波頭亮『成熟日本への進路』

日本の高度成長期を覆った「イデオロギー」こそ、新自由主義であったことに、反対する人はいないだろう。アメリカのレーガン、イギリスのサッチャーを代表とする、新自由主義は、ミルトン・フリードマンの、いささか、挑発的なイデオロギー運動と共に、西側陣営とほぼ同値の意味で使われる。
日本の歴史も、アメリカと平行する形で営まれてきたわけで、高度成長期とは、新自由主義の一つの「証明」と考えられ、歴史を解釈される。ところが、日本のバブル以降の、失われた10年においても、この新自由主義が席巻した時期でもあり、人々は、
あれ?
と思い始めるわけである。あれほどの栄華を誇った日本は、それ以降、ぱっとしなくなる。官僚主導の日本社会は、いわば、その「限界」に、つきあたる。それまで、うまくいっていた「前例」を踏襲すればするほど、「想定外」の連続となり、もはや、
前例主義
は、時代に合わなくなってきているのではないか、と疑われ始める。藻谷さんのミクロ経済学の視点から語られる、日本の少子化、人口減少、高齢化は、その一つ現れであった。あきらかに、日本は、まったく、今までとは
違った国
へ向かおうとしているのに、やっていることが、高度経済成長期時代の、
生産性増大
を目指す、
成長社会
であったことは、これほどまでに、官僚の前例踏襲主義の圧力が、この日本において強いのだ、ということを強く教えてくれる。
明らかに、日本社会をとりまく状況は、まったく違った「初期条件」に向けて変化しているのに、だれも、その方向に
合わせて
自らの未来を構想しない。まるで、そこに今までと同じ「慣性」があるかのように、行動するわけである。
しかし、さすがに、ここまで来て、人々は、どうもおかしい、と思い始める。その一つが、年金と消費税だ。一国の総理大臣が、消費税を上げたいと国民にお願いして、その理由が、年金や健康保険などの社会保証だと言いながら(つまり、「それ」に増税分を使うと言いながら)、たとえ、その分を「すべて」年金に使おうと、
まったく足りない
ということが分かっていながら、それについて、

  • どうしたい

ということを、「一国の総理大臣」が、まったく「言わない」のである。
これは、どういうことなのだろうか?
つまり、一国の総理大臣が、この国の未来をどうするかを
語らない
のである。語らず、「とにかくなんだかわからないけど、消費税を上げて、その分を、年金につぎ込む」としか言わない。
なにかがおかしい。
つまり、今、この国の指導者となっている、総理大臣は、この国の将来に関心がないのである。この国の将来を
どうしたい
「から」、消費税を上げる、では「ない」ということである。
経団連の会長に、総理大臣が深々と頭(こうべ)を垂れて、握手をしていた姿がニュースで話題になっていたが、
「あれをやってください」
「仰せのままに」「御意」
つまり、この人は、経団連の「言うこと」をやりたいだけで、この人がやりたいことはないわけである。
恐らく、自分の任期の間に、どうなっていればいい、くらいしか考えていないのだろう。
同じことは、原発にも言える。一国の総理が、原発の再稼働を行うかもしれないと言いながら、今だに、
廃棄物の最終処分をどうするのかを、決めていない
という、まったくの「無責任」野郎だということである。言うまでもなく、再稼働をすれば、新たな廃棄物が増えるわけで、その増えた分については、それによってエネルギーを使った人たちの「責任」になるのに、その決定者が、そんな調子なのである。
恐らく、そんなことは自分が決めなくても、将来のだれかが決めてくれて、「なんとかしてくれる」と思っている。自分が決めなくても、自分が考えなくても、だれかが考えて、なんとかしてくれる。
本当か?
日本のような地震国で、地下に埋められるのか。日本のような火山国では、当然、その下を掘っていけば、「地下水」の水脈にぶつかる。もし、その水脈に定常的に、放射性廃棄物が滲み出す状況に、
1万年後
なっていたとして、そのとき、日本に人は住めるのか。つまり、日本で最終処分を行うことは、日本以外の地盤の固い大陸系の国で行うより「リスク」が大きいことが分かっているなら、じゃあ、そういった国に、廃棄物を売る。つまり、そういった国を、
ゴミ捨て場
にさせてもらおう、となるだろう。しかし、こういった論理は、本当に成功するだろうか。これは、なぜ、日本中には、そこら中に、ゴミ処理場があるのか、の問題と類似と考えられる。つまり、
受益者負担
である。自分が吐き出したゴミは、その地元が地元で処理する。それだから、ゴミ処理場の煙突から出る、有毒の煙も「我慢」できるわけである。だって、
自分のもの
なのだから、しょうがないわけであろう。埋める場所が少ないなら、燃やすこともしょうがない。しかし、そのゴミを、他の地域が出したのに、こっそり、こっちに持ってきて、この地域を相手の地域の「ゴミ捨て場」にすることで、相手の地域ばかり栄えて、この地域に人なんて住まなければいい、というわけには、
この地域に住んでいる人
にとっては、思えないわけだろう。
近年の震災がれきの処分の騒動に、違和感を覚えるのもそこである。各地域が、がれき受け入れを躊躇しているのはおかしい、と言うが、こういうことを言っている連中に限って、東京の高級住宅街の、ゴミ処分場など、まったく近くにない、
きれいな空気
の場所で住んでいるということはどういうことなのか。こういった人は、「だれ」に受け入れて「もらいたい」のか、じゃあ、その受け入れてもらいたい人に、「お願い」したのか、質の悪いコンサルみたいに、「べき」論を言ってるけど、本当にそれは、「自分が社長だったらやる」」とイメージして考えたことなのか(単に、人間ならやんの当然だろ、みたいに、自分が負担する立場にならないのに、他人事で言っているのか)、そもそも、それが人にお願いする態度なのか、ということだろう。
そもそも、低濃度放射性廃棄物かどうか以前に、各地域が、沖縄の米軍基地のように、
ゴミ捨て「専用」地域
にされたら、どうだろう。もう、そこは、未来永劫、人が住めない、ゴミを捨てるため「だけ」の地域にされたら。ゴミ処理については、長い間の、その地域住民と行政側との、コンセンサスがあるはずで、その
文脈
の延長において、今回の震災ゴミを位置づけられなければならないのは、当然であろう。そうであるなら、行政側がそんなに、簡単に、なんでもかんでも「バッチ来い」の「まだまだー」で、その地域を他県の
ゴミ捨て「専用」地域
にさせるわけにはいかない、だろう。つまり、住民自治の日本の
慣習
から考えて、他県が受け入れるかどうかは、それなりの、住民との合意形成の「手続き」なり「コンセンサス」を必要としている、というところから思考をスタートさせないと、原発と同じように、

