の乱ほど、決定的に日本を変えたものはないと、たとえば歴史学者内藤湖南は言う。この時代が100年近く続いたのだろうか。100年といえば、2、3世代をまたがって、続いたというのだから、なんとも、すごい時代だ。いろいろと、旱魃などで、大変だったのだろう。
その応仁の乱の特徴は、なんといっても、都市機能が維持できなかったことなのだろう。まさに、ワンピースの世界であり、街では、荘園貴族の屋敷を、かたっぱしから、盗賊たちが、金品を略奪していく。
ある種の、政府機能が雲散霧消化していったとき、そういった貴族たちの財産が、盗人たちに奪われるという状況が現れる。そうやって滅びていった貴族たちに代わって、100年かけて、少しづつ、新たな実力者たちが、各地方から現れてきて、彼らが形成してきた秩序が、今の日本だということになるのだろうか。
しかし、私たちに興味深いのは、そういった、秩序が雲散霧消する瞬間が現れるというその事実だろう。それはどこか、恐慌に似ていなくもない。地球が寒かった時期でもあるのだろう。農作物が実らず、旱魃が続けば、当然、食べることはままならなくなる。そういった極限状況が何年も続いたとき、それまでの、裕福な時代の、貴族たちの「権威」による秩序は、維持できなくなる。もちろん、今でいう警察のような、なんらかの「暴力装置」によって、そういった秩序破壊者への「懲罰」(死刑)を行えたとしても、そもそも、食料が手に入らなければ、ジリ貧なわけで、綺麗事を言っている場合じゃない。次々と、そういった懲罰すらも賭けの対象にしてくるような、言わば死刑志願者のような、リスクテイカーが現れてしまう...。
応仁の乱によって、それ以前に存在した、豪族はここで、ほとんど滅びている(まさに、傲れる平家も久しからず...)。つまり、日本の歴史は、ここで一旦、終わったと考えていいだろう。
私たちを新ためて驚かせることは、こんなにも簡単に、秩序というのは、崩壊するんだな、という認識ではないだろうか。もちろん、こういった秩序は「大事」なんだから、どんなことがあっても守られなければならないと考えられ、そういった社会システムを構想されることは勝手だが、私が言いたかったのは、幾つかの条件がそろえば、実に簡単に、そういった社会秩序というのは、その成立条件を失う、意外ともろい、砂上の楼閣だと言うことで、それは現代も変わってないのだろう、ということである。
人類の歴史を考えると、圧倒的に長い期間、狩猟採集だったということは、私たちを驚かせる。こうやって、定住が当たり前の生き方をしているが、私たちの
本能
はむしろ、遊動生活にある。つまり、私たちを悩ますのは、この遊動生活の本能が引き起こす、現代の日常との齟齬だと言ってもいいだろう。

定住化の家庭は人類にまったく新しい課題を突きつけたことだろう。人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式はどれも遊動生活にあわせて進化してきたものだからである。だとすると、定住化はそれら能力や行動様式のすべてを新たに編成し直した革命的な出来事であったと考えねばならない。

遊動生活では、ゴミは捨てっぱなし、トイレも、やりっぱなし。死体も、置きっぱなし(墓も不要。どうせ、「そこ」に戻ってくることはないのだから)。

遊動生活においては大量の財産はもち運べない。いや、そもそも大量の財産をもつ必要がない。食料はあたりから採ってくるのだし、道具などは貸し借りするからだ。
先に述べた通り、定住社会は食料の貯蔵を前提としている。これは私有財産という考え方を生む。また、貯蔵は当然、貯蔵量の差を生む。ここから経済格差が生まれる。そして経済格差は最終的に権力関係をもたらす。自らの財を用いて、人を使用(雇用)できるようになるからだ。財力のある者はその定住コミュニティーの権力者になる。
すると盗みなどの犯罪も発生するに違いない。もたざる者はもてる者から分捕ろうとするから。こうして、法体系はよりいっそうその必要性を増す。法秩序は文明の尺度の一つであろうが、これが定住という現象と強く結びついていることが分かる。

