島薗進『精神世界のゆくえ』

それにしても、近年のケータイやスマホについているGPSは便利だ。あの、渋谷の細い道が、まがりくねった所も、目的地を検索できれば、容易に「最短距離」を行くことができた。ちょっと便利すぎだなあ、と思わなくはない。
私が、東京で暮らし始めた頃、自転車を買っていた。ただ、最近はまったく乗らなくなったが。休日の日などは、その頃は、特に用事もなく、自転車で、家の回りをブラブラしていた。
その時に気付いたのは、東京の住宅街は、非常に細い道で、あまり、見た目も変わらないような家が、次々と続き、ほとんど
迷路
だな、と思ったことだ。その感覚は、最近も変わらない。当時は、まだGPSって感じではなかったから、本当に、わけが分からなかった。次々と、あらわれる、公園でさえ、ろくに区別がつかなかった。
そうやって走っていると、本当に、迷子になっている気分であった(もう大人ですから、どうとでも家に帰れるわけですけど)。どんどん進んでも、進んでも、同じような、家々が続く。気が遠くなるような距離を走って、ようやく、大通りに出る、という感じであった。
東京は、土地が狭いわりに、人口が多く、密集している。それが、あまりに多いため、車酔いのような感覚になってくる。つまり、それぞれを区別することに
麻痺
してくる(自分にとって意味を感じないものを、区別することほど、苦痛はない)。「全部同じ」と言いたくなる...。
オウム真理教ほど、この戦後日本の社会に衝撃を与えた組織はないだろう。基本的に、オウムの地下鉄サリン事件以降、日本のあらゆる思想は、
オウム真理教的思想との対決
ぬきでは考えられなくなったことは、周知の通りである。
そのオウムの元信者の高橋英利は、著書の中で、子どもの頃の体験を以下のように述べている。

高橋はこうした関心の芽生えを小学校に上がる前の頃、彼の心に兆した底深い不安に遡って説明している。英利少年は同じ形をしたたくさんの建物が立ち並ぶ団地の中で「冒険」を試みて迷い込み、自分の家がわからなくなってしまったことがあった。やっと自分の家を見つけたと思った彼は、不安を抱えながらも「ただいま!」と言って入ったとき、「別のお母さん」に出会ってしまう。「このとき以来、僕のなかに不思議な感覚が生まれた」と高橋は書いている。

なぜ、僕はあの団地のあの女の人の子どもではなかったのか。なぜ、この団地のこの母さんの子どもだったのか。母さんが僕の母親でなければならなかった理由とはなんだろうか......。考えれば考えるほど、母さんが僕の母親である必然性がわからなくなっていった。(中略)
もちろん、まだ幼かった僕がこんなふうに明確に意識していたわけではないが、自分の存在が「必然」ではなく「偶然」でしかないということを、感覚としてかかえこんでしまったのだ。自分の存在に対する漠然とした不安というものを初めて感じたのが、このときのことだったと思う。この不安感はその後もずっと消えることなく、僕の奥底にこびりついてしまうのである。(一八ページ)

東京の住宅街は、ほぼ「風景」が変化しない。同じような細道があって、間をはさんで、同じような家々が密集する。どれを見ても、なんにも違うように見えない。よくも、こんな同じような家を、真似したわけでもなく、作っては、並べたものだな、という感じだ。
そうすると、小さな子どもの低い目線からすれば、なおさら、上記の感覚になるのは、分かる気がする。
高橋英利は、大学は地質学だったそうだが、カミュキルケゴールニーチェを読むような、あまり人づきあいのよくなさそうな、ひきこもりぎみの学生だったようだ。こういった彼が、神秘思想の本に手を伸ばし始めることは、自然だったのかもしれない。
グルジェフクリシュナムルティの文章に親しむようになる。そういったきっかけとしては、中学時代に聞いていた「プログレッシブ・ロック」で知るようになったということらしい。
こういった神秘思想については、基本的には、これらをアメリカにおける「ニューエイジ運動」という枠組みから分類し始めることが一般的なようである。

「精神世界」にあたる現象は欧米では「ニューエイジ」(New Age)とよばれることが多い。一九八〇年代の後半に入って欧米では「ニューエイジ」への関心が高まり、この用語はマスコミだけでなく、宗教学者社会学者の著書論文において広く用いられるようになってきた。