  • 東京の高級住宅街

住民の

  • 住民エゴ

と考えられてしまう。その地域から出たゴミは基本は、その地域で処理する、ということは、その地域の人は、持続可能性を考え、なるべく、ゴミを出さなくなることを意味する。この原則を、いろんな意味で、借金踏み倒しを行ってきたのが、東京ワンダーランドで、東京住民は、まるで、地方を
植民地
のように、東京で出たゴミを押しつけ、東京が必要としている電気の原子力発電所という「リスク」を地方に押し付け、まるで、千葉にあるディズニーランドのような「無菌純粋培養都市」をつくった。
しかし、こういった植民地政策が通用するなら、例えば、ある日、アメリカが日本をアメリカから出るゴミ捨て場とすると、TPPよろしく、宣言したらどうなるか。
日本は地震や火山で、人が住むには危険だから、この島に、世界中のゴミを捨てて、日本人は、ユダヤ人のような、流浪の民になってもらいましょう、と。
これが、日本やアメリカが、モンゴルに原発ゴミを押し付けようとして、なかなか、話が進んでいない理由なのだろう。
私にとって疑問なのは、だれかになにかを頼むのなら、まず、「だれ」に、ゴミを受け入れてくれと頼むのか、次に、「だれ」がそれを頼むのか、であろう。受けいれるのは言うまでもない、それを受けいれることになる、地域住民である。それを燃やせば、多少なりとも有害ガスがでる。でも、それが、これだけの震災のためなら、ある程度、やむをえないところもあるのだろう。しかし、そう「判断」するのは、その「地域の人」なはずだ。だとするなら、まず、その「地域の人」に、そうしてもらいたいと考える、こういった処理の判断をする役割の人が
頭を下げてお願いする
とこからしか、始まるわけがない。
そもそも、震災ゴミは、そう簡単に燃やすべきなのかは、考えるべき話ではあるはずだ。燃やせば、有毒ガスがでる。しかも、これだけ大量だとすれば、その量も膨大になる。だとするなら、むしろこの、震災ゴミの
有効利用
を考えるべきなのだろう。土木工事の材料や建築資材へのリサイクル。そう考えれば、住民の受け入れの感情もかなり緩和するだろう。
また、こういった震災がれきの処理が、
地元企業の「利益」
になってくれないと、しょうがない。大手ゼネコンばかりが潤う、今までの、公共工事の手法で行うのなら、それは、もう一つの「植民地政策」であろう。
こうやって考えてくると、今の総理大臣ほど、東条英機に似ている人はいないかもしれない。
なぜ日本は、どう考えても勝てない戦争をあれほど、いつまでも続けたのか。なぜ、どこかで立ちどまることはできなかったのか。つまり、
未来
を考えていない、としか言いようがないのだ。年金にしても、原発にしても、結局のところ、
考えていない。
それは、戦争を続けることで、どうなっていくのかを考えず、考えないのに、続け続けるということだけは、し続ける、といった、東条英機の政策と似ているのかもしれない。
勘違いをしている人が多いが、理性とは「計算」のことである。もっと言えば、計算を成立させている周辺を含めての計算を、理性と呼ぶわけである。だから、理性批判はまことに結構だが、そうした理性批判だって、計算しているわけで、だとするなら、むしろ、批判しようがしまいが、徹底的に計算したらどうなんだ、と。中途半端じゃなく、