このことが「暇」と関係している。

遊動生活では移動のたびに新しい環境に適応せねばならない。新しいキャンプ地で人はその五感を研ぎ澄まし、周囲を探索する。どこで食べ物が獲得できるか? 水はどこにあるか? 危険な獣はいないか? 薪はどこでとればいいか? 河を渡るのはどこがいいか? 寝る場所はどこにするか?
こうして新しい環境に適応しようとするなかで、「人の持つ優れた探索能力は強く活性化され、十分に働くことができる。新鮮な感覚によって集められた情報は、巨大な大脳の無数の神経細胞を激しく駆け巡ることだろう」。
だが、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。だから定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な不可をもたらす別の場面をもとめなければならない。

近代スポーツからテレビゲームまで、こういった娯楽は、どこか、遊動生活において、普通に行われていた行動と類似した
疑似物
であることが指摘できるだろう。
熱力学第一の法則だったか、つまり、エネルギー保存の法則というのがあるが、言うまでもなく、人間もそういった、ダイナモの一つにすぎない。一日活動して、エネルギーを消費して、各エージェントを活性化することで、疲労(快楽)という過程を経て、睡眠というサイクルを繰り返す。
本来そういった「エネルギー消費装置」は、そういった活動によって、エネルギーを消費するために、生まれてきたと言える。なぜそういったことを「やりたい」システムがあるのかと言えば、それは、必然が要請してきたと言える。食料の獲得が容易に行えるためには、そういったことを「やりたがる」機関が、人間の内部にあれば、人間は
否が応でも、
食料獲得に朝から走ることになり、生存の長期化を達成することができる。
たとえば現代社会において、私たちは食料はお金さえあれば、いつでも買うことによって、手に入ると思っているし、事実、ほとんどの場合はそうであった。しかし、東日本大震災のときに起きたように、近くのスーパーの棚が、どこもガラガラだった事態が、実際に起きるわけである。
私たちが、いつでも、食料を買えると思っていることは「日常」である。しかし、それは「自明」ではない。それは、なんらかの
条件
が成立させているなにかにすぎない。ある日から、朝起きたら、だれも自分に物を売ってくれなくなるかもしれない。家族も自分を無視するかもしれない。自分の銀行の預金は、無駄になるかもしれない。言いたかったことは、たとえそうなったとしても、自分の中には、そういった状況でも、食料を手に入れて生きていこうとする「本能」がある、ということである。問題は、なぜ、そのことを人々は深刻に考えないのか、にある。
戦争中、まともにお米を食べられたのは、農家も、それも大百姓くらいだった。そう考えるなら、だれもが、自分の農園をもち、なんらかの農作物を作っていることは、各自の精神安定にはいいのかもしれない(もちろん、そのための、「労働時間」をとられるわけだが、それだけの「代償」が、この行為にはあるのではないか、ということである)。
掲題の本で言われている、暇や退屈とは、こういった人間の「本能(エージェント)」に十分な活動の場を与えないことによる「ストレス」のことだと言っていいのだろう。
ということは、私たちの不快な感情を「除去」するには、こういったものを「代替」させる、つまり、
騙す
ツールが必要ということになるのだろうか。さらに人間を騙すための、ヴァーチャル・リアリティが求められているのだろうか。
ハイデガーが問題にしたのは、現代人の「不安」である。なぜ、近代国家は常に、失敗し続けるのか。それは、国民の「不安」への手当ができてないから、と言えるだろう。自由原理主義者がいくら「自由」の価値を叫ぼうが、それを国民は
共感
しない。それは、そもそも彼らの言っていることが、この現代人の
不安
に答えようとしていないから、ということになるだろう。ではなぜ、こういった自由原理主義者たちは、そういった共感感情をもっていないのか。それは、掲題のハイデガーが注目した、生物学者のユクスキュルの言葉を使うなら、
環世界
が違うから、ということになるだろう。言うまでもなく、人間以外の動物はそれぞれに、感覚器官も違っている。そういった条件を無視して、人間にできることをやろうとしない、人間以外の動物たちを「人間より劣っている」と言うことは、間違っているだけでなく、傲慢だろう。
そもそも、進化の過程によって獲得されている形質が違うわけである。では、そういったお互いが「共感」するとは、どういったことを意味するのか。著者は、たいへんにおもしろい例をあげる。

