岡本裕一朗『ネオ・プラグマティズムとは何か』

私には、この311以降の原発政策に対する、日本の有識者たちの、周章狼狽ぶりが、意外であった。
つまり、彼らは、もう少し「いろいろなことを考えている」と思っていたわけである。つまり、こういった事態すらも「想定内」、検討の範囲内として、それなりに、合理的な
見識
を示すのではないかと考えていた。しかし、その姿は、一言で「なさけない」というもので、ようするに、彼らは毎日、なにを考えていたのだろう? と思わざるをえないような、代物でしかなかった。
つまり、こんなことなら、原発事故が起きても「しょうがなかった」と言わざるをえないだろう。だって、私たち自身がこの程度なのだから。
とにかく、私はその「あわてふためきぶり」が、なんとも納得がいかなかった。そして、このことは今に至るまで続いている。原発再稼働をめぐる、有識者たちの言動は、なんとも「付け焼き刃」な感じで、心もとない。まるで、今思いついたことを、口走っているような、理論的な裏付けもなんにもない、素人丸出しのものにしか思えない。そんなことなら、なにも言わない方がましだろう。
しかし、そう思うのは、今のアカデミックな到達点がその程度だからなのではないか、という、そもそも論への誘惑にかられる。
たとえば、哲学と呼ばれているものがある。なんか、古代ギリシアの頃からあって、難しそうなことをずっと言っている学問分野だが、さて、この分野。進歩してるのかな。昔より、その主張は発展しているのだろうか。
そういった、現在の、比較的に議論の活発な、アメリカを中心とした、分析哲学プラグマティズムの近年の動きをまとめたものが、掲題の本である。

では、ローティは「アイロニー」をいかに規定したのだろうか。彼は、次の三つの条件を満たす者を、「アイロニスト」と呼んでいる。

第一に、自分がいま現在使っている最終のボキャブラリーを徹底的に疑い、たえず疑問に思っている。(......)第二に、自分がいま現在使っているボキャブラリーで表された議論は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないとわかっている。第三に、自らの状況において哲学的に思考するかぎり、自分のボキャブラリーの方が他のボキャブラリーよりも実在に近いと考えてはいない。(同、一五四頁)

ここで表明されているのは、ボキャブラリーに対する二重の関係である。一方でローティは、ボキャブラリーが自分の信念・行為・生活を記述し、判断するために不可欠のものだと考える。それにもかかわらず、他方でローティは、そのボキャブラリーを徹底的に疑い、他のボキャブラリーにも理解を示すのである。つまり、他のボキャブラリーの可能性を想定しつつ。、自分のボキャブラリーをとりあえず使っていくわけである。「疑いながら使い、使いながら疑う」とでも言えようか。
こうしたアイロニストを、ローティは「唯名論者で歴史主義者」と呼び、その意味について次のように説明している。

アイロニストは何ごとも本有的特性、真の本質なるものをもたないと考える。(......)アイロニストは、自分は誤った種族に加入させられ、誤った言語ゲームを演ずるように教えられてきたのではないか、そんなことがありうるのではないか、と憂慮して過ごす。自分に或る言語が与えられることで自分を一個の人間たらしめた社会化の過程そのものが自分に誤った言語を与え、自分を誤った種族の人間たらしめたのかもしれない、と心配する。(同、一五六頁)

アイロニストにとって、自分が使っているボキャブラリーは「偶然的」なものであって、絶えず歴史的な変化にさらされている。ローティの考えでは、歴史を超越した永遠不変の真理や本質は追放しなくてはならない。つまり、「永遠の真理に見えるものを表現するボキャブラリーもやがては消え去ることを強調するの」のが、アリロニストの「歴史主義」なのだ。

