一人一人に「とっての」証明とは何か?

(今回は、ちょっと、いつも以上にとりとめなくなってしまったが、その雰囲気はだせたんじゃないか...。)
よく、福島第一の事故による放射能による、死者はいないのに対して、その避難によって死んだ人は大勢いる、ということが言われる。つまり、20キロ圏内の避難が、あまりにも、急だったことを問題にしているようである。
つまり、福島第一という、あの発電所の壊れっぷりについて、これが尋常でないことについては、概ね合意があるのだが、それに基いた、国の政策に対して、さまざまな人が意見を言っている、ということになるだろう。
言われてみれば、病院や老人ホームに入所している、お年寄が、あんなにあせって、避難することはない、というのは、津波との比較で、まったく、おっしゃる通りであろう。むしろ、今でも、そこに住みたいというなら、それでもいいのではないのか、とは思わなくもない。
しかし、それが、政治なわけだろう。政治が決定して、政策としたから、我々は従うわけで、それ以上でもそれ以下でもない。
つまり、それが問題だと言うことが、政治が問題だったと言うことと同値であることへの、自覚があまりない、ということになるのだろう。
つまり、一貫していることは、福島第一の問題であれ、今の日本の脱原発についての問題であれ、これらはみんな
政治の決定
だということである。今だに、何ミリシーベルトなら、住んでもいいとか、住んじゃだめとか、いろいろ論争があるが、一言で言えば、そんなことは余計なお世話なわけである。
先ほどの、病院や老人ホームの話にしても、むしろ、問題とされていたのは、その村に、ほとんどの人がいなくなったときに、その村の
公共機能
を維持できるのか、また、維持することに意味があるのか、という、一貫して、政治機構側の都合が、ここには働いているのであって、そういったことと、一人一人の選択は、同値ではない、ということである。
ここで一旦、みなさんの頭をリセットしてみましょう。今までの、原発論議を一切、忘れて、これを「自分の判断だけで、自分がどうするかを考える」としてみましょう。
まず、自分が福島県に住んでいた、としましょう。事故が起きました。まず考えるのは、自分がそこから避難するか、つまり、引っ越すかどうか、です。
もし、自分がそこから引っ越すことを躊躇うとしたなら、どんな理由によるか、を考えてみましょう。

  • 長年住んでいて、愛着があるから。
  • 友達がいるから。
  • 土地などの資産があるから。
  • 仕事があるから。
  • 自分の知らない土地で暮らすのが不安だから。

まあ、こんなところでしょうか。しかし、つまりは、こういったことが、ある程度緩和されていれば、または、それ以上に事態が深刻だと考えるなら、引っ越すことも一つの選択だと考えている、ということであろう(実際に、人々は進学や、就職で、引っ越すことは、人生にある人もいるわけで...)。
では、逆に考えてみましょう。原発事故の深刻度が、「どれくらい」なら、こういった引っ越しを考えることを検討するのか、と。
そんなこと、自分は原発の専門家でもないんで、わかりませんよね。つまり、なにを言いたいか。これは、

  • その人に「とっての」確率過程

が、そこにはある、ということです。この「基準」は、あくまで、その人にとってのものにすぎません。ここは大事なポイントです。先ほどの仮定を思い出してください。私は今、自分が福島県に住んでいたとしたなら、という仮定を置いて考えました。しかし、自分は原発の専門家ではないのです。しかし、これは自分の生活ですから、自分が判断します。そのときに、自分の情報の何を重要視するかは、自分で決めるしかありません。
その中には、疑似科学の情報も、その疑似科学否定の情報も、そうでないのも、たんなる、地元の噂も、なにもかもが、ごった煮になっています。しかし、そういったものを、ひっくるめた中で判断をしなければなりません。
つまり、私が言いたかったことは、あくまで、その人にとっての問題と考えるなら、その情報の真偽が問題なのではなく、それらを全部ひっくるめて、自分がどう行動するか、どう選択するか、が問題なんだ、と言いたいということです。
たとえば、ある人が、疑似科学を信じて、沖縄に逃げたとしましょう。そして、何年か後になって、後悔をしたとします。あんな疑似科学を信じなければよかった、と。もちろん、その疑似科学提唱者を裁判で訴えてもいいでしょう。また、放射能による差別が、どうしても許せないなら、その相手を裁判所に訴えることもいいでしょう。
しかし、一つだけ間違いないことは、その時、あなたは、そういった選択をした、ということでしょう。また、後悔をしようがなんだろうが、その選択の結果の生活は別にあって、それはそれで、評価がある、ということです。
ここで、議論は二つに分けなければなりません。

