神里達博『没落する文明』

萱野稔人との対談。)
日本の原子力発電の歴史を、どのように総括するのかは、大きく、以下の二つの世代によって分かれるのではないか。

前者の人たちは、つまり、石油が「ほぼ無料(ただ)」の時代を生きた経験がある人たちである。つまり、ある一定程度上の世代(全共闘と関係した位の年代)くらいまでは、こういった時代の雰囲気を知っていた人たち、と言えるのではないか。
彼らの特徴は、つまり、

  • エネルギーは「本来」いくら湯水のように使っても「いい」

という感覚を、「本来性」において、血肉にしている人たちで、そもそも、「節約」ということを理解できない。自分がやりたいと思ったことを徹底的にやることの「なにが悪い」と思っている人たちと言えるだろうか。
彼らにとって、オイルショックというのは、非常にショッキングな出来事であった。つまり、エネルギーは「高価であり有限」という事態を目の前にして、
本来、そんなはずはない
と考えた世代だと言える。そんな彼らの目の前に、その「オールタナティブ」として現れたのが、「原子力」であった。「だから」彼らにとって、原子力は、

  • あらゆる「夢」をかなえる無敵の手段

でなければならないのである。なぜなら、そうでなければ、オールタナティブとはなりえないから。
こういった感覚の根本にあるものが、「貧困」のリアリティである。貧乏とは、つまりは、「エネルギーがない」と同値であって、エネルギーが高価とは、貧困が解決しないことを意味してしまい、つまり、矛盾だ、ということになる。
つまり、原子力は「なにがあっても」、人類の未来を切り開くために、最強無敵のスーパーサイア人でなければならない。それは、まさに、ドラゴンボールの世界が、原子力「なら」可能であると思わせるように、

  • 夢は叶わ「なければならない」

といった「カント的格律」を、原子力に託しているのだろう(つまり、道徳的に原子力を全ての矛盾を解決する、最終解=ユートピア、と信じなければ、不安に耐えられない、のだろう)。
では、後者の、オイルショックを知らない若い世代にとっては、どうか。
彼らにとって、そもそも、貧乏は「自明」となる。彼らは、最初から、自らの中に「欲望」を見出さない。ないことは、当たり前で、なぜ、ないことが問題なのかが分からない。
彼らには、根本的に、「出世」の欲望がない。上の大学に進学したいとも思わないし、将来なにかにいなりたい、という「夢」もない。なぜなら、彼らは、

  • なにかに「なりたい」から生きているわけではない

からである。エネルギーが有限であり、基本的に、貴重で高価なものであることは自明なのであって、そんなことに疑問を思ったりなど、間違ってもしない。だとするなら、世の中が「自分が操作できる」なにかと考えるような

  • KY

ではない、ということになるだろう。

神里 エネルギー危機による低成長社会への突入は、じつは古代から中世への移行期でも起きたようです。まず古代に木材によるエネルギー革命が起こり、木材を使いきってしまいました。その後、古代文明はいわば「脱物質文明化」していく。つまり精神的な文化や宗教が強くなっていくんですね。
たとえばローマではキリスト教が拡大して禁欲主義が広がっていき、中国でも「竹林の七賢」がでてきました。ヨーロッパと比べ中国はかならずしも禁欲主義的とはいえませんが、いずれも中世になると、「精神的な豊かさ」をもつ人が尊敬されるようになるわけです。古代のように派手な建物をつくり、モノの豊かさを保証することが権威の源泉にはならないので、エネルギー消費は落ちていきます。

つまり、こういった人々の心性が、エネルギーに対する、人それぞれの考え方に非常に大きく依存していることを示していることが分かるだろう。
つまり、リスクゼロ幻想ではなく、

  • エネルギー無限幻想

こそ、非常に「世代的に」やっかいな存在であることを意味していると言えないだろうか。
この問題の大事なポイントは、エネルギー無限幻想を生きる彼らには、彼らの「ユートピア」があり、そこにおいては、「あらゆる諸矛盾が解決される」粗筋はあるわけである。つまり、そのユートピアが実現されるなら、そこには、「正義」があるわけである。
しかし、そう簡単ではない、ことは、エネルギー無限幻想論者も知っている。「だから」格差社会はなくならない、という筋道になる。つまり、彼らに言わせれば、問題は、

  • エネルギー無限

が「正しい」のだから、それを「信じる」ことだ、ということになるだろうか(それが、幻想という意味なのだが)。
もし、エネルギーが無限なら、貧乏人はいなくなる。なぜなら、そのエネルギーをだれもが湯水のごとく使っても、「無料(ただ)」なのだから(実際に、オイルショック以前には、こういった時代があったわけである)。
しかし、原子力産業は、「それ」を、まことしやかに、主張してきた。いわゆる、プルサーマルというやつで、原子力とは「錬金術」なんだ、と。しかし、大島さんの計算とかをみても、たとえ、プルサーマルが万が一「成功」したとしても、そこから、得られるエネルギーって、微々たるものにしか思えないんですけどね。理論的にも、そうなんじゃないですかね。
アホらしい話で、原子力は、一切の「安全のための設備」を怠るなら(格納容器を安物のポンコツにするなど)、「いくらでも」安くなる。しかし、こういった所を「まともな安全基準」に近づければ近づけるほど、
天文学的なレベルの設備費用
となるわけで、つまり、そもそもお金が幾らあろうが、そもそも「安全」を主張できるレベルにまで、人類は到達できるのかが怪しいわけだ(それは、今回の福島第一が証明している)。
しかし、それでは「エネルギー無限幻想論者」は困るわけである。日本は成長しなければならないし、イノベーションを起こさなければならない。そうしないと、世界との競争に負けて、国民は貧乏になってしまう。だったら、

