修正主義

日本の数学者で京大の先生だった森毅の本に、間違ったっていいじゃないか、というのがあったのを記憶している。
じゃあ聞こう。
本当に「間違っていい」のか?
森さんの頭のイメージにおいて、数学教育があったはずだ。そのように考えたとき、間違えることは、むしろ「なにが悪い」と言いたくなる。間違えた、ということは、間違えに気付いたということで、それなら、直せばいい。
そうやって、絶えず、「修正」していけばいい。むしろ、なにか完璧なものを今ここに提示できなければならない、そうできなければ恥だ、というのは息苦しい。
だいたい、少しぐらい弱味のない人は、愛嬌もなく、接しづらいものだ。ちょっと間違えるくらいが、ちょうどいい。
しかし、他方において、本当に間違えていいのか、というふうに聞かれれば、間違えては「困る」ことは世間には、多い。企業のセキュリティ事故に始まり、果ては、福島第一の原発事故に至るような、シビアアクシデントは、そもそもそんなことが起きる可能性があるような、社会を構築しなければいいのであって、そんなところで、ギャンブルをするようでは、そんな人に政治はまかせられない、ということになるだろう(ギャンブルとなると、人々は興奮するが、原発でギャンブルは男の火遊びとしては、ちょっと勘弁してほしいキレキャラだ...)。
しかし、多くの場合、「修正」は間に合う。むしろ、修正することを「前提」で、システムを構築すべきだろう。人間だから間違えるのではなく、あらゆる「手続き」型オートメーションに「不良品」は、ある割合で生まれるのは必定なのであって、問題はそれら欠陥品を製品段階までに、いかに検品するオートメーションを構築するか、なのだろう。
入学試験も、そうしたらどうだろう。試験時間を過ぎても、インターネットを介して、答案の修正を許可するのだ。家でいろいろ調べて、こっちが正しい答だと思ったら、インターネットから、自分が書いた答案の該当個所の
修正版
を添付する。採点者は、何日か後になって採点するとき、そういった修正版(2.0版、3.0版、...)を、採点に「加味」するわけである。
そもそも、試験というものは、受験者の「向学」のために実施される制度であろう。だったら、受験者の学習「意欲」が向上するものであれば「あらゆる」機会、つまり試験でさえ、利用しない手はないだろう。
大学試験で、ケータイを使ってヤフー知恵袋で答えを教えてもらうという「カンニング」があったが、むしろ、あれを
ルール
にビルトインしたら、どういうことになるであろう。試験の不正行為には代筆問題が昔から付いて回るが、むしろ、それさえを、ルールに入れてしまったら、どうなるだろう。
社会に出れば、あらゆる困難を解決するのに「カンニング」も「不正」もない。科学の発見だって、発見したかしなかったでは、まさに、

  • 発見前
  • 発見後

の世界なのであって、そこには天と地の差がある。会社の存亡がかかっている。その問題に答えられる人をどうやって探すのかだって、非常に求められる能力であるわけで、なんでも自分で、というものでもないだろう。
たとえば、入試問題に、数学の未解決問題を、一つ入れておく。ただし、この問題は「未解決問題です」と、あらかじめ、断っておく。その上で、「回答」を書かせるというのはどうか。
なにをナンセンスなことをしてるのか、と思うかもしれない。いや。でもですね、例えばこれを、
一年
かけて、取り組めと言ったら、立派な「研究」ですよね。数学の未解決問題なんて、そんな一直線で解決することなんてない。ある程度の条件の上での、
条件付き答
が積み重なって、つまり「周辺」の景色が見え始めて、少しずつ、全体に迫っていくのであって、そのどこまで迫れたかを採点すればいいいんじゃないか、と。まあ、そう考えれば、上記の問題も、それほどセンスが悪いとは言えないだろう。
よく「間違い」と言う。しかし、間違いは、つまりは、「ある条件」を別のもので、取り換えて推論を進めてしまったために、矛盾が発生する、というものである(矛盾があるなら「あらゆる」命題は証明可能になる)。つまりです。その、
ある条件が「成立する」
論理体系上では、それは矛盾じゃなくなる、ということでしょう。なぜ、間違いは、それほどまでに、人を
魅き付ける
のかと言えば、その「論理」が「深く広い世界」の入口を見せてくれるからであって、その可能性を見せるくらいに、さまざまな分野への「応用」を与えるから、なのであって、つまり、間違いは、
もう一つの数学へのドア
を開くのかもしれない。なんにせよ、徹底的に考えたものは、間違っていたかどうか以前に、それ「だけ」で(その複雑なロジックの強力さだけで)、
人々を引き付ける
なにかをもっているし、実際の「別の場面」で、そういったロジックの「型」が有用で、使えたりする。
つまり、その「間違い」が成立してしまう、数学モデルを作ったら、そのモデル上では、そこで証明した、膨大な結果が「利用可能」になってしまう。もちろん、ここでのポイントは、その数学モデルの有用性なのだろうが、しかし、その前に、先ほどから、こだわっていた
間違い
はどうなったのか? さっきまで、間違いと言っていたものが、いつのまにか、「違うモデル」として、その有用性を問われることになっているのだが、さて...。
なんにせよ、徹底的に考えることは、そのときはそのときで、馬鹿げてると思っても、後から、なんかの意味が生まれるかもしれない。だから、考えることを軽視すべきではないという結論でしょうか...。