白川さゆり『ユーロ・リスク』

それにしても、EUにおけるギリシャ問題は、金融システムに大きな影を投げかけている。なぜギリシャはこれほど、深刻なのか。
それは、ギリシャが、EUの「夕張市」になっているからであろう。

すでに広く知られるように、ギリシャ財政危機の発端は2009年10月に総選挙が行わ、中道左派の新政権が発足した頃に遡る。
中道左派ゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ首相が率いる新政権が発足し、前の政権がEUに報告していた財政データを大幅に修正して、再提出したのだ。それによって、前の清家が財政赤字と政府債務を低く見積もって過少報告をしていた事実が露呈したのである。政府自体が財政統計の粉飾決算をしていたのだから、問題は悪質である。

ギリシャがEUに入れたのは、最初から、

にまみれて、自分を偽っていたからだ。そもそも、自分を偽ることなく、さらけ出していれば、彼らはEUの審査条件を満たさず、EUに入れなかった。嘘に嘘を重ねて、自分を偽り、贋物の自分を自分と強弁することで、この地位を手に入れた、ギリシャは、そこから先、
修正申告
を繰り返す。もはや、誰も本当のギリシャが今のギリシャであることを信じなくなった。何回修正しても、「どうせこれも嘘で、また修正されるんだろ」と疑っていると、実際に、また、修正され、また...。
夕張とリーマンショックでのサブプライムローンギリシャは、実に、よく似ている。市場が見ているのは、対象の
リアル
な規模感である。これに対する納得感が重要なのである。それは、素行がいい悪い、といった、一般的な道徳的見方による塩梅ではない。世間の人が、
こいつは(道徳的な意味から、なにからを含めて)「これくらい」の範囲の人間なんだね
と、「見積れる」というところが大事なのだ、と(これこそが、「市場における信用」といえるだろう)。だいたいこれくらいだなーと思える限り、市場は成立する(均衡する)。まあ。それほど、実体経済と違いがないと判断できるなら、仮想空間(市場)は、それほど乖離しないと考え、安心できるわけだ(こういう考え方は、例えば、株価の決定に、企業側の情報公開が非常に重要なことと、大きく関係していると考えられるだろう)。
ところが、疑いに疑いが進みすぎて、「もっと底無し沼になってるんじゃないか」と考え始めると、止まらない。どこまでも、この疑いの歩みは進み、いつまでたっても、相場感が定まらず、均衡点を見出せず、彷徨うことになる。
普通に考えるなら、最初から間違っていたギリシャは、とっとと、ユーロをやめてドロクバに戻ればいいと思うであろう。ところが、「おもしろい」ことに、EUには退会規則がない。入れた国は、自分で辞めたいと言い出さない限り、辞めさせられないというのだから、「大変」だ。
というか、そもそも、ユーロという一通貨と複数国家の金融システムの両立が、どだい無理があるという感じが否めないだろう。

欧州中央銀行(ECB)は、ユーロ圏の中央銀行として1998年6月に設立され、99年1月にドイツのフランクフルトで業務を開始している。
ECBはユーロを採用している諸国の中央銀行から金融政策を遂行する権限を移管することで開始されている。ECBの第一義的目的は「ユーロ圏」の価格安定にある。
それ以来、ユーロ圏ではECBと各国中央銀行が併存しており、これらは総称して、「ユーロシステム」と呼ばれている。ECBにおける政策決定は「政策理事会」で実施されており、メンバーは6人の理事(総裁・副総裁を含む)と17カ国の中央銀行総裁で構成されている。ひと月に2回開催されている。

