エディプスコンプレックスは科学か?

安冨歩という東大の先生がいまして、最近、東大話法で有名になっておられますが、この方の、一般向けの本をつらつらと読んで、そのどれもが、独特で興味深いのですが、その中でも「ハラスメントは連鎖する」という新書は、自分はあまり、こういう本を読んだことがないな、という印象を受けた。
もちろん、書いてある内容が、自分の生き方を変えるくらいに、カルチャーショックを受けた、とか、そういうことまで言いたいわけではないんですけど、なんというか、あんまり、こういった本を読んだことがなかった、という印象だった。
それで、なぜ「自分は」この本がなんか、変わった印象を受けたのかな、みたいなことを、一般の心理学と比較することで考えてみようか、というのが、今回のテーマです。
この本は、例えば、大学教授が生徒や研究者の卵に、さまざまに「ハラスメント」を行うことの現象の解明から、その考察の出発点があったということのように、一貫して、大人の
暴力
の、精神的な解明に主眼が置かれている。
この視点のおもしろいところは、つまり、こういったハラスメントを行う大人は、普通は、精神分析の患者ではない、ということではないだろうか。
このことは、なかなか、興味深い視点である。つまり、
患者
とは、なんなのか、ということである。ハラスメントは暴力であるわけですけど、一般に、そのような暴力行為をふるう人は、どこか、
病気
に近いなにかを感じさせないだろうか。それは、親が自分の子供に、暴力をふるう、ドメスティック・バイオレンスにしても、その「粘着質」で、長期的に行われる、陰湿な「反復」には、たんなる「反射」とは違う、
長期的な関係
を示唆されているように思うわけである。

これらの精神の分解を踏まえたフロイト精神分析療法の目的は、自我を強め、自我の超自我からの独立を獲得し、イドを自我に変化させていくことである。
フロイトによると、意識と無意識の区別は、自我とイドの区別と一致しない別の分類の仕方である。意識は自我の一部に過ぎず、自我の無意識領域、超自我、イドのそれぞれから気づかない内に規定されている。
アリス・ミラーによれば、以上の主張は変節後のフロイトのものにすぎない。
フロイトは当初、臨床例を観察した経験に即し、今で言う統合失調症の原因が幼少期の性的虐待によるものだと考えていた。
ところが一八九七年に「大人が子供を虐待するはずがない」という社会的圧力に屈し、患者の虐待の証言は大人に対する性的欲求の表れだとするエディプスコンプレックス理論を提唱した。精神疾患は患者が過去に受けた虐待の結果であるという考えを捨て、患者自身に問題があるという主張に切り替えたということである。
我々はすでに、子供を虐待する大人が決して珍しくないことを知っているので、変節前のフロイトに基づいて、イド、自我、超自我について見なおさなければならない。
そのためには大人の正しさと子供の邪悪さを疑い、大人の邪悪さと子供の自然さに目を向けるだけでよい。
そうすると、超自我に対する価値判断は裏返しになる。超自我が内面化された外的規範であり、自己に対する評価基準であるという考えは自然である。しかし、それは不変的な価値を騙って人間性を圧迫するものに他ならず、そこに存在するのは良心ではなく悪意だ。悪意は悪意を生み、世代を超えて伝播する。
また、子供の邪悪さとはエディプスコンプレックス理論のために捏造されたものであり、イドが無制限な欲望を持っていると考えるのもおかしい。生存のための欲求は、あくまでも生存のためのものであり、不必要な欲望持つことは却って生存を脅かす。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

(ようするに、安冨さんは、アリス・ミラーで考えていると、言えるだろうか。)
安冨さんのこの本は、基本的に、上記のフロイト

のフレームと、ほぼ同じようなもので考えている。違うとすれば、

  • ウィーナーのサイバネティックスによる「再帰(フィードバック)」で全てを説明する。
  • エディプスコンプレックスを否定する。

ところが、例えば、以下の本でもそうですが、エディプスコンプレックスは心理学の基本中の基本だったんじゃないのか、と。これなしで、精神分析って成立するの? って思うわけです。

