「ダイアローグ」社会

佐々木さんの最新刊は、言わば、佐々木さん自身が書きたいことを書いたという印象がある。つまり、この方自身の半生をふりかえり、ずっと思っていたことを実感として書こうとしているんじゃないかというふうに思われる。

その日の夜、私は重い気分で再び捜査一課長官舎に出向いた。いつでもどこでも憮然としたような表情を崩さない一課長。
「昨夜、『違います』とおっしゃったじゃないですか。僕はそれを信じてたのに...」
と私が訴えると、課長は顔の筋肉をぴくりとも動かさずにこう答えたのだった。
「私はちゃんと表情で『当たりだ』と伝えてたでしょう。それを読み取れなかったあなたが悪い」
そんな無茶な、表情でわかるわけないでしょう----そう言いたいのをぐっとこらえ、私は黙って官舎を後にしたのだった。警察幹部への夜回りは、ネタを当てて表情を読み取るというのが事件記者の鉄則。一課長の表情をきちんと読み取れなかった私が悪いのは明らかだった。
とはいえ一課長はさすがに悪いと思ったのだろう。この容疑者がついに殺人容疑で逮捕されることになった時、直前に突然記者クラブのボックスにまで電話をかけてきてくれた。捜査一課長が直々に電話をくれるなんていったい何だろう? と思った私に、課長は短くひと言こう教えてくれたのである。
「明日、サイタイ(再逮捕)しますから」
びっくりして言葉もなかった私に、課長は念押しのようにこう付け加えた。
「今回だけですからね」
そうして電話はガチャン、と音を立てて切れた。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

大手新聞社の記者時代に、警察担当の経験として、新聞記者とはどういった存在であるのかを記述するその説明は、どこかアンビバレントというか、善悪とは関係ない場所から、俯瞰的に説明しようという意図を感じる。
新聞記者とは、特ダネを見つけてナンボの世界である。これは、企業における、営業に似ているのかもしれない。それは、他社を、ほんの一瞬早くゲットするかどうかで、全てが決まるわけで、普通に考えれば厳しい世界だと言える。
しかし、こういった現実とは、身も蓋もなく、実際にそうなのであって、世界中がそういった論理によって成立しているのだから、まずは、そういったことの認識からでなければ、なにも始まらない。
現実が厳しいということは(また、それを人によっては不条理だと思うことは)、実際に現実がそうであることと、矛盾しない。たんに、そこから始めるというだけのことにすぎない。

岐阜のような地方では、行政や国がやることに対して反対運動を起こす人は非常に少ない。そもそも保守王国と呼ばれ、自民党が圧倒的に強い土地である。仮に内心は反対運動に賛成していても、親戚や近所の人、あるいは会社の同僚上司の前ではなかなか言い出しにくい。
「当事者」の時代 (光文社新書)

こういう強固なムラ社会が確立している圏域では、空気の圧力を突破するような行動はとうてい起こせない。下手に動けば、地元で仕事ができなくなってしまう危険性さえある。だから市民運動はなかなか盛り上がらない。長良川河口堰反対運動も、最初に火がついたのは東京や名古屋などの都市部からだ。都市部の住民が大挙して岐阜にやって来て運動を盛り上げ、それに地元のしがらみの少ない若者層がつながり、運動が組織されていったのだった。運動が最高潮に達していたときでも、地元に生まれ、地元に密着して仕事をしている人たちの参加は、実際かなり少なかった。
そういう土壌のところでは、市民運動の構成員はどうしても特定の層ばかりになる。共産党の議員や活動家。外の土地からやってきたしがらみのない人たち。さらには岐阜のような中央から遠く離れた地域には、一九七〇年代のヒッピームーブメントの流れのなかで中央を離れて田園生活を選んだ画家や音学家、芸術家なども少なからずいた。
「当事者」の時代 (光文社新書)

