「助ける」社会

もし、「幼児」社会が実現され、だれもが、産まれてから死ぬまで、
義務教育
で、学校に通い続ける、
卒業のない社会
が実現したとき、一体そこでは、なにが始まるであろうか。まず、学ぶことが、「終わらない」のだから、人それぞれで、それぞれの関心が「そこで」生まれた分野を次々と勉強していくことになるだろう。それは、一見、繋がりがないように思われても、学問とは結局のところは、みんなどこか関係しているわけで、そこに一貫したテーマを考えることもあるのかもしれない。
もう一つは、それぞれの人がさまざまな専門能力を習得していく、ということになるだろう。専門能力は、その能力がすぐに、社会のさまざまな場所で、
必要
とされる能力と直結する。つまり、そういった能力をもつことが、社会のさまざまな場面で、
困っている人を助ける
行為へと直結するようになる。つまり、多くの人がそれぞれに「専門家」となることが、社会の多くの需要への応答を可能とするポテンシャルを社会に潜在させることになる。
つまり、それぞれの人がさまざまな専門を自らのものとしていることが社会の潜在能力を高めることになる。これは、
だれかを「助けたい」
という、人ならだれもがもっている感情に答える社会だと言えるだろう。助けたい。だったら、お前に人を助けられる「能力」を与えるのだ。
この社会では、さまざまな専門能力。工学技術者だけでなく、弁護士、医者などといった、非常に高度な専門能力を含んで、学ぶ。しかし、その学習と資格は、
段階
によって、決定していると考える。まだ、学び始めの学習者のその
レベル
に応じた資格を与えることによって、彼らの「助けたい」を部分的に実現する役割を「許す」わけである。これによって、助けるという行為の、
囲い込み
を防止する。極端に、ある専門を突きつめすぎた人たちの専門集団によるカルテルを社会が、こういった方法で防止するわけである。
私がなぜ、こういった専門性を、より「多様」に人々が自らのものとする社会が、ベターと考えるかは、言うまでもなく、311がある。
津波で多くの人が亡くなったわけだが、その死は、たんなる死ではない。みんながみんなを「助けたい」と思い行動した死であった。
津波てんでんこ」については、有名になった。津波が来たら、まず、まっさきに、自分が逃げる。そのことによって、実は、死者は少なくなる。おそらく、これは真実なのである。
しかし、こういった行為は、私たちの日常の実感と、離れている。つまり、「津波てんでんこ」は、どうしても早く逃げることができない、老人が最後まで残ることになる。
津波で亡くなった多くの人の行動には、なんとか、家族と一緒に行動しようとして、逃げ遅れたのではないか、と思わせる印象がある。しかし、それを簡単に否定できるであろうか。やはり、こういう状況だからこそ、家族はみんな一緒に行動したいと思うのではないか。
同じことを私は、戦中の日本軍にも考えるのである。
なぜ、赤紙で徴兵された、農民たちは、あそこまでの飢えて死ぬ状況になってまで、戦ったのか。私の仮説では、おそらく、そういった兵士たちは、日本の農村社会で生まれてから身につけてきた慣習によって、同じ部隊の仲間を「助ける」ことを
快楽
としていたからではないか。農民とは、ようするに、助け合っている人たちである。少なくとも収穫のときは、各村から人手をだしあって、各家の作業を手伝う。つまり、そういった「助ける」作業を「喜び」とする慣習を持った人々だった、ということを意味する。
現在、上映されているアニメ映画「ストライク・ウィッチーズ」の、前半で、日本からイギリスへ、アフリカの南方を軍艦で、回って向う航海の途中、武器弾薬庫近くから、火災が発生し、中にとりのこされた一人の兵士が、なんとか消火を行おうとするが、消火栓が開かない。このままでは、船が沈むと考えたその兵士は、艦長に、自分を見捨てて、弾薬庫の隔離を請願する。艦長はやむをえないと考え、いったんは了承するが、主人公の宮藤芳佳(みやふじよしか)は、その艦長命令を無視して、その中に一人で突入し、二人で消火栓を開くことで、その兵士を救うこととなる。
言うまでもなく、たった一人の兵士と、この船の沈没では、後者は船の乗員全員の死となるわけで、後者の方が前者より優先されるべきと考えるものである。しかし、宮藤芳佳(みやふじよしか)が、実際になにを考えたのかはともかくとして、彼女は、その一人の死という犠牲を許せなかったわけで、自らの死の可能性と一緒に、救済行為の方を選ぶわけである。
こういった態度は、「津波てんでんこ」にまったく反する行為だと言える。自分の死の可能性を引き換えに、無謀にも、一人を救おうとするわけで、逆に言えば、こういった軍事行為は「合理的」ではないとも言えるだろう。
しかし、私はおそらく、こういった行為は、実際の戦場においても、日本の徴兵農民たちは、何度も行ったのではないかと考えている。彼らは、戦友を助けることに
快楽
する人たちであって、たとえそのことが不合理であろうが、そういった選択をすることを慣習としてきて、実際にそう行動したのではないか(また、日本の軍事官僚は、実際にそういった、徴兵農民の慣習的な性質を「利用」して、無謀な行動を強いた面もあったのではないかと推測している)。
もちろん、アニメの中の宮藤芳佳(みやふじよしか)は、ヒロインであり、その英雄的行為は「成功」する。しかし、戦場においても、今回の311の津波において、多くのこういった自己犠牲は、成功することなく、その英雄的行為は、今。だれも知ることなく、だれも記録することなく、過ぎ去ろうとしている。
人を助けることは愚かだろうか。こういった「善悪」は、非合理で非哲学的か。しかし、それがどうした。自分が助けたいと思ったら、人は助けるのであって、そんなことに善悪なんて関係ない。やりたいからやる。それを「自殺」だと言うなら、勝手に言えばいい。
しかし、もしこのことに、一つだけ補助線を引けるとするなら、もし助けようとする側に、「技術」があれば、より「高度な戦術」が選択できる可能性があるということであろう。もし医者なら、もしそこに薬があるなら、もしそこに手術道具があるなら、もしその場から早く立ち去る手段があるなら、もし...。