宮台真司『愚民社会』

大塚英志との対談。それにしても、クリスマスに私は何を書いてるんですかね orz。)
結局のところ、日本の「エリート」問題というのは、今後の「ユートピア」において、どのようになっていくことが望ましいのだろうか。
今までのように、日本を背負っていく人を輩出しているような、東京にある有名進学校や有名大学で、優秀な成績を残したような人たちが、社会人経験もないまま、内輪だけで共感し合い、その感情をひたすら増幅させ、その感覚を内包したまま、とにかく、
大衆に選択させたら大変なことになる
という(私に言わせれば、杞憂に思う)、危機意識ばかり肥大化させているような、そういった未来が、やはり今のように続いているのが、来たるべき「ユートピア」なのだろうか。
それとも、来たるべき未来の「ユートピア」は、もっと違った「秩序」によって、バランスされるようなものになるのだろうか。
私はなぜ、東浩紀さんが、あそこまで、大衆が選択に直接関与することや、選挙というシステムそのものを「嫌悪」するのか、理解できないのだが(頭のいい人が考えていることは分かりません)、こんな人だったのかというのは、ショックだし、逆に恐しくなる。
そんな、「ニセ民主主義」を実現することに、心血を注ぐって、ちょっと怖い人だなあ、と。たとえ、そのように思ったとしても、なぜそれを人に向けて語るんだろう? だって、そういう人に自分の本を買ってもらうことで、収入にしているわけでしょう? この人は、これから何をしたいのだろう? つまり、なにを考えているのかが分からない。
(言うまでもないが、普通選挙権は、国民が勝ち取った「権利」ですよね。これは、国民の「利害」と関係しているのであって、そう簡単に手放せ、と言う「近代人」を、どのように、想像したらいいのかなww)
しかし他方においては、そのように考えることも、違うんじゃないか、と思わなくもないわけです。
それは、こういった人たちが、今までつき合ってきた回りにいた人たち、有名進学校や日本を代表する大学の人たちが、たいてい、おしなべて、そういう考えをしていがちという、傾向があるということなのではないか。むしろ、そういった
エリート・サークル
の中では、それが普通(共通感覚)なんだ、と。
しかし、他方において、「エリート」というのは、孤立と同値のところがある。常に、大衆(共同体)に「疎外」されているという、被害者感情が強い。それは、どこか「おたく」と似ていなくもない。引きこもり、他人とあまりつきあわないから、勉強時間が確保できた、と言えなくもない。
例えば、柄谷さんが一貫して主張されてきた、共同体批判は、冷戦体制時のビック・ブラザー批判とも関係するような、一定の意味があったことは確かだろう。しかし、冷戦崩壊以降において、『世界史の構造』がその典型であるが、むしろ、世界史の考察の方に、関心はシフトしていて、共同体は、そういった
諸構造の一つ
として、とりあげられるだけになっている。また、その「贈与的な交換関係」において、むしろ、その「利点」さえ、検討されている面があるように見うけられる。
日本のムラ的な共同体は、日本の出版論壇のようなところでは、一貫して、日本の「遅れた」因習として、西欧思想輸入言論人によって、口うるさく、侮蔑され馬鹿にされてきたわけだが、そういったものと、むのたけじの、日本の村落研究での日本の村落への
一定の評価
との違和感が私には、ずっとあった。
私は「土人」のなにが悪いのかを、よく分かっていない。もちろん、この本で、大塚英志さんが「放射能から、自分の子供だけを連れて逃げる」という、その自分の「イエ」の子供さえよければいい、という感性を「土人」の例として言っているわけであるが、そういうことなら、理解はできる。
しかし、私が言いたいのは、そういうことではない。そもそも、エリートだろうと大衆だろうと、みんな、現代の日本人は、過去の日本の村社会が、どういうものだったのかを知らないで、馬鹿にしている。もう、違った世界に生きているということを「自覚」していないんだと思うわけである。
過去の日本の村落と、今の日本の地方は、違う。それは「良くなった」ということではなく、もっと、「経済的に」強いられた
なにか
なわけである。

