シヴァ・ヴァイディアナサン『グーグル化の見えざる代償』

ITやインターネットは、今まで考えてきた、さまざまな「常識」。
例えば、その一つ一つの「用語」の「意味」「定義」を変えてしまったと言っていいような、変化を起こしている。
たとえば、著作権。たとえば、個人情報。
コンピュータがない時代までの情報とは、言わば、紙のことであった。つまり、その紙に書かれているなにかについて言っていたのであって、つまり、その紙という唯一のものと、区別がつかなかった。ところが、インターネット時代において、その情報は、もはや、媒体を必要としなくなる。正確に言うと、
コピー
に、ほとんど、「費用」がかからなくなる。それは、時間的にも、空間的にも言えて、どんな巨大な情報も一瞬で、世界の裏側から、その情報を入手することができる。
このような状況において、なにが前時代の概念(定義)と、齟齬を起こしているか。
つまり、情報の「所有権」が、根本的に疑われている、と言えるだろう。
ある人が、ある文言をネット上に公開した瞬間から、光の速さで、
それ
は、世界中でコピーされる。このような状況において
それ
を「所有」しているのは、そうやって「コピー」されていった、「全て」の「場所」だと言いたくなる。言うまでもなく、情報的に、オリジナルとコピーは「等価」である。なにも違わない。だったら、みんな
同じものをもっている
と言って間違いないんじゃないかな?
こういった、「事実性」を前にして、その文言の「所有権」という概念に、こだわることに、あまり意味を見出せないわけである。
世界中のコンピュータがネットワークによって、結合された以降、世界中のコンピュータは、
一つ
になった。これはどういうことか。例えば、グーグルは、世界中のコンピュータから、パブリックに発せられるメッセージ「全て」を、コピーし、
自分の「もの」
にしている。私たちが、コンピュータ・ネットワークって便利だな、と思って、一度、外に向かって、メッセージを送ると、アリジゴク・グーグルは、「待ってました」とばかり、口をパクッと開けて、私たちのメッセージを
自分の「もの」
にして、そ知らぬ顔をしている。つまり、世界中のメッセージは「全て」グーグルの「もの」になっている、ということを意味する。
たとえばこれを、著作権との関係で考えてみよう。こうやって、パクッたメッセージを「印刷」して、グーグルが、有益な情報を名目に、本の体裁にして、売り始めたら、どうなるだろう? ある人が絵を書いて、それを、ネット上で、電子ファイルで売っていたとする。しかし、ネットに公開した時点で、グーグル・アリジゴクの顎が、その絵をつかまえ、彼らの、商品として、「グーグルの商品ですよ。価値があると思ったら、お金を払って買ってくださいね」と、やり始めるわけである。
さらに、ネット・ゲームなど、アプリのプログラムを、世界中から入手しては、「グーグルの商品」として、売られる。
もちろん、今の法律には「著作権」というものがあり、勝手に、売ってはならない、ということになっている。
しかし、グーグルのやっていることは、普通に考えるなら、「著作権違反」ではないのか。少なくとも、少し昔の法律だったら、違反であろう。形式的には法律違反を意味する行為をしていることは間違いないだろう。
じゃあ、なぜ、彼らは許されているのか。
どこか、「タックス・ヘイブン」に似ているのかもしれない。
グーグルがやったことは、まず、現代法と、インターネットという新しい技術の合間を狙って、誰も知らない間に、ネットコンテンツ収集を行い続けることで、
既成事実
を作り上げたわけである。このグレーゾーンを狙って彼らは、まず、パクりをやり続けた。やってやって「徹底的」にやった。
しかし、やってしまえば、気分はすっきりするものだ。もうやっちゃったんだから、申し開きなんかできるわけない。やってしまった事実は変わらないんだから、あとは、
いいよ
と誰かに言ってもらうのを待つだけだろう。しかし、だれかがそれを「いいよ」と言ってくれる「条件」とはなんだろう。とりあえず、考えられることは、

  • だれにも迷惑をかけていない。
  • だれからも「感謝」されるような、「いいこと」をやっている。

これが、グーグル・デビルである。グーグルは、他人から勝手に、かっぱらってきた、コンテンツから、他人のコンテンツを「探す」ためのツールを、徹底的に作った。こんなことは、ほとんど、だれもやっていなかったし、作ってみれば、今までから比べたら、比較にならないほど、有名コンテンツを探すことが容易になったため、みんなが、