盲導犬を一人前に仕立て上げることの難しさはよく知られている。訓練を受けた盲導犬がすべて盲導犬としての役割を果たすようになるわけではない。
なぜ盲導犬を訓練によって一人前に仕立て上げることはこれほど難しいのか? それは、その犬が生きる環世界のなかに、犬の利益になるシグナルではなくて盲人の利益になるグナルを組み込まなければならないからである。要するに、その犬の環世界を変形し、人間の環世界に近づけなければならないのだ。
盲導犬は盲人がぶつかるかもしれない障害物を迂回しなければならない。しかもその障害物は犬にとってはすこしも障害でない場合がある。たとえば窓が道に向かって開いている場合、犬は難なくその下を通り抜けるが、人間はその窓にぶつかってしまう。一匹の犬を盲導犬にするためには、その犬がもともと有していた環世界では気にもとめなかったものに、わざわざ気を配るように訓練しなければならない。これが大変難しいのだ。

一つだけはっきりしていることは、盲導犬は非常に難しい、ということである。なかなか成功しないのだ(ある意味、その盲導犬の「個性」にさえ依存する)。しかし、これはむしろ、人間同士にこそ、あてはまるのではないだろうか。多くの場合、勝手に分かったようなことを言って、勝手に納得して、自分って頭がいい、と自分に酔う。
しかし、これはそういうことを言っているんではないわけだろう。相手の環世界に自分を合わせることは、著しく、自分に対して抑制的であることを強いられる、ストレスの多い難しい所作だということなわけでして、頭がよければできるのかとか、我慢強ければできるとか、そういうことを言ってるわけじゃないわけでしょう。
そもそも、各人間自身の環世界がどういった性質のものなのかを考えれば、それは、そういった各個人の
特性
などというローカルな原因でくくれるような、狭いことを言ってるわけじゃないわけですね。つまり、人間だったら、だれだって、苦痛であり、難しいなにかについて、ここでは考えているわけですね。

はじめての保育園や幼稚園、あるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だから、しばしば失敗も起こす。
人間の環世界のなかで大きなウエイトを占めているのが、「習慣」と呼ばれるルールである。習慣からいうと、毎日の繰り返し、ある種の退屈さを思い起こすかもしれない。それこそラッセルは退屈を、「事件を望む気持ちがくじかれたもの」と定義していたが、習慣という言葉にはこのラッセルの定義に通ずるところがあるようにも思える。
しかし人間の環世界が習慣に強い影響を受けるものであり、そしてそれぞれの環世界は途方もない努力によって獲得されねばならないとしたらどうだろう? 習慣に対する見方は一変するはずである。習慣とは困難な過程を経て創造され、獲得されるものだ。習慣はダイナミックなものである。
しかも、ひとたび習慣を獲得したとしても、いつまでもそこに安住はできない。習慣はたびたび更新されねばならない。学年が変われば、担任が変われば、学校が変われば、家族関係が変われば、友人が変われば、上司が変われば、同僚が変われば、習慣を更新しなければならない。私たちはたえまなく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。