ほかにも新旧とりまぜて、実にさまざまなコンプレックスがあるんだけれど、本当に重要なものはたった一つ、この「エディプス・コンプレックス」だけなんだ。少なくとも、ラカンはそう考えたわけだね。

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

この、斎藤環さんの本を読んだ特徴を、上記の安冨さんの本と、あえて「比較」するなら、

  • 浅田彰村上春樹のような「クール・ジャパン」的な、あまり感情を表にあらわさないしゃべり口。
  • 親による子供への「バイオレンス」の話が「ほとんど」書かれていないように思える(こういったことを書けば、もっと、記述は深刻になりますよね)。
  • その代わりに、さまざまな種類のフェティシズムを、チャート式な感じで、紹介する。

これと上記の、エディプス・コンプレックスの評価でして、前半のシニフィアン象徴界の話とかは、なかなか興味深くていいのだが、そこから後は、なんというか、奇人変人大集合みたいな感じで、
変な人紹介
みたいになっていて、なんにせよ、私に分からないのは、どうして斎藤環さんの本の方は、こんなに「陽気」なのかな? ということなのだが。

「イヤ! 変態!」と思った? でも、そういう人が世界中にたくさんいるのは事実なんだから、しかたないよ。現実を直視しよう。
生き延びるためのラカン (ちくま文庫)

そうなのだろうか? というか、ここで言っているいろんなフェチの人が「世界中にたくさんいる」の
いる
というのは、どういう意味なのだろうか。いや、もっと言わせてもらえば、

  • 欲望って、あるのかな?

前半でラカンの「欲望は他者の欲望である」という言葉が紹介されるが、ようするに、欲望なんてない、ということを言っているわけですが、ただし、
他者
との、ある関係に関係していることを示唆しているわけでしょう。
上記の安冨さんの本の引用にもあるように、エディプス・コンプレックスには、どこか、患者本人にその「原因」を求めるような、患者を責めるような、印象がありますよね。つまり、あなたの今の症状は、あなた自身の「要因」に、起因しているのであって、というような。
ところが、安冨さんの方になると、エディプス・コンプレックスを捨てた代わりに、

  • 子供の「自然」性
  • 大人から子供に与えられる「ハラスメント」性

の二つが用意される。つまり、親と子の関係の本質はその「ハラスメント」性にあるんじゃないのか、ということになる。
これは、それが、いい悪いの話をしているんじゃなくて、本質的に、育児というのは、そういった要素をもっている、ということの確認だということです。
親による子の育児は、一貫して、その「調教」にあります。つまり、これは「暴力」だということです。それは、どんなに、いわゆる、拳で殴るといったような行為が振るわれることがないとしても、本質的にそうだ、と考えるということです。
親が子供に、親の考える行動をとらせる方法は、まさに、