大塚 本当は「空気」を読むのではない形での共同体と共同体の間の利害調整とか、共同体内の合理的な利害調整が、近代依然の社会になかったのかといったら、あったはずなんです。ぼくの専門ではありませんが、民俗学では例えば水利権とかですね。ムラの中でどうやって水を再配分していくのか、村落共同体の中と、更に対立する村との間でどうやって利害調整していくのかについてはかなり合理的なシステムや、協議の具体的な痕跡が残っているので、そういうノウハウはあったわけです。
ただ、そうしたノウハウを「近代」の中で、近代的個人や新しい公共性としてつくり変えていうことしないで、村落共同体が経済共同体として崩壊していくとともにその課題が持ち越されなかったということですね。

つまり、今のエリートが異様なのは、そういった過去の「村の知恵」を継承していない、まったくの、そういった地元の「伝統」の延長に自分を自覚せず、部屋に引きこもり、遠い世界のことばかり書かれた
本の世界
を必死に吸収することで、「なんでも知っている」という全能感をもってしまっている、ということでしょう。
しかし、それは、ある程度、しかたがない面がなくはない。つまり、70年代以降の日本の経済成長は、そういった村「経済」共同体の崩壊を結果すると同時に、
地方の消滅
を結果していくわけですから。

宮台 青年団云々と並んで僕がよく覚えているのは、バイパス問題についての言及です。多くの人が青年団や子供会の崩壊はバイパス建設で起こったというのです。一九七二年に田中角栄内閣が誕生、『日本列島改造論』に基づき道路特定財源が確保され、モータリゼーション対応を口実にバイパス建設ラッシュになります。これがすべての始まりだったというのです。
日本の地方都市はどこも鉄道城下町で駅周辺に商店街が広がります。ところがバイパス建設で旧市街地がバイパスされて国道一六号線的風景が展開します。バイパス周辺には、風景の入替可能性が示すように、人と場所の結合が必然的ではない新住民が増えます。旧市街の青年団は廃れ、バイパス周辺に青年団はできない。

宮台 僕が取材する限り、バイパス化による旧市街地空洞化を恐れる声は、一九七〇年代半ばに各地にありました。でも中央からの補助金行政を望む地域の空気にかき消されました。かくしてヨーロッパのような工夫、すなわち駅近くまで道路整備した上で、駅周辺は車が立ち入れない歩行者&自転車ゾーンにしてマルシェ(市場)やカフェを展開するといった工夫がなされなかった。

掲題の本の題名をみると、この本は、日本人を「愚民」と言っていると解釈されるかもしれない。まあ、たしかに、大塚さんの言う「土民」は、そういった面を批判しているわけだが、宮台さんの視点は少し違っている(そうだと言っている人は、この本を読まずに批判している)。
もちろん、私も基本的に宮台さんが、エリート主義的な主張をずっと続けてこられていることを知らないわけではない(自分もそのことで、このブログで何度か批判したこともある)。
彼のその姿勢が変わったわけではないが、少しおもしろい、ことを言っている。

宮台 僕と大塚さんには確かに共通性があるかもしれないと思います。倫理的な内発性とでもいいますか。たいそうなことじゃなく、「ふざけたヤツを見ると腹が立つ」ということです。腹が立つ理由はいろいろです。例えば経済産業省の主要官僚は昔から麻布OBネットワークです。八月人事で更迭された松永和夫元事務次官も改革派元官僚の古賀茂明氏もそう。