たとえば、近年話題の、TPPが不思議なのは、これがFTAという
経済的「相互」占領行為
であるのに、なぜか「自由」社会の実現だと自由主義原理主義者が言っていることだろう。つまりこれは、お互いの国同士の、経済同盟のはずが、なぜか、自由社会のことと勝手に「思い込みたい」人たちがいる、というわけだ。
そもそも、こういった議論は、バブルの頃から言われている、農産物の自由化問題の再燃なのであって、アメリカの農業関係者の積年の願いがまた日本を襲ってきたと考えるべきで、アメリカ内でこの問題が話されている様子はない(つまり、いつもの特定の業界利益の問題だと思われている)。

周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。
繰り返すが、そうしたことが必要な事態もあるだろう。
だが重要なのは、そうした「狂気」が故意にもとめられる事態があり得るということだ。そして、そこにもう一つ付け加えねばならない。実はこんなに楽なことはないということだ。
あらゆる配慮と注意を自らに免除し、ただひたすら決断した方向に向かえばいい。しかも、もはや「何となく退屈だ」の声も聞こえない。決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。だからこう言わねばならない。人は従いたがるのだ、と。
人は奴隷になりたがる。第一章で見たニーチェも言っていたではないか、「若いヨーロッパ人たち」は「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と。そうした苦しみから、自分が行動を自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引出したいと願っていのだ、と。彼らは奴隷になりたがっているたのだ。

つまり、そもそも、TPPに参加するかしないかを話す前に、日本はアメリカとどういった距離であることを選ぼうとしているのかを、求められているのだろう。アメリカの属国になるべきだと言うなら、アメリカの最後の州の、次の州を目指してアッピールすればいいだろう。ところが、アメリカの畜産業界が、アメリカのライフル協会と同じように、どれほどの権力をもっているのかすら、日本人は知らない。
早い話が、TPP論議の凡庸さは、それを話している人々が、もともと、日本の農業に対して、どういった態度をとっているのか、なのだろう。もっと言えば、そもそも、FTAは、相手国を経済的に占領するくらいの、経済的な欲望に飢えなければ成功しない。そうでなければ、自分たちが草刈り場にされ、むさぼり尽されて、国家消滅、ジ・エンド、ってわけでしょう。じゃあ、ひるがえって、日本はどうか。アメリカを経済的に
占領
しようと思っているのか? じゃあ、なにになろうとしているのか。主張できない今までの日本のままで参加するって、たんに、自分たちを草刈り場にしてください、と差し出してるだけでしょう(もちろん、売国奴は日本を売り渡すことで利益を得る)。一見、決断は崇高に思える。しかし、多くの場合、決断とは、「苦しみたい欲望」のことである。過激な決断をして、その
刺激
に、ドラッグのように酔いしれたいのだろう。FTAによって、アメリカを占領するなら、日本はアメリカの何が欲しいのだ? なにを奪うために、占領するのか? もしそういうものがないなら、そいつはたんに、
奴隷にしてほしい
ってだけじゃないのか? 各個人の姿勢が問われていないだろうか?
現代の、消費社会とは、そういった意味でも、ねじれた社会だと言えるだろう。自分が自由になろうと「決断」することの、爽快感を求めることと、自らを奴隷として、権力者に捧げることは、矛盾しない。彼らにとって、自らを国家の犬にすることは、むしろ、自分が求める生き方なのだ。

狩猟採集民はほとんど物をもたない。道具は貸し借りする。計画的に食料を貯蔵したり生産したりもしない。なくなったら採りにいく。無計画な生活である。
彼らはしばしば、物をもたないから困窮していると言われる。そして、それは彼らの「未来に対する洞察力のなさ」こそが原因であると思われている。つまり、計画的に貯蔵したり生産したりする知恵がないために十分に物をもっていないとして、「文明人」たちから憐れみの目で眺められている。
しかし、これは実情から著しくかけ離れている。彼らはすこしも困窮していない。狩猟採集民は何ももたないから貧乏なのではなくて、むしろそれ故に自由である。「きわめて限られた物的所有物のおかげで、彼らは日々の必需品に関する心配からまったく免れており、生活を享受しているのである」。
また、彼らが未来に対する洞察力を欠き、貯蓄等の計画を知らないのは、知恵がないからではない。彼らのような生活では、単に未来を思い煩う必要がないのだ。
狩猟採集生活においては少ない労力で多くの物が手に入る。彼らは何らの経済的計画もせず、貯蔵もせず、すべてを一度に使い切る大変な浪費家である。だが、それは浪費することが許される経済的条件のなかに生きているからだ。
したがって狩猟採集民の社会は、一般に考えられているのとは反対に、物があふれる豊かな社会である。彼らが食料調達のために働くのは、だいたい一日三時間から四時間だという。