  • マジ(真剣)

に計算したら、どうだ、と言いたいわけなのだ(これを、こういった「態度」の問題に次元をシフトさせて考察したのが、カントの実践理性だと言ったっていいんじゃないか)。
今の総理は、東条と同じように、中途半端な計算しかしないから、ああいった、変なことになる。まるで、操り人形のように、経団連や官僚の口パクになる。その対称として、だれとでも、愛想がよく、憎まれない印象を与えるところまで、東条と似ている。しまいには、野党時代に、まったく反対の、消費税批判をしていた
本音
が次々と暴露される。まさに、国のリーダーが、官僚である(官僚的な性質を著しく特徴とする政治家)であることが、どういうことを意味しているのか、ということなのだろう。
たとえば、新自由主義においては、とにかく、安いかどうかだけが、判断の材料となるわけで、そこから、なるべく、国は「自分で」つまり、国営企業や、独法でやると、採算を考えない経営になってしまうので、民間にやらせる、ということになる。ここまでのアイデアはいいのだが、それが国内での競争なら、まさに、国富論ということで、国家政策として、合理的ということになるだろう。ところが、この論法でいくと、海外でより安くサービス提供できる会社があらわれた途端、むしろ、国内の民間企業がやっているということが、一種の
国営
に近くなる。海外に頼めば、より安くなる、というのだから。つまり、こういった選択をしていくと、次々と国内の企業の仕事がなくなり、国内には、失業者があふれることになる。
しかし、新自由主義としては、「それでいい」ということになる。なぜなら、失業者は、別の仕事を探すのだから、と。しかし、だれもが普通に思う疑問は

  • 他の仕事とは「どれ」のことだ?

であろう。上記の議論が、ある種の隘路に陥っている理由は、結局のところ、労働者が失業すれば、その分の税金が入ってこなくなり、逆にその人たちの、生活保護をしなければならなくなる、つまり、税金投入が必要になる、ということだろう。
だから実際は、国家はさまざまな分野に、多くの補助金ばらまきを行ってきた。リーマンショックのときであれば、各企業は急激に引締めを行うわけで、すると、仕事をもらう側は、仕事がなくなり、一時的な資金繰りに困る。ここをくぐり抜けられるなら、将来、競争力のある企業になれるなら、国家は手をさしのべてきたわけで、それは、今、援助するか、失業して仕事がなくなってから援助するかの違いだと考えてきたわけであろう。
つまり、一方で市場原理と言っておきながら、他方で、セーフティネットというのは、矛盾ではないか?
新自由主義は、国家を「不況」にさせることによって、一部の富裕層が、
つまり、勝ち逃げ
をするのに、かっこうの理論のように、どうしても思えてしょうがないわけである。
長々と書いてきたが、私が目指す「逆説社会」において、一般的に言われる二元論は、
同じことを言っている
と考えるところから始まります。以前、アイン・ランドというリバタリアンを紹介したことがあるが、私の読んだ印象は、このロシアからの亡命者の著者の主張は、つまり、ロシア型マルクス主義を「反転」させたものをユートピアとして、アメリカに投影しているだけで、
同型
だと思ったということである。ロシア型マルクス主義の問題を指摘している上では、彼女は鋭いことを言っていることに、だれも反論しないだろうが、その
否定
アメリカになるかどうかは、自明ではない(否定には「イメージ」がない)。そうすると、どういうことになるか。

