有田隆也『生物から生命へ』

(いつものように、前段の話は、掲題の本と直接は、関係ありません。後半で検討させてもらいます。)
少し前に、大正生命主義というものについて紹介した。それは、一つには、宮澤賢治に代表されるような、さまざまなパースクティブが「交差」するものであって、そして、それは、ニューエイジ運動から、現在の近年のサブカルチャーにさえ繋がるような、現代性があるという総括だった。
そこで問題にしていたのは「生命」という言葉だった。

ニューエイジとは、一九六〇年代ヴェトナム反戦運動下のアメリカ合衆国に起源を持ち、一九七〇年代----八〇年代にかけて展開されたスピリチュアルなカウンター・カルチャー運動である。本書は、それが今なお隠然たる力を反原発運動(のみならず)に行使していると見なしている。ニューエイジ運動の影響はアメリカだけではなく、(旧)先進資本主義国------また、ある意味では中国やロシアにも------の広範に及んだ。アメリカでニューエイジ運動を展開したのは、主に「西海岸系」と呼ばれるヒッピーたちだが、ヴェトナム反戦運動を担ったアメリカの新左翼もまた、その心性を共有した。

反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)

反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)

注記しておけば、ここで「アメリカのプラグマティズム」と言われるものも、「脱近代的」な傾向を有していることである。ニューエイジがしばしば参照する書物として、トランスパーソナル心理学創始者ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』がある。
反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)

一九六七年のケニストンのこのの調査研究(原著刊行は一九六八年)で、大方のその後の方向は指し示されている。コンピューターを介して、ヒッピーと、資本主義化した「新左翼」(ヤッピー化したイッピー?)は、アメリカ西海岸で合流していくのである。そこには、新自由主義ニューエイジが親しく野合している。ケニストンも知悉しているように、ヒッピーも新左翼も、同世代の人口のうちで、たかだか数パーセント(あるいは、それ以下)がコミットした運動に過ぎない。しかし、それがもたらした「変化」が、歴史を変えた潜勢力なのである。この事情は日本においても変わらない。
しかし、さらに重要なことは、ヒッピーも新左翼も、高度に発達した資本主義国でおこった、資本主義に依拠するところの運動だということである。これまた、ケニヒストンも一応は了解している。「ヒッピーによる貧困の示威は貧困が日常的であるような社会ではあまり意味がないであろうし、ラディカル(新左翼----引用者注)が自ら選んで最低生活費で活動するのは、世界の大部分で不可能な道を選べるということなのだ」と、ケニストンは明言する。
反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)

ニューエイジのカウンター・カルチャー運動は、新左翼も、その「心性を共有した」ものであったとあるわけだが、大事なポイントは、上記にもあるように、こういった発想が、
新自由主義
と「実は」近い、ということなのではないか、と思われることである。つまり、むしろ、新左翼ニューエイジ的な側面を徹底させると、新自由主義になっていく。つまり、左翼が新自由主義に転向することは、どこか「必然」の流れのように、ここからは考えられるわけである。
ニューエイジ的な野生に帰るようなイメージ、タオイズム的なイメージは、つまりは、新自由主義的な、だれもが、だれからも縛られない、というような、イメージに、もう、すぐそこまで来ている、と考えられないだろうか。
しかし、そういったヒッピーや新左翼が、存在を許された場所とは、最も、資本主義が発達していた国においてであったわけで、つまり、この二つは相補的な関係にあったわけで、新左翼新自由主義に転向するのは時間の問題だったのかもしれない。