サーリンズを援用しつつボードリヤールも言っているように、現代の消費社会を特徴づけるのは物の過剰ではなくて希少性である。消費社会では、物がありすぎるのではなくて、物がなさすぎるのだ。
なぜかと言えば、商品が消費者の必要によってではなく、生産者の事情で供給されるからである。生産者が売りたいと思う物しか、市場に出回らないのである。消費社会とは物があふれる社会ではなく、物が足りない社会だ。
そして消費社会は、そのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が消費し続けるように仕向ける。消費社会は私たちを浪費ではなくて消費へと駆り立てる。消費社会としては浪費されては困るのだ。なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうからだ。消費社会は、私たちが浪費家ではなくて消費者になって、絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめるのである。消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。
消費社会において、私たちはある意味で我慢させられている。浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。しかも消費と浪費の区別などなかなか重いつかない。浪費するつもりが、いつのまにか消費のサイクルのなかに閉じ込められてしまう。

消費は贅沢などもたらさない。消費をする際に人は物を受け取らないのだから、消費はむしろ贅沢を遠ざけている。消費を徹底して推し進めようとする消費社会は、私たちから浪費と贅沢を奪っている。
しかも単にそれらを奪っているだけではない。いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに、満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が感じられるようになる。

現代の消費社会のにおいて、記号は重要な意味をもつ。掲題の著者は、人間と他の動物の違いを説明するのに苦労しているが、私はこのことはもっと簡単に説明できると思う。つまり、人間の大脳新皮質の、大きさで。
なぜ人間の大脳新皮質がここまで巨大になっているのかは、進化の結果なのだろうが、そこには間違いなく、言語という「記号」が大きく影響しているのだろう。
言語は、三つの感覚行為を「リンク」して、活動する。つまり、聞く、書く、読む。もちろん、人は他人や自分の話す声を聞いている。また、その声を文字に書き残す。そして、その書き残されているものを読んでみたりもするが、またそれを聞いてもいるわけで...。つまり、この円環は、それぞれがまったく別の行為なのだが、
意味
において、リンクされている。つまり、「一つのこと」として、人間の思考の中では、処理される。
言語の特徴は、二つある。一つは、ある対象を「指示」することだ。「どれ」なのかがこれによって、決定できなければならない。しかし、それは何を言っていることを意味しているのだろう? つまり、これは一種の「ブランド」や「風評」なのだろう。さまざまあるものの中から、ある特定のものを区別して、別の名前で呼ばせるわけである。しかし、これは「言語」を理解しない人(理解しようとしない人)には、決して伝わることのない行為だろう。
ところが、もう一つ、言語には存在する。それは、説明的なものと言ったらいいだろうか。
例えば、この本ではトカゲの例があげられている。トカゲが日向ぼっこをしに、岩の上に来る。このトカゲにとって、それを「岩」と認識しているのか、と問うたとしよう。もちろん、彼らはそれを「岩」だと思っているわけがない。「岩」というのは、人間の「環世界」において「指示」した表現にすぎなく、トカゲの「環世界」において、そういった「指示」は存在しないのだから。しかし、なぜトカゲがその岩の上に来るのかと「生物学的」に説明しようとすれば、つまりは、「そこ」がなぜか温かく、彼らの体温を健康にするからであろう。つまり、そのトカゲにとっては、「そこ」がなにか? を問うことなどどうでもよく、たんにそこに来れば暖ったかくて気持ちいいから、そこに「来たい」と思って来る。
つまり、こちらの言語においては、固有名がいない。その代わりに、ある状態を各用語の「関係」において、説明する。