つまり、自分は否定しているつもりになっても、その人自身が、その否定を「イメージ」できていないから、結局、自分が知っているもので「表象」するしかなくなる、ということである。
徹底的にみんなが自分の「利益」を追求する、そういう個人が集まって生きている社会が、「ユートピア」だということは、

  • みんな、「それ」で幸せのはずだ

という、一つの仮定によって成立しているにすぎない。しかし、問題は「そこ」にあるわけで、その仮定が「自明」だと思う限り、

と同じ構造となり、結局は、その人が主張している社会体制が、ロシア型マルクス主義と、似てくる、ということになる。
これは、リチャード・ローティにも言えるのかもしれない。トロツキストの親の影響を受け育った彼が、成長とともに、左翼から転向して、独特なリベラリスト(プラグマティスト)となるわけだが、この人が、「残酷」こそ避けなければなならない、ということを「普遍的定言命法」とするとき、果して、そういった仮定は、そもそも、マルクスの主張していた、人権感覚と、ほとんど違わないんじゃないか、という印象となるわけである。
だとするなら、実践の場において、左を「より中道へ」、右を「より中道へ」と近づける、オールタナティブを、「それぞれに対して」提示するような、ソクラテス孔子のような、

  • 相手に応じてオールタナティブを提示する

そういった(もしかしたら、それぞれの内容は、「矛盾」してさえいるかもしれなような)戦略がありうるのではないか、ということになるだろう。
掲題の本の著者の主張をそういった文脈で考えることはできるだろう。長い間、シカゴ学派的な新自由主義でずっと考えてきて、今でも、そういったスタイルで考えることが、「楽しい」と言いながら、この日本社会のドラスティックな変化に、
制度
が、まったく対応していないことを見るに、日本の大改革は、

  • 分配社会

にある、となる。一見すると、新自由主義と対立する「左翼」の思想と考えがちであるが、そう考えてはいけない。むしろそれは、新自由主義そのものが内包していたものであり、新自由主義
徹底
させることによって、どうしても、ここから導き出されなければならない方向だ、と考えるのである。

一方マイナスの所得税は、所得額が高額になるほど課税率が高くなる累進課税制度において税率がマイナスの方向にまで延長されたものと考えればよいだろう。例えば年収二〇〇万円が所得課税ゼロの水準とした場合、年収二〇〇万円未満の人には還付金という名目で手当てが支給されるような税制である。その際、自分で稼いだ所得が少ない人が自分より多く稼いだ人の所得を上回らないように税率を設定することが必要である。
こちらの税制は、理念的には累進課税と同様である。裕福な人ほど多くを負担し、貧しい人ほど多くを与えられるという考え方であって、福祉社会の基本理念と一致する。所得がゼロの人にいくら還付金(手当て)を支給するのかによってセーフティネット機能としての有効性は違ってくるが、国民全員に絶対的に生活権を保証するためのベイシックインカムがセーフティネット型であるのに対して、マイナスの所得税は所得の平準化を図ろうとする共生・調和型社会に向いた福祉税制ということができよう。

言うまでもなく、負の所得税こそ、ミルトン・フリードマンの主張の一つの「鬼子」であって、この新自由主義という、完成された理論の、ほころび、まさに、癌細胞として、ここを徹底させることによって、

  • 事実上の「分配社会」

を実現するわけである。
分配社会とは、著者の言い方を踏襲すれば、「国民の誰もが、医・食・住を保障される社会」となります。これを私なりに、整理してみましょう。
まず、産まれたばかりの子供は、生活力がありません。しかし、その育児を母親にさせると、母親は自らの専門を生かした労働ができません。だったら、国家がその子供の育児を負担する。つまり、その子の育児負担を、国民側に分配(負の分配)するわけです。つまり、国がベビーシッターを雇い、育児をする。
子供が育っていくと、教育費がかかります。しかし、これも、子供をもっている親に負担をさせると、子供をもたない大人に比べて、負担が大きい。つまり、これも国民側に分配(負の分配)するわけです。
私たちは、どうしても、なにかの偶然で、重い病気にかかるなど、障害者とならないともかぎりません。しかし、それはだれもが予想されることで、たまたま、そうなった人が自分でそのリスクを引き受けろというのは、負担が大きい。だったら、これも国民側に分配(負の分配)するわけです。
私たちはだれもが、年老いていき、仕事もできなくなります。しかし、仕事ができなければ、稼げません。すると、貯金をしていろ、ということになりますが、しかし、そうってだれもがお金を使わないと経済が活性化しません。しかも、長生きするかどうかは、人それぞれです。だったら、これも国民側に分配(負の分配)するわけです。
(年金のように、それぞれがそれぞれの割合を、将来にベットして、長生きした人たちで、そのお金を分け合うというのは、一つの考えでしょう。)
老いると、生きていくことさえ、容易ではなくなります。自分の日常をこなすことさえ、一人ではかなわなくなるかもしれません。今の日本社会は、それを、
息子の嫁