と同じように、それが「反射」になるまで、反復させる。そうすることによって、大人による子供の「コントロール」が成立している、ということになる。
しかし、こういった大人による子供のコントロールは、「全て」子供の中に、記録されます。これが、子供の心の傷です。
このように考えたとき、先ほど考えた、「欲望」がなんなのか、は自明でしょう。
欲望とは、こういった大人が子供を、調教し、何度も何度も、子供の体にたたきこんだ、
反射
のことだと言えるのではないでしょうか。子供は、どんなに大きくなっても、子供の頃に、体に染み込まさせた、
反射
を、忘れることはありません。ことあるごとに、これらは、自分の意志とは無関係に、表面へと、はいあがってきます。
こうやって考えるなら、そういった、フェティシズムのさまざまな差異を、デカルト的に分類し、整理することに、ほとんど意味を感じられない、という感覚も分かるでしょう。だって、これらは全部、その強弱はあれ、なんらかの
ハラスメント
の反映だと考えるわけですから(区別する意味がない)。
ここは、けっこう大事なポイントを説明しています。
斎藤「精神分析」論では、さまざまなフェティシズムが存在するということが、本質となります。この多様性こそが、エディプス・コンプレックスの存在証明を補強するわけで、日々の実践において、なんとしても、このフェティシズムの存在の「自明性」が証明されなければなりません。そしてなりよりも、
人間には「欲望」がなければならない
ということになります。全ての始まりは「欲望」です。これがあることによって、エディプス・コンプレックスの正しさが論証され、精神分析の有効性が担保される、となります。
ところが、安冨「ハラスメント」論では、そもそもの最初から、エディプス・コンプレックスは間違っていることが前提となります。よって、エディプス・コンプレックスを守るための、護教的な議論は不要になります。よって、フェティシズムのさまざまな形態が、たとえ、世の中にあっても、そのこと自体は、なんら本質的ではなくなります。これらは、あくまでも、サイバネティックス的な、
コンテキスト
の産物として位置付けられるだけで、言わば、個々の一人一人でみるなら「普通にありうること」といった感じでしょうか。欲望も同様で、これ独自に、なにか、特権的な地位を与える必要はありません。その人独自の、さまざまな「コンテキスト」の中で、その瞬間瞬間にふるまわれる、
反射
の一つに位置するだけで、なにも特別な現象ではなくなります。
安冨「ハラスメント」論の、一つの、いい面は、上記の引用にもあったように、

  • 大人の罪の免罪符

になんの興味もない、というところではないでしょうか。子育てとは、親の暴力です。長期的に子育てをしていれば、必ず、子供を、ぞんざいに扱ってしまう(子供を、目的ではなく、手段として扱う)ことは、避けられません。また、逆に、子供の側も、親を便利な道具として、使おうとすることもあるでしょう。
しかし、だからといって、こういったことは「あるわけない」と、子供が反抗「できない」ことをいいことに、大人の「エゴ」を押し付けることが、可能だったのが、今までの、精神分析だった、ということが言えるでしょう(つまり、精神分析は、暴力を振るう他者の「責任」を問うことなく、患者個人の
内面
に閉じる、と)。あらゆる人間関係は「ハラスメント」関係であって、少なからずは、こういった特徴から逃れられない。これを認めることから、
始める
のが、安冨「ハラスメント」論だと言えるだろう。

しかも私は、アリス・ミラーの『才能ある子のドラマ』(山下公子訳、新曜社、一九九六年)という本を読んで、そういう人が実は非常に多くん私も香港人の友人も、典型的な一症例にすぎないことを知って、ショックを受けました。ミラーの本には次のように賭かれていたのです。

幸福な、保護された子ども時代を送ったと信じ、そのイメージをもったまま心理療法の門を叩く人の数は驚くほど多いのです。そのような患者さんは、成長後の現在も可能性豊かで、才能を発揮している人も少なくありません。その天与の才と成し遂げた仕事に対して賞讃を受けている人もいます。この人たちはほとんどの場合、一歳でオムツがいらなくなり、一歳半から五才のときにはちゃんと上手に弟や妹の世話を手伝うような子どもでした。
一般に信じられているところに従えば、このような------両親の誉れとも言うべき------人たちには、強靭で安定した自信があるはずなのですが、実際には話はまるで逆なのです。その人たちの手がけることは、すべてうまく行き、素晴らしい結果に終わって、その人たちは賞讃されたりねたまりたりします。成功することが大事な場合に失敗することはありません。けれども、何をしても駄目なのです。すべての成功の裏に憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが潜んでいます------自分は偉大な存在だという麻薬が切れたり、「頂点」でなくなったり、間違いなくスーパースターとは言えなくなってりすると、あるいは突然、何らかの、自分の理想像に合わなくなってしまったと感じたりしますと、隠れていたものが即刻頭をもたげます。それが始まると、不安発作や猛烈な罪悪、ならびに恥辱感に苦しめられるようになるのです。これほど才能に恵まれた人たちが、これほど深い障害を負っているのはなぜなのでしょう。(八〜九頁)