宮台 麻布は要領が良い勉強嫌いが多く、東大法学部から財務省に進むよりも、東大経済学部から経産省に進むケースが目立ちます。麻布OBネットワークは、原子力ムラが相互扶助的な共同性を示すのと同じ意味で「われわれ意識」が強い。麻布OB的われわれ意識の特徴は「愚民視」です。かつて高校野球地区予選での応援が差別的で聞くに堪えないと批判されたのが、有名です。
麻布OBの経産官僚が何をどう考えているのかが麻布OBの僕には手にとるように分かる。だから、すごく腹が立ちます。腹立たしいから原子力行政をめぐるペテンやインチキを絶対に粉砕したいという思いがあります。その思いは社会設計的な合理性についての冷静な判断とは別物です。むろん冷静な判断をしているけど、動機には近親憎悪が含まれます。
麻布OBに限らず、似た「愚民視」を、至るところで感じる昨今です。例えば低線量内部被曝による甲状腺癌や白血病の増加について統計的に有意な結果はないなどと一部の科学者が喧伝しますが、これにも「愚民視」を感じます。有意な結果はない。その通りです。ではなぜ有意な結果が出ないか。数値が微妙だからか。違います。サンプル数が少ないからです。
特定地域が低線量放射線ホットスポットになり、従来の一〇年で五人だった癌患者が一〇人に増えたとする。でも母集団である人類全体についての推定を行うにはサンプルが少なすぎる。必要なサンプル数を得るには大災害が必要です。でも今この推定を行う目的は大災害につながる原発の是非を評価することです。サンプルが少ないのは構造的問題なのです。
僕は統計学の訓練を受けているからすぐ分かる。科学的には有意なデータがないと語る科学者も同じことを分かっているはずです。有意なデータがないという言い方で多くの素人が「なぁんだ、大丈夫じゃん」と受け取りがちなことも知っているはず。そうじゃない。構造的に有意なデータは得られません。ならば予防原則が大切。ここにも「愚民視」がある。

宮台 だったらこっちもやってやろうじゃないか、みたいな感情的動機があります。「愚民視」に基づく民衆操作に、徹底的に対抗してやろうじゃないかと。

エリートと大衆が「存在」することは、一つの「現象」である。つまり、それは、そういうものだということで、そのことで、どうのこうのと言うような話ではない、ということである。しかし、だからといって、それを「階級」のようなものと考えることは、正しくない。

  • 倫理的な内発性(「ふざけたヤツを見ると腹が立つ」)

は、言わば、エリートと大衆という、二元論とは別のベクトルの衝動であって、ということは、大事なことは、宮台さんのイメージするエリートと大衆は、なんらかの意味で、ある
関係
が存在しているようなものとイメージしている、ということになる。

宮台 子供の頃にテレビで放映されていたローラーゲームみたいなものです。チーム最後尾から出発したジャマー(ヘルメットを被った得点役)を、チームのその他全員が連携して盛り立て、敵チームをゴボウ抜きにして得点できるようにするゲームです。ジャマーの個人的能力が決定的に重要ですが、ジャマー単独では勝てず、また、勝つのはチームなのです。
各共同体のエリートも非エリートもグループワーク能力が要求されます。エリートは共同体に恩義を感じるがゆえに共同体にリターンを返すべく命を賭けます。非エリートに比べて知識が勝るのは当たり前で、加えてジョン・デューイのいう「経験を通じた成長」を誰よりも高度に要求されます。エリート養成に失敗し続ける共同体は淘汰される運命です。
かつては自治体レベルでも国家レベルでも、エリートと非エリートの関係をこのように考えるのが、日本でも当たり前でした。エリートは、非エリートを「愚民視」するどころか、非エリートに恩義を感じたのです。今はどのレベルでもこうした枠組みが消えています。そのかわりにエリートによる非エリートの「愚民視」が蔓延します。日本は終わりです。

