日本版幸福論

よく、日本は経済大国でありながら、自分を幸せと考える人が少ない、ということが言われる。しかし、もしそうだとするなら、なるべく、人々が今を幸せだと思うような、システムに変えていく方がいいんじゃないのかな、とは言いたくなる。
しかし、こういうことを言うと、日本のエリートというのは、

  • 日本人を自分が幸せだと「思わせておく」(=幸せマインドコントロール)には、どうすればいいのか

みたいな方向に話が流れやすく、うんざりさせられる。どうせ、世の中は弱肉強食のダーウィン的な競争社会(=資本主義)なんだから、そもそも、みんなが幸せ「である」とか、ありえねー、なにその、お花畑ユートピア、とか。
こういう人間は、つまりは、受験勉強勝者のようなもので、自分が上位の順位じゃないと、幸せだと思えない、順位上位と幸せがセットになってしまっている人ということなのだろう。
しかし、もし幸せの基準がそういうものなら、学力試験で、全国一位になった人だけ幸せということになる。なぜなら、その他の人は、その人より成績が悪いのだから、その人より「不幸」ということになるからだ。
しかし、そういった学力試験で、毎回一位という人はいないわけで、ということは、本当に幸せな人は一人もいない、ということになる。
つまり、困ったことに、日本には幸せな人が一人もいないことになる。
まあ、当たってもいなくもなく、思わなくもないが。
そう考えてくると、どうも「幸せ」とは、そもそも、どういうふうに「定義」すればいいのかな、という疑問が湧いてくる。
ところが、上記のように、日本には、一人として、今、自分が幸せだと感じていると言っている人がいないのだから、ことこの問題において、日本人は参考にならない、ということになるだろう。
確かに、近年、日本の若者の幸せについて、さまざまな論者が、語ってはいるが、彼らが語っているのは、「なぜ日本経済は衰退しているのか」に収斂し、幸せ論になっていない、という印象を受ける。
それなら、ベタに、一般に日本で、国民が自分を幸せだと思っていると言われている国の人たちが、どんな人なのかを考えてみることは、興味深いのかもしれない。
ということで、ブータンなのだが、ここで言われるのが、ブータンなんて、日本の経済規模と比べものにならないくらいに、小さいのだから、比較にならない、というわけだ。
しかし、私が言っているのは、そんなことではない。もっと言えば、人々が自分を幸せだと考えるかどうかは、もっと、単純なことなのだろう、と言いたいわけだ。
たとえ、経済規模が大きくなろうと、1%の勝者と、99%の敗者で、

  • みんなが幸せ

と強弁しているのが、経済学者であって、問題はこのことと、人々が自分を幸せに「思う」かどうかには、なんの繋がりもない、と言っているのである。つまり、日本が経済大国であることが「必要かどうか」とは
別に
考えると「するなら」、どうなるか、と言っているのである。
ブータンという国は、急峻な地形を利用し、水力発電を行い、インドに電気を売って生計をたてている、といえるだろうか。
日本と同じく仏教国であるわけだが、そういう意味では、さまざまな面で、日本と似ている。

ブータン神秘の王国』(NTT出版)で西岡さんは「ブータン人は、”遠慮”、”控えめ”、”つつましやか”などの言葉がそのまま通じる」と書いています。

世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

仏教とは、因果応報(善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす)のことだと言えるだろう。そのため、仏教においては、
欲望
ではなく、

を重要視する。ブータンも日本と同じく、若者の失業率が高いことが問題であるが、仕事を得られたことは、自分がそれを「欲求」した「から」と説明せず、「運命」と解釈する。これは、自分がやりたかった仕事以外を今、自分がやっているときもそうで、因果応報がそこに働いていると考え、その

の正当化を担保する。
(これだけ考えても、日本の教育現場で推進されてきた
性教育
が、どれだけバランスを欠いた、日本の伝統的思考と乖離していたかを、あらわしているように思わなくもない。)
このように考えるなら、日本的な「幸せ」は、こういった仏教的なイメージの延長に考えることが、保守本流ではないか、という仮説がたてられる。
ブータンには、まだ、日本の昔あった、農村社会が、かなり広範囲に存在する。そこから、セーフティーネットとしての、家族や、村社会が生きている。老人は、子供が面倒をみるのは「当然」で、失業したら、親戚が、いろいろ世話をするのは「当然」で、もちろん、村で困っている人を助け合うのは「当たり前」。
これだけでも、今、日本人が「不安」と考えるものの「ほとんど」が、「解決」しそうなんですけどね。
ブータンでは、離婚も多いそうだが、大事なことは、
離婚できる
ということであろう。それは、日本のように、そういう「自由」を許されている法律があるとかいうことではなく、実際に、離婚しようが、差別されることも、経済的に苦しくなることもない、ということではないだろうか。