政策金利は「主要リファイナンシング・オペ金利」であり、償還期限が1週間の買戻し条件付きの資金供給に適用される金利である。リファイナンシング・オペは公開市場操作によってユーロ圏域内の金融機関に融資を実施している。買戻し条件付き資金供給とは金融機関に融資をする際に、国債などを担保として提供を義務づけそれに対して資金を供給する取引を指している。2009年5月に1%に設定して以来、11年3月現在も同水準を維持している。
このほか「限界貸付金利」があり、オーバーナイトで買戻し条件付きの資金供給に適用される金利がある。オーバーナイトの預金も受け入れており、その金利は「預金ファシリティ」と呼ばれている。
限界貸付金利は2009年5月以来1・75%を、預金ファシリティは2009年4月以来0・25%に据え置いている。限界貸付金利政策金利(主要リファイナンシング・オペ金利)の上限、預金ファシリティは下限を形成している。上限と下限の範囲の差は現時点では1・5%ポイント(150ベーシス・ポイント)に設定されているが、状況に応じて変更されている。このシステムは「コリドー(回廊)システム」と呼ばれており、ECB設立当初から導入されている。

どこの国でも、中央銀行には、それなりの独立性が与えられている。それは、こういった変動相場制における、独特の「ルール」が、ある意味で、動きを規制しているとも言えるし、ある意味で、それによって「単純化」しているとも言えるからだが、いずれにしろ、こういった「ルール」は、この
金融ゲーム
を単純化することで、「なんとか人間の操作できるもの」としようとしている、と言えるだろうか。
金融システムの第一歩は、政策金利であろう。なぜ中央銀行が中央の銀行と呼ばれるかは、ここにあり、私たちが日常、つきあっている銀行が
なぜ私たちにお金を貸すことができるのか
の理由になっている。つまり、中央銀行が貸すから各銀行はお金をもっているのだが、その貸す場合の、利子率を、政策金利という一律のルールによって、単純化されている、ということである。
そう考えるなら、「間接的ではあるが」、この政策金利こそが、私たちの「景気」に非常に大きな影響を与えていることが分かるだろう。「景気」は各国の政策決定において、
最優先事項
と言ってもいいくらいに、重要な案件である。当然、政府や総理大臣が「政策金利をどうしたいか」と考えたくなる、のは当然であろう(これこそが、「政治による決定」であろう)。
しかし、一般には中央銀行には、一定の独立性があると考えられている。それは、言ってしまえば、中央銀行の行動が
あまりにも大きな影響を市場に与えてしまう
ためで、ジンバブエムガベのように、国内市場を完全に破壊するようなことさえ、できてしまうから、それなりに政治の意志と距離を置くことが設計されている(エリート主義化されている)とは言える。
しかし、これは逆に言えば、中央銀行のやれることは、かなり限られている、とも考えられる。国内市場への影響を考えれば、あまりにメチャクチャな行動はとれないわけで、そうなってくると、その行動は、非常に限定されたもの、しか、実際には、とりえない、ということになるのだろう。
こういった、金融の独立性と限定性の認識を進めると、だったら、ユーロのように、各国の中央銀行
一つ
にしてしまっても(同一通貨にしてしまっても)いいのではないか、と考える人がではじめる。なぜなら、そうすることにより、その市場も広がり、基軸通貨化を目指せる可能性が広がり、利益が大きいんじゃないか、と考えるから。
しかし、普通に考えるなら、これは、相当にチャレンジングだと言わざるをえないだろう。各国には各国の国内事情がある。純債権国もあれば、毎年貿易赤字の国もあれば、各国にはそれぞれの国内事情があるのであって、当然それによる、各国ごとの
国債
の位置付けも違っているだろう。そうであるなら、例えば上記にある、政策金利での各国に国債による「担保」も、その意味は大きく差異があると考えられる。
言わば、ユーロとは、そういったヨーロッパ共同体の
実験
なんだと言えるだろう。
私たちは、このユーロの実験を、たんに否定的に見ることはできない。なぜなら、これこそが「地方自治」の実現可能性を問われているから、である。
日本の地域主権がなぜ、進まないのかは、金融システムによって、そもそも、地方に裁量権がないから、と言える。つまり、地方が独自政策を進めることで、大幅な赤字をかかえたときに、結局はそれを、国家のお金で穴埋めしなければならなくなる、と考えるなら、そもそも、地域独自に勝手なことをやってはならない、という意味になるだろう。
だとするなら、どうやって地方は地方の
自由
を獲得するのか、が問われていると言える。私がイメージする地域主権は、ラディカルには「当然」、地域による独自通貨の発行権から、教育、はたまた、独自の「警察権」、軍事力の保持を含めた「防衛権」から、
なにから
を含めた意味で考える。しかし、そういった権利は、
暫定的正当性
の観点から、時限立法的に中央システムに
移譲
するわけである。それが、中央銀行であり、国家警察や、国家の軍隊となる。しかし、これらの「正当性」はあくまで、暫定であり、
時限的
と考えるべきである。そう考えるなら、この
関係
はもっと、幅をもった、柔軟な関係であることの可能性が考えられるだろう。ユーロはそういった取り組みの一貫と考えられる。つまり、日本の地方自治を考える上でも、EUの取り組みは、興味深いと思われるわけである。
(ちょっと話がそれた。閑話休題。)
そもそも、ギリシャがかなり「いいかげん」な国であることは、昔からだれでも分かっていたはずなのだ。それなのに、なぜドイツは、ギリシャの加盟を疑ってこなかったのか。もちろん、その理由を粉飾決算に求めることは当然だとしても、そもそも、ドイツはEUが大きくなることが自国に有利だったからなのだろう。
EUとは、言わば、ナチスドイツの後、始めて具体的に構想された、
第?ローマ帝国
なのであって、このヨーロッパ共同体にとって、ドイツが非常に旨みがあるわけであろう。日本における、東京のように、多くの労働者を地方から集められることは、産業競争力の維持にとって、唯一見出せる「希望」と考えられる。つまり、ドイツにとっては、このヨーロッパ共同体が大きくなればなるほど、おいしいと考えられるわけだろう。
そうであるなら、そういった構想に乗ってくる、周辺のアナーキーな小国は、相手の足元を見て、行動してくるわけで、こういった一連のEUの危機は「必然」と思われるが...。
嘘をつくのは、政治家や官僚、こういった、えらく、頭のいい人の仕事みたいなものだから、そんな嘘つき連中のことは、たとえ、どうでもいいとしても、それによって市民生活が左右されるとなると、
悲惨
である。

