マンガ「進撃の巨人」の巨人

マンガ「進撃の巨人」の最新刊を読みながら、この巨人という存在がなんなのかについて、ここまで読み進めて、いったん考えてみた方がいいのかもしれないとは思った。
その鍵となるのは、今までの文脈から、間違いなく、エレンという自ら巨人となる能力をもつ少年から生まれる「エレン巨人体」だろう。ウィキにおける、説明を引用してみよう。

エレンが強い意志を持って自分の身体を傷つけることによって、傷口から巨人の肉体が生成され、最大15メートル級の巨人へと変貌することが可能となる。この能力は、「巨人を殺す」「身を守る」などの意志に沿って、必要な分だけの巨人の肉体が自動的に生成され、目的を達成した後にその肉体は朽ちて消滅する。ただし本体の心身にかかる負荷は大きく、多用は肉体と精神を著しく衰弱させる。巨人化の際、エレンの本体は通常の巨人の弱点であるうなじ部分で巨人の肉と同化しており、本体・巨人体ともに体の一部が切断されるほどのダメージを負っていようとも即座に再生する。また、巨人化する前の状態でもエレンの身体には常人以上の再生能力が備わるようになった。加えて巨人体はエレンの格闘術をそのまま使えるため、複数の巨人を圧倒する戦闘能力を獲得している。なお、この姿でも他の巨人はエレンを人間と認識し襲いかかってくる。
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圧倒的な「体力差」をもつ巨人たちに、うなじという
弱点
があることは、この世界の秩序を一つ決定している。人間と巨人は、この巨人側との圧倒的な体力差の非対称性において、上記の弱点は、一つのバランスを生成する。
小さな存在である人間は、この圧倒的な巨人の
意味不明
の攻撃を前に、「壁」という手段によって、自らを防御してきた。城塞都市によって。しかし、巨人の上記の弱点を知ることを勝ち取った(科学)ことは、さらに自らたちをより「積極的」に生きさせる手段を提供した、と言えるだろう。これによって、さらにこの
バランス
はより人間側のサバイバルネスに有利に働く。つまり、人間の中から次々とこの「弱点」に「適応」する戦士たちが現れてくる。卓越した運動能力をもち、上記の弱点を攻めることによって、巨人との闘いに勝利する「経験」をもった人々が少しずつではあるが現れ、生きることに自信をもってくる。
しかし、そうは言っても、あい変わらず、この「非対称性」は圧倒的と言っていいだろう。
このマンガは、間違いなく戦争をイメージしている。人間が巨人に殺される場面を何度も描きながら、彼らが生き延びているのは、こういった「同士」の犠牲に「よって」であることが、何度も描かれる。なぜ、生きているのか。それは、自ら、「おとり」として、自死を、選んでくれた戦士たちによってであることが、何度も何度も示唆される。
人間は集団としての存在であるのだから、その集団のうちの何人かが、たとえ死んだとしても、その集団は数としては維持される。この視点で考えたとき、数人が自らを「おとり」として、死を選んでくれた方が、この集団を生き延びさせるのには、有利なように思われる。
言ってしまえば、軍隊とはこの「論理」によって、最小のリスク、最小の自軍の死者、最大の戦績、この三つを両立させることを目指す集団だと言えるだろう。
しかし、どうしてそう簡単に同士の自死を受け入れられるだろう。たとえそれが、上記の意味で、最善と思われる選択だったとしても、それは「その人」の死の選択によって実現される「バランス」でしかない。
つまり、上記のバランスのうちの、「最小の自軍の死者」の極小化をこそ、あらゆることに対して優先とすべきではないのか、という疑問がわく。ほとんど「自死」に近いような、カミカゼ的な行為を、どうして受け入れられるか。
しかし、こう言ってしまうと、ほとんど軍隊の否定に近くなっていく。軍隊は自軍のだれかが死ぬかもしれない、ということを覚悟して、一定の成果を目指す行為であるわけだが、それはどこか「自殺」と近くなっていく。自殺することによっての、
(自殺の結果としての)理想のユートピア
とは、一体なんなのか。