先に引用した『80年代の正体!』掲載の論文において、浅羽が、資本家もまた生活者だと言っていることは、少しひねりを加えて読めば示唆的だろう。新自由主義の時代では、普通の意味での労働者も、ドブネズミたるフリーターも契約社員も、すべて「資本家」と見なされるからだ。
彼/彼女らは、学歴、資格、技術から頭脳、肉体、家系まで、さまざまな力能=「資本」を持った起業家として扱われる。「資本家」とは金持ちのこと(だけ)ではない。むしろ、徹底的に貧困な「生活者」でさえある。彼らは、「労働」をしているのではなく、企業「活動」をしているのだ。
それゆえ、浅羽や小林よしのりは、新自由主義の時代にふさわしく、「技術をみがけ!」、「手に職をつけろ!」、つまり「資本」を蓄積しろとプロパガンダすることになる。しかし、いかに手に職を持って技術をみがき生活の向上を図ったとしても、ベンチャーとして成功するのが一握りに過ぎないことは誰もが知っている。むしろ、その評価は厳しくチェックされ、価値は切り下げられるばかりだろう。それが、資本主義の現実というものだ。
反原発の思想史―冷戦からフクシマへ (筑摩選書)

新自由主義とは、一言で言えば、世界中の人が「資本家」だと考える運動だと言えるだろう。つまり、一人として、プロレタリアートは存在しない。しかし、こういった前提をおいたところで、その「資本家」内に「格差」があることには変わらない。つまり、成功と呼べる人は、その中の一握りであることは変わらない。
こういした場合に、ヒッピーや新左翼的な「生きる作法(=最低限の生活費)」が、むしろ、新自由主義における、セーフティネット
最低化(=不要化)
を後押し(理論的に補完する関係)している面がないだろうか。どうせ、お金なんてなくても、ヒッピー的な生活が可能であるなら、セーフティネットなど不要だ、と。
つまり、新自由主義の要諦は、どうやって、
セーフティネット=0円
にするか、青天井の格差を肯定するか(お金持ちを無税にするか)、にあったと考えるなら、こういったヒッピーによる
社会の不満分子のガス抜き
と相性が、そもそも、いいんじゃないのか、というアイデアに至るわけである。
以前、日本の明治の文明開化は、日本の「中国化」であったんじゃないか、と主張する本を紹介したが、明治の近代化が、日本の中国化(封建制の解体と、科挙化、朱子学化)だったと。
しかし、もしこの枠組みを外れて、日本の「西欧化」が、実際の日本の思想的な面で変様を及ぼしたものがあるとするなら、それが、
大正生命主義
だと言えるのではないだろうか。たとえば、日本の西欧化の最初に紹介されるのが、解体新書に代表される、解剖学。つまり、
生物学(=近代西欧科学)
で、これというのは、まったくそれまでの、朱子学理気二元論とは異質なものだと言っていいんじゃないか。それまでの、東洋医学は、まさに、理気二元論で、針治療や薬草に代表されるような、ものであったわけだが、西欧医学は、まさに、デカルト的分割(延長)。
つまり、人間を最小の単位と考えない、人間さえ、解剖して、その部分部分に分割していく。しかし、こういった考えは、どこか、朱子学理気二元論と、相性がよくないようにも思われる。
それまでの明治以前までの、日本においては、イエ制度的な人間観が主流であった。つまり、まだ、それまでは、人間を最小の単位と考えない。むしろ、人間の前に
イエ
があった。行政の単位も、まず、イエとイエとの関係がまず決まっていて(それぞれが、どういうビジネスによって関係しなければならないかが決まっていて)、その後に、そのイエの家長にだれが座っているのかが、付随して決定されるような関係にあり、しかし、その人が「実際に誰なのか」は、ある意味、どうでもよかった、と。
しかし、明治以降、上記のような
解剖学的人間観
が現れるようになると、こういった発想が、あまり、イエ制度と相性がよくないように思われるようになる。
なぜなら、人間でさえ、最小の単位ではない。それらは、臓器に分割され、細胞に分割される。じゃあ、なにが基本的な単位なのか。そこで、
進化論
が注目される。進化論の特徴は、これが徹底した「人間個人間」の関係であることであろう。つまり、それまでのイエ制度的な意味での、イエ(=企業)を最小の社会の単位と考えるのではなく、
人間個人(=生命体=遺伝子)
から、考えなければならないと言っているのが、進化論という発想なわけでしょう。
こういった一連の、発想の転換を、
大正生命主義
は担っていたのではないか。