そもそも、こういったニューエイジとは、どういうものなのか。少し長くなるが、その全体像を「正確」に見通すという意味で、引用してみたい。

[A]

  1. 自己変容あるいは霊性的覚醒の体験による自己実現(中略)
  2. 宇宙や自然の聖性、またそれと本来的自己の一体性の認識(中略)
  3. 完成・神秘性の尊重(中略)
  4. 自己変容は癒しと環境の変化をもたらす(中略)
  5. 死後の生への関心(中略)
  6. 旧来の宗教や近代合理主義から霊性/科学の統合へ(中略)
  7. エコロジーや女性原理の尊重(中略)

[B]

  1. 超常的感覚や能力の実在(中略)
  2. 思考が現実を変える(中略)
  3. 現代こそ意識進化の時代(中略)
  4. 意識進化は宇宙的進化過程のひとこま(中略)

[C]

  1. 輪廻転生とカルマの法則(中略)
  2. 地球外知的生命(ETI)との接触(中略)
  3. 過去の文明の周期と埋もれた文明の実在(中略)
  4. 人体におけるチャクラや霊的諸次元の存在(中略)
  5. 水晶・音・香・場所などがもつ神秘力(中略)
  6. 指導霊の存在(中略)
  7. 体外離脱や誕生前記憶の体験による霊魂の存在の確認(中略)
  8. チャネラーやシャーマンの真正性(中略)

では、これらを具体的な運動の視点で分類すると以下となる。

昔、「ムー」という雑誌があったが、まあ、完全にあそこでの話題と、上記は一致していると言えるだろう。近年で言うところの
電波系
そのものですね。もっと言えば「トンデモ」ということになるか。
ただ、一点注意が必要なのは、上記で言っているニューエイジ運動とは、
アメリカ合衆国
の話だということである。これは、アメリカで起きた「運動」の話なのだ。つまり、こんな日本の雑誌「ムー」のようなものが、アメリカにあって、それだから、日本に
輸入
されたのだ。
そして、もう一点強調しておくべきことは、上記を見られて分かるように、これは、アメリカにおける、正統派キリスト教に対する
カウンターカルチャー
なんですね。キリスト教的道徳が強いる文化の「限界」が、こういった方向の再評価を強いているわけで、つまりは、アメリカ文明の内部からの抵抗運動という側面があるわけです。
ということは、どういうことでしょうか。つまり、これが日本に受け入れられるとき、何が起きるでしょうか?

ここで注目すべきことは、欧米と異なり、日本の新霊性運動は主流文化にたいへん近い位置にいるということである。新霊性運動が好んで取り入れようとするアニミズム、自然との生命的交流、呼吸法、瞑想による内的調和といった思想や実践は、日本の宗教的、精神的伝統の本流に属すると自覚されてきている。日本では正統的な教養と新霊性運動の知的内容が大きく重なり合っている。カウンターカルチャーがメインストリーム・カルチャーに容易に浸透していくわけである。

たとえば、ペイガニズムとは、欧米であれば、キリスト教「以前」の精神世界、つまり、古代ギリシアケルトなどの
再興
を目指す運動ということになり、つまり、アニミズムなんですね。そういった延長から、欧米のニューエイジ運動は、欧米以外の地域の、文化に親近的になっていきます。
他方、日本においては、そもそも、日本の神道から仏教から、かたっぱしから、アニミズム的なわけで、つまり、日本のエスタブリッシュメントは、最初から、
ニューエイジ
なわけですね。だから、「対抗運動」にならないわけです。日本のアニメなどの、サブカルチャーがここまで、
ほとんど、なんの抵抗もなく
隆盛を極めるのは、そもそも「対抗」勢力が、そもそもの保守本流だから、抵抗が「ない」から、ってことなんですよね。
たとえば、シンガポールや香港は、日本と似て、先進国的になってきているわけで、もっと日本文化のように、サブカルチャーが隆盛になってもいいように、私たちからは思われるが、そうならない。というのも、こういった地域は、今だに、
イギリスの植民地
の名残りが強く残っている。実際、イギリスは今もこういった地域を世界中に持っている。というか、日本以外の世界中は、実質、なんらかの意味で、欧米の植民地として、
去勢
された経験があるだけでなく、実質、今もその「大きな影響下」にあるわけで、このことが、なぜ、ほぼ日本「だけ」が、ここまで、アニメなどのサブカルチャーが、アメリカのハリウッドと
対抗
する形で隆盛を極めているのかの、理由となっているわけでしょう。
私は、だから、いい悪いということが言いたいわけではありません。そうではなくて、世界においては、上記の対立は対立なんだ、ということを理解した方がいい、ということなんですね。向こうは、そういう世界なのであって、それがリアルだということです。
ただ、私は上記の本を読んでいて、ある点において、こういったものを「こういった」観点で考えていても、あまり意味がないんじゃないか、という感覚になってきました。
たしかに、人には、人それぞれの「精神」世界があるのであって、そこには、奥の深い問題が埋まっている。別に、そういったことを否定したいわけではありません。そうではなく、そもそも、そういったことが
問題
として、せり上がってくる「背景」とはなんなのか、ということなわけです。