もちろん、後者は前者によって、生まれてきたものと言えるだろうが、だとしても、前者は果たして「自然」だろうか。
マーケッターは、ある商品を、あるブランド名によって売り出す。しかし、それは、例えば、靴なら靴であって、そういったブランドという名前を、あえて人々は覚える必要なんてない。なぜ、他の靴とそういった「名前」によって、区別されなければならないのか。なぜ、その区別を
暗記
しなければならないのか。トカゲがその岩をたんに自分を暖める場所と「説明的」に「意識」しているだけなのと同じように、感覚するだけではだめなのか。
消費社会とは、つまりは、こういったブランド「名」という記号社会と言っていいだろう。こうやって、人間社会には、無数の数えきれないくらいのブランド名が飛びかい、人々はそれぞれを記憶「させられる」。しかし、そういったブランド「名」は、言わば、
まったく関係のない
突飛な名前である。それはある差異を差異化するために使われているにすぎない。そういった名前(記号)コレクターが消費社会における人間の特徴となる。
そう考えてきたとき、ある「倒錯」が生まれる。つまり、それが言語という
ヴァーチャル・リアリティ
である。各ブランド名は、言語によって「説明」される。その説明の体系の「差異」が、また言語的なモデルによって、構造化される。つまり、現実社会の物の「関係」は、この言語内のモデルによって、
マッピング
されると言っていいだろう。つまり、言語とは現実社会を写す、もう一つの現実になっている、ということである。
私がインターネットをヴァーチャル・リアリティだと言うのも、こういう意味である。インターネットは、ある「場所」という概念が存在する(IPアドレスや、WEBコンテンツの検索方法によって辿り着く「どこか」)。ということは、そこは、
空間
だと言っていい、ということになる。では、その空間は何を私たちに感覚させるのか。言うまでもなく、その空間は言語で埋め尽されている。大事なことは、インターネット上は言語が構造化しているわけで、例えば、そこでは、人間の視覚や聴覚の「記録」媒体として、画像や動画やMP3のようなものも存在するわけだが、そういったものも言語によって、「区別」され、メタ化されている。つまり、言語というヴァーチャル・リアリティによって、「指示」されている何かでしかない。
私がここで言いたかったことは、つまりは、そういった言語「差異」化を、どうして受け入れなければならないのか、ということである。あるブランドと別のブランドの差など、どうでもいい。つまり、そんな「記号」はどうでもいい。もっと言えば、そういった「記号」にたわむれることは、虚しいだけでなく、疲れるだけでなく、
退屈
なのだ。
こういった「記号」は、人間の経済活動と非常にリンクしている。例えば、今、世界中では、ものすごい数の商品がある。それと一緒に、今、世界中には、大量の
お金
が存在している。また、慢性的な世界不況は、その必然として、大量の行き場のない、
金余り
を現象する。しかし、そのお金が大量に余るということは、あまりにも「無意味」に商品という
記号
を差異化してしまっていることと、どこか通底するものを感じないだろうか(私たちはこの、記号という
無意味
に、「忙しいのに、退屈している」(ハイデガーの第二形式))。
言うまでもなく、退屈とは、私たちが日々の問題を解決していく先に、存在することが予想される何かである。つまり、私たちは自らが退屈になることを目指して、日々のトラブルの解決を一つ一つ行っている。
問題が解決された先には、問題のない「自由」な世界がある。しかし、なにもかもが自由になったら、それとはつまり、「退屈」の別名なのではないか。しかし、退屈こそハイデガーの「不安」のことであり、
最大の問題
とされたのではなかったか。つまり、逆説的だが、問題は解決されない方がいい、ということにならないか。
たとえば、ある評論家が、ある社会問題にコメントする。しかし、その人は本当にその問題が解決されてほしいと思っているのだろうか。その問題が解決されない限り、その評論家の「重要」さがなくなることはない。しかし、その問題がその評論家の言うように解決して「しまった」ら、もうその評論家は用済みだろう。つまり、評論家の経済合理性に反してしまう。彼らが、本気で問題の解決を目指しているのかは、疑問なのだ。