  • 各個人が自分の問題として、どうしたか。
  • 国家がどうしたか。

問題は、その二つが重なり合うグレーゾーンです。ある村があったとして、この事故で、人々が各地へ避難したため、非常に少ない人しか、住まなくなったとします。そうした場合、今まであった、この村の設備は、
過剰な投資
ということになります。こんな立派な施設は、今いる人数には、合わないということになります。すると、国家はどう考えるでしょう。つまり、こんな不釣合いがそこらじゅうで起きられたら、国家政策が成立しない、ということになりますよね。
あちこちで、人口過剰、人口不足が、ランダムに繰り返すなら、なかなか大変になりますね。しかし、このことを逆に言えば、最初から、こうやって人口の増減がどこでも激しいということが分かっているなら、国家は、それに合わせた国家政策を実現するかもしれません。しかし、あまりに激しいようなら、そのための
コスト
によって、過剰な設備投資を国家が強いられる、ということになるかもしれません。
もう一つの方向は、この福島第一の状況は、あくまで、

  • 例外状況

だと考えるやり方です。そう考えるなら、ある村の人口が半減しようが、「今回だけの、異常だ」と考えて、対処する、ということになります。
その場合、大事なことは、基本的に地方自治体システムは、「効率化」を目標としたシステムになることによって、中央からの上納が少なくなるようになっているのだから、中央は、こういった
例外地域
が発生したなら、その地域独自の「特別な」福祉を行う必要がある、ということになるでしょう。
私たちは、国民の自由と、国家との関係をどのように考えればいいのでしょうか。個人は、もちろん、海外に移住することもできる。べつに国の奴隷ではない。
しかし、ここで国家の「効率」とはなにか、と考えてみましょう。どうすれば、国家は、なるべく、お金を使わないで、国家を運営できるか。

  • どの地域にどれだけの人が住んでいることが「長期的に」分かれば、それに見当った、税金の「投資」ができる。

こう考えると、江戸時代や今の中国の田舎から都会への出稼ぎを法で禁止するような、人の移動を制限したくなるかもしれません。今の日本でも、若者があまり、東京に出てこなくなり、地元で仕事を探したがるようになれば、それに合わせた、

  • 都会都市
  • 田舎都市

のバランスが生まれそうにも思います。また、中期的には、人口減少高齢化の分布の変化も影響するでしょう。
私がなぜ、こんなことを言っているのかといえば、つまりは、水俣病との比較ですね。

「ここで問題を整理しよう。つまり対策を念頭に置けば、水俣病の「原因」はメチル水銀と考えるべきではなく、『水俣湾産の魚介類の摂食』であると考えなければならないのだ。不思議なことに、このことが水俣病問題においてはほとんど論じられてこなかった」(ibid.,p.50f) 

「他の事例を考えても、病因物質が判明しないうちから人々はさまざまな対策を打っていることがわかる。*2003年春のSARS*の流行の際にも、病因物質がコロナウィルスであると判明する以前に、さまざまな対策(経済活動に大きな打撃も与えた対策)がとられていた」(ibid., p.53)

screenshot

先ほども言いました。ここで、私たちは、福島県に住んで、避難をするかどうかを考えている一人の人間になって考えている、と仮定してください。
水俣病で、近くの海でとれた魚を食べた住民の何人かや、近所ののら猫が、ああいった慢性的なしびれの症状を示していました。国は、今だに、その「原因物質は分かっていない」と言っています。
ここで、です。
もし、「あなた」がそこに住んでいた住民だったとしてみようじゃないですか。
なにをしますか。
近所の魚を食べない、んじゃないですか?
自分が、そうだったら、と考えましょう。
または、そこから引っ越そうと考えるんじゃないでしょうか。
私がこだわっているのは、ここで言う「科学」なるものの、正体なのです。水俣病の正体はメチル水銀。これって、なんなんでしょうか。これが科学とか言われて、はて、なんのことでしょうか。こういうのを、
科学オタク
って言うんじゃないんですか? こんなの全部嘘だ。水俣病の正体は、「近所の魚」でしょう。そうだから、それを食べる可能性がある状態で、い続けていいのかが、住民に問われたのでしょう?
まず、世の中に科学なる「宗教教義」があって、それを知ることなしには、悟りを開けず、極楽に行けない(死んだら、地獄に行く)っていうような、科学のドグマ化をやめてみましょう。
あくまで、自分が知りえた情報の範囲で、確率過程的に「理性的」に判断し振る舞うとは、どういうことなのかと考えるのです。その範囲で、自分の行動を決めるのです。
そもそも、今までだって、これからだって、だれもがそのように振る舞ってきたわけでしょう。だから、国が「水俣病の正体はメチル水銀」とかいう「呪文」を認める以前から、住民はそこで取れた魚を食べないなどの、
自衛
をしたのでしょう。
ここで、少し論点を変えてみましょう。
私たちはよく「議論をしよう」と言う。しかし、往々にして、その内容は、一人一人の

