水瀬葉月『C^3 シーキューブ』

(この、厨二病まるだしの、いわゆる、ラノベについて、考えることは、一年に何度あるか分からないこの、正月の、のんびりした時間にとって、最高の「贅沢」であろう。)
呪いとは、なんだろう。
古くは平安時代から、江戸時代まで、人々は呪いの「世界」を生きてきた。つまり、呪いが「存在」する世界を生きていた。明治以降の近代化によって、宗教の勢力は縮小し、呪いを真面目に語る人はいなくなる。
しかし、その変化がなにを意味するのかは、少しも自明ではない。
人々は、そういった非科学的な観念から逃れられるようになったことを、言祝ぎ、「人間の勝利」の勝鬨をたからかに歌う。
しかし、そうだろうか。そんなに簡単なことであろうか。私には疑わしい。社会システムとは、そんなに簡単なものではないだろう。ある変化は、それによる、さまざまなシステムの、それ以前においては、語ることも不要なほど、自明なことであったものを、自明でなくする。
呪いという観念が信じられることは、その社会における一つの規制であったはずだ。お金持ちが贅沢三昧の暴虐の限りを尽すことをためらうのは、その
呪い
を信じるがゆえであろう。だからこそ、他者に怨まれることを嫌がり、そのことが一定の社会の秩序を保存する。
しかるに、こういった呪いを信じられなくなった「無垢」な時代において、人々は他者に怨まれることを恐れなくなるどころか、どんな暴虐の限りを尽してでも、お金さえ稼げば自分を「勝者」だと、うぬぼれる。そいつがお金を持ってるがゆえに、集まってくる取り巻きたちを、自分の信者だと勘違いし、事業に失敗し、一文無しになれば、自分を慕って集まっていた彼らも、後を振り返ることもなく離れていくことも理解しない。
呪いとは、「不条理」と同値である。理不尽なまま、この世に未練を残し、この世を去っていった人々の情念は、「ミーム」となって、私たちの
言論空間
に生き続ける。それは、不条理が不条理のまま存在すべきでない、というカント的「格律」が要請するのであって、個人の無意識の反発が逆にその存在を証明する。
つまり、呪いとは「倫理」的ななにか、だということである。
過去の人類の歴史は、呪いの歴史である。そうであるなら、そういった過去を総括することなく、「無垢」な時代を言祝ぐことは、反動的である。現在、苦しんでいる人々の「問題」を棚上げにして、呪いという「非科学」が消滅した現代を言祝ぐことは反動的である。
マナーやノブリス・オブリージュとは、結局のところ、そういった人々の「感情」を理解しない行動は、感情的な反発を招くだけで、KYだということを示唆するわけである。傲岸かつ不遜であることは、たとえ、その言動が一つの真実を示唆していたとしても、他方における人々の感情の「手当て」に失敗しているという意味で、有害であって無益。そんなバカは、官僚としては、無能かつ使えないゴミである。

「お前はどこまで知っている? 呪いについて......そして、私のようなモノについて」
「そうだな。俺が知っているのは----一つ、道具は人の負の思念を受け続けることで負の方向に変質することがある。二つ、そうやって呪われた道具は所有者や周囲の人間に色々な悪影響を及ぼす。三つ、その代わりに、不思議な魅力や機能を発揮することもある......ってところか」

C3―シーキューブ (電撃文庫)

C3―シーキューブ (電撃文庫)

掲題の作品において、モノはたんにモノではない。呪いは人間の感情であるが、その人間がモノを使うのであって、モノを人間と区別することは正しくない。つまり、モノが呪い「そのもの」と同値である、と解釈する。
もし、そうであるなら、あまりにも大きく多くの人々の呪いを体現するモノには、すでに、人間とさえ「区別」できないなにかがあると解釈し始める。

「そうだ。始まりは人の呪い。私というモノは人を害し、憎悪に怨嗟に殺意、あらゆる負の感情を受け続けることで......呪われた。《所有者を狂わせる》という忌まわしい呪いだ」
少女の拳がぎゅっと握られていることに気付く。だから春亮は依然として残る疑問を追求しなかった。少女が具体的にどんあんモノなのか。所有者を狂わせるとはどういうことなのか。
「そうなってもまだ終わらない。《人間》の、呪い、呪い、呪い! それは私に《人間》の性質すら塗擦し、そしてただの道具だったはずの私は意志を持った。否、持たされたのだ。意志と呪いほど相性が悪いものがあるか? お前の言う、《チョイ呪われの道具》などは幸せだ。自らが呪われていることを自覚しない、それはなんと無知で幸福なことか!」
C3―シーキューブ (電撃文庫)

