「自然エネルギー」社会

日曜日の、高村薫さんのドキュメンタリー(NHK教育のETV特集)は、いろいろ考えさせられる内容であった。
私も、311以降から、さかんに強調される「復興」という言葉に、強い違和感を覚える。はたして、東北は「復興」される「べき」なのだろうか。
この言葉は、非常に大きな意味をもつ。一体、「だれ」が「復興」されるのか。だれが「救われる」のか。
高村薫さんが阪神大震災との比較で、強調していたのは、あの頃とは「時代」が違う、ということである。あの頃は、まだ、日本の経済には活気があった。復興するということが、なにを意味しているかが自明であった。しかし、それ以降、日本経済は、まさに、
斜陽
の光景を見せていく。仕事はどんどん今までの発展途上国にとられ、急激に老人が増えている。この状況で、どういった近未来を眺望するかは、大きな分岐点と言わざるをえない。
日本はこれから、10年、20年の間、どのように人々は、働き生きているか。
東北に住む多くの被災した村は、日本中どこでもある、つまりは、過疎化が進んだ村であった。その光景を見るにも、一体、復興とはなんなのか、とは思う。それは、なにかの勘違いなのではないか。つまり、高村さんが言っていたように、問題は以前からあったのであり、震災があろうがなかろうが問題は変わらずそこにあるのであり、それを見ようとしないことを「復興」と名付けることに、なんの意味があるのか。つまり、その
問題
こそが一つであり全てであるのに、これを見ようとせずに、復興と唱え続けることへの、苛だちであり怒りであり無力感なのであろう。
福島の20キロの近くの土地で、農業ができたとして、いつまでかかるか分からない除洗を繰り返しても、日本の米は余り、全国で減反をやっている状態で、跡継ぎは、農業をやるのか。
そもそも、この土地は、そんなに彼らにとって「縛られる」場所なのか。
彼らは、この土地に育てられ、ここまで育てられた。そして、この土地は、その役割を終えたのだ。彼らは、今は、感謝をしながらも、旅立つことを決意する。そして、また、新しい土地に、
同じ風景
を作りだすことを誓う。今まで住んでいた家と同じような、家をそこに、再現し、その新しい土地に、自分たちの風景を再現する。
東北学の赤坂さんは、復興ではなく、この土地を、むしろ、自然に返すべきだ、と言う。日本の自然は、このたった一年の間で、あっという間に、人間が利用する前の、動植物が繁茂していた、土地へと帰っていく。たったの一年足らずで。それが、日本なのだ。
そういった日本の未来像の延長に、

がイメージできるのではないか、という印象を持っている。もしかしたら、東北の被災地区は、徹底して、隅から隅まで、

となったとしたら、どうなるだろう。東北の被災地は、これでもか、これでもか、と自然エネルギー施設が作られる。農業をするには、小水力発電で、灌漑設備から、発電を行う。これが、その地域の隅々まで、埋まる。
もちろん、それだけでは、今までのような、エネルギー大量消費には足りない。しかし、「復興」を「しない」のだ。もう、そんな、たんに贅沢なだけで意味のなかった、生活は捨てるのである。これからは、
省エネ・節約
である。エネルギーが足りなくなったら、寝る。どうせ、朝になれば、また、太陽が空に上がって、光や熱をもらい、今まで、エネルギーによって必要だった作業が行える。だったら、それでいいじゃないか。
なぜ、自然エネルギーが重要か。なぜなら、自然エネルギーは理念といて、持続可能性を意味するから、である。石油や原子力は、その原料を使い尽せば、その時点で、これを前提としていた「全て」は雲散霧消する。
ところが、自然エネルギーは、たとえその出力容量が少なくても、そういった「有限」の消尽とは関係ないと考えられる。
つまり、身体の老化とともに、そもそもの自らが必要とするエネルギーが、少なくなっている、

  • 老人社会

にふさわしい、と言えると考えるわけである。
被災地の「復興」。そんなの「幻想」だ。そんなことを言っている連中は、その地域に「だれ」がいるかを知らずに言っているのだ。そこにいるのは、老人たちであり、老人たちを中心として、みんな、体が弱くなり、農業の跡継ぎも結局は見つけられず、弱くなって、でも、みんなで支えあって生きている人たちだ。
そんな彼らが、必要としている社会こそ、外貨を稼いで、外国から燃料を買って、がんがんエネルギーを使いまくる、東京型社会でないことは、確かで、彼らが目指すべき社会が、
自然エネルギー程度のエネルギーに満足し、この程度の電気で「自足」する、

  • 身の程をわきまえる社会

であることは、明らかであろう。ではそんな彼らが、それぞれ天寿をまっとうするなり、その土地の役割を終え、新天地を目指し、引っ越していったとき、どうすればいいのか。
自然に返せばいい。
日本のこの再生力の強い自然には、それができる。だったら、それでいいんじゃないか。こういったことができる日本の自然はそれだけ贅沢だということで、少しも卑下することじゃない。そうやって、その土地は一つの歴史的役割を終えるのだ...。