に、介護(ケア)をさせています。大変、親孝行で素晴しいと思われるかもしれませんが、事実として、そのことで、ケアする側は、他の仕事ができなくなっているということを意味しています。だったらこれも、国民側に分配(負の分配)するわけです。つまり、老人介護士を国が雇うわけです。
上記のように、分配社会は、お金がある(集められる)ことが前提の社会であり、お金があるから、その必要に応じて、分配されるということになります。もう一つが、人です。上記を見ても分かるように、ベビーシッターや介護師(や医者や看護師)が必要です。

現在、介護サービスの就労者は約一三〇万人である。標準的な月額給与を一・五倍にして二二万円〜二七万円にするために必要なコストは僅か一・四兆円、他の職業に対してより魅力的な給与水準にするために現行の二倍にまで引き上げて三〇万円〜三六万円程度にする場合のコストでも約二・八兆円程度である。更にこうした施策が向を奏して就労政策希望者が順調に増えて就労者数が現在の二倍になったとしても、”公共財”程度のための政策コストは四兆円〜五兆円に過ぎないのである。

こういった数字をどう思われるだろうか。日本が産業界に、湯水のように注いでいるさまざまな、税金控除や補助金や、独立行政法人による、さまざまな税金の箱物化とは、比べものにならない少ない金額で、「分配社会」が実現できるうえに、
雇用機会が増える。
こういったことを考えるにも、新自由主義イデオロギー脊髄反射の人たちの、転向左翼的左翼アレルギーをなんとか、
解毒
できないかな、と考えることこそが、日本の未来を「理想社会」とイメージする第一歩のように思います。
もちろん言うまでもなく、掲題の著者も、基本的に今の政治制度や経済システムを維持した上での(つまり、新自由主義を、基本的には「保存」」したまま)、システム改変をイメージしているわけで、今のように、外貨を稼ぐ必要はありますし、今私たちが悩んでいることは、同じように存在している社会であることは変わりません。

ところで日本の行政は他国と比べてやたらに許認可事項が多い。何かを申請したら自動的に認められるというのではなく、様々な条件を担当者が検討して認めるかどうかを決められる定めになっていることが多い。これはわが国の行政の裁量の範囲が特に拾いためである。行政官が優秀でかつ善意であれば、行政の裁量の範囲が広いことは必ずしも悪いことではない。国会を通す法律の中に細々とした事情を全て反映させようとするのは非効率であるため、現場をあずかる行政の裁量に任せた方が効率的である。
しかし、日本の行政裁量の範囲は明らかに効率化の範囲を超えている。生活保護の申請を断って餓死させてしまうような裁量は例外だとしても、企業による新規事業進出や補助金申請などで、申請書を提出してから何ヶ月もたなざらしにされてしった話はしょっちゅう耳にする。その理由は申請書類の不備という名目による窓口担当者の気分対策の不備である。
どんなに国民や企業のための政策や法律を議員が議会で作ったとしても、その執行に際して現場の担当者に大きな裁量の範囲があると、全てその政策は行政官の利権のネタになってしまうのである(利権とは言っても、その大半はカネではなく気分である。威張る利権、お追従を言ってもらう利権、気に入らない者をいじめる利権、リスクが伴うカネの利権よりも、多くの行政官が日常的に享受しているのが気分の利権である)。

国家とは結局は、国民が「コントロール」するしかありません。その点において、左翼だろうと右翼だろうと言っていることに違いはありません。新自由主義とは、私に言わせれば、このコントロールが無理だから、国家に「なにもやらせないようにするにはどうすればいいか」と考えているだけで、福祉社会は国家に「やってもらうことによって国民が理想と思う理念がたくさん実現できるのだからなんとかやってもらえないか」と考えているだけで、どっちにしろ、この
どうやって国家を「コントロール」するのか
を考えることを棚上げし、「思考停止」している、というふうにしか思えません。こういった、ある意味、
カフカ的問題
に、どういった答えを提示するのか。そういった答えがないままなら、恐らく、未来の日本人もそこを「理想社会」と思うことはないのだろう...。

成熟日本への進路 「成長論」から「分配論」へ (ちくま新書)

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