人間が他者を不条理に蹂躙するとき、そこには必ず「モノ」が介在する。その人間の相手への怨み、その人間の相手への憎しみは、その相手とその「モノ」の区別をなくす。つまり、モノは「人間」としての形態を現す。
しかしそれは、恨み憎しみが形象させるなにかであり、人間ではない。しかし、そういったモノが「人間になりたい」と、ふと、思うことは「傲慢」であろうか。

《過去にどんなことをしたか?》。簡単ですわ。人を虐殺した。辱め、断末魔を強い、怨嗟を求め、血を啜り、だた殺した! 何十人も何百人も! 罪なき人間も罪ある人間も男も女も子供も老人も平民も貴族も奴隷も学者も農民も商人も神父も娼婦も騎士も!」
「あ...ああ...」
「全てを区別なく神の如く平等に殺したのでしょう? 結婚式の前夜に、夫たる男の眼前で妻を辱めて発狂させて殺したのでしょう? 妊婦の腹を裂いて嬰児を取り出し、断末魔と産声を同時にあげさせて殺したのでしょう? 餓死寸前の乞食に食物を与え、割り裂いた自分の胃からおれが零れ落ちるのを眺めさせて泣き叫ぶ姿を楽しんで殺したのでしょう?」
「やめろ...やめろやめろやめろやめろ! 私、私はっ...ぁ、ああ、ああああ!」
顔面を蒼白にしたフィアは、自分の身体を両腕で抱えて震えていた。
「ちが、違う......違う。私は、好きで、やったわけではない。私は、使われただけだ。やりたくて、やったわけでは、ない......!」
「まあ、なんと最低(ビッチ)なこと! 言い訳ですか、モノのくせに。しかし貴女(あなた)がそれをやったのだということは事実ですわよね? だからこそ呪われたのですもの。ああ、なんて気持ち悪い。正直なところ、今こうして話しているだけでも吐き気がしてたまりませんわ。おぇ」
「うるさい、うるさい、黙れ......黙れ!」
「やなこった、ですわ。もう一度、よくお考えなさいません。貴女は何なのか? ということを。いけ、これははっきり言ってさしあげたほうがよろしいですわね? 丁度、さっき聞こえた第三の問い、《どんなモノなのか?》が残っておりますし」
言うな、とフィアが呟いた。言うな、と春亮も思っていた。だが、言葉は止まらず--------
「箱形の恐禍(フィア・イン・キューブ)。異端審問期に開発されたそれは、ただの------汎用拷問処刑器具ですわ」
C3―シーキューブ (電撃文庫)

「違うのだ。昔のことを思い出し、私が私であることを思い出し----根本的な問いに、気付いた。私は願望を、希望を追いかけるのに精一杯で、愚かにも考えようとしていなかったのだ。忘れようとしていたのだ。無いこととしていたのだ。そんなわけはないのに!」
「フィア、落ち着け。何を言ってる?」
間があった。答えである問いは、僅かな早口。
「私には、罪があるんだ。ひとを殺しすぎた罪があるんだ。だから呪われた罪があるんだ。だったら罰は? 罰は何だ?」
それから、さらに間があった。雨音だけがぱちぱちと耳障りに歌っている。
フィアは静かに振り向く。ただ液体に濡れた顔を春亮に向けて----震える声で、聞いた。
「なあ......私は、許されてもいいのかな? この身に受けた呪いを、忘れてもいいのかな?」
C3―シーキューブ (電撃文庫)