ニューエイジャーにとって人間の運命を左右するのは、人間を超えた人格的存在や超越的な原理ではない。日常生活を支配するのと同レベルの力であり、法則である。それは人間の力で完全に認識ないし把握できるものである。したがって運命を変えていくことは、全面的に人間個々人の責任に属する。人生の最高の目標は自らの力で自己の魂のレベルを向上させていくことである。

戦後の全共闘運動以降の、ベトナム戦争のヒッピー以降にあらわれる、こういったニューエイジ運動と、それ以前に存在した、救済宗教を分けるのが、こういった
自己責任
つまり、資本主義社会的作法であると言えるのではないだろうか。私は、こういったニューエイジ的なものや、サブカルチャーの特徴とは、徹底した、
消費社会における「商品」
としての位置付けにあるところなのではないか、と思っている。例えば、上記で並んでいる一連の精神運動は、資本主義的な「セミナー」や、書籍などによって、
商品として買う
という行為によって、始めて、そのように「ある」ものである、ということが分かるだろう。
戦後日本の消費社会は、オイルショック以降に大きく変化していく。高度成長を果たし、バブル崩壊まで、日本の成長は、ポストモダンと重ねられ、日本的な

  • 消費社会

として、理解された。しかし、そのポストモダンとは、一言で言えば、ボードリヤールのことだったと言ってもいいのではないか。
ただし、ボードリヤール自身は、多くの著作を残し、多くの論点に言及している哲学者だったわけだが、私は初期の作品である、「物の体系」に、この人の「可能性の中心」は、全てあると思っている。

人間、動植物の豊富さについて調査してきた。そして人間が動植物の調査を体系的に始めたその時代に、人間はまた、自分たちのまわりにある実際に使う物、技術によって造られた物のすべてのカタログを百科事典によって作成できた。それ以後、均衡は破られた。日常生活に使用する物(機械については言わないでおく)は数が多くなり、需要がふえ、生産は物の誕生と死に加速を与えているのに、そういう物を表す語彙が不足している。

物の体系―記号の消費 (叢書・ウニベルシタス)

物の体系―記号の消費 (叢書・ウニベルシタス)

私は、こういった「記号消費」的な傾向が、一気に加速したのが、オイルショック以降だったのではないか、と思っている。それまでは、なんだかんだ言って、
素朴
であった。どうせ、エネルギーは無料(ただ)同然だったから、あまり、商品を偏執的に分類していく動機が、あまり生まれなかった、ということではないか(どうせ、似たようなものを「ただ同然」で作れたわけだから)。しかし、オイルショックによって、エネルギーは、デフォルト
高価
であることが、「当たり前」という、それまでには「だれも考えたことのない」ことが「自明」となる。エネルギーが「高価」なら、人々はこの「矛盾」を、なにかによって、回避しなければならない、という動機が生まれる。つまり、ここから、ポストモダン的な資本の自己運動が加速していく。
ある商品は、高価なエネルギーによって生産されることによって、この「高価」を担保して売れなければならない。つまり、商品の
差異化
である。その商品は、他の商品と違うから売れる。しかし、実際は違うわけがない。同じように作るにきまってるのだから。しかし、そうだとするなら、どうなるか。その差異を、
でっちあげる
しかない。つまり、なにがなんでも違う「ということにする」となる。つまり、とにもかくにも、この商品に「別の名前」を「わざわざ」つけることで、
他とは違う(他と違った名前がついている)
なにか、と人々に呼称することを「強制」するようになる。

家具の配置は、ひとつの時代の家族・構造を忠実に写すイメージである。金持の家の室内は、家父長的な秩序になっている。
物の体系―記号の消費 (叢書・ウニベルシタス)