エリートと大衆は、別の世界の存在とは、イメージされていない。むしろ、エリートと大衆が、(その地域という場において)共に、育ち生きてきた、という、相互の、
恩義
の感情が大きい、という、相互に支え合って、成長してきた、というイメージが大きいのだろう。
例えば私は、今回の原発問題も、つきつめれば、日本の「大学」問題だと思っている。私は、もし日本の各都道府県に、国立大学がなく、東京にしかないなら、日本の問題は東京で考えるのだろうと思わなくもないが、各都道府県にあるのなら、それぞれの都道府県内で、
自治
を行うべきだろうと思うわけです。つまり、福島第一の問題は、なにをおいても、福島大学の「知」の問題だと考えるわけです。ここが、まともに働かないなら、そりゃあ、難しいんじゃないか。外野は適当なことを言いますけど、結局は、地元の当事者の問題だと考えるのですから、ここが、さまざまな諸問題への手当てを提示できないなら、どこがやれるんだろう? と思うわけです。
まりたんに、福島大学のエリートたちは、県民に「恩」を返せばいいのでしょう。どんなに嫌がられようと、いやになるくらい、大量の情報を県民に与えて、恩返しをすればいい。分かってもらえるように、絶えず、与え続ければいい。あとは、選ぶのは県民なんでしょう。県民の「無意識」になるくらいまで、植え付ければいいんじゃないですかね。そうすれば、日々の実践の中から、その「意味」を汲み、自然とそれを生きるようになるわけでしょう。
(もちろん、だからといって、大衆を礼賛したいわけではない。大衆問題において、どうしても、考察しなければならないのが、戦中における、日本が戦争にのめり込み、抜けられなくなり、終戦の日を迎えるまでの、それに対する、大衆の「役割」だと言えるでしょうが、今回の自分のポイントは、そこを考えることではない、ということです...。)
エリートにしろ、大衆にしろ、この日本の中から、「再生産」され続けるしかない。しかし、日本の急激な少子化は、そういった「未来」を絶望させる。つまり、問題は、エリート論でも大衆論でもなく、日本の少子化なんじゃないか、と思わなくもない。
なんにせよ、子供がいないと始まらないわけだ。

宮台 インターネットで男女のマッチングサービスをする業者の多くは、サービスがある種の欺瞞だと弁えています。なぜなら構造的にマッチングが成功しないからです。女たち全員がAランクの男たちに集中し、男たちは女のランクへの執着が、女たちほどには強くないからです。
こうした構造があると、恋愛市場ないし結婚市場の取引開始直後に一瞬でAランクの男が払底します。払底後、残された男たちと女たちとは、女たちがAランク要求を諦めない限り永久にマッチングできません。それゆえにマッチングサービスを永続できうわけです。溝が永久に埋まらないがゆえに溝を橋渡しするサービスが永久に要求されるのですからね。

こういった話を聞くにしても、むしろ、問題は、エリートたちに、こびりついて離れない、日本的な「優性思想」的な「イエ」的「規範」意識なんじゃないか、と思わなくもない。
なぜ、エリートなのか。なぜ大衆なのか。
それは、ひとえに、子供を「イエ」制度と、不可分の関係で考えるからなのかもしれない。もっと、その存在は「自由」なものとして、扱える、社会システムを提示できる、思想的な強度を日本社会の内部から生み出せていないことにこそ、その根源的な理由を考えなくもない。

宮台 「伝統家族」でなく「家族的なもの」を保全する動きは、フランスだと PACS(パックス=民事連帯契約法:Pacte Civil de Solidarite)制度にあらわれます。日本でいう同棲関係のようなものにも、行政次元で家族の資格を与えるのです。アメリカでも、州によっては同姓婚つまり同性愛者同士にも正規の結婚を認める動きがあります。「伝統家族から変形家族へ」の動きです。
こうした流れば、とりわけ欧州では少子化を食い止めました。一九七〇年には日本もイタリアも、シングルマザーからの出産は二パーセントでした。今ではイタリアは二五パーセントになりましたが、日本は同じ二パーセントです。シングルマザー増加というと母子家庭の印象がありますが、実は子育てが、多様な「家族的なもの」に包摂されるという意味です。
伝統主義はかえって社会を破壊する。あえて機能主義に立つと社会を保全できる。これが「伝統家族から変形家族へ」の意味です。

もう、昔の日本に存在した、村落「経済」共同体はない。ないのに、今だに、日本の思想的な「規範」は、「父親」という表象であり、「母親」という表象である。つまり、あいかわらず、「イエ」制度という「規範」を信じることに、なんの疑問ももっていないことこそが、問題の根源なのかもしれない...。

愚民社会

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