学問への疑問、大学への疑問、医学界への疑問

正直、日本全体をなんとかしなければならない、とか、日本の「中心」東京について語ることが、日本について語ることになる、とかには、うんざりきている。
日本全体がどうのこうのと語ることに、なにか意味があるのか。例えば、いい例が、福島第一の事故だろう。
これは間違いなく、福島県を中心とした地域の問題である。東京は少し離れているし、関西はさらに「関係ない」。
つまり、なによりもこれは、福島県を中心とした「地域」の、
喫緊
の課題であるわけだろう。それを、東京や関西に住んでいる人が、まるで他人事のように、明後日(あさって)のことを、のんびりと「一般論」「抽象論」として議論している。しかし、そんな説教が、今の福島の方々の関心とどこまで関係があるのだろうか。
例えば、日本が誇る理系知識人の態度は、ほぼ一貫して、以下である。

やはり理工系、特に工学系の人は原発そのものについても然り、低線量被曝が及ぼす健康影響に関しても然り、福島大学においてでさえ、楽観的な人が多い。

石田葉月「大学はいかに可能か」

現代思想2011年12月号 特集=危機の大学

現代思想2011年12月号 特集=危機の大学

むしろ、今回の問題を問題として運動している人は、文系の知識人が多い。そう言うと、理系の多くが「たいしたことはない」と言っているなら、「民主主義」的に、気にしなくていいんじゃないか、と思うかもしれない。
しかし、このことは逆を示していると考えるべきであろう。それは、311以降、何度も何度も「安全厨」の言っていたことが、くつがえってきた過程が、大いに物語っている。大事なことは、理系の人たちにとって、自分にとっての「関心」が薄いということなのだと考えるべきである。自分の研究に、今回の事故は関係ない。むしろ、彼らが心配なのは、この事故によって、自分の研究費用がけちられることでしかない。それを避けるには、根拠などどうでもよく「安全」だと人々に思ってもらっていればいい。
放射能の人体への影響には「個体差」がある。つまり、被害が大きく現れやすい人がそれなりの割合ある。また、よく「低線量」という表現を使うが、ホットスポットと言われているように、統計的にならした値は、個々具体的に現場で生きている人にとって意味はない。各自の「いる場所」が常に問われなければならない。そう簡単じゃない。
いずれにしろ、なによりも大事なことは、
知識を大衆が知る
ことであろう。
なぜ理系知識人が「安全」を連呼するのか。それは、彼らが大衆に説明するのが、おっくうということではなく、「難しい」と考えているからだろう。つまり、そのグラデーションを説明しようとなると、あまりに共有している知識レベルに差があるので、学問の基礎から始めなければならなくなる。すると、必然的に、
「安全」なんだから、もう質問してくるな
という態度になってしまう。彼ら理系知識人も時間は大切だから、そうやって節約してしまう、ということだろう。しかし、そういったコミュニケーションのエコノミックスはディスコミュニケーションと「同値」であることは、ありがちなことだ。
例えば、現在の日本において、中学までは「義務教育」となっているので、国民は生まれたら、小学校と中学校は「卒業」しなければらない。
ところが、である。
その後がある、ということになっているわけだ。つまり、高校と大学と大学院である。これらは、義務ではない。ところが、「教育」だとか「研究」だとかをうたっている。しかも、
国家の保護
の下にある。多くの国家からの補助を受け、運営されている(これは、私立大学も同様だ)。国家の保護にあるなら、それは「国民へのサービス」として、国民に還元されると思うだろう。ところが、まず、入学段階で、選抜が行われる。つまり、これらのサービスを受けられる人は、それらの機関の裁量でそちら側が勝手に選べるわけだ。
そうはいっても、大学などは、それなりの選抜試験を行い、ペーパーのみなら、その採点で、ほとんど今は決めているのだろう。
しかし、私がこだわっているのは、高校や大学が
公共財
なら、どうして、そうやって「選んだ人」しか相手にしないのか、という疑問である。まず、多くの国家の補助を受けながら、なぜ、入学できた人だけしか、サービスの提供相手だと考えないのか。
例えば、福島なら、福島大学があるはずである。福島大学は、そのお膝元の福島で、シビア・アクシデントとしての原発事故が起きたのだから、まっさきに、それに対して、
応答
しなければ、おかしくないか。ほんと、なんのために、福島県に大学があるのよ。福島の県民に、なにか言うことがあるんじゃないのか?
たとえば、こう考えてみよう。
なぜ、義務教育があるのか。国民が知っていなければならない知識があると考えるからだろう。しかし、そういうことで言うなら、「今」の福島県民にとっては、
放射能の知識
は「なによりも」必要な知識ではないだろうか。
もし、そういった知識が県民のだれもが知っていなければならないとするなら、
義務教育
しなきゃならないんじゃないのだろうか? だって、今、国民なら、だれもが知っていなければならない、と言ったわけだろう?
例えば、以前紹介した本にスウェーデンの知識社会「戦略」の記述がある。

