ジグムント・バウマン『コラテラル・ダメージ』

NHKの「追跡!真相ファイル」は、なかなか、衝撃的な構成で、大衆に影響したのではないか。私には、意味の分かりにくい部分もあったが、それなりに、製作者側の意図は理解できた。
しかし、それ以上におもしろいのは、ネット上の御用学者たちの、ヒステリーぶりだろう。田崎晴明という人のこの番組についての日記が、話題になっているが、最終的なその内容は、比較的無難に番組を評価している、という感じである。

何が信頼できて何が信頼できないかの検討はもっとじっくりやるべきで、そういう空気を盛り上げるのが番組の狙いなのだと思うから、そういう意味では成功していると思う。ぼくにとっての最大の「山場」は、「ICRP は核エネルギー推進派の圧力を受けている」という主張を、名誉委員である Minehold さんの証言で裏付けようとしているところ。これはきわめて興味深いし、こういう論点を真っ向から取り上げて、重要人物のインタビューをとってくるところは高く評価したい(せっかくなら、もっと掘り下げてほしいのだが)。
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番組のもっとも重要なメッセージは、(ぼくの言い方に直すと)「DDREF は低線量被ばくの健康影響についての真摯な考察から生まれたのではなく、原子力産業などからの圧力に答えてリスクを低めに維持するために導入された」ということだ。これが正しければ、DDREF に伴うもろもろの理屈は、すべて「後付」の説明ということになる。
ぼく自身は、低線量での平均的個人のリスクを議論する際には(もともと、ものすごく誤差の大きい話なので) 2 倍程度の違いに大きな意味はないと考えている(←リスクの数字は、あくまですごく大ざっぱな「目安」だから)。だから、DDREF の導入そのものについて大騒ぎする気にはなれない(むしろ、重要なのは、リスクの個人差、特に年齢依存性だと強く思っていて、それについては、現行の ICRP のやり方には不満をもっている)。しかし、それが本当に政治主導で「後付」的に導入されたのだとしたら、やっぱり、気に入らないのは確か。
番組で、この主張の論拠となっているのは、ICRP 名誉委員の Charles Minehold さんへのインタビュー。たしかに、かれは ICRP が政治的圧力で動いていたことを明確に批判しているように見える。これは興味深い。
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(確かにここは、今後の日本の低線量被曝対策を考える上でも、興味深いところですね。)
この人がこだわっているのは、番組制作側が、

「クレメント氏は私たちに驚くべき事実を語りました」と盛り上げる
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とセンセーショナリズムに訴えている、と解釈した、ということなのだが、素人目線で言わせてもらえば、こっちこそ、普通の感覚であろう。低線量被曝が、このように、かなり「科学でなく政治」で決定されてきたことを考えるなら、我が国民を守るには、
予防原則
から考えても、よほど慎重にならなければならないのは、言うまでもないことであろう。
これについても、池田信夫があい変わらずな感じで、一人で、気が狂ったように、BPOはNHKを調査しろ、とかわめいているが、こいつこそ、コトラーマーケティング3・0的に終わってる人はいないんじゃないだろうか。自分が世の中から、どんな目で見られているか分かっているのだろうか(ツイッター上の自分の信者のヨイショ記事ばかり読んで、裸の王様テングになっちゃったんでしょうね)。
こういう客商売を一度もやったことがないような、大衆の気持ちを理解しない、田舎なんかどんなに住みにくい場所になっても、東京まで電気を送れれば、あとは知ったことじゃない、というような差別感情の塊の人間と、少なくとも、同じ「仲間」と思われることほど、これから、お客様商売をしていく上での、ダメージはないだろう(恐い恐い)。
もし、原発が安全なら、東京に作ったはずである。このことを、本当に考えてほしい。
低線量被曝にしても、少しなら統計的に有意な値にはならない、と言っておきながら、まだ、一人として、低線量被曝によって死んだ(ことが証明された)人はいない、って、自分で何を言ってるのか分かってるのだろうか。つまり、ある程度は、低線量被曝によって、健康の障害が起きることは間違いない、ってことでしょ? だから、原発をもっと作れって、つまり、そういう被害を国民は忍従しろ、と、それのなにが悪い、という開き直りでしかない。いかに自分が他者加害的なことを口ばしっているか、分かっているのかな。こんな人間が、国の政治に関わり始めたら、国民は不安で不安で夜も眠れなくなりますね(恐い恐い)。
線形性という言葉を理解している人というのは、どれくらいいるのだろうか。この言葉ほど、近代数学を代表するものはないのだが、例えば、津波東日本大震災において、今まで、見たことがないくらいに高くなった。
しかし、これは線形性について考えれば、少しも不思議ではない。もし、二つの震源から同時に波が襲ってくれば、それらは、「重ね合わせ」の原理によって、たんに、