ブータンの女性は意思がはっきりしており、男性のことを気に入らない場合は、はっきり拒絶して家に上げません。ブータンでは、恋愛も結婚も、女性が決定権を握っている場合がほとんどなのだそうです。
世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

ブータンは伝統的に女性が財産を受け継ぐ女系家族です。男性は、家族を大切にする働き者でないと、奥さんから追い出されてしまいます。
世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

ここは、大変に興味深い点だろう。日本の全体的な「不幸」感は、実際に、人々がイメージしてる、理想社会と、現実が違っていることにあるように思われる。その
乖離
が、数値となって、あらわれているのではないか、と。
そもそも、今の日本社会においては、どう考えても、男性の方が、高い収入を得られる会社の地位や仕事に就いている人が多い。それが、どういう理由であれ、普通に考えて、そういう社会は、
女系家族
である方が、バランスがよくないだろうか。そうすることによって、女性の社会進出をより推進するとも考えられる。そもそも、日本のイエ制度による、長男主義って、江戸時代くらいからなのだろうし、女系制の方が世界的歴史的には一般的なんじゃないか、と思うんですけどね。
ライトノベルとか萌えとかにしても、ようするに、

  • 女性が元気

ってことでしょ。だから、男は嬉しい、みたいな関係なんでしょ。だったら、そういった「構造」が「担保」される社会にすればいい。

ブータン人はとても誇り高い民族です。ブータンのホテルに勤務する矢内由美子さんが、他部署のマネージャーから言われた言葉は、「よっぽどのことがない限り、ブータン人のスタッフを、同僚の前で注意しちゃダメだよ」というものでした。誇り高いブータンの人々はみんなの前で注意されると、傷ついて一気に仕事に対するモチベーションが下がってしまうのだとか。さらに彼女は、しばらく滞在していてあることに気がついたと言います。「人前で注意しないのはもちろんのこと、ブータンの人は冗談でも人をけなさないんです。本当にすごいことだと思いました」。どんなときでも人をけなさない。これが小さなコミュニティでうまくやっていくコツかもしれません。
世界一しあわせな国 ブータン人の幸福論

もう、ここに尽きているんじゃないでしょうか。
なぜ、現代の日本社会は生きづらいか。
日本人一人一人が、他人を馬鹿にしているからでしょう。もっと言えば、そうやって、他人を馬鹿にした「側」が、ディベートで勝って「しまっている」ので、馬鹿にされた側の名誉がいつまでも回復されないから、なんじゃないですかね。
日本が他人を馬鹿にすることを「奨励」する社会に、いつのまにかなっていて、人々の「誇り」を、コテンパンに叩き潰し合っているので、
自信がない
ということになるでしょうか。
ここは、個性化教育を徹底的に叩き込まれてきた、ある程度の若者世代にとっては、非常に大きなボトルネックに思われます。個性教育にとって興味のあるのは、
自分
だけです。ということは、他人というのは、自分の個性(キャラ)を、明瞭かつ判明にするための、
手段
にすぎなくなります。たとえば、勉強で他人より自分の方が成績が良ければ、他人は自分の「成績が良い」という「キャラ」を強調するための「手段(かませ犬)」となるわけで、学校の教師から社会からが、

  • あなたはあいつ「より」頭が良い

というキャラクターを「言祝ぐ」ということになります。これが、個性化教育です。
しかし、上記で検証してきたように、こういった文化は、あまり日本の倫理空間では、穏当ではないと言えるでしょう。そうであるなら、個人は徹底して、
本音を言わない
ことの方が正しい、ということになります。正直であることは、因果応報を分かっていない、KYだということになるでしょう。
ここでの問題は、他人の「人格攻撃」です。もっと言えば、そう解釈されうる、ということでさえ問題だと言っているわけで、なんとしても、この社会から、「人格攻撃」的なものが排除される、というのは、どういうことなのか、と考えることになります。
では、こういった日本のような国において、どのような、カルチャー。クリエイテッド・コンテンツの未来を展望することが、より
幸福論
と整合的であろうか。
人格攻撃が問題なのは、その「因果」が固定されることだと考えられるでしょう。つまり、