こうした積極的労働市場政策は、「誰でも、いつでも、どこでも、ただで」を原則にしたやり直し可能な「リカレント教育(Recurrent Education)」と有機的に関連づけられている。リカレント教育とは、学校教育を終えた後も、生涯にわたり学びつづけることのできる制度である。一九六九年にフランスで開催された第六回ヨーロッパ教育会議において、スウェーデンのパルメ(Olof Joachim Palme)教育大臣が提唱した言葉である。
リカレント教育を進めるスウェーデンでは、教育休暇法によって、在職者がステップアップする目的で、教育を受けるための休暇を取得することが保障されている。教育期間中の生活費は政府が融資する教育ローンによって保障されている。勤務期間が二年を超えれば、最良で一年間の教育休暇を取得でき、この期間中は賃金の六八%が教育手当として受給できる「サバティカル(長期休暇)制度」すらある。
こうしか休暇中の職務は、代替雇用によってリリーフされる。教育休暇以外にも育児など多くの権利として休暇があるため、失業者も代替雇用のリリーフで就労可能となる。

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

「分かち合い」の経済学 (岩波新書)

しかしこれは、たんに、「労働」に限ったことではないはずだ。国民は確かに、中学で義務教育は終える。じゃあ、それまでの義務教育だけで生きていけると、本気で思っているのか。違うだろう。いろいろ状況が変われば、知ってもらわなければならないことは増えないのか? 明らかにおかしい。年に数日は、国民を集めて、
社会人学校
を行わなけれなならなくないか? それまで教えていたことが、学問の進歩で変わったのなら、その「訂正」がいるだろう。逆に、そういうことを「やらなくてもいい」と思える感性には、そもそも「教えていること」が「大事」だと思っていないのではいか? その「内容」を管理することを本気で重要だと思っているのだろうか?
私が疑わしいと思うのは、民主主義に関わるのに、必要な知識があるなら、
義務教育
しなければいけないのではないか、ということなのである。義務教育をしておかないでおいて、そんな民主主義を行うための知識もない大衆に政治を任せられるわけがない、って、どこか矛盾していないだろうか?
知っていなければならない、のなら、教えるしかないだろう?
つまり、エリート主義は一つの「矛盾」にしか、私には思えないのだ。知っていてほしいのなら、教えなければならない。教えてないのに、そいつは知らないから選挙民の資格がない、とか、意味不明だろう。
ところが、この逆も言えるのである。原子力について、いろいろ本とかも読んできたが、一つだけはっきりしていることは、ほとんど情報が公開されていないことだろう。細かな細部に行けば行くほど、その内部で何が行われていたのか、何が起きていたのかは「企業秘密」や軍事機密の壁に閉ざされ、人々に知らされることはない。じゃあ、
危険
と国民が判断するのは、当たり前のことではないのか。それを無知な国民が判断したら、国策を誤るとか言うが、しかし誤る誤ると言われても、まずもって国策に関係なく、誤るのは「本人」なのだろう。本人が知らないと損をするわけだろう。まず、それが問題じゃないのか? まずそれでいいのかを問うているわけだろう。
ところが、同じようにほとんど内情を知らされてるはずもない、経済学者や産業系ジャーナリストが、日本が原発をやめたら、大変なことになる、と大衆を今も脅し続けている。自分だって、
なにも知らない
のにである。
しかし、もちろん、福島「以外」の地域で、今どうしても、放射能についての学習が喫緊で必要かどうかは別で、それほどの緊急性はないのかもしれない。つまり、それが
地方自治
なのだ。なんで、全国一律で授業をやるのか。地方それぞれで、事情は違うのだから、その地域で教える内容なんて決めさせればいい。
私が、311以降にネットの議論をいろいろ読んでいて、一番の違和感をもったのが、まずもって、
正しい知識
を大衆に知ってもらうことがなによりも「大事」だと言う人がほとんどいなかったことではないだろうか。
そして、なによりも驚いたことは、放射線医学関係を中心に、医者たちが、
ろくな説明を「せず」に