非常に長くなるが、アレントが引いていた『資本論』の一節の全体を引用しよう(面倒な人は傍点の箇所を読むだけで構わない)。

社会の現実の富と、社会の再生産過程のたえまない拡大の可能性とは、剰余労働のながさにではなく、剰余労働の生産性と剰余労働がそのもとで行われる生産条件の内容豊富さの程度とにかかっている。実際、自由の王国は、欠乏と外的有用性によって決定される労働が止むときにのみ始まる。だから、自由の王国は、事柄の性質上、現実の物質的生産の領域の彼方にある。未開人が自分の欲望をみたすために、すなわち自分の生産を維持し再生産するために、自然と闘わなければならないのと同じく、文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のもとでも、考えられるどんな生産様式のもとでも、そうしなければならない。文明人の発達とともにこの自由必然の国も拡大される。欲望が拡大されるからである。だが同時にこの欲望をみたす生産力も拡大される。この分野での自由は次の点のみにある。すなわち社会化された人間、結合された生産者が、盲目の力によって支配されるかのようにこの自然との物質的代謝によって支配さっるのではなく、この物資代謝を合理的に規制し、自分らの共同の統制のもとにおくという点に、すなわち最小の力の支出をもって、自分らの人間性に最もふさわしくかつ最も適合した条件のもとで、この物質代謝をおこなうという点のみにある。だがこれはやはりまだ必然の王国なのである。この王国の彼方に自己目的としての人間の力の発展が、真の自由の王国が始まるわけであるが、しかしそれは必然の国をその基礎としてのみ花開きうるにすぎない。労働日の短縮がその根本条件である。

マルクスがここで述べていることは、アレントのいう「一流」の著作家が書いたものにしては、つまらないぐらい常識的なものである。
「欠乏と外的有用性によって決定される労働」は止み、「自由の王国」が実現されねばならない。しかし、それは労働そのものが廃棄されるということではない。というのも、「自由の王国」は「必然の国をその基礎としてのみ花開きうるにすぎない」から。
どういうことかと言えば、マルクス自身が述べているように、「自由の王国」の条件は労働日の短縮なのである。働き過ぎを止めさせ、労働者に余暇を与えるということだ。労働はするけれど、余暇もある。だからこそ、「自由の王国」は「必然の王国」をその基礎とすると言われるのである(「自由必然の国」)。

さて、マルクスと<暇と退屈の倫理学>との接点について示唆的な一節が、『ドイツ点イデオロギー』のなかにある。非常にユーモラスな一節だ。

これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝には狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして漁師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。

マルクスがここで言っていることは、非常に常識的な話である。暇によって退屈しているとするなら、私たちは、なにかをやり始めるのだろう(そう「決断」するのだろう)。しかし、忙しい「のに」退屈することが、ハイデガーの「不安」の問題であった。それは、どんな「行為」に対しても、「必ず」起きる。
つまり、ハンナ・アーレントのように、「本来的な」なにか(アイデンティティ)を、探す「べきでない」。そもそも、そんなものがあると考えることが、哲学という
病気
なのだ。そういった本質主義こそ、あらゆる問題の「死に至る病」なのであって、まずは、自分を「何者」と「定義」することこそ、やめるべきだ。
私たちは、漁師「も」、漁夫「も」、牧夫「も」、評論家「も」、やりながら、漁師や、漁夫や、牧夫や、評論家に、
ならなくていい...。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学