になる。それだけのことだ。私たちが恐しかったのは、あの海岸沿いに、むきだしのまま、そびえている「ただの建物」の原発の姿であった。もし、震源が3つあれば、4つあれば、...。どんなに高い壁を作ったって、飛び越える。
そして、建物の中は、無残そのものであった。電気ケーブルは、剥き出しになり、さまざまな機材が、ぐちゃぐちゃに散乱して、足の踏み場もなくなる。つまり、人間が仕事をできる場所じゃなくなる。
そもそも、地震だって、波なのであって、そう考えれば、
いくらでも
大きな地震は起きうる。そうやって、まず、海岸沿いの地盤が、崩壊し、ぐずぐずになって、溶けて、それで、原発のなんの「安全」なんですかね。
私たちが何度も言っているのは、日本のような地震国に原発は向かない、ということであって、それでも「わざわざ」日本に原発を作りたがる、池田信夫のような日本人殺人マシーン製造に心血を注ぐ人と、お知り合いになりたくない、ということなわけだ。作るなら、どうぞ、日本のような地震国ではなく、地震のほとんど起きない、ユートピアにでも引っ越して、二度と日本に戻って来ないでくれませんかね。さよーならー。
私たちはよく「みんな」という言葉を使いたがる。もちろん、この言葉が「便利」だからなのだが、問題はその範囲である。この範囲が広ければ広いほど、その「意味」は曖昧になる。
それは、今の国家を考えても分かる。「あなたのためだから」と、国家は国民に、なにかをしようとする。しかし、国民が求めているのは、そんなことじゃない。
しかし、国家の側からすれば、「そんなことはたいしたことじゃない」のである。国民が国家がやろうとしていることを求めていようが求めてなかろうが、国家からすれば、たいした問題ではないのである。なぜなら、国民といっても、たくさんいるから、その中の誰を「サンプル」とするのかは、最初から、恣意的なのであって、
その他大勢
の言うことまで聞いているほど、国家は暇じゃありませーん、だそうだorz。

コラテラルな犠牲者(collateral casualty)」(あるいは、コラテラル・ダメージコラテラルな被害者)という言葉は、最近作られた軍事用語であり、軍隊の行動をリポートするジャーナリストによって広められたもので、意図しない、計画されていない、そしていわば過って予期せぬ被害を与えてしまう効果を意味する。特定の軍事行動がもたらす破壊的な効果を「コラテラル(付帯的あるいは巻き添え)」とみなすことは、作戦が立てられ、軍隊に行動が命じられた段階で、それらの効果が考慮されていなかったか、もしくはそうした効果の可能性が注目され、考慮されてはいたが、軍事的な目的の重要性を考えた上で、リスクを冒す価値があるとみなされたことを意味する----リスクを冒す価値について判断を下した人々がリスクを冒すことに伴う影響を被る人ではないという事実が、そうした見方をすることを容易にしている(そしてはるかに可能性が高い)。

私が、近年の人権だとか平等だとかを疑うと言うときに、考えているのは、こういった「そんな瑣末なことなんて、どうでもいいじゃない」という態度だと言えるだろう。国家にとって、大事なことは、自分の「パフォーマンス」であって、それがかっこよくできたかどうか、にしか興味がない。それが実際に、国民生活にどういった影響を与えることになるかなど、「結果論」の一言で片付ければいい、くらいにしか思われていない。
近年、で最も、ショッキングな出来事がイラク戦争だったとするなら、最も、人々に「気付き」を与えたものが、アメリカであれば、
カトリーナ
であっただろうし、日本なら間違いなく「東日本大震災」であっただろう。

カトリーナ自身はえり好みするわけでも階級的な偏見を持っているわけでもなく、貧富の差などおかまいなしに、すべての人々に襲いかかった。だが、この自然災害がすべての被害者から「中立」と受け止められなかったことは明らかである。ハリケーンそのものは人間の作ったものではないが、人々が被った被害は明らかに人為的なものだった。ハーレムのアビシニア・パプテスト教会の牧師カルヴィン・O・バッツ3世が述べているように(彼だけにとどまらない)、「被災者のほとんどが貧しい人々であり、貧しい黒人である」。『ニューヨークタイムズ』の特派員ディヴィッド・ゴンザレスも次のように書いている。

湾岸沿いの町が風や水に押し流された後になって、人種と階級こそ、誰が被害を免れ、誰が被災者となるかを分ける暗黙の目安だという認識が広がっていった。多くの国の指導者が、米国でもっとも貧しいいくつかの町は、洪水や旱魃などの自然災害が発生すると農村部の開発政策の失敗が露わになる途上国と同じように、連邦の政策に沿って脆弱なまま放置されていると指摘した。
「誰もこれらの地区の黒人のことなど気にかけませんでした。その一方で、太陽は輝いていました」とミシシッピ州ウィンストンヴィルのミルトン・D・タットワイラー市長は述べた。「だから、誰も私たちを助けに来なくても驚きはしません」。

