民主主義は可能か?

この前ふれた

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

という本についてですが、この本は多くのポイントや論点があるだけに、私たち実践家は、こういったものに次の一歩を踏み出す「きっかけ」を、探したいと思ってしまう。日本の知性と呼ばれる人たちに、私たちは常に期待し、今の諸矛盾をブレイクスルーしてくれる、イノベーションを期待している。そこで、こういった「提言の書」を、何度も参照するのだろう...。
ここでは、第11章の議論に注目してみる。この本で一番、ダイレクトに民主主義の核心を議論しているところである。
著者は「政治の危機」と言う。その場合にイメージしているのは、大衆の政治への「参加」のコストに伴う、直接民主主義の「不可能」性の問題だと言えるでしょう。

いくどでも繰り返すが、筆者は決して、国家の運営を直接に大衆に委ねることは提案していない。国政レベルの政策立案や利害調整は、膨大な知識と繊細な配慮を要求し、アマチュアがやすやすと参加できるようなものではない。これは当然のことである。

ちょっとトリッキーな言い方だが、ようするに、今は「国家の運営を直接に大衆に委ねる」ことになっていない、と言っているわけである。
もちろん、日本は一見すると民主主義の形態をとっているが、実際は、ほぼすべて、今の日本の「国家の運営」は官僚がやっている。これだけ大きな「国家の運営」は、それなりに、官僚組織でなければできない。
大衆は国家の運営を行っていない。もちろん、政治家への投票などは行ってはいるが、政治家が「国家の運営」を行っていると言えない(官僚でなければできない)ということなのだから、それをもって大衆が政治に参加していると考えることは、事実と考えるには弱い。
つまり、著者にとって、まず、大衆が実質、「国家の運営」に関わっていない(とほぼ同じ)、という現状認識があって、それを「政治の危機」と言っている。
なぜなら、それでは「民主主義」ではないから、だろう。
しかし、上記にあるように、著者は「国家の運営」は、大衆には無理と考えているのだから、大衆が「国家の運営」をやらないことは、正しいという態度は一貫しているわけである。その基本を問題だと思っているわけではない。著者は大衆が「国家の運営」に関わらなければならないから、「政治の危機」と言っているわけではないのである。
では、なにを著者はこだわっているのだろう?
著者の論点は「政治の危機」である。しかし、具体的に何を「危機」と思っているのか。

そもそもたいていのひとはそれほど暇ではないし、通勤時間に新書に目を通すのが関の山だ。

例えば、著者は国民投票についてはここでは、言及されていないが、この引用にあるように、なにも知らないで盲目的に「印象」で選んでしまうなら、否定的と考えていいのだろう。
そもそも、投票という行為が、民主主義なのか、というのは、少し論点があるだろう。投票とは話し合いをあきらめたときに行われる、意志の一元化なのだから、ここには議論による説得があきらめられている。だとするなら、これを民主政治の最終的な形態と考えることは違和感があるのだろう。
しかし、他方において、著者は、専門家のタコ壷化も指摘していて、複雑化した現代においては、そういった意志決定を行うにふさわしい専門家が
どこにいるのかが分からない。
つまり、一方において、大衆が「国家の運営」に関わるべきでない、という、ポピュリズム批判(エリート主義)にたちながら、他方において、複雑化した現代の専門家の
極小人数
化に、不安定さを感じていないでもない(究極的に考えて、専門家が一人しかいないとなったら、だれもその人の判断の「査定(レフリー)」はできない、ということになってしまう)。
では、この「アンチノミー」を著者はどのように解決しているのだろうか。ネット上での感想にも見うけられるように、著者は必ずしも、この解決を提示しているということではない。
そういう意味で、この本自体は、非常に穏当な提言という印象である。
基本的にその後に語られていることは、テクノロジーによる、上記の問題点のパッチ当てという感じである。
しかし、そういうことで言うなら、間違いなく、国家はこういった施策を採用するんじゃないだろうか。国家は、あらゆる手段を駆使して、自分たちの権力の正当化に務めるだろうし、どんな手段であっても、それによって少しでも正統性が調達できるなら、なんにでも取り組むだろう。
では、ここで著者の論点から離れて(ここからは、いつもの、トンデモ論ですので、見識のある方は無視して下さい)、では、なぜ現代において、こういった
ニセ民主主義
が、ニセモノでありながら、そのように、あまり大衆に自覚されないまま、現代においても、それなりの権威と信頼が存在するのか、と問うてみよう。
たとえば、上記においても検討した、選挙というものについて考えてみよう。どう考えても、選挙で「正しい」選択が行われるとは思えない。それは、熟議でどちらかが、どちらかに説得されて「全会一致」になれば、理性的に、正しい方になったと考えられるのだから、それこそが合理的人間の「選択」にふさわしいだろう。
ところが、投票とは、多数決である。しかも、なぜそちらに投票したのかを
一切問わない。
なぜ、そちらにしたのかも分からない、そのような、「謎」の選択が、尊重されなければならないのは、どう考えても変だろう。
例えば、こう考えてみてはどうか。
私たちは、投票することによって、その権力の「制限」をしている、と。
投票は、このように、非常に「ランダム」になりやすい。大衆の傾向は、読みにくく、票の動きは、その時々で、簡単に変わってしまう。このことに、困るのは、官僚である。つまり、官僚は、この選挙という
ランダム
に翻弄されてしまい、彼らの利害の実現を最短距離で辿り着かせない。どうしても、官僚は、この投票という「ランダム」に彼らの足を止めさせられる。それによって、
官僚の政策実現を遅らさせられる。
このことは、悪い面だけではないだろう。国家の暴走の、加速度を弱めることには成功する。一部のクーデターで国家の転覆を妨害するには、この「遅さ」は効果覿面であろう。
そもそも、上記にある「全会一致」は、その場の「雰囲気」である。家に帰って、よく考えてみたら、やっぱまずそう、と思っても、国家が決定を下した後は、大きなお金が動き、後戻りができない。理性的とは、その時「そう思った」にすぎない。未来においては、「なんてバカなことをしてくれたのだ」と思うかもしれない。
しかしこれでは、著者の言う「政治の危機」を肯定してしまっていないか。現代には、さまざまな問題があったんじゃなかったか。それらは解決されなければならなかっったのではないか。
少なくとも言えることは、韓国やインドネシアやヨーロッパの小国が、独自の政治的決定を小回りよく決定し、最小税金国家や、FTAによる、製造大国や、福祉国家を選択し、現代の資本主義と軽やかにダンスする一方、
日本やアメリ
のような、巨大な消費市場をもつ、巨大な図体をもつ国々は、むしろ、なにも決められず、なにも動けない、状況を呈していることであろう。
これだけの図体を、無理に一つの方向に向けさせようとした場合に、あまりに多方面に影響が大きく、多くの犠牲を強いられる。
こういった大国は、むしろ、そういった小国にとって、「物を売る」、
市場
という性格が強く、そういった小国の存在条件(プラットフォーム)のようなところがある。小国はこういった大国で物を売らなければ生きていけないが、大国の方は、そういった小国が存在しなければどうしても困る、というほどではない。
リバイアサン
つまり、こういった大国は、どこまで「意志」が必要なのだろう...。