  • 感謝

を始めたわけである。感謝し、これなしでは、生活できない、と人々が思うことによって、だれも、グーグル検索はこの世の中に存在しちゃいけない、とは言わなくなった。
法律違反「だったかもしれない」のにである。
ここまで来れば、あとは話は早いだろう。

グーグルの中核事業を危うくさせるほど、こうした議論を深刻に受けとめている法廷は存在しない。とはいえ、創造的な作品や他人が投下した資本にただ乗りしているとして、グーグルが告発されるケースは増加している。このような議論がまるで無益であると考える理由は多々ある。その最たるものは、少なくとも合衆国においては、オンラインのコンテンツに関するグーグルの事業展開が強力な法的後ろ盾を持っているという事実である(しかし後述するように、こうした事情は現実世界に属する問題には当てはまらない)。
二〇〇三年の検索エンジン法をめぐる合衆国の訴訟事件において示された判例では、すべての人々にとってウェブが適切に機能する状態を保証するには、検索エンジンによる他人の作品のコピーは認められるし、実際問題としてそうせざるをえないという判断が示されたのだ。また、合衆国における著作権の公正利用の考え方では、「教育、最新の出来事や討論の報道、既存の表現を素材としてそれを大幅に変形した創造的作品などのように、公益を高めるたの流通が目的である限りにおいて、著作権によって守られている作品の一部をコピーし、配布するすべての人々を保護している」。誰かのサイトをスキャンし、テキスト記述を少しだけ抜粋するというグーグルの行為は、その抜粋と検索との関連性についてのユーザーの判断を助けているといえる。それゆえグーグルは、この行為の法律的な正当性を確信している。

合衆国においては、現政権とグーグルとの緊密な関係を示す兆候がある。二〇〇八年の大統領選挙戦中に、バラク・オバマは、グーグルの指導者やスタッフ、およびそのテクノロジーと強力な結びつきがあるこを明らかにした。オバマはまず二〇〇四年夏に、次いで二〇〇七年十一月にグーグル本社を訪れ、「イノベーションアジェンダ」を公表した。選挙戦でのオバマのスピーチは、ほとんどYouTubeにアップロードされた。グーグルの最高経営責任者エリック・シュミットオバマを支持し、二〇〇八年秋の遊説に同行した。

こういった手法は、どこか、ヤクザに似ている印象を受ける。江戸時代の国貞忠治にしても、地元に、膨大な「福祉」を行う。そのことによって、地元の人々に「感謝」されることによって、「市民権」を得るわけである。彼らの世界は言わば、「カタギ」の世界ではない。ここを、厳密に区別することによって、アンダーグラウンドでの、徹底した、「資本主義(暴利を貪る貪欲さ)」と、一般市民への「福祉」が両立するわけである。

  • 検索サービス(ページランク):グーグル --> 企業
  • 報酬:企業 --> グーグル

これが「アンダーグラウンド」の世界である。ここにおいて、グーグルが行っていることは、世界中から「無料(ただ)」で「盗んできた」人様の「クリエイテッド・コンテンツ」を、
消費
して、そこから

  • グーグル商品

を「生み出して」、それを、各企業に売っている、わけである。問題は、この各企業に売っている「なにか」が相手に「価値」を認められなければならない。じゃあ、どうするか。世界中から「無料(ただ)」で「盗んできた」人様の
もの
を、もっともっと、骨の髄まで、「消費」しグーグル商品化するしかないだろう。
グーグルが売ろうとしているもの。それは、

  • 各企業の商品が「もっともっと」売れるための何か

である。つまり、各企業は、自社の商品を、もっともっと、消費者に買わせたいわけである。じゃあ、どうやったらそれを実現できるだろう? 言うまでもない。その企業の商品を、おそらく、買うだろうと思われる人々の目の前に、
ニンジンぶら下げ
をすればいい。つまり、いわゆる、
マッチング
である。

  • マッチング:その商品 --> その商品を買うポテンシャルをもっている消費者

これがもし、実現できるなら、いわゆる、「錬金術」の完成だと言えるだろう。もしその消費者が、その商品を買うポテンシャルを持っていることが「分かっている」なら、あとは、その商品を、その人に「紹介」が
できさえすれば
売れることが「分かっている」わけである。ここでの問題は、ただ一つ、その商品をその人の目の前に、見せびらかす、という、