著者が記者時代の地方の市民運動を取材して、得た印象は、つまりは、市民運動の「不可能性」、市民運動プロ市民化であり、そのプロ市民に「寄生」する新聞社の生態であった。
著者の不満は、それがその地域の人々の問題であるのに、そういった一人一人は、自分の意志を表明できない「構造」にあると言うことだろう。結局、こういった活動には、いわゆるプロ市民しか集まらない。つまり、そんなんで市民と言えるのか、と言いたいわけだ。
言ってしまえば、今回の福島第一の原発事故も、こういった
力学
の中から、生まれたと総括できる。だとするなら、こういった「構造」をそのままにして、たんに、日本から原発だけなくしても、なにも解決したことにならないんじゃないのか、と言うことなのだろう。
現実社会には、現実社会の力学が働いていて、人々は、それに、無自覚に振る舞いパージされるにしろ、過剰なまでに「適応」することで、一度その立場を手に入れても、さらに、自分以上に過剰に「適応」する人との競争に破れ、パージされるにしろ、いずれにしろ、この
構造
に関わる(コミット)ことによって、むしろそのことによってこれを強化し、再生産し続けているという面がある。
日本中が、こういった固定した人間関係によって、縛られていて、まったく身動きできない。このカフカ的不条理社会に対して、どういったオールタナティブを提示できるのか。それは、非常に難しい問題であると言える。
ところが、この本は後半、その論点が、微妙にずれていく。つまり、問題はプロ市民の「弱者憑依」だった、ということにすりかえられ、最終章はその「克服(アウフヘーベン)」としての、(地元新聞社の)当事者性の提示で終わる。
つまり、上記で検討したような、構造や力学については、なんのオールタナティブも提示されることなく、そういった
自覚した(目覚めた)当事者
が、プロ市民の偽善的弱者憑依を、糾弾し続ければ、理想社会に近づく、つまり、そういった能力を備えた、エリートたち(の献身行為)の重要さを読者に納得させる、という形となる。
(それは、近年の、低濃度放射性物質の危険性を訴えている「庶民」を、「トンデモ科学」として、仮想敵化し、その非科学性を糾弾し続ける「エリート」活動と似ているのかもしれない。)
同じような印象を受ける例として、山下俊一という医師の、以下の発言についても、私には、どうしても理解できなかった。

この1年を振り返ると、私自身、批判や非難の矢面に立つ場面も少なくありませんでした。それでも私が「心配ない」と言い続けたのは、医療のプロとして、福島で生活する人の不安や不信感を払拭し、復興と再生を支援したかったからです。
「危ない」と言った方が本は売れるし、「逃げなさい」と言った方が受けもいい。何も健康被害が生じなくても、「間違いだった」と誰にも責められません。しかし、誰もがそうしていたら、福島県民が流出し、危機的状況になっていたでしょう。
screenshot

おそらく言いたいのは、エリートパニックのことを言っているのだろう。しかし、福島県に人がいなくなろうがどうだろうが、もしそれが必要なら、やらなければならないときは、やらなければならないんじゃないのか。それを言うことが、科学者の役目なのではないのか。
つまり、福島県にいる一人一人とは別に、なにか守りたいものがある、ということを言っているようなのである。
安冨さんは、こういった態度を「東大話法」という言葉で表現する。

そもそもハラスメントとはどういうものなのか。簡単に言うと、その人自身を見ないということです。ある人と対面した場合に、その人そのものの姿ではなくて、勝手な「像」を押しつけるということが、私はハラスメントの本質だと思っています。たとえば、私がどこかで講演しているとします。そこで会場の聴衆が、安冨という人間が喋っていると思って話を聴いていればハラスメントにはなりませんが、東大教授が喋っているとか、経済学者が喋っていると思って聴いているとすればハラスメントです。あるいは、学生に対して教員が、「お前は経済学部の学生だ」と言って、一人の人間がもっている感情とか身体とか、そういうものではなくて、予め勝手に想定した像に向かって話しかけ、行為をすれば、ハラスメントになる。

今を生きる親鸞

今を生きる親鸞

東京大学の出身者というのは、ある像のなかに自分を当てはめることが非常にうまいのです。像として自分はどう振る舞うべきか、ということに関しては、すごく頭がいいので、その像に完璧に自分を合わせるということができてしまう。
そうしたコミュニケーションのあり方が蔓延するのは、明治近代以降、文明開化の流れの中で、ヨーロッパから先進的なものを受け入れて、それを背負って全国民を指導していくという、そうした使命をもった大学であったことに理由があると考えています。その場合には、自分自身の中にある文化の内実や内的な動機は関係ない。海外にあるもの、ヨーロッパで流行っているものを一刻も早く日本にもってきてそれを人々に伝えるというときには、自分自身がどうであるかということはほとんど問われず、像のほうが問題になる。東京大学の文化というのは、明治期以来、そういう中で鍛え抜かれてきた文化なんじゃないだろうかと感じています。
今を生きる親鸞

ある人がなにかを話しているとき、その人は「誰」に向かって話しているのか、を考えることは非常に重要と考える。というか、どんなに平易な言葉で語ろうとも、そもそも、誰に向かっても話していない、抽象的な議論は、上記の意味で、そこに「ハラスメント」的暴力を感じさせる。
東京大学が、なぜ作られたのか。その歴史的役割を考えたとき、安冨さんのような疑問は、かなり常識的な反応ではないかと思う。京大がかなり変わった人々の場所であるのに対して(そもそも、学問とは、真理の探求なのであり、そんなことは、ちょっと変わった人でもないと、のめりこんでやらないという意味で)、東大は、「常識人」の場所となっている。つまり、そもそも東大の「役割」が一般の大学と違っている、ということを意味しているのだろう。
つまり、東大カルチャーとは、明治以降の、世界の先進的な知を、国民に与える「使命」、の延長にある、と。
なぜ、東大話法は、だれに向かって話しているのかもわからない、抽象的かつ空疎な発言になるのか。
それは、よく宮台さんが言うように、エリートの自覚があるからだろう。自分がこの国を「救う」という自覚のもと、