あれだけ、イラク戦争で、中東の民主主義のため、とのたまっていた、ブッシュ大統領が、カトリーナにおいて、あそこまで、
無関心
だったことは、アメリカ人にとって、これほど、ショッキングなことはなかったんじゃないだろうか。アメリカという国は、アメリカ人が困っても、助けないのである。なぜなら、彼らが
貧乏人
だから、「助ける価値がない」と考えたわけであろう。そんな貧乏人のことを考えるほど、国家は暇じゃありませーん、だそうだorz。

理性は権力の給油所である。それは何よりも、抵抗を受けても(惰性的な抵抗か、多様な目標を追求する主体の抵抗かは別にして)目的を達成する主体の能力と定義することができる権力(Macht、pouvoir)の工場である。「強力であることは、言い換えれば、扱いにくい行動対象の無力さを克服するか、他の登場人物の意欲を無視する能力(すなわち、多数の俳優が登場するドラマの中でただ一人の主役を演じ、他の俳優を行動の対象や背景の地位に追いやること)を意味する。力と権力は本来的に非対称であり、それは自然が空虚と並び立たず、権力が対称と並び立たないのと一緒である。権力は均一化せず、違いをならしてその水準を引き上げることもない(引き下げることもない)。権力は分割し、対立させる。権力は対称性や互恵主義や相互関係の公然たる敵であり、その抑圧者である。権力の持つ力は、確率を操作し、可能性や潜在能力や機会を識別する能力から成り立っており、それはすべて、その影響を被る末端の人々から異議申し立てや訴えを受けたら、結果として生じる格差を封印したり、不平等な配分の責任を免れたりするという形で行われる。
ようするに、権力と行動力、理性の要請であるものを生産し活用することは、カントの命令を定言的なものにする想定を明確に拒否するか無視することに等しい。フリードリヒ・ニーチェ(一八四四 - 一九〇〇)が快活かつ辛辣に表明したように、

善とは何か? 権力の感情を高めるすべてのもの......悪とは何か? 弱さから生じるすべてのもの......弱者と出来損ないは死に絶えるべきである。これがわれわれの人間性の第一原則である。そして彼らが消滅するのを手助けすべきである。あらゆる悪よりもさらに有害なものは何か?----すべての出来損ないや弱者に対する同情を実行に移すこと......。

ナチスの行動原理が、ここにあったことは、今では自明だろうが、では、それ以外の国家がこういったものではなったとは、どうして言えるだろうか。
ユダヤ人である、掲題の著者にとっても、最大のライフワークはホロコーストである。しかし、そこにおける「悪」。つまり、人権の蹂躙が、どこまで、
特殊個人的
な「狂気」によって説明できるのかは疑わしい。私が人権という言葉に疑問をもつのは、そういった「悪」の定義を、どこまで、国民一人一人が「共通」のものとして、感覚しているのかが、私には、まったく分からないから、と言わざるをえない。

ホロコースト研究家のクリストファー・ブラウニングは、ポーランドユダヤ人大量殺戮に関わる任務を託された、ドイツ第一〇一警察予備大隊に属す警察官がそれを実施するまでの曲折はあるものの、常に変わらない、ぞっとするようないきさつを調査した。その結果、それまで殺人はもとより、暴力行為に加わることすら知らされておらず、そうしたことを行いそうもなかった人々が、殺害命令には従う用意があることがわかった(彼ら全員ではなく、その大半が)。つまり、彼らには、犯罪を行なったわけでも武装した同胞に危害を加えるつもりもない、無名で無実の男女や老人、子供を標的にした銃殺命令に従う用意があったのである。ブラウニングが見出した事実は(そして『普通の人びと』の題名で出版した内容は)、徴収された警察官のうち、上司から命令に従いたくない者は放免すると言われて、自発的に銃殺部隊と「ユダヤ人狩り」に参加した者もいたが、大半は、自分で率先して銃殺に加わったわけではなかったこと、だがそうした彼らも、任務を託されると殺害とゲットーの一掃という役割を冷静に実行したことなどである。私が思うに、この所見のもっとも衝撃的な点は、ブラウニングの分類による狂信者、棄権者、「どちらでもない者」の統計分布と、ジンバルドーとミルグラムの実験での正式命令に対する被験者の反応のそれが驚くほお似ていることである。これらの三つのケースの中には、残虐行為を命じられるとその機会に飛びつき、それを自らの邪悪な衝動のはけ口にした者もいれば、環境やその結果いかんにかかわらず、悪事に加わるのを拒否した人々もほぼ同数いた一方で、膨大な数の「中間部分」はとくに熱心でもなければ、進んで行動に加わるわけでもなく、道徳的な理由かそれに反するためかどうかを問わず、特定の立場を示すのを避けるか、最低限の抵抗に甘んじるか、命じられた慎重さや許容された無関心を示す人々がほとんどであった。
言葉を換えれば、三つのすべてのケースで(さらには、これらの三つの調査をもっとも顕著な例だと認めている一連の広範な研究の中の無数の例においても)、悪事を行なえとの命令が守られるか拒まれるかをめぐる確率の分布は、もっとも一般的で典型的なグラフであり、「正規」分布とされる、統計学ガウス曲線(ベル・カーブやガウス分布ガウス関数と呼ばれる場合もある)の名で知られるパターンを取る。