学問というものが、なんらかの普遍的な認識に至るための営みだとするなら、この「現代哲学の到達点」は、そういったことについて、「常に疑え」というわけで、つまり、この疑いを止めていい場所に到達することは「ない」というわけである。
この、なんとも「懐疑論」的な現代哲学の「到達点」は、もちろん、ウィトゲンシュタインなどの仕事を考えるなら、分からなくはない。
しかし、じゃあ、なんなの? ということではないか。だったら、なんなんだ、と。哲学とは、ソクラテスではないが、もっと、人々がどう生きるべきかを語っていたのではなかったのか。
つまり、こういった「正しいこと」を言うことが、どれほどのこと(情報)なのか、ということなんじゃないでしょうかね。
しかし、その辺りについては、リチャード・ローティには、ある「戦略」がある。つまり、「公的」と「私的」を明確に分ける、わけである。

ところが、ローティの考えでは、「アイロニズム」と「リベラリズム」は、私的領域と公共的領域に使い分ければ問題ないのである。そこで、こうしたローティ流のやり方を、「二枚舌戦略」と名づけておきたい。

ローティは、「哲学に対する民主主義の優位」(一九八七年)という論文のなかで、ジョン・ロールズの「リベラリズム」を「アメリカのリベラルな政治」の伝統から問い直し、新たな理解の方向を提唱した。それによれば、ロールズは私的なものと公的なものを区別し、政治制度が公共的な領域として、私的な道徳や宗教にはかかわらあに、と考えている。私的な領域ではさまざまな対立があったとしても、公的な政治は影響されないのだ。たとえば、ロールズの次の箇所を、ローティは「私的(善)と公的(正義)との区別」という観点から読むわけである。

要点は次の通りである。実際の政治問題としては、どのような一般的道徳観念も、現代民主主義社会における公的な正義観念の基盤とはなりえない。現代民主社会の社会的、歴史的諸条件は、宗教改革後の宗教戦争寛容の原理の発展、それに、立憲政治の興隆と大規模市場経済の諸制度に由来する。これらの条件は、有効な政治的正義観念の要件に強く影響している。つまり、そのような観念は、教説の多様性を認めなければならず、<現存する民主社会の構成員が肯定する善の観念には、相矛盾し、共約不可能でさえあるようなものが複数ありうる>ことを、認めなければならない。(ローティ 一九八八年、一七二頁以下)

ここで引用されているのは、ロールズの思想的な転換が取りざたされていた頃、ローティが後期ロールズ思想をあざかに切り取った部分だ。ロールズは初期の『正義論』(一九七一年)のなかで、リベラリズムの原理をカント主義的に、つまり非歴史主義的に展開した。ところが、ロールズはその後、歴史主義的にプラグマティズムの方向へと、立場を変更したのである。

もちろん、こういった姿勢が、伝統的なプラグマティズムの主張であり、それを引き継いでいることを認めないわけではないのだが、他方において、
そんなに単純なのか
と思わないではいられない。例えば、「リベラリズム」とは、普通は、もっと「積極的」な「行動」を正当化していくものではないのか。だとするなら、そう簡単に公的や私的の区別をして済ませられるのか。
例えば、そう主張しているローティ自身が、『アメリカ未完のプロジェクト』での、文化左翼批判が、上記の

という自文化中心主義という、アメリカ帝国主義という、

  • アメリカン・スタンダードによる、「フラット化」

を隠微に強制していないだろうか。
こういった観点から、掲題の本の後半の議論の環境プラグマティズムは、示唆的である。環境プラグマティズムとは、環境倫理学という分野が、あまりに厳密主義であったため、そのオールタナティブとして提示されたなにか、だと考えられる。

もともと環境倫理学は、「環境問題を実践的に解決する」ことへ向かっている。ところが、具体的な場面では、一元論は有効に働かず、政策的な合意が形成されなかったのだ。「人間中心主義」を批判して、「自然の内在的化」を強調したところで、実践的には何もできなかったのである。じっさい、人間の経済的な利益をまったく無視して、自然を保護することは現実的ではない。

