「幼児」社会

私には、公私の区別がよく分からないのと同じように、子供と大人の区別がよく分からない。
よく、最近の大人は、アラフォーになっても、プラモやフィギアを買ったりと、全然大人っぽくない、と。子供の頃は、アラフォーといったら、ずいぶんと大人で、と思っていたが、実際に自分がその年齢になったら、子供の頃とまったく同じようなことをやっていて、一体、自分はいつになったら「大人」になるんだろう? というわけだ。
なぜ、人々は子供と大人を分けたがるのか。つまり、分けることには、なにか意味があるのか、と問うてみることには、なにかしらの意味がないだろうか。
とりあえず、話の出発としては、

  • 大人 = 「恋愛 --> 結婚 --> 子供」の「コース」に乗ること(つまり、性的存在になること。また、それによる、さまざまな「慣習」)
  • 大人 = 収入を稼ぐ存在(つまり、それによる、さまざまな「慣習」)

つまり、前者は、人間の生物学的な「成長」を問題にしていて、後者は、子供の「教育」に関係している、と、ひとまず言えるだろうか。
しかし、ここで、逆に考えてみるのである。
もしも、

  • 子供が大人に「ならない」社会

というものを「夢想」したとき、その社会とは、どのような「条件」が存在するだろうか、と。
これはつまり、どういうことか。
前者について言うなら、この場合、

  • 家族が子育てをしない社会

と言えるだろう。つまり、子供は産まれた瞬間から、

  • 社会(=国家)が育てる

と考えるわけである。国家のお金でベビーシッターを雇い、完全に母親を、子育てから

  • 解放

する。もちろん、子供と親との「日常」の付き合い(慣習)は存在してもいい。一緒に、ご飯を食べてもいいでしょう。しかし、その関係は、漫画「ワンピース」の世界と同じく、限りなく、

  • 友達

に近くなる、わけである。
後者については、つまり、

  • 大人も、学校に行く
  • 子供も、お金儲けを行う

となるだろう。つまり、大人も「義務教育」を行うわけで、近年の生涯教育の問題や、雇用流動性を高める方向性に近いと言えるだろう。また、子供がなにか、アイデアを思い付いたなら、それを大人たちが「買って」お金儲けをして、子供に「代金」を払ってもいい。とにかく、世の中のお金を仕組みを勉強したら、その瞬間から、実践によって、たとえ少しでも、お金を稼ぐ経験を積んでおくことには、意味があるだろう、という立場ですね。
その他にも、子供が選挙について教育されたら、その「時点」から、選挙に投票してもらいましょう。もちろん、税金も払ってもらうし、裁判にも出てもらう。
しかし、おそらく、子供の「条件」の大きな部分として、体や知力の成長が追い付いていないという部分があるわけで、言うまでもなく、そういった部分については、さまざまに

  • 保護

されなければならない、ということには、今と変わらないわけで、むしろ、ここでの議論のポイントとなっているのは、

  • 大人を「あえて」子供と区別しない

とした場合に、どういうことになるのか、というところにある。
もう一度、上記のポイントに戻るなら、今、世間の人が「大人」と言うときに、親が子供を「育てる」というところを強調する部分は大きいと考えられる。つまり、親がその子供を「いい加減」に扱ったら、
死んでしまう
からです。だから、親には、非常に大きな「責任」があるとされる。ということは、親の子供への態度は著しく

  • 慣習的

になることを意味します。なぜなら、そこから外れれば外れるほど、世間と違う子育てをしていることを意味し、その、あまりの独創性が、
子供の死
に帰結するリスクと考えられるからである。つまり、一般に「大人」と言う場合は、

  • 親の子供に対する態度(慣習)

のことを言っている場合が非常に大きい、というわけである。だとするなら、その役割を、国家が「完全」に、親からひき離したら、つまり、子育ては、「ベビーシッター」の
仕事
として、母親は「当然」父親と同じく、仕事を行い、子育てを「親」の仕事の中から消滅させるのだ。そうした場合、親たちは、そういった、子育てに伴う

  • 慣習

を身につけなくなる。つまり、幼稚な若者のような、いつまでも、フィギアにうつつをぬかしているような、「親」さえ、あらわれてくる、ということだろうか。
この場合、子供が育ち、大きくなればなるほど、その子供と親の関係は、

  • 友達

に近くなる。血が繋がってるだけに、より、「気が合う」かもしれないが、だからといって、何年か先に産まれたからといって、そんな、たいした差じゃない、と言えないこともないだろう。お互い「ため」で話し、互いに、相手のことを思い、気がねすることなく、思ったことを言い合う、わけである。
また、子供と大人の線がなくなるのだから(成人式が即廃止なのだから)、いつから、大人になったとか、そういう区切はなくなるのである。子供の頃から、お金を稼ぎ、税金を払い、選挙権も被選挙権もあり、逆に、大人になっても、義務教育を生涯に渡って受ける。

  • まったく「区別」のない毎日

が子供から大人にわたって「連続」に続く、のである。
もちろん、子供の肉体や心や知力の成長は考慮するわけであることは、前提として、であるが、こういった「幼児」社会にとっての、要諦がどこにあるかというと、つまり、
ワンピース的「みんな」友達
社会を示唆している、ということである。先輩後輩もなく、老人と成人と子供もなく、

  • みんなが「ため」で話す

社会。こうした場合に、まず起こると考えているのが、大人の「幼児」化である。いっくら年をとっても、いつになっても、フィギアを趣味をやめない(ジジババになっても、死ぬ間際になっても、やめない)。いつまでも、

  • 卒業

しない社会。上記を読まれて、どう思われるだろうか。私は、これがいい悪いはぬきにして、実際に今の日本社会は、こういった方向に向かっているんじゃないか、と思っているわけである。
日本社会は、どんどん高齢化が進み、しかし、彼らは、どこまでも「子供っぽい」。いつまでも、子供の頃読んでいた、マンガを読んでいたり、と。
大人が子供のまま、ということは、大人は子供の言うことを、
「真摯に」聞く
ということを意味する。なぜなら、大人は子供なのだから、それが子供の特徴なのだから。大人が子供の言うことに真剣に聞くことによって、真に
重要な「会話」
が、この日本社会に産まれる、と言えないだろうか。
他方における、大人も子供も同じく、「子供のように」政治を行うということは、お互い、「本音」で語り、真剣に生きる、ということを意味するだろう。
私が言いたかったことは、肉体的な子供と成人と老人の差異を前提とした上で、

  • 自分の生涯の間に「線」を引くこと

への、違和感だったわけである。むしろ、「なにも変わらない」ということを前提にして、「いつまでも幼児である」ことを前提にした、社会の方が、より、安定した社会をイメージできるのではないか、ということを検討したかっただけなのだが...。