  • ダメ出しX:ある人A --> ある人B

ある人が、ある別の人を、ダメ出し、している、というこの「関係」が固定していることが問題なわけです。つまり、この緊張関係が、そのダメ出しされている人の評判の低下となり、ダメ出されている側の、やる気とか、個性が抑圧され、社会の不幸感情を増大します。
だとするなら、問題解決は三つに搾られます。

  • ダメ出しXの「内容」をオブラートに包む。あんまり、人格攻撃的ではなくする。
  • ある人Aが、だれなのかを、オブラートに包む。
  • ある人Bが、だれなのかを、オブラートに包む。ある人Bには、風の頼りで、こういった行為はやめた方がいい、というのが耳に入る程度にする。

この三つのうち、興味深いのが、真ん中で、つまり、これこそが、「匿名」社会ということになるだろう。

濱野 たとえばアメリカのユーチューブと、日本の動画共有サイトであるニコニコ動画を比較してみましょう。ニコニコ動画がユーチューブと大きく違うのは、既存の映像作品を勝手に編集してつくる二次創作的なMAD動画が大量に存在している点です。

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

濱野 やはりユーチューブで大量に再生されるのは、たとえばレディ・ガガの楽曲を小さい女の子が弾き語りしてみせたりとか、大学生たちが振り付けを踊ってみせたりといった、投稿者の顔が全面に出た作品が多いんです。
そもそもアメリカ人は、先ほども言ったように建国以来のフロンティア開拓精神というのをいまでも色濃く受け継いでいて、いわゆるDIY的なことが大好きですよね。最近だと『Make:』という雑誌が話題ですが、これは「パーソナル・パブリケーション」といって、家電であろうが家であろうが、誰でもオープンにつくることができる世界を理想として目指していて、まさに消費者が生涯も手がけるプロシューマー的なコンセプトを体現している。でも、ニコニコ動画のプロシューマーというのは、日本語で言うときの「プロデューサー」のニュアンスに近いというか、つまり一歩後ろに引いて創造行為や表現行為に関与しようとする。
なぜこうした違いが生まれるのか。もちろんそこにはいろいろな事情があると思うのですが、少なくとも日本ではゼロ年代前半以降、2ちゃんねるに代表されるような匿名文化が強く定着してしまった影響が大きいように思います。ニコニコ動画も比較的そういった傾向があって、MAD動画をつくる人たちは、自分の名前を出して作家性をアピールするという方向にいかずに、それこそアイマス初音ミクといったキャラクターをむしろ全面に出して、あくまで自分たちはそれをプロデュースしているだけなんだ、と後景に退こうとする。つまり、同じプロシューマー的現象があるといっても、アメリカは個人主義的でどんどん個人が前に出てくるのに対し、日本は匿名的かつ集団主義的で、作者が表に出ることをよしとしない風潮があるのです。
希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

今のネット上の、論壇において、2ちゃんねるのような、匿名滅亡論が大勢である。フェイスブックの黒船とともに、
匿名=卑怯者
という主張が主流となり(実際に、名誉毀損も多いのだろうわけで、そう考えるなら、こういった匿名という「野蛮」は、撲滅し「除染」すべき、となるのだろう)、いずれは、こういった日本の「ガラパゴス」は衰退する、と。
その中で、濱野さんは一人その「可能性の中心」を探ろうとしているように思われる。
匿名のいい点は、批判される(馬鹿にされる)側が、