  • 暴力

さえ、「やってもいい」なら、確実に儲かるわけだ。さて。ここまでの議論では、ある「仮定」があった。つまり、

  • その消費者がその商品を買うポテンシャルを持っている

ということを前提にして、議論をしてきたわけだが、ここで考えよう。そんなことが、どうして分かるか、と。
しかし、である。
逆に問うてみようではないか。
そんなことが、「もし分かることが可能な未来が実現するとするなら」、その場合、一体、どんなことが行われているだろう、と。
言うまでもない。

  • その人の「あらゆる」ライフログを、生まれてから、死ぬまで、記録し続けている人

にきまっている。つまり、その人とは、

のこと、だと分かるだろう。
人々は、多くの「福祉」を受けられるということで、
感謝
しながら、グーグル(または、フェイスブック社会主義国の、福祉政策に、恩を感じながら、生まれて死んでいく。人々は、そのことによって、グーグル(または、フェイスブック)に、
負債感
をもちながら、生き続けている。彼らは、いつも、「いつか恩を返したい」と考えながら、生きている。
しかし言うまでもなく、それが、

なわけである。無料(ただ)とは何か。それは、無料(ただ)という、
強制
であることに気付かなくてはならない。

二〇〇七年に刊行された『実践行動経済学 健康、冨、幸福への聡明な選択』のなかで、エコノミストリチャード・セイラーと法学教授のキャス・サンスティーンは、二人が「選択アーキテクチャー」と呼ぶ概念----わかりやすく言えば、私たちに与えられている選択の構造と序列が、私たちの意思決定にきわめて大きな影響を与えているという考え方----について述べている。例えば、学校のカフェテリアでの食べ物の盛り付けは、子供たちの食欲に影響を与える。会社の休憩室や化粧品の位置は、社員の創造力と仲間意識に影響を与える。さらに合衆国において、雇用ベースの個人退職金積立制度への加入を求められたとき、被雇用者の40パーセント以上は、それに加入しないか、あるいは雇用者が負担する分担金よりはるかに少額の分担金しか積み立てようとしなかった。一方、デフォルトが被雇用者の自動加入と設定され、脱退の自由を与えられると、加入率は六ヶ月以内に98パーセントに達した。これは、表向きは自由とされている選択に、デフォルトがいかに影響を与えるかを証明する。よく知られた例である。セイラーとサンスティーンは、自動加入というデフォルト設定が、なんらかの用事や注意散漫や怠慢による「ものぐさ」を克服する助けになったのだと説明している。

この例は非常に分かりやすい。もちろん、上記を見て分かるように、人々には「自由」がある。しかし、デフォルトから変えることは、今までスムーズに行っているものの、方向を変えよう(クリナメント)という行為なわけである。もし、これによって、今まで以上に、「快適」になることが「間違いない」なら、考えてもいいだろう。しかし、往々にして、うまく行っているものを変えることで、さまざまな「トラブル」が生まれ、多くの「やっかいごと」が、今までの、快適だった状態を壊してしまうかもしれない。ケータイの番号ポータビリティができたのに、他社ケータイに代える人が意外に少ないのはそういうことで、そこには、さまざまな
嫌がらせ
としか思えないことが、待ちかまえていて、ほともと、面倒で嫌になってしまうわけである。つまり、ここで大事なことは、こういったデフォルトという「強制」を嫌がる人は、あらわれたとしても、
統計的に(平均的=一般意思2.0)
「ほとんど」の人は、グーグルのマインド・コントロール(=デフォルト)に、進んで、喜捨をする、ということである。
では、ここで、もう一度、考えてみよう。私たちは、知らず知らず、商品交換と贈与を区別している。この二つは、まったく別のもの、だと。ところが、上記のグーグルと、グーグル・ユーザーの関係を考えてほしい。

大事なことは、ここに一切の「金銭」は介在していない、ということだ。どうして、こんなことが実現しているのだろう?
それは、最初に指摘したことを思い出してもらえば分かる。つまり、私的所有の概念が、こと、コンピュータ・ネットワークの中では、まったくもって、
メルトダウン
してしまい、一切の「もの」は「全て」かつ「一つ」という、まったくもって、ヘーゲル的な「ガイスト」的モンスターになってしまった、からである。
ユーザーにとっての、産まれてから死ぬまでの全てのライフログは、ひとたび、コンピュータ・ネットワークと
繋がって
しまう限り、すべてを
名寄せ
され、その人という
アイデンティティ
によって、分類されてしまう。つまり、

