「名を正す」とは?

ツイッターには、「フォロワー」というのがある。つまり、相手をフォローしていると、自分のタイムラインに、相手の「つぶやき」が、ずっと出てくるようになる、と。
まあ、それは一種のゲームなのだから、そんなもんかな、というのはいいんだけど、非常に違和感があるのは、その「フォロワー」のことを分かりやすくしようとしているのか、
あなたの友達
と記述されているのを、よく見かける。そうなってくると、「おいおい」と、ちょっと、いろめきたってくる。
おれは、いつから、こいつの友達になったんだ? おれはたんに、こいつのツイートを読むのに、こうやると便利だなー、とやっていただけなのに?
もし、「友達」という「意味」を重要視するなら、この「フォロワー」になるための一定の手続きは(ボタンを押すたけだが)、それによって「友達」となったことを意味するものでなければならないのではないかな、という疑問がわいてくる。
そうやって「意味」を優先するなら、相互フォローというのは、必ず必要にさえ、思えるだろう。一方の側だけが、「友達」だと思っている、というのは、あまりに、異様なわけで。
こうやって、その言葉の「字面」から来る慣例的な意味と、その言葉が使われている文脈での意味が乖離することは、よくあることである。一番典型的で、困った話は、霞が関文学における、英語表現と、日本語での「命名」が、日本人向けには、オブラートに隠したいという意図で、変なトンデモ用語になる場合であろう。
こういった現象は、ある程度、しょうがないケースは多々ある。そもそも、数学における用語は、たんなる「定義」であって、つまり、一つの比喩を、その用語の命名において使われていると考え、基本的に、数学においては、存在するのは、その定義された
構造
という、一連の「モデル」だけ、と考えられる。つまり、名前には完全に意味がなく、他のかぶって分かりづらくならなければ、
なんでもいい
わけである。
霞が関文学は、こういった日常の使用の差異を利用して、国家側が国民をイメージ操作するときに、使われがちということなのだが(好意的に解釈すると、なるべく、反対されたくないから、波風を立てたくないから、ということになるのだろうが)、この前紹介した、東大論法の本でも、論語の言葉の「名を正す」が議論されていたが、頭のいい方々は、
頭がいいだけに、
こういった技法を駆使して、説得しがち、ということになるんですかね。
たとえば、哲学とは、数学の「比喩」だと考えるなら、哲学における、あの非常に分かりにくい表現の連続には、上記の「名を正す」ことをせずに、「定義」で、どんどん言葉を作っていく、数学の慣例がマネされていることが、関係しているのだろう。
しかし、その分かりにくさを、そのまま、日常の会話にもってくるとき、いわゆる、霞が関文学であり、東大論法となり、つまり、一見なにかを発言していながら、それによって、なにかを
隠蔽
しようとしているという、発言者の意図があらわれている、と考えられさえしかねない。
そう考えてくると、本当に「名を正す」ことは、常に可能なのか、という問題にもなってくる。発言者は、ある意図をもって、ある細かな差異を指摘するために、そういった表現に「ならざるをえなかった」と考えられるわけで、そうであるなら、そう表現することは「しょうがなかった」と考えられなくもない。
だとするなら、問題は、「そういった誤解が生じること」なわけで、つまり、
どこまでも語り続ける
というような、ブログのスタイルは、一つのこういった問題への対処方法にはなっているのだろうか。
(このあたりが、ツイッターのような、文字数限定の、ミニブログの短い言葉に「精神」を込めるといったような、そもそも不可能なことを、名人芸的に「がんばる」というのが、自分には合ってないと感じる、由縁ですかね...。)