さんざん、行ってきた、悪逆は、もちろん、モノにとっては、自らの意志によるものではない。しかし、そうであろうか? その二つは、そんなに簡単に区別できるのか。
ここには、一つの「比喩」がある。人間とは、前近代において、人間ではなかった。人間は「臣下」であり、「奴隷」であった。つまり、「手段」として存在してきた。そして、多くの人間の人間に対する残虐行為が人類の歴史を覆っている。
しかし、それは「しかたがなかった」ことなのだろうか? 命令されたから? 命令されたら、なんでもやるのか? 抵抗しないことは、ほんとうに仕方がないのか? 本当は「やりたいからやった」のではないのか?
人間でないフィアが、自らに問いかけるということは、どういうことか? つまり、それは
人類が人類に問いかける
ということと、同値だと解釈できるだろう。フィアは自分を許せるのだろうか(人類は人類を許せるだろうか)? それは、答えのない問いである。つまり、その答は「実践」において、見出されるしかない。
(そして、第二巻は、近年まれにみる「傑作」となる。)
あまりに呪いが強く、その思いが大きいとき、「モノ」が「人間」の形象をとるというなら(アニメ「カノン」の沢渡真琴を思い出しますね)、その「モノ」が、呪いを解きたい、と思い始めること(つまり、人間になりたい、と思い始めること)は、必然であろう。
中世の拷問器具の具象化として仮構される、フィアにとって、日常のたあいのないやりとりは、自分が昔の「凶器」に戻りたくない、その日常の「貴重さ」を手放したくない、という感情へと導き、「人間になりたい」という感情へと昇華する。
日常という作法(つまり、ゲーム性、ゲーミフィケーション)が、彼らの「人間」性と関係している、となるだろう。
他方において、幼くして、母親を亡くし、父親に反発しながら、その父親も高校になるときに、亡くした、人間不信を生きる、桜参白穂(さくらまいりしらほ)にとって、呪われし人形「サヴェレンティ」は、どういった対象となるのか。

「人間。私が言うべきことは一つ」
かつてなく人形らしく、
かつてなく感情を排し、
かつてなく美しく----
微笑んだ。
「----呪い。それは本当に、誰もが解きたいと思っているものなのか?」

「......サヴェレンティの呪いは、あの子が言った通り、精気を吸うことではない。あれは、無理して行っている《ただの能力》だと言っていた。王権を果たす完全人形(サヴェレンティ・パーフェクション・ドール)の、本当の呪いは」
白穂の拳が、床の絨毯を引っ掻くようにして握られた。
「《所有者が死に至る恋をする》ことよ」

「一つ聞きたいことがある」
「...何かしら」
話せることは全て話した、というように、白穂は警戒心ある顔でフィアを見上げた。
「私達が話していた情報を奴から聞いたのなら、私達が奴を壊すのではなく、呪いを解くために行動していることがわかったはずだ。どうして奴は呪いを解こうとしない? お前もそうさせようとしない? 奴はお前を殺したくなく、お前も奴に殺されたくはないのだろう。私には解かない理由が思いつかない。春亮に所有権を渡せば呪いは発生しなくなる。お前達を苛んでいる呪いはなくなる。他人の恋心を奪って効くかどうかもわからぬ延命を図るよりも、呪いを解いてゆっくりと----」
「呪いを解くですって?」
ぎん、と白穂の目が鋭くなった。目鼻立ちが整っているだけに、そこにある表情は誰よりも直接的にその感情を伝える。そして吐き捨てるように、
「......そう。貴女(あなた)はサヴェレンティよりも低級な道具なのね」
「な、なにおう!」
憤慨するフィア。それを睨みつつ、白穂は搾り出すような声を発した。
「私とサヴェレンティにとっては----呪いも恋心も違いがないわ。私達の間にそれがあるというだけのこと。呪いを解いたら、私がサヴェレンティの所有者じゃなくなったら、それがなくなるのかもしれない。そんなの嫌よ。全て嘘だったことにしろと言うの? 全てが呪いというよくわからないもののせいだと言うの? たとえ、この気持ちが呪いのせいだったとしても......はいそうですかって簡単に捨てられるわけないでしょう! だって----」