「大丈夫」を連呼していたことだろう。そして、さらに驚いたのが、一部の産業系ジャーナリストたちが、そういった医者たちの発言を錦の御旗にして、医者が安全と言ってるのに危険じゃないかと言っている連中は「デマ」だと、自分たちのメディアを使って、
攻撃
を始めたことではないだろうか。医者は安全と言っているのに、そこに危険な空気を示唆することは、デマであり、風説の流布であり、営業妨害であり、こんな営業妨害をされたら、福島の農産物が売れなくなる。売れないのは、こいつらのせいなんだから、どうおとしまえをつけてくれるんだ、と。
こういった連中が野放しにされていて、いいわけがない、と。本当は買ってくれたはずの「無知」な人まで、変な情報を耳に入れて、売れなくなってしまう、と。だから、
こういった連中を徹底的に叩きのめして、二度とこんな連中が現れないように、大衆を「恐怖」させておかなければならない、と(そのかわり、後で、ホンワカするようなアホネタで、場を暖め直すことは忘れない)。
たしかに、こういった流言による、人々の行動の変化はちょっとしたことで、大きな影響となるだけに、言いたくなる気持ちも分からなくはないが、何度も言っているように、最も大事なことは、
正しい知識を知ってもらう
ことであろう。
小学校の頃、理科の授業で、よく「実験」というものをやった。もし、人々の「理解」が必要なら、そういった形での「学習」から始めることだっているのかもしれない。また、高度な論文を読むには、人によっては、基本的な数学などの諸学を抑えておくこともいるだろう。私が変だと思うのは、そういった学習の手続きを行うことをやってもいないで、大衆には放射能は難しいとか、学ぶ時間がないとか、言っている連中である。
そりゃあ、日本全国の人がやる必要はない。また、こんなことは一言で話せることじゃない。ワンフレーズ・ポリティクスじゃないんだから、いろいろステップを踏んで学んでいかなければならないにきまっている。しかし、やらなければ分かるものも分かるわけがない。
だから、「意欲」のある有志には、「需要」があるなら、どんどん行う「責務」が、義務教育の小学校や中学校だけでなく、高校や大学、はたまた、すでにそれらを卒業した社会人に向けてだって、いるんじゃないのか。
これまでの過程で、だんだん分かってきたことは、この放射能の問題というのは、
医者
の問題だったということではないだろうか。
今回の福島の事故で、一番異様な感じがした集団が、放射線医学関係の医者たちであった。彼らがことさらに強調する放射能安全神話は、言えば言うほど、ようするに、
放射線「医療」には「危険」な面がある
ということが、はっきりしていく。むしろ、大衆に必要なのは、その「知識」だろう。あまり、安易に放射線治療を選択すべきじゃない。その「リスク」を考えて選択しなければならない。

私の場合は、これまで医学界の「いのちの軽視」の歴史について調べ学んできたので、三月二〇日前後の段階で放射能の専門家、医学関係者の発言が異常だと私なりに察知しました。

ドイツの場合は、ナチス医学に対して根本的な見直しをやったことが大きかったと思います。生命倫理の問題にしても、ドイツはつねに厳しい態度を維持してきました。ここにはもちろんキリスト教、特にカトリック教会の影響もありますが、医学が人の命を重んじることから逸脱した経験を真剣に反省したわけです。しかし日本の場合は、アメリカによってそうした経験は隠されてしまった。

島薗進「大学はいかに可能か」
現代思想2011年12月号 特集=危機の大学

医者が「大丈夫」と言えば言うほど、医者が「にっこり」すればするほど、患者はその「真意」をかんぐるわけである。
白い巨塔
今回の福島の事故は、多方面にその化けの皮を剥がした印象がある。特に、いわゆる知識人と呼ばれてきた人たちが、安易に「安全厨」になり下がったしまった風景は、閉鎖的な日本社会の病弊を見たような印象であろう。
なぜ、彼らはそういった「態度」を選択するのか。そこには間違いなく、「白い巨塔」がある。日本は
高級職種であればあるほど、強力な
終身雇用
が生きている。医者や大学はその典型であろう。そういった、雇用権を握られている人は、最終的には何も言えなくなる。日本社会の閉塞は、この問題を遡上に乗せるところからしか始まらないだろう...。