という「恒等式」が成立してしまうのだ。私たちは、ここに「もう一人の自分」と出会う。この「もう一人の自分」は、やっかいなことに、
私「以上」に私のことを知っている(可能性がある)。
この「もう一人の自分(=グーグル)」が、アニメ「まどマギ」のキュウベエのように、常に、私たちの側に寄り添い、常に
私が「本当」は何が欲しいのか
を「教えてくれる」。これこそ「究極」の「錬金術」であることが分かるだろう。おそらく、ヤクザがドラッグによって、若者の「精神」に侵食するように、グーグルは、この

  • もう一人の「自分」

によって、人々を「大量消費」に、「マインド・コントロール」する。いや、これはもうマインド・コントロールですらない。だって、それは、
もう一人の「自分」
なのだから、そいつが言うことが「本当の自分の気持ち(欲しいもの)」なのだから、むしろ、買わない方が、どうかしている、というわけなのだから。
このように、贈与とは、商品交換と違い、

  • 無料(ただ)

  • 強制(他者支配)

の区別がつかないのである。
言うまでもなく、この二つの違いを巧妙に使い、上記のグーグル・デビルを、「適用」することは「もはや避けられない歴史の必然」と、ヘーゲル的な意味で礼賛し、さらにその流れを、
政治(=民主主義)
において、徹底させることを、「目指されるべき未来」と言うのが、一般意志2.0だと言えるだろう。この構想において、そもそも、今ある、国家。国家による選挙制度。そこに紐付く国会や政治家や政府や裁判所といった、一般意志1.0は不要になる。
一般意志2.0において、必要なのは、
グーグル
だけである(これが、一般意志2.0のリバタリアニズムだと言えるだろう)。なぜなら、グーグルは私たち市民の
もう一人の「自分」
を「所有」しているから、もう私たちは、選挙などというアナクロニズムによって、意志を表明する「必要」がないからだ。私とは、グーグルの中にある、ライフログのことだったのだから(それが、「厳格な」定義だったのだから)、むしろ、選挙などという、その「一瞬」に思っただけにすぎない「ランダム」によって、私たちが意志を「表明」すると考えることが「間違い」なのだから。
こういった、ある種、
機械論的
な人間観は、どこから来るのだろう? グーグル・デビルの目指している先は、一般意志2.0・デビルの目指している先と、非常に似ている。つまり、これは、ある種の、
エコロジー思想
だと言えるだろう。19世紀以降の地球環境の危機は、一般市民の中から、どうやって、テロリストを輩出しないかの「テクノロジー」と同値になる。つまり、
環境論
である。人々は、まるで「動物」のように日々を快楽のまま生きていながら、その「環境」は、そういった人々が、
できるだけ「テロリスト」にならないような
環境へと、調整され続ける。動物としての人間は、ただただ、日々を「快楽」の赴く方向に動いていながら、それが「テロリスト」になりにくい、方向へと、環境を
操作
することによって、「コントロール」するわけである。このフーコー的政治空間において、人々は、ただただ、自分の中からわきあがる、「快楽」に従順に従い、一瞬一瞬を、自由の中で「選択」し続け「快楽」し続けているのに、そこには、ある
飼育
があるわけである(アニメ「No.6」を思い出しますね)。
こうやって考えてくると、グーグル・デビルも、一般意志2.0・デビルも、典型的な、ヘーゲリアンだと言えるだろう。
では、問うてみよう。
私たちに、こういったボロネオの環(ディストピア)から、脱出する方法はあるのだろうか?
おそらく、その一つのヒントとして、脱原発を考えることができるだろう。
なぜ人は、脱原発デモに参加するのか。これは、一般意志2.0・デビルから言えば、あってはならない事態だと言えるだろう。人々は、常に環境に「満足」し「自足」していなければならなかったのに、なぜか、人々はストリートに出ていき、ストリートに集まり、
デモ
を始める(デモを踊り始める)。こういうことをやるということは「不満」があり、現状に満足していないことを意味する。しかし、一般意志2.0・デビル的に考えるなら、人々は環境によって、満足しているはずなのだから、デモをする人々が「間違っている」。つまり、危険なテロリスト集団だということになる。
実際に、21世紀は、おそらく、放射性廃棄物をいかにテロリストの手に渡らないようにするかが、ほとんど最大に近いくらいの政治問題になることが、予想されている。
しかし、こういった人間観を根底から、破壊したのが、311だったと言えるだろう。
なぜなら、言うまでもない。一般意志2.0・デビルの言うとおりに、人々が振る舞ってきたから、福島第一の事故が起きたのだから。つまり、一般意志2.0では、脱原発できないし、一般意志2.0からは、消極的な脱原発しか、生まれない。つまり、一般意志2.0では福島第一は防げなかった、と言わざるをえない。
例えば、経団連の東電擁護が、どこまでも行きすぎなことについて、以下のような意見もある。