  • 原子力は「あらゆる」諸矛盾を解決しなければならない

わけで、この問題を解決できない、ということになってしまう(つまり、ユートピアなんて「存在しなかった」ということになってしまう)。
つまり、この結論は、原子力の安全が「問題であってはならない」ということになる、わけだ。
うーん。
どうも、この年寄世代の「KY」感が、いよいよもって、社会問題化してきているんじゃないか、という印象が強くするのだが...。
SFが好きなオタクには、どうも、未来「成長」幻想があるように思われる。つまり、彼らも基本的に、「エネルギー無限幻想論者」に近く、発想が同型となる。これは、高学歴出身者が「格差社会」の勝ち組に自分が属していることを自ら言祝ぎ、そうでない人を「かわいそう」と思い、さらに、そういった発想を
KY
とキワモノ扱いする人たちを、ニーチェ的な意味でのルサンチマン扱いして、分かった気になっているのも、一種の未来「成長」幻想と言えるだろう。格差社会の勝ち組が、

  • 努力の末の成果としての「成長」

であって、そうでない無能力者とは、「不成長」として「憐れむ」存在となるわけだが、そもそも、こういった「価値観」を共有しない人たち(未来「成長」幻想を持たない人たち)にとっては、そういった発想(エリート主義)への「共感感情」が生まれないのだろう。
311において、多くの人々が「希望」をもちながら、津波の前に死んでいった。それは、本当に多くの人であった。もうすぐ、その一年が巡ってくる。
彼ら死んでいった人たちは、最後の最後まで、希望を捨てなかった。きっと、生きられると思っていた。
私たちは、その死に「本気(マジ)」で向き合っているのだろうか。
戦後の日本は、今までの歴史を見ても、まれに見る、平和な時代であった。しかし、それは、長い人類の歴史、地球の歴史からみれば、ほんの一瞬にすぎない。
もっと、「謙虚」にならなければならない、ように思うわけである。

神里 中東で農耕が始まったころに、日本にも、狩猟採集を中心としつつも定住して集落を形成し、高度な土器や石器をつくる技術をもった文化があったわけです。このシラス台地で見つかった集落の場合、二〇〇〇年間ぐらい繁栄したのですが、大噴火で全滅したわけです。

この縄文時代阿蘇山の噴火で、ほぼ日本中が火山灰で埋まった。もちろん、火山灰が積れば、そこで、今までのような農業は難しくなる。日本は生活が難しい地域になるかもしれない。しかし、たとえほんど起きることがないと予想できたとはいえ、どうして、もうないと言い切れるだろう。
日本はその地形を見ても分かるように、世界中の「ほとんど」の地震が起きる、地震国であり、火山国であるわけだが、逆に言うと、山があり海があり、多くの川があり、その川のふもと、平野に川と共に生きてきた人々だと言えるだろう。
(つまり、それだけ、土地が肥沃だということで、日本の農業はそれなりの生産性は長期的にも期待できると考えられるだろう。しかし、たまたま、円高が続いていることから、食料なんて、外国に依存すればいい、と考えるなら、いっそのこと、地震や火山が恐いなら、どうぞ、日本列島を逃げて、他の国に住まれたらどうでしょう、と言ったところでしょうかね。)
しかし、川とは、「氾濫」するものであって、津波と同じく、私たちの生活基盤を破壊するものだろう。
つまり、日本がどのように川を制御してきたのかは、日本人とは「どのような」人たちなのかを、よく現していると言えるだろう。

神里 その一方で、木曽川の西側である美濃の国には、東側より三尺、つまり約一メートル低い堤防しかつくることが許されないという不文律があったといいます。だから豪雨が降ると、かならず西側に水があふれてしまう。当然、美濃の国はいつも水害にやられる。それじゃ暮らしていけない。
そこでまず水屋を建て、家を高くすることで、個人的に防衛する。その次に輪中をつくり集落単位を堤防で囲む。これがいわば日本の江戸期以降の治水のコンセプトです。つまり、水害はあるものだと考え、それをなんとかやりすごすための対策を立てるわけです。

これはなんなのだろう?
つまり、日本人はどこか、完全な所有権、つまり、

  • 私的所有権幻想(自然完全コントロール幻想)

を生きてこなかった、ということなのかもしれない。火山が噴火すれば、その土地に住めなくなるし、津波や洪水になれば、家で住めなくなるし、財産も流される。しかし、それでも、
生きる
わけである。つまり、こういったことが起き、私的な所有は、あって無きものになることは「起きうること」なのであって、それを前提にして、
でも、生きてきた
ということで、今後予想されるだろう「脱物質文明化」と、今後の日本社会における人々の振る舞いとの関係が、どのようになっていくのか...。

没落する文明 (集英社新書)

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