このように、自然環境の保護の方法には、多様にあるのだから、プラグマティズム的手段で、いろいろある中から選べばいいんだといって、もちだされたわけだが、そもそもの動機が、人間の
経済
的な都合(軋轢の合意形成)、にあることは、この引用からも、よく分かるであろう。
しかし、そんなに簡単だろうか。

カッツが批判の矛先を向けたのは、人間の欲求や経験に対する「見通しの甘さ」と表現できるだろう。

そもそもの、環境倫理学への環境プラグマティズムの挑戦の「動機」が、
経済
的なものにあったという指摘は、現在の、日本の原発行政の迷走ぶりと、完全に対応しているように思われる。
もともと、プラグマティズムは、行動による、結果から出発していく学問であり、「うまくいった」という経験から、理論を組み立てていく。ところが、原発のようなものになると、
我々の側
の見通しの甘さが、完全な致命傷になる。つまり、こういった視点に立つなら、キャリコットのような、「たとえ人間全員の自由を制限することになってでも」復元不可能な環境の破壊を逃れるようにするというような視点には、一定の合理性があったと言わざるをえない。
つまり、プラグマティズムが、分析哲学とともに、現在の主流の哲学となっているということには、一定の意味があると考えなければいけないとしても、やはり、
今までの哲学と排他的に
考えられることには、なにか、議論の狭さを感じさせられるわけであろう。
つまり、もし、プラグマティズムだけでいいのなら、今すぐ、それまでの哲学の書物は捨ててもいい、ということにまで言いたくなる。しかし、実際そうなっていないのは、やはり、今までの哲学の歴史「の中」には、なんらかの「意味」(豊穣な情報量)があからではないのか。
たとえば、以下のセラーズによる「所与の神話」批判は、なかなか興味深い。

ここから出てくるのは、「センス・データは直接に知られて確実だけれど、物がじっさいにどうであるかは不確実だ」という結論である。この結論から、さらに、初期の分析哲学者たちは、「物質的事物はセンス・データからの論理的構成物である」という考えに進むのである。

セラーズは、「見えるの語り」(looks talk)と「あるの語り」(is talk)という概念を導入して、説明している。二つを定式化してみよう。

  1. 「見えるの語り」 ------ 「x は今私には赤く見える」(X looks red to me now.)
  2. 「あるの語り」 ------ 「私は、x が赤であることを見る」(I see that x is red.)

つまり、「私は、x が赤であることを見る」と言う場合、私の経験をただ記述しているのではない。それは、「x が赤い」ことを主張し、その主張を是認しているわけである。これに対し、「x は今私には赤く見える」と言うときには、私の経験を記述してはいるのだが、それが本当だという「是認」は差し控えているのだ。
こう考えるとすれば、「センス・データ論」は根本から崩壊するのではないだろうか。というのも、「センス・データ論」によれば、「x が赤く見える」のほうが、「x は赤である」ということより論理的に先立つからだ。「x が赤く見える」(センス・データ)からといって、「x が赤い」(物的対象)という保証ない。ところが、セラーズはまったく逆のことを主張し、「赤く見えるという概念」が「赤であるという概念」を前提している、と考えるのである。

分析哲学論理実証主義)から主張される、センス・データ論において、「x が赤く見える」の方が「基礎的な情報」であって、「x が赤い」は不要になっている。しかし、セラーズは、こういった判断を完全に反転させる。
つまり、セラーズの視点においては、発話者が「赤」という概念を既に理解していて、「色」という概念を既に理解していて、といったように、すでに、多くの「こういった判断」をやっていることを前提にした議論だということを示唆しているわけであろう。
また、これに対して、ローティはその社会的文脈をさらに深く考察していく。

もう一度ネクタイの例を考えてみよう。セラーズによれば、「これは赤い」と言う場合、単に「観察している」という経験を記述しているだけではない。それはさらに、その人が述べたこと(つまり「そのネクタイが赤であること」)を主張し、是認して、他の人にも認めてもらおうと正当化しているのである。つまり、ネクタイを見て、「これは赤い」と言うとき、私たちは、他の人に対して自分の発言が正しいと主張し、他の人にもそれを是認するよう要求しているのだ。