呪いとは、一つの現象である。問題は、それを解かれることが「幸せ」なのか、にある。
サヴェレンティの呪いは、その人形の所有者が恋をし、最終的に「それゆえ」に所有者が死ぬことにある。つまり、サヴェレンティを所有すると決断することは、この二つを両方セットで受け入れることを意味する。
白穂(しらほ)は、その一つ一つの「感情」が嘘でなかったという意味で、この呪いから解放されることを拒否する。大事なことは、事実性である。サヴェレンティを認めること(愛すること)が、必然として死を求めるのなら、白穂(しらほ)はその運命を拒否しない。なぜなら、それまでの一瞬一瞬こそが、彼女そのものだからであり、それを捨てることが、彼女が彼女でなくなることを意味するからであろう。
呪いは、私たちそのものであり、呪いを逃れて、人間は生きられない。呪うことは、愛することであり、その二つを厳密に分けることはできない...。
ここで、少し視点を変えて考えてみよう。
なぜ、日本のサブカルチャー「正義の味方」という、イメージに覆われているのであろうか。
その象徴は、ウルトラマン仮面ライダーに示されるだろう。あの、何度も、同じようなストーリーが、30分単位で、毎週、毎週、繰り返される。
繰り返されるということは、それが、一回では、十分ではない、ということを意味する。ウルトラマン仮面ライダーは、何度も何度も闘わなければならない。
なぜなのか。
それが「求められている」からである。彼らが戦う相手は「複雑」なのである。この社会の複雑化が、その多様な「相手」との、関係を求めるのである。
考えてみれば、江戸文化の最も象徴的な歌舞伎にしても、こういったテーマこそ、その発祥と言っていいだろう。それは、水戸黄門などの時代劇と呼ばれるものがここまで、続いて放送されてきたこととも関係する。
だいたい、これらに共通するのは、
弱者の不透過性
と言えるだろう。弱者は誰にも注目されない、田舎の片隅で、不条理な扱いによって、苦しみ、死んでいく。この特徴は、あまりに、「細かい」田舎のだれも注目しない事件だけに、
他人
には、「たいしたことじゃない」と思えることである。しかし、「その人」にとっては、それが「全て」である。むしろ、都会の中心で、衆人監視の中で、繰り広げられる、英雄たちの武勇伝こそ、「どうでもいい」自分に関係ない、「よそのこと」なのだ。
こういった「矛盾」は、たんに矛盾として、存在しない。矛盾、
差異
は、そのままで留まることはできない。哲学はそれを「弁証法」と呼んできた。ある、差異は、そういった「差異」のまま、留まることを、「それ自体」に許さない。必然的にそこには、
運動
が始まる。差異はたんに差異としてあることを許されない。それは、たんなる現象であることができず、一つの運動になる。
弱者の不透過性、その不条理な苦しみは、一つの「超越」を要求する。それは、たとえ、そんなものが存在しなかろうと、「要請」されるのである。ないなら、無理矢理作られる。作ることが無理だとしても、作られる。つまり、「想像」によって。
この現実世界にないなら、作れないとしても、それは必要なのだから、なんとしても、作られなければならない。じゃあ、どうするか。たとえ、
「仮想世界」
を、生み出してでも、この世界に「登場」させなければならない。

宇野 この本ではひとつの仮面ライダーに、状況に応じて複数の登場人物が変身することに注目しています。このとき宇野常寛だろうが、千葉雅也だろうが、変身してしまえば「同じ仮面ライダー」として機能する。ここが重要なのではないかと思います。これは言い換えると、キャラクターに対して人は責任をとれるのかという話だと思います。例えば同じファシズムでも、日本にはヒトラースターリンは出現しなかった。誰もが天皇というキャラクターを不在の中心として用いることで、責任を心理的に回避することでボトムアップ的に「空気」を作り、社会をある方向に、この場合は最悪な方向に駆動させた。このシステムが商業化して、一般化したのが要は現代日本のキャラクター文化なのだと思われます。

宇野 この日本的キャラクターという回路を、ポジティブに作用させることを考えてみたかったんですよ。

宇野 中沢新一さんが『日本の大転換』(集英社新書)でユニークな言い方をしてて、原子力というのは生態系の外側にある太陽エネルギーを無媒介に持ち込むからうまくいかない。そこにはインターフェース=媒介が必要なのだと言っている。僕の解釈ですが、あの本で展開されているのは単なる原子力の話ではなく、日本文化論、アジア的文化論なのだと思います。『リトピー』に引き付けて読めば、天皇やキャラクターがうまくインターフェースで作用した時に日本的想像力は飛躍するということを中沢さんは言っている。

宇野常寛「成熟から変身へ」)

新潮 2011年 12月号 [雑誌]

新潮 2011年 12月号 [雑誌]

つまり、これは一つの「媒介」なのだ、ということだろう。「正義の味方」というインターフェースを通して、私たちは、ある「倫理」を実現する。
突き抜ける。
しかし、その先にあるものが、自分たちが期待していたものである保障はない。それは、実践によって、確かめ続けることしかできない。
ということは、こういった問題は「ゲーム」的な形においてしか、ありえない、とも言える...。