ギリシアは2010年からたしかに血のにじむような財政再建の努力をしている。消費税率についても2010年だけで19%から23%へと、4%も引き上げられている。年間に4%もの消費税率の引き上げを成し遂げた国は、世界でも稀であろう。そのうえ、燃料・タバコ・アルコール飲料・ぜいたく品といった多くの物品税の税率を引き上げ、そのほか広範囲に増税が行われている。
歳出削減も幅広く断行している。公務員のボーナス・手当ての大幅な削減、公務員数の抑制だけでなく、年金給付ボーナスの削減や給付増額案凍結などによって、多くの年金生活者の生活に打撃を与えている。
国営企業への補助金削減といった、これまでほとんど手をつけられなかった対策も講じているのだ。このために、公共交通手段の料金が値上げされている。
国際的な燃料・食料品の値上げに加え、消費税・物品税や公共料金の値上げによって物価は上昇しており、市民生活はとても苦しい。

これを見ると、まるで、(この前紹介したが)日中戦争に突入したときの、日本の財政の
デジャブ
を見ているようである。まさに「欲しがりません勝つまでは」状態に入っている。
いかに「撤退戦」が難しいかが、よく分かるだろう。
よく考えてみよう。
国家が、お金がないから、借金が返せないからといって、税金を上げるというのは、理屈に合っているのだろうか? 税金を上げれば、普通に考えれば、国民はその税金を払う「行為」をやりたくなくなり、やらなくなるであろう。そうすると、単純に、税金徴収機会の量が減るわけで、どんなに率を上げても、税収が上がるかは、自明ではないだろう。
むしろ、税金をたくさん集めたいなら、景気を良くする、つまり、
国民の経済活動を活発にする
ことを考える方が先ではないか。どこの国でも、消費税の高い国は、元気がない。というか、国民が
資本主義
に興味がなくなる。どんなにお金儲けが人間の尊厳にとって大事なことであることを「説教」しても、人は聞く耳をもたなくなる。まじめにビジネスをすることが、ばからしくなり、商品を買わなくなる。商品を買わない国民がなにをするかといえば、
自給自足
だ。食料だろうが衣料だろうが、全部必要なものは、裏の庭先で育てて、それで、しのげばいい。そうすれば、消費税をとられなくてすむ。
消費税とは、資本主義は「悪」だから、物を買ったり売ったりしたら、その「罪」に対する