エレン
お前は間違っていない
やりたきゃやれ
俺にはわかる
コイツは本物の化け物だ
「巨人の力」とは無関係にな
どんなに力で押さえようとも
どんな檻に閉じ込めようとも
コイツの意識を服従させることは誰にもできない
お前と俺達との判断の相違は経験則の基づくものだ
だがな...
そんなもんはアテにしなくていい
選べ...
自分を信じるか
俺やコイツら調査兵団組織を信じるかだ
俺にはわからない
ずっとそうだ...
自分の力を信じても...
信頼に足る仲間の選択を信じても...
...結果は誰にもわからなかった...
だから...まぁせいぜい...
悔いが残らない方を自分で選べ

進撃の巨人(6) (講談社コミックス)

進撃の巨人(6) (講談社コミックス)

このストーリーの眼目は、人間が「滅亡」するのかどうか、と言える。
しかし、人間が滅びるとはどういうことなのかと考えてみたとき、どうしても、この地球上のさまざまな「生物」種が滅びてきてきたことが「どういうことなのか」と問うことと「同値」のことと思わされる面があるように思う。
言いたいことは、地球が生まれてから、多くの生物種が生まれては、滅亡していったわけだが、それによって今のところ、この地球上から、「生物」が消えているわけではない、ということである。ある生物種がいなくなれば、その「なわばり」は別の種によって、埋められてきたのだろう。
ということは、それら生物種の滅亡は、結果として次の生物種の生存の条件を用意したとも言える。まあ、ダーウィンの進化論の常識を話しているわけで、より環境適合的な生物種が、その時々の環境の変化に対応して、適者生存していくのだろう、ということである(この原則に、人間を例外とすることはできない)。
しかし、たとえば、この地球上に存在する核兵器を、この地球上に「均一」にどこも「破壊」した後、どういった地球上の「生態系」になるだろう。私にはその「破壊力」についての知識を持ち合わせてはいないが、かなり上記の
生物サイクル
に決定的なダメージを与えることにはなるだろう。人間が自らの生存の「戦略」のために作った核兵器が、勝手に人間が滅びて行くなら、その存続に影響を与えることのなかった生物サイクル「自体」の方に大きな影響を与える可能性がある、ということは興味深い。
つまり、人間は人間の種の存続のために、この地球上の生物との、トレードオフを選ぶというような奇妙な事態だと言えるのかもしれない。
(私はここで、核兵器を例にだすことで、原発の問題を示唆しているのだが...。)
私が上記で示唆したかったことは、その人間の「自殺」による、
(自殺の結果としての)理想のユートピア
という考え方の異常さ、である。おそらくこういった考えを肯定する限り、人間が核兵器を手放すことはないんじゃないか、と思った、ということである。
マンガ「進撃の巨人」のストーリーは、二つの軸を巡って進んでいるように見える。
一つは、人間社会の「愚行」による、人間を含んださまざまな秩序の破壊、滅亡への方向の動きであろう(それについては、上記で書いた)。
もう一つが、「エレン巨人体」のような、この巨人自体の存在が、各人間それぞれの生まれてから今までの、個人的な「おたく」的な抑鬱感情
「ひきこもり」的自意識の肥大さ
と対応しているんじゃないか、ということであろう(実際、なぜエレンが巨人体になったのかは、そういったものと対応させて描いているように読める)。
だから、巨人という存在として「ある」ことが、むしろ、他人にとってはどうでもいいような個人的な体験や悩みの
感情の巨大さ
と「同値」に描いているように見える(これは、エヴァンゲリオンのようなアニメの頃からサブカルにおいて一般に見られる傾向なのかもしれない)。
しかし、この二つは果して、そう簡単に分けられるだろうか。
おそらく、作品はさまざまな形で、この二つの関係をパラレルに描き、その関係を示唆するのではないだろうか。
未来予想図的に言うなら、科学の発展は必然的に、より強力は「兵器」の発明に結果する。しかし、ひとたび発明されれば、あとは「現実政治」がその「パワー」の拡散を止めることはできない(それは、現在の核兵器の拡散を見ればわかる)。しかし、そういった兵器を実際に使うのは、一人一人の個人であって、彼らは、エヴァ的な個人的鬱屈を生きている。
このバランスをどういった「ユートピア」的な秩序で未来を構想するのかは、なかなか難しい問題のように思える(この作品のこの後のストーリーの中にそれを探そうとするのだろう...)。