  • 思っていることの「言いあい」

で終わる。そうすると、人によっては、「こんなことには意味がない。だって、議論による発展がないじゃないか」となる。
つまり、そういう人は一種の「進歩主義」。つまり、ヘーゲル的な、基本的にあらゆることは、前に進んで、良くなっていく、という前提を置きそうならなければ、そういった行動は無駄だ、という

を表明している、ということになるだろう。
しかし、往々にして、そうやって一見、議論が発展しているように見えるものも、結局それって、司会者なり、その議論を主導的にひっぱっている人が、最初に
イメージ
していた方向に「誘導」しているだけなんじゃないのか、とも言いたくなるわけである。
そこで、この過程を、まったく違ったことが目指されている、と仮定してみよう。
つまり、さまざまな「情報」を集めることを目的にして、行われている、と考えるのである。あるテーマがあり、それに紐づくことを人々に、発言してもらい、そのリンクを増やしていことが、実は、

  • 目的

「だった」のだ、と再解釈するわけである。
ここでの問題は、かなり本質的な話だと思っている。
ある議論が行われているとする。しかし、そこに、その分野の「専門家」がいなかった、とする。そうした場合、ここで決まった結論は、不毛だろうか。専門家による、真実の情報が不足しているから、後で、専門家にダメ出しされて、ここでの話は、
トンデモ科学
だとされたとしよう。じゃあ、あらゆる議論には、その分野の専門家が必須だということになる。ところが、専門家とは、誰のことだろう? そんな人は、一体、世界中のどこにいるのだろう? 自分で自分がこの専門家だと自称しているだけなのではないか。だれがだれを専門家かどうかをどうやって判断するのか。判断できるのか。
近代科学は、近代数学と同じく、ある「仮説」の体系だと考えられる。数学においてそれは、「公理」と呼ばれるわけだが。そして、そこから導かれる結論を、「間違いない」ものとして、さまざまな分野に応用する。しかし、ここに一抹の不安がよぎる。
この公理。大丈夫かな。
もちろん、さまざまな応用分野で、その欠陥が指摘されたことはない。じゃあ、これからも大丈夫なのだろう。ところが、この前も、ハゼンベルクの不確定原理の「修正」版が「実証」されるとかいうことが起きたりする。そうすると、
正しい
と自分が言ってたあれって、なんのことだったのかな、という「欝」な感じがしてくる...。
エリートは、選挙が嫌いである。それは、なにも知らない素人集団が、
真実
を決められるわけがないから、である。そうであるなら、素人が決めないようにすることが、「民主主義」だということになる。
つまり、パターナリズム(温情主義)である。
あなたのためだから。
つまり、あなたのために、エリートが決める「べき」、という安っぽい、コンサルみたいな結論になる。
しかし、小さくても、叩き上げでがんばってきた、中小企業の社長に、そんなことを言うことに、なんの意味があるでしょう。
「べき」論って、それで商品のつもりなんですかね?

イギリス側の委員会がガンジーを呼びつけて、
「真実が何であるかを決めるものは何か」
と問うたとき、ガンジーは、
「それは各個人に課せられたことだ」
と答えている。
この問答は、ガンジーによる誤魔化しと受け取られることが多いが、それは大きな間違いである。何を真理と感じるかは各人の魂の作動に課せられており、それに従って発言し、行動し、その結果を何であれ自ら引き受ける決意がこの言葉に込められている。これほど気高い言葉はない。
具体的なサッティヤーグラハの行使のあり方については、ガンジーの『真の独立への道(ヒンド・スワラージ)』(岩波文庫)の第十七章「サッティヤーグラハ----魂の力」に見られる以下の言葉がある。なお、以下の引用に出てくる「サッティヤーグラヒー」とは、サッティヤーグラハを行使する人、という意味である。

例として、私に適用されるある法律を政府が通過させたとする。私には気に入らない。そこで私が政府を攻撃して廃止させたとすると、腕力を行使したことになる。もしその法律を受け入れず、そのために下される罰を受けるとすると、私は魂の力またはサッティヤーグラハを行使することになる。サッティヤーグラハで私は自己犠牲をする。