  • 武器弾薬庫に残された一人の兵士

を犠牲にしてでも、

  • 「日本という」軍艦

を救うことに、自分の「役割」を見出しているということなのではないだろうか。
しかし、そういった「発展途上国型エリート」は、いつまで必要なのだろうか。
今回の原発事故で、次々とテレビの画面に現れては、KY発言を繰り返し続けた、原発ムラの東大教授たちの姿は、まさに、

  • 東大の終焉

への予感を私たちに残す。

皆さんもぜひ想像してもらたいのですが、京都にはすぐ北側の若狭湾に多くの原発があります。その中には高速増殖炉もんじゅ」という、とても危険なものもある。それで、もしそのうちの一基でも壊れて大量の放射能をまき散らすようになれば、当然、京都にもプルトニウムとかややこしい放射能が降り注ぐことになります。そうなればもう、本願寺も大谷祖廟・本廟も、千年の都も何もないですよね。放射能が琵琶湖に降り注いだら、京都のみならず、大阪も神戸も飲み水がなくなるんです。大きな地震が一発来たら、実際そういうことが起こるということが、今回の東日本大震災で証明されました。若狭湾原発で、もし福島のような事故が一基でも起これば、京都などは一瞬で壊滅してしまいます。そうなれば、みんな京都を棄ててどこかに移住するしかない。
今を生きる親鸞

大阪の橋本さんが、すみやかに関電は、原発を廃止しろ、と言っているのはこういうことであって、これは非常に具体的なことを言っていると受け取らなければならない。今生天皇が、病気を押して、311追悼のお言葉を述べられたとき、わざわざ、原発に言及していることの意味を、考えなければならない。
作家の桜庭一樹は、雑誌のインタビューで、自らの創作のアイデアについて、以下のように説明している。

桜庭 私は関係性萌えなんですよ。それもふたり。三人になると、私は途端にわからなくなります。必ずふたり組で考えて、この子とこの子が並ぶといいかどうかと考えるんです。
赤朽葉家の伝説』は、第一部では、山出しの真っ黒な女の子・万葉と、黒と金の着物で過剰におしゃれしているぶちゃいくのみどりというふたりの関係が軸になって、第二部は、美貌で伝説のレディースになった毛毬と、不良だったのに高校に入ったらガリ勉になる蝶子というふたり組が活躍します。
桜庭一樹「少女は探偵に向いているのか?」)

ミステリマガジン 2012年 04月号 [雑誌]

ミステリマガジン 2012年 04月号 [雑誌]

桜庭 よしながふみさんと対談したときに「桜庭さんの作品はよおいですよ」って言われたことがあるんですよ。栗本薫さんが文芸誌で『砂糖菓子〜』について書いてくださったときも「これは私の知ってる『ジュネ』である」とあったのを覚えています。
桜庭一樹「少女は探偵に向いているのか?」)
ミステリマガジン 2012年 04月号 [雑誌]

個人主義とは、ダイアローグ主義のことを意味する。なぜなら、個人とは、

  • 相手を個人として扱う

という意味だから。自分など存在しない。あるのは、ある人へ語りかけることによって、なにかを及ぼそうとしている関係だけである。そういう意味で、言葉の意味とは、相手に向けて語りかける「それ」でしかない。たとえそこに、なにかしらの、一般性をほのめかすものがあるように見えたとしても、そんなものは本質ではない。言葉は、ひとえに、その語りかける相手への「影響」においてのみ、意味があるのであって、その働きかける方向が、満足いくものであるなら、どんなにめちゃくちゃでも、それでいいわけである(私が言う不可知論というのも、結局は、そういうことだと言っていい)。
論語キーワードの「仁」は、「二人の人」と書くわけで、つまりは、並んで立つ二人が「そうある」ことによって象徴するなにかを示唆していると考えられる。人が二人、並んで立っているということは、なにかがそこに生まれていることを示唆するのであって、ある基本的な人間関係を含意していると捉えられる。
上記で佐々木さんが示唆した、官僚から政治家から、会社内から、なにから、あらゆるところにはびこる、一種の日本社会の「官僚病」は、同質性とそのことによる過度な競争的状況となるわけだが、結局はそれは、こういった島国特有の閉鎖性を意味し、そう簡単に打ち破られることはない。しかし、そうは言っても、そう振る舞っている一人一人も人間なのであって、そうであるなら、そういった一人一人には、そういった
ダイアローグ関係
が成立しうるのであって、そういったものの延長に、
たとえ、ささやかであっても
このカフカ的閉鎖性を内部から、瓦解させるような可能性を考えてみたい、ということだろうか...。