人間の心理にも実証主義を貫徹しようとすると、「本能」が「内部の自然」として認識されることになるが、その「内部の自然」とは、主として性欲を指すことは言うまでもなかろう。生物学でいう種の保存本能である。
明治三十年代に、高山樗牛らによって紹介されたニーチェの思想は、「野獣的本能主義」とでもいうべきものであった。これをニーチェの全体像から、とんでもない誤解だと笑うことはやさしいが、しし、笑い捨てる前に、少し考えてみれば、ごく一面的であった、というくらいの批判に止めるべきことに気づくだろう。
旧制高校生のデカンショ節に名を謳われたショーペンハウエルの「生の盲目的意志」の哲学は、「意識下」「無意識」の領域という問題設定に道を開き、フロイトのリビドー理論を生み出すことにもなったが、ニーチェショーペンハウエルの哲学と決別して渡った「善悪の彼岸」に、「野獣的本能」が直面すべきものとして姿を表したのは事実でる。
そして、霊肉の葛藤の苦しみの中から、やがて生命の享楽に救いを見いだすことになるアンドレ・ジィドは、ニーチェにも多くを学んだ人だが、彼が『背徳者』(一九〇二年)において、ボードレールの詩句を下敷きにして開陳するのは、知性の下に隠れた原始的本能という思想である。
鈴木貞美「大正生命主義、その前提・前史・前夜」)

大正生命主義と現代

大正生命主義と現代

大正教養主義というのがありまして、まあ、これが戦前から続く日本のエリート思想のバックボーンになっているものだったわけですが、こういったエリート選抜によって、
選ばれる
という存在形態の、思想的な言い訳(正当化)としても、社会進化論のような発想が使われてきた側面があるんじゃないだろうか。
ここで、やっと話は焦点を結んでくるんですが、経済学と、弱肉強食は、物事の裏表を説明してきただけで、両方とも、日本の明治以降の
律令制的な科挙制度(エリート選抜)
の、言い訳として「教養化」していく。しかし、その場合における、進化論とは、上記の引用にもあるような、通俗化したニーチェといいますか、
野獣的本能
こそが、人間の本質(=生命)だ、というような、観点であって、ここには、かなり差別とか身分の正当化のような、けっこう危ない視点さえも含んでいると言われてもしょうがない面があっただろう。
それは、上記で紹介した、ニューエイジにも、言える面があるはずで、悟り(=教養)を開いた人とそうでない人のどうしようもない、差異には、上記のエリートと大衆の対応関係があったとも言えるのかもしれない。
こういった、一連の「生命主義」的な発想を
社会の「自然」化
と言うことができるのではないだろうか。しかし、ここで言う「自然」は、実際の、この地球上の自然と対応しているわけではない。どちらかと言うとそれは、経済的な弱肉強食をカリカチュアしたもので、経済的な勝者と敗者、エリートと大衆の「差異」を、正当化する
自然法
のようなものとしての側面「のみ」がやたらと強調されたものだったのではないか。
しかし、そういう意味で「自然」というなら、逆に、なぜ人間は、助け合うのか、今まで、助け合って生きてきたのか、というふうに、問うてみたっていいわけであろう。
つまり、それにだって、なんらかの「自然法則」なんだから。こういうものを、「進化論」的な「適応」とどうして呼んではいけない、ということにならないだろうか。

理想的な環境にどっぷりつかって、体の多くの器官がその存在意義をなくす状態が長い間続いたならば、そこにいる生物たちの姿はどんなものになっているだろうか。目や鼻などの感覚器官はしだいに反応しなくなり、手や足はだんだん衰えていくだろう。もしかしたら、性の存在意義さえなくなって、無性生殖になっていることもありうる。そして、究極的には、海の中をあてもなく、ぽよーんと漂っているような生き物になっているかもしれない。

こういった発想が重要なのは、私たち人間が、
独立して存在して「いない」
ということである。私たちのこの存在形態は、あくまでも、地球の歴史の中の、この環境において存在しえた形態にすぎなく、こういったものと離れて考えることができないことを意味している。
言うまでもなく、私たち人間の体内には、無数の微生物が存在する。胃や腸の中にいる、さまざまな細菌がもし一つもいなくなれば、人間は死ぬわけですし、しかし、その種類の分布は人によって違ってもいる。こういった関係を掲題の著者は、
共進化
と呼ぶ。