「米倉氏が会長を務める住友化学は、年間110億円もの電気料金を東電に払っています。もっとも、東電は大口顧客の電気代を大幅に割引しているため、東電が国有化されれば住友化学の電気代負担は倍増する可能性もある。また、住友化学が出資する企業が震災前から、体内の放射性セシウムを除去する新薬を開発し、承認されている。原発関連ビジネスにもかかわっているから、東電=原発を擁護しているのでは、という見方もあるのです」(業界関係者)
screenshot

しかし、日本の経済トップがこれで、その経済トップに頭の上がらない政府中枢が、
環境コントロール
を行って、どうして、脱原発を貫けるだろう。
これは、集合知をどういうふうに考えるのかと似ている。

だが、集団のレベルで考えれば、知性だけでは不充分だ。問題を多角的に検証する視点の多様性が得られないからである。知性というのは、スキルが入った道具箱のようなものだと考えると、「ベスト」と考えられるスキルはそれほど多くなく、したがって優秀な人ほど似通ってしまう。これは通常であればよいことだが、集団全体としては本来知りうる情報が手に入らないことになる。それほどよく物事を知らなくても、違うスキルを持った人が数人加わることで、集団全体のパフォーマンスは向上する。
なんとも奇矯な結論だと思われるかもしれないが、それが真実なのだ。似た者同士の集団だと、それぞれ持ち込む新しい情報がどんどん減ってしまい、お互いから学べることが少なくなる。組織に新しいメンバーを入れることは、その人に経験も能力も欠けていても、より優れた集団を生み出す力になる。その集団にいる古参のメンバー全員が知っていることと、新しいメンバーが知っているわずかなことが重複しないからだ。

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

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世間の人が集合知というものを、どういうふうに考えているのかは知らない。なんか、数学のグラフ理論みたいなので、なにかが証明できるのだろうか。しかし、そんなのは私はなんの興味もない。私の考える集合知というものは、上記のようなもので、これは、世間の技術屋であれば、おそらく、ほとんどの人は実感していることではないだろうか。
つまり、世の中で、いわゆる、「仕事」とされていることのほとんどは、ぶっちゃけて言えば、「だれでもできる」。ただ、経験者は、「知っている」だけにすぎない。なぜなら、経験者も、前は知らなかったのだから。そう考えると、
なにもできない人
が実は、組織の中にいる、ということは、「非常に価値のある」ことであることが分かってこないだろうか。つまり、「そういう人でもやれている」なら、そのプロジェクトの製品の
品質は良い
ことを意味していて、つまり、逆説的だが、そのことが、「組織の柔軟性」「組織の今後予想される変化リスクへの対応能力」が高く維持できていることを証明するわけで、つまり、むしろ、
無能力 = 能力
であるような、
非生産性 = 生産性
のような「逆説社会」こそが、オールタナティブであることを示唆できるのではないだろうか。
たとえば、311以前において、脱原発を主張していた人はだれだっただろう? 広瀬隆さんを含め、ちょっと変わった人たちであった。311以降でいえば、もちろん、俳優の山本太郎さんであり、つまり、こういった「ちょっと毛色の変わった」個性と、
常識的な高価な原発もったいない
の、両論が
並立
する状態が維持されていることが、そこに、あるランダム・ウォーク的なカオスな、ごちゃごちゃとした、もみあいを見せながら、その先に、一定の答の眺望を日本社会に見せるのではないか、と。
おそらく、グーグルもそうで、こういったグーグル・デビルに、愚直なまでに抵抗する「バカ」がおそらく、あらわれてくる。しかし、そういった「バカ」を
抑圧
するなら、グーグルも恐竜のように、滅亡に向かう。こういった、愚直な「バカ」と
平行
することによって「のみ」、グーグルは「集合知的に」自らの未来を維持できる。
放射性物質をばらまくテロリストに対抗する、もっとも単純でもっとも効果的な方法は、唯一、「放射性物質」をできるだけ作らないこと、であることは自明だろう。)
私たちは、つまりは、そういった、集合知への「信」に賭けてみたい、ということなわけである...。

グーグル化の見えざる代償 ウェブ・書籍・知識・記憶の変容 (インプレス選書)

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