このようなことが起きるのは、子ども時代に、ありのままの自分を受け入れられた経験がなかったことに起因する、とミラーは指摘しています。
私の考えでは、いわゆる「エリート」や「成功者」は、多くがこの種の「病気」を抱えているのです。それゆえ、健全な人には決してできないような努力や忍耐や発想を発揮して、「素晴らしい成果」を挙げるのだと思います。

生きる技法

生きる技法

子供が、過剰なまでの受験戦争を強いられることを、子供の

  • 進学欲

と考えるのが、斎藤「精神分析」論になるのでしょうか。ここにおいて、進学欲とは、フェティシズムの一種のようなもので、いずれにしろ、その子供の

  • 欲望

として、現前として「存在」していることが、出発点になります。子供が、一生懸命、勉強をして、受験を受けて、その学校に行きたい、という明確な、

  • 欲望

が、間違いなく確固として存在するのだから、こういった受験戦争は、この現実社会の宿命であり、避けられない必要悪ということになるでしょう。
ところが、安冨「ハラスメント」論においては、そもそも、その前提を共有しません。むしろ、なぜ子供が、
まるで「強迫」されているかのように
自分を追い込んでまで、勉強にのめりこんでいるのかの理由を、

  • 親の(隠微な)強制

にみるわけです。親の産まれてから今に至るまでの、さまざまな長期にわたる調教によって、子供は自ら、勉強を他人以上に行うことに「快楽」が生まれるまでになります。テストでの高得点をとるたびに、褒められ、点が低かったときは、その反対に、残念がられ、子供は親の求めるように振る舞うことを、「喜び」としていきます。その頂点が、受験でしょう。
ここで、人々の評価が分かれます。こんな小さな子供に、受験という、これだけの、プレッシャーを与えること自体が、
幼児虐待
じゃないのか。いや、現実社会の競争はもっと厳しいんだから、今のうちに、こういった経験をさせておくことには、意味がある。
比較で言うなら、現代「いじめ地獄」社会の、子供たちのサルベージには、安冨「ハラスメント」論の方が有効な面があるんじゃないか、と考えるわけです。
こちらのいい面は、子供の側に立った理論になっている、ことです。生きづらいと思っている子供が自分がどういう存在なのかに気付くのに、役に立つ面がある。
よく考えてみれば、なぜ、受験をするのか。受けなくていいではないか。学校なんて行かなくていいじゃないか。そういう気分にならないのなら、一日、家にいていいにきまっている。これほど、当たり前のこともないだろう。
もちろん、親はいろいろ言う。「あなたのためだから」。しかし、それと、自分がやるやらないは、別であろう。もしそれが正しいのなら、
自然
と、子供自身の中から、そういった感情がわきあがってくるだろうし、そうでないことをやらなければならないと考えることに矛盾がある、ということだろう。
どうして、こう考えられるか。
安冨「ハラスメント」論であれば、
欲望
を所与の前提にしなくていいからである。欲望とは、
コンテキスト
の中において、次々と過ぎていく、フィードバックの「うたかた」に、あったようななかったような、よく分かんないくらい微妙な「文脈」が、その子供に与えていた、

  • いきがかり上、やんなきゃなんないかな

程度の、「他人へのいいわけ」として用意されるものであって、私たちが毎日やっていることは、こういった反射レベルのことでしょう。
このように考えてくるなら、子供の成績を向上させる、比較的無難な方法は、子供を勉強部屋に籠らせず、リビングで、家族と一緒のところで勉強をさせて、親が子供が分かないところをアドバイスしているような
ワイワイガヤガヤ「友達」同士のような
環境がいいように思われる。なぜなら、そうすれば、なんとなくよく分かってないかな、と自分が思っていることを、親も共有するので、馬鹿にされる感が減殺されると思われるからだが...。