進化ゲーム論のマーチン・ノヴァックは、この点に関して、「進化の二つの根本的な原理は自然選択と突然変異である。しかし、『協力』があるからこそ、進化は建設的なのだ」「進化においてもっとも注目すべき点は、競合的な世界に協力を生み出す点かもれない」とした上で、協力を、自然選択と突然変異に続く第三の原理と見なせないかと書いている。

第一に、血縁者に対して親切にするというメカニズムだ(「血縁選択」)。血縁的に近いということは、自分のもっている遺伝子、形質を相手がもっている可能性が高いことを意味するので、自分が利他的行為をする形質をもっているなら、血縁的に近ければ近いほど、その人も利他的行為をする傾向にあるということだ。だから、身内に親切にすることになって win-win の関係を築ける。なお、このメカニズムは以下に述べるように、近親者に限定されずに極めて一般的に働く。
第二は、お互いに利他的行為をしあうような互恵のメカニズムだ(「互恵主義」)。たとえば、親切にされたら親切で返す、嫌なことをされたらきっちり仕返しをするという傾向(「直接的互恵」)、あるいは、過去に誰かに対して親切をした人に対して自分が親切をしやすいという傾向(「間接互恵」)は、協力関係を進化させうることが、進化ゲーム理論を用いて示されてきた。
第三には、個体と個体のつきあいかたに制約を与え、利他的なもの同士がつきあう頻度を高めるというメカニズムである。たとえば、個体がグループ分けされていたり、移動がスムーズでなくて近隣個体との付き合いが中心になるならば、利他的個体と利己的個体の散らばり具合に偏りが自然に生じるだろう(ただし、そのような偏りを維持し続けるのが難しい場合が多い)。この考え方は、元々はグループ選択と呼ばれていて古い伝統をもつが、最近ではこの考え(の一部)は「マルチレベル選択」と呼ばれて見直されている。

普通に考えるなら、進化に「協力」を含めるというのは、違和感があるだろう。しかし、上記で指摘しているように、ある個体の進化は、
環境(隣接する別の個体)
との相互作用(共進化)を無視して、考えられるわけがない。
サイバネティックスは、あくまで、一つの個体を中心に、インプットとフィードバックで描かれるが、言うまでもなく、同じことを他の個体も行っている。ということは、相互は、
無限
の干渉関係にあることを意味し、つまり、「振動」している。つまり、お互いは、永遠に、相手の進化に干渉しあい続ける、共進化を続けているということであろう(仏教でいう、因果応報だ)。
しかし、このように考えてくると、そもそも、
進化(=生命)
という現象を、「生物」という枠で考えることは、どうしても狭さを考えさせられるわけである。そこで、掲題の著者は、生物が「モノ的世界」であるのに対して、生命を「コト的世界」として、捉え直す。
ここで「生命」現象というものを、なんらかの、時系列に連続する、「コピー運動」と考えるなら、こういった現象が「生物」にとどまらないことは言うまでもないだろう。人間が話す「言葉」そのものを、こういった視点で捉えるのが、ドーキンスミーム理論であった。
もっと言えば、こういった現象は、コンピューター上で簡単に「構成」できる。つまり「これ」だって、ある種の「生命」だと言えるだろう。
たとえば、文化にしたって、こういったものが、私たち一人一人の「行動」を変えるなら、それが結果としての「進化」に影響していると、どうして言ってはいけない、などということがあろうか。
大正時代ならいざしらず、近年においては(掲題の著書もその一つとして)、明らかに、こういった「生命」現象の、科学的な解明も進んでいるわけで、あいかわらず、大正教養主義的な、
弱肉強食=経済学
といったような「生命」観だけで、考える「狭さ」から抜け出て、上記にある「協力」を文化などの多様なイメージから考えるべきなのかもしれない...。

生物から生命へ―共進化で読みとく (ちくま新書)

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