を与える、というものである。普通はだれだって、「あなたは間違っている」ということをやりたくないだろう。
しかし、嘘をつかれたって、馬鹿にされたって、軽蔑されたって、なにをされようとも、私たちにとって、とにかく、大事なことは「景気」である。
消費税を上げて、景気が良くなるのであれば、やる価値はあるかもしれない。例えば、消費税によって、外国人観光客から税金をいただけるようになる、など。
しかし、景気が悪くなるのであれば、たとえ、どんな大義名分があろうとも、やめるべきである。ここは、非常に大事な「分水嶺」である。私たちの将来、未来の日本人に何を残すかが、問われていると言える。
消費税を上げるくらいなら、日本は、自分が持っている、さまざまな資産を売るべきだ。それができないなら、本当に、今ある、日本の公務員がやっている仕事は、必要なのかを、事業仕分けした方がいい。
多くの識者が言っているように、消費税をどんなに上げたって、日本の借金体質が変わることはない。なぜなら、国家が借金をすることは、財政政策なのだから。つまり、金融システム上、日本は借金をせざるをえないポジションにあり続けていることが、そう振る舞うことを強いているのであって、借金があることが問題の本質ではない。
(実際、日本の借金は、建設国債などそれなりに担保のあるものも多く、また、国債を買っているのが、日本の銀行なら、いざとなったら、償還の「減額」を、市場も想定するだろうから、それほどの「崩壊危機」を市場も想定しない、とも市場では考えられている。ただし、格付け会社が、投機的に日本をマネーゲームの対象としてターゲットにしてくることがありえない、とは言えないだろうが...)。
つまり、こういった構造から逃れたいのなら、自らの支出を改善する、事業仕分けなどの、「意志決定のプロセス」の
健全化
しかありえない。それが(ギリシアのように)無理なら、借金は不可避であって、そういった日本の支出「構造」(財政優先順位)を変えない限り、消費税を上げれば上げるほど、官僚のフリーハンドを大きくするだけで、官僚たちは
もっとお金のかかる仕事
を「見つけて」きて、自分たちの権益を大きくすることに血まなこ、になるだけである。
(むしろ、消費税を上げることによって、日本はギリシアになる...。)
なぜ、ギリシャは危機なのか。
それは、最初に戻る。つまり、「もう誰もギリシャを信じられない」から、である。

マーケットや格付会社が懸念するもうひとつの理由は、ギリシャが2013年半ばまで予定されている経済プログラムを公約通り成し遂げたとしても、その後に政府が市場で資金調達できるようになるのか、かなり疑わしいということである。
政府債務残高のGDP比は2009年には160%を超える見込みのようである。政府債務比率が上昇してしまうのは、財政赤字を削減しても赤字である限り、新規国債発行が必要だからである。その一方で分母のGDPは伸び悩むので、政府債務比率の上昇に拍車をかけている。
国債金融支援は融資であって、無償資金援助ではない。したがって、ギリシャの政府債務が増え続けていくのを止められるわけではない。支援が終了し、政府が再び市場での国債発行を余儀なくされるようになったとき、はたして投資家はこれだけ借金が膨らんだギリシャ国債に投資をしてくれるのだろうか。

信用をなくすということが、いかに、大きいかがわかるだろう。ユーロという実験は、どんなにヨーロッパ・エリートたちが自分たちの見た目をとりつくろい、体裁を立派そうに見えさせようとしても、市場という
無意識
の大衆の声が、彼らのばけの皮をはがそうと、襲いかかる。一部のエリートの小賢しい知恵は、市場という
集合知
に判断され、なにが「非合理で無理があったのか」をさらけだす...。

ユーロ・リスク (日経プレミアシリーズ)

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