ここで、ローティは、「原因の空間」とは別に、「理由の空間」に注目していることが分かる。
こういった規範的プラグマティズムの方向において、ブランダムの『明示化』を考えられると、著者は整理していく。

そこで、雰囲気をつかむために、少しデフォルメされているが、具体的な例で語ってみよう(Wanderer 2008,p.15)。たとえば、私がある大学と契約して、何コマか講義することになったとしよう(「コミットメント」)。そのうちの一つが月曜朝九時からの講義であったら、じっさい私は月曜九時から講義しなくてはならない(「コミットメントを引き受ける」)。この契約によって、たとえば、木曜の退屈な会議には出席しなくてはなならなくなるだろう(「コミットメントの引き受け」)。また、私が車で来れば、大学の駐車場にとめることができるだろう(「エンタイトルメント」)。もし私が、月曜九時に寝坊してベッドのなかにいれば、大学から非難されるだろう(「講義するコミットメントを帰属させられ、ベッドで眠るというエンタイトルメントは認められない」)。

この二つの例が私に興味深いのは、両方とも、ある意味での、プラグマティックな「原理主義」を突き抜けているように思われるからである。
プラグマティックな態度とは、結局は、経験から出発するのだから、「あのネクタイは赤く見える」といった、センス・データ以外は不要であり、
不純
に思われるわけだ。ところが、「x is red」という表現の、なんと「シンプル」だろう。つまり、これによって、今の状況の「情報」をかなり、縮減できてるんだから、ずっと
便利
なんじゃないか?
プラグマティズムとは、ようするに、ドイツ観念論を「意味不明」として、相手にしないことによって成立してきた学問だと思っていたのだが、こと、ブランダムまで来ると、積極的に、こういった、

  • 権利
  • 義務

といったような、ドイツ観念論的なキーワードがポンポンと飛び出すようになって、そもそも、あれほど毛嫌いしていたプラグマティズム分析哲学原理主義的なものは、なんだったのかな、ってことですよね。
上記で、考察した、環境倫理学にしても、まあ、とりあえず、「権利」「義務」で考えておけば、情報は非常にシンプルになるわけですし、それぞれの関係の見通しがいいわけじゃないですか。これだけでも、こういった「理由空間」の整理には、存在意義を感じるわけですけどね。
なんて言いますかね。
プラグマティズムという、ある知的な活動があるとして、世の中にある、さまざまな対象、たとえば、ここでは、「環境」という、
公理
を追加するだけでも、たんなる「ロジック」の理論的整合性とは、まったく違った
現場的特徴
が現れてくるはずで、これは別に、環境問題に限らないと思うけど、そういった、
プラグマティズムをより個別具体的な対象に「応用」
していくような、つまり、「応用数学」のような、個別の
豊穣さ
を追求していかないと、いつまでも、上記のような、総花的な使えなさ、が哲学には、まとわり続けるような印象を強くするわけですよね。
例えば、推理小説は、一見、ワンパターンですけど、それぞれの、推理(アブダクション)の「多様さ」が担保されているという意味で、プラグマティズムの一つの「豊穣さ」を実践しているものと考えられるのかもしれない。
私たちが興味があるのは、そういった一つ一つの「具体的実践」の多様な情報量の多さが、人間の文化としての豊穣さを意味している、というような
営みであり、その結果
なのであって、もっと言えば、プラグマティズムかどうかや、哲学かどうか、科学かどうか、も関係ない。なんらかの、人間が生み出す知性の豊かさが問われているように思われて、そういった意味では、数学となんにも違わないんじゃないだろうか...。

ネオ・プラグマティズムとは何か-ポスト分析哲学の新展開-

ネオ・プラグマティズムとは何か-ポスト分析哲学の新展開-