目の覚めるような美少女が、一同とは少し離れたところで長い髪を風に流していた。
「そこの細胞分裂した貴女達(あなたたち)に伝えるべきは、ただ一言----愚かね、と。今この瞬間に私を殺していない甘さは致命的誤謬としか判じられない。なぜなら私が動けば貴女如きには決して止められないから、未来が読めるなら先に泣き叫んでおきなさい愚物。読めなくてもとりあえず泣き叫んでおきなさい愚者。その行為の不足はあっても余剰はあり得ないのだもの、無駄にはならないわ」
それはあまりに超然とした態度だった。腕組みをして、胸を張り、まるで自らがこの世の理を支配しているかのような不遜さで発せられる言葉。そこから伝わる自信は、全てのビブォーリオの注目を集めるには充分すぎるものだ。
「さあ、愚かは死ねば愚かでなくなる。その理をここで体現しなさい貴女、貴女、貴女。始まりの文字はこの腕から始まるでしょう。そして終わるでしょう----感嘆と恍惚で彩ればいいわ、自身の歌う断末魔を!」
少女は手を掲げる。聖者のように、魔術師のように。
それは----ひどく美しく、また威圧的だった。
彼女がただの人間でしかないことを知っている春亮ですら、そこから何かの超常的な力が発されるのではないかと一瞬思ってしまったほど。
ビブォーリオ達が食人調理法(カニバルクッカー)を構え。
腕を掲げた姿勢を維持したまま、少女----白穂は微かに眉を寄せて呟く。
「......早くしてくれないかしら。いい加減、恥ずかしいんだけど」
それにやや遅れ、近くに積まれていた廃棄コンテナの上に一つの影がよっこらしょと立つ。
「え、ええと、ええと......正義のメイド仮面、参上ぉー! イジメはダメ、ゼッタイ!」
場にそぐわない声と服装。コンテナの上でメイド服をはためかせているのは、勿論のことサヴェレンティだ。ちなみに仮面など被っていなかった。
「な、なんであいつらが......」
「......彼女達も《夜知春亮の仲間》、かと思ってね。来てくれるかどうかはわからなかったが、一応、電話しておいたのさ......」
死にかけの錐霞がこちらを見やり、そんなことを小さく呟いた。しかしあいつらが来てどうなるという状況でも----と考えたとき、それが過ちであることに気付く。
メイドはその位置から何かを見下ろしたまま、大きく息を吸い、そして叫んだ。
「王権にて告げる("I have sovereignty for every doll")。摸された全の形代は我が群臣(Like a visssal upon/listen/"show proof to worship")---従せよ!(Obey)」
王権を果たす完全人形(サヴェレンティ・パーフェクション・ドール)の能力。与えられた王権の発露。

C3‐シーキューブ〈3〉 (電撃文庫)

C3‐シーキューブ〈3〉 (電撃文庫)

「正義の味方」が現れるのは、弱者がピンチにとき、である。それは、ありえないから、あらわれるのであって、その不可能がその存在を要請する。
これはつまり、ゲームで言うところの「最後のワンピース」ということであろう。最後の最後の詰めの一手を、打つことの存在論的意味が問われている。
ミステリを探偵が、解決できるか。ゲームにプレーヤーは勝利できるのか。いや。できるできない、ではない。いずれにしろ、最終的に勝つためには、「正義の味方」による、最後の一手が「必要」だということである。つまり、それがなければ「勝利」ではない、という意味で。
だとしたら、上記の引用のように、「正義の味方」がゲーム性(慣習的な日常の「ユーモア」)にあふれていることは、なにを意味しているのか。
言うまでもない。それが「不可能」性と同値であるだけでなく、この反対の、「倫理」の問題だから、であろう。

仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとして見る。しかし、それが何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者の実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、仏陀は、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。
柄谷行人「仏教とファシズム」)

批評空間 (第2期第18号)

批評空間 (第2期第18号)

現代が科学文明だというなら、呪いを要請することはもうできないのだろう。しかし。だからこそ、呪いはラノベの必須アイテムとなり、「正義の味方」サブカルチャーの必須アイテムとなり、現代社会は、ヴァーチャル・リアリティ。つまり、ゲーミフィケーションによって、構成される。
それは、どんなに時代が変わろうと、同じように、そのオールタナティブを社会は提示することになるだろう。なぜなら、問題は常に、形而上学(科学文明)ではないからだ。私たちにとって、ただただ問題なのは、
現実的な他者の実践的な「関係」
という、言うまでもなく、当たり前のことであって、つまり、目の前の「相手」との、実践的な対話「だけ」が存在するのであって、その延長に広がる光景を超えて、なにか、自分が
神の視点
で語れるようになれると思うことが、傲慢なのだろう...。

C3‐シーキューブ〈2〉 (電撃文庫)

C3‐シーキューブ〈2〉 (電撃文庫)