  • だれに

馬鹿にされたのかが、特定されていないことである。そのことによって、批判された側は、

  • 「あの(社会的に人格者と呼ばれている)人」に、自分の人格を全否定された

という「欝感情」を、もたなくてすむ、ということでしょう。もちろん、その人かもしれません。しかし、そうでないと考える方が普通でしょう。そうである確率は、日本語か書ける人全員の中の一人となるのですから。
そうであるので、「だれに言われたのか」に対して、それほど、欝に悩む必要がなくなります。
そのように考えてくると、そもそも日本のカルチャーは、クリエイテッドした「その人」が、あまり、つまびらかにならない方が、いろいろなケースでうまくいっているようにも思えます。
タイガーマスクと名乗る匿名の寄付が話題になったこともありますが、そういった状態の方が、自由に動けるという面があるのでしょう。
上記のMAD動画にしても、なんというか、「オリジナル」に、それほど拘泥しない。この作品のどこが、自分のアイデアなのか、とか、そういった
自分らしさ
のようなものが、徹底してぼかされているんだけど、なんとなく全体として、その作品の「個性」や「価値」が、うかがえる、という感じでしょうか。
同人誌の二次創作にしても、ようするに、もっと日本社会が、こういった「方向」での可能性により、
目覚めて
いったときに、より活気のある日本のカルチャーが、今以上に大きくなりそうにも思うわけです。
たとえば、上記の「希望論」でも提案されていましたが、被選挙者を「初音ミク」にして、私たちは、その被選挙者を
プロデュース
するというような「選挙」をイメージする。こういったことは、さまざまに応用できるでしょう。多くの企業の社員は、より匿名的になり、あまり顔を外に出さず、ペンネームのようなものを通名とする。

濱野 よくよく考えてみれば、いま世界的に注目されている「ウィキリークス」にしても、ウィキリークスへの送金を停止したサービスに攻撃を仕掛けることで同サイトを支援した「アノニマス(anonymous)」という匿名のハッカー集団にしても、要はインターネットの匿名集団がいま英語圏でも力を持ちはじめているということなんですよね。これって要するに、日本でいうところの2ちゃんねる的なものがいよいよ英語圏でも台頭してきているということなのではないか。ジュリアン・アサンジというウィキリークスの管理人に対して、人々の関心や怒りが集中している構図なんて、まさに2ちゃんねるひろゆきに対する世間の批判そのものです。いま日本では「フェイスブックが上陸することで日本でのインターネットの実名利用が主流になるか」みたいなことが騒がれていますけど、むしろ世界的にはその逆で、インターネットの匿名性おそが力を帯びつつあるのだとすれば、ゼロ年代2ちゃんねるニコニコ動画的なインターネットの匿名性が吹き荒れた日本社会の経験とリテラシーというのは、むしろ世界に先んじている------「匿名先進国」じゃありませんが------と言えるのかもしれない。
希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

というように、濱野さんはむしろ、日本の匿名文化こそが、今後世界を席巻すると考える。
ウィキリークスアノニマスは、ある種の、正義を主張する活動であるが、どうしても、既成権力側にとっては、目の上のたんこぶであり、出る杭は打たれる、となりやすい。しかし、これこそが言論の基本じゃないのか、と思わなくもない。こういった主張をどのように、社会の中に
居場所(=無縁所)
を確保するか。
上記の議論から、幸福とは、他人に馬鹿にされていないことによって、その人自身の自律性によって、生き生きとしていることだと言っていいでしょう。つまり、自分が自信があって誇りをもてていれば、その状態って、幸せなわけだろう。しかし、自信ができることは、社会から評価されることに依存している面がある(それなりに人と関わって感謝されれば嬉しかったり、とかしているわけで)。つまり、それなりに
エビデンス
が必要で、やっぱり実体として、みんなから邪魔者扱いされているだけじゃ、自信は生まれない。つまり、それなりに評価されることは価値であって、必要なんだろうけど、たんなる個別「評価」の領域とは別に、その人が「勝手」に普遍的に評価される部分が社会のシステムにインストールされていることも必要そうだ、ということになる。
仏教だったら、それは「縁」の重要性ということになるわけで、その延長に、一人一人が尊重されるような、慣習というか作法が、身につけられている、ということになるだろうか。
さまざまなカルチャーを、その「個性」の言祝ぎ(サクセスストーリー)、と考えるのではなく、その共同体の、さまざまな瑕疵の修復、活性化、と考えるなら、あまり流動性のない、
規律
に縛られた社会は息苦しいのかもしれない。しかし、そうすると、その社会の秩序に寄生することで、この社会の衰退と引き換えに、自分の
儲け
を最大化しようとする、フリーライダー問題となる。逃げ切り問題なんていうのも、同じような話で、今後、没落する日本社会に対して、

  • 自分が生きている間さえ、自分が楽しければいい

という、刹那的な個性化教育世代のエゴイズムが、さまざまに日本の伝統的な文化との、齟齬を起こしていると考えられるのかもしれない。さて、こういったもののバランスはどういったものが、よりベターなのか...。