ポストモダン的消費社会以前において、たとえば、家を考えてみよう。それ以前において、家とは、その家族の社会的ステータスを意味する「なにか」でしかなかった。そこに置かれているものとは、まず、第一義的に、
同じような階級の家々に置いてあるのと同じようなもの、が置かれていることが大事なのであって、その家具一つ一つが「何」なのかなど、どうでもよかったのだ。同列の階級の人同士で
恥ずかしくない
ように、「同じようなもの」が置いてあるという事実が重要だったわけだ(そうすれば、恥をかかなくてすむ)。
そうすると、その家に置いてある、家具それぞれの「個性」など、どうでもよくなっていく、ということが分かるだろう。むしろ、個性があるということが、
欠陥品
であるという疑いを呼ぶ。むしろ「みんなと同じ」で区別できないくらいに同じだから、価値があるわけである。
ところが、ポストモダン消費社会以降、この様相は一変する。

広告はあらゆるところで装飾のこの新しい様態を上手に活用する。《快適でよく連絡している三つの部屋を三〇平方メートルで!》、《あなたのアパルトマンを四倍に!》もっと一般的には、広告は《問題》と《解決》ということばで室内と設備について語る。装飾の現代的意味は、《趣味》にはなく、また物の劇場を作ったり、雰囲気をかもしだしたりすることにはなく、ひとつの問題を解決すること、与えられたもののもつれた状態に最も緻密な解答を与えること、ひとつの空間を動員することにある。
物の体系―記号の消費 (叢書・ウニベルシタス)

ポストモダン消費社会において、あらゆることは、資本主義社会における、商品となる。この資本主義社会とは、あらゆる原理原則の
全て
が資本主義社会力学によって、動き続ける世界だと言える。ここで「全て」と言っていることを、なんらかの「比喩」レベルで考えてはいけない。マジで、このことの意味を考えなければならない。
どらえもんの胸のポケットからとりだされる未来の道具のように、ポストモダン消費社会の商品は、それ以前の時代のように「それを自分が持っていることが自然」であるような、自明ななにかではない。
それはむしろ、
記号
に近い。まず、「差異」が、その存在に「先行」する。つまり、「差異」があるから、あるのだ。ある差異化された差異(記号)があることによって、ある問題の
解答
として、提示される。そうやって、あらゆる商品はなんらかの「目的」において、差異化されているだけで、人々は、そのようにして「買った」膨大な商品の山に、埋もれて途方にくれている存在だということになる。
私は「あらゆる」ことが商品だと言った。
ということは、あらゆることが商品的である、ということと同値である。
人間が名前をもつことは、人間が商品であることを意味し、精神世界が資本主義社会において、セミナー勧誘などで、商品化されていることも、同様の形態であることを意味する。
それだけではない。そもそも、言葉で表せられるということは、それが「商品」なのだ。言語によって表現された時点で、それは、
売り物
に対する、形式的な表現に乗っていく。どんなものも文字化(記号化)できるなら、売ることができる。
愛や憎しみも、その表現(記号)において、商品流通を流れ、
消費
されていく。

  • どんな言語化できるものも、言語化できた時点で、商品となりうる。

ニューエイジサブカルチャー的な、精神や魂とは、人間の内面の最後の部分であるわけで、私たちは、こういった部分の人間にとっての重要性(囲い込み)を強調しがちだ。
ところが、こういった精神的活動は、ポストモダン消費社会においては、すでに、商品化が、
先行
していることを理解する必要がある。つまり、ここでの精神や魂は、すでに資本主義によって、
去勢
された後のそれであって、すでに

  • 資本主義なしには、今の形ではありえなかった

なにか、だということである。
柄谷さんの「世界史の構造」において、世界宗教論が展開されるが、これもそうで、世界宗教は常に資本主義の発展(都市化)が、
先行
していることは重要である。つまり、ここにおける「精神や魂」は、資本主義的な差異化による差異なのであって、こういったもの抜きに、すでに私たちは考えられなくなっていることを認識しなければならない。
私が掲題の本でとりあげられている精神世界関連の知識に、基本的に興味がない、と言う理由は、こういうことであって、
精神世界は、資本主義社会によって「構造化」されている。
(人々の「需要」が、その「精神」を「要請」する。)
だとするなら、この資本主義社会に対する考察が先行することなしに、こういったものを考察することはありえない、ということである...。

精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性

精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性