ここには、かなり本質的なことが語られている。人間がこのように、なんのためらいもなく、簡単に、ある一定の割合(ガウス分布、つまり、「独立」なほぼ無限の原因の「和」)によって、
殺人
を行うという指摘は、そもそも、それぞれの人間には、それぞれの人権の定義があって、それらは、そう簡単に「一致」することはない、と言っているに等しいのではないのか、という疑いを起こさせる。
私には、原発を原因とする、被曝によって、どれだけの人の健康被害をもたらすのか、について、たいした知識があるわけではないが、たとえそうだとしても、そういったものによって、実際に、被害を受ける人たちへの「加害行為」と、上記の引用にあるような、自分が「加害者」として加担することへの無自覚性には、大きな「相似性」があるように思われる。
しかし、その加害性が「正規(ガウス)分布」であるとは、どういうことであろう? つまり、本当に人間は「人権」とはなんなのかを理解する能力があるのだろうか。少なくとも、進歩をしているのだろうか。そもそも、なにを人権だと「定義」されているのだろうか。
考えれば考えるほど、怪しくなるわけである。本当に人間は「進歩」しているのだろうか?
これは、日本の敗戦時に起きた、広島と長崎への原爆投下についても言える。

一九四五年八月六日の広島とその三日後の長崎への原爆投下の決定は、事後的にではあるが、日本の降伏を早めて、米軍が日本列島に侵攻した場合に失われる可能性が高い無数の米兵の生命を救うためだったと説明された。歴史の審理は依然として進行中だが、目標の壮大さや気高さと比べた手段の卑劣さや悪辣さを正当化するこの公式の動機は、最近米国の歴史家から疑問視されるようになっている。彼らが、その決定に際してどのような検討がなされたかや決定のいきさつ、実施に至った環境に関わる機密指定が解除された情報を検証した結果、この公式の動機については道義的な面だけでなく、その根拠の面からも疑問が持たれることがわかった。この公式動機を批判する者が断言するように、最初の原爆投下の一ヶ月ほど前に、日本の支配者には降伏する用意があった。そして、次の二つのステップを踏むだけで彼らは武器を放棄していただろう。それが、ソ連軍による対日参戦にトルーマン大統領が同意することと、日本の降伏後に天皇の地位を保全すると連合国が約束することだった。
しかし、トルーマンの決断は引き延ばされた。ニューメキシコ州アラモゴードで行われる原爆実験の結果を待っていたのだ。それにより最初の原爆の性能についての最終的な感触が得られることになっていた。実験結果の知らせは七月一七日に連合国の首脳会議が行われていたドイツのポツダムに届いた。結果は単なる成功の域を超えていた。爆発の衝撃はもっとも大胆な予測をも上回るものだった......。こうした非常に高価な技術を廃棄すべきとする提案に憤りを覚えたトルーマンは、しばらく時間を稼いだ。彼が決断を送らせたことによって手にした利益については、広島の一〇万人余りの生命を破壊した後『ニューヨークタイムズ』に掲載された意気揚々たる大統領演説から容易に推測されよう。「われわれは二〇億ドルに上る史上もっとも大胆な科学的賭けを行ない、勝利した」。二〇億ドルを捨てることなどできようか? その製品を使用する機会が訪れる前に、当初の目的が達成されてしまったら、その支出に見合った「経済感覚」を保持するか回復するためにも、すぐさま別の目的を見つけなければならない......。

このロジックが実に、池田信夫の言う原発の「経済性」と似ていることが分かるであろう。
それにしても、これから、福島第一の廃炉は、どこから手をつけ、どうやって、何年かけて行うのだろうか。それは、一体、だれが起こなうのか。もちろん、
私たちの次の世代
である。その頃には、今、原発推進を訴えている、おじいちゃんたちは、とっくの昔に、ことごとく死んでいる。もう、そんな連中はいない。彼らに、やらせたくても、やらせられないのだ。仕方がないから、若い世代が、上の世代の「安穏」生活のための、尻拭いをしなければならなくなっている(本当に人間は進歩するんでしょうかね。その前に、かなり滅びそうな気さえ、こんなことだとしてくるのだが)。
大変のお荷物を残してくれたもんだ...。