私たちが法律尊守の国民であることの本当の意味は、私たちはサッティヤーグラヒーの国民であることです。法律が気に入らないからといって、私たちは法律制定者の頭を叩き割るようなことはしません。しかし、その法律を撤回させるために私たちは断食をします。

法律が気に入らないにもかかわらず、それに従うような教育は、男らしさに反しますし、宗教に反しすし、隷属の極みです。

人間性を失わず、神のみを恐れる人は、ほかの誰をも恐れません。ほかの人々が制定した法律はその人を拘束するものではありません。かわいそうな政府だって、「あなたはこのようにしなければならない」とはいわないものです。政府はいいます。「もしこのようにしなければ罰を受ける」。私たちはひどい状態に落ちてしまっているので、「このようにすること」を義務であり、宗教と思い込んでいるのです。

不正に思える法律を尊守するのは男らしくない、と人々がもし一度学べば、どのような暴政も私たちを拘束できません。これが自治の鍵です。(中略)不正な法律を尊守しなければならないとの迷信が除かれないかぎり、私たちの隷属状態は続くでしょう。このような迷信はサッティヤーグラヒーだけが除去できるのです。

気に入らない法律を尊守するような人間は拘束されていないと信じている人は、サッティヤーグラハこそ正しい手段と認めなけれなりません。そうでないとたいへん恐しい結果になります。

このよく知られた書物のよく知られた箇所を引用するだけで、ガンジーが、おそろしく過激な思想家であることがおわかりいただけたと思う。
気に入らない法律があったとしても、それを何らかの手段で改正しようと努力することは、腕力を行使することになってしまうので、間違いである。そうではなくて気に入らない法律を破って罰を受けるのが正しい、という。
しかも、その法律が正しいか正しくないかを理性で判断するのではない。その法律が気に入るか気に入らないか、が全てである。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

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言うまでもなく、私たち一人一人は、自分という会社の、社長です。自分という会社のことは、社長である自分が最後は決めます。
エリート・コンサルの「べき」論。いいでしょう。最初は聞いてみましょう。でも、結果がでず、会社が傾きだしたなら、社長は、ためらうことなく、そいつを切り、自分の「判断」を信じて、
今までそれで成功してきたように
今までの自分のやり方、自分の感覚で、自ら、たてなおしを目指すわけです。
どうして、こういうことになるのでしょう。それは、結局は、一人一人の「世界」が違うからです。一人一人は、自分の世界を生きてきました。それらと、他者の世界は、似ていますが、厳密には違います。それは、お互いが経験してきたことが違うからです。
そうであるなら、その二つの完全な「同一化」はできない、ことを意味します。これが私が、一人一人に「とっての」証明がありうる、という意味になります。
しかし、似てはいるのです。それが、ウィトゲンシュタインの家族的類似性でした。この似ている、というところを「同一」と読み替えられると考え、
未来(=SF)
を構想するのが、エリートたちのパターナリズムなのでしょうが、私にはそういう「ゲーム」に興味はありません。

これは、たとえば水泳のフォームがなんらかの原理にもとづいてあるのではなく、速い水泳選手を範例として変わっていくというのと同じことである。

探究2 (講談社学術文庫)

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(ちょっと、ファイアアーベントに似てきたが)たとえば、水泳の競技の「計測」が、日本海のような、一定の「波」が存在する場所で常に行われなければならない、というルールだったらどうでしょう。いつも、湿度の高い地域での計測だったらどうでしょう。溺れている人を、助けて、浜辺まで、連れて行く速度を「計測」するようなものだったらどうでしょう。
こういった「ルール」の違いは、一見すると、本質的ではないように思えるかもしれません。しかし、例えば、メジャーリーグの球場はそれぞれ、独特の形をしていますし、日本のプロ野球では、最近まで、球場ごとにボールが違いました。
同じようなことは、技術者なら、だれでも経験しています。その案件ごとに、特徴があり、その現場に合わせた、「最適解」を模索する。
この、方程式の変数の可動域の範囲を極小化した場合が、各個人ということであって、そもそも、私たちの人生は短かいのです。
どう泳ぐか。
そんなことは、やってみて速く泳げたように泳ぐに決まっている。
どう泳げば理論的に「正しい」か?
専門家が決めてくれたように泳ぐ?
そういう「真理ゲーム」は、百年でも千年でも百万年でも、「死なない」SFの世界の人間が考えればいいのであって、私たち「有限な」人間には、そんな欝になるだけの話は、どうでもいいわけである...。