ダイアローグ社会2

マージャンの漫画「咲-saki-」は、女子高校生が、高校野球のように、部活動として、地区大会、全国大会を勝ち抜くストーリーとなっている。
アニメ化もされているが、作品を読んで、まず目が行くのが、
田舎の自然の描かれ方
だ。主人公の宮永咲が通う高校は、長野の田舎で、学校の回りは、美しい自然に覆われている。
地方で、回りにそれほど、娯楽もなく、みんながマージャンに毎日を熱中して過した日々を、そういった自然の美しさが、逆に示しているようにも思える。
全国大会に進んでくる田舎の県の代表の高校は、やはり同じように、美しい田舎の風景に囲まれた、高校のマージャン部で、同じような、静かでのどかな、のんびりした雰囲気を感じさせる。
こういった部活動は、なぜ行われるのだろう。そもそも、トーナメントとは、残酷な仕組みである。一回戦で負けたら、そこで終わりだ。というか、一回戦で、
半分
が負けるのだ。2分の1だぞ。ということは、ほとんどが、一回しか試合をやらないということでないか。何回も勝ち抜いて、全国優勝を、全国の学校が目指しても、そんなことができるのは、全国の一校しかないわけで、じゃあ、ほかの学校って、なんだったんだろう、と思わないだろうか。
だとするなら、高校の部活動の「目的」は、全国優勝することでは「ない」ということになるだろう。じゃあ、なんなのか。
それは、「実際に彼らが行っていること」を見れば、分かる。
後輩は、一方において、負けたら先輩に迷惑になる、とそのプレッシャーに押し潰されそうになる。ガタガタ震えながら、なんとか、今回で高校を引退する先輩に花道を飾ってもらおうと、必死になる。
先輩は、そういった後輩がプレッシャーに苦しんでいる様子を見て、彼らを励まし、彼らに多くの経験を積ませ、我が部活をこれからも存続していってほしい、と後輩たちの未来に夢を残していく...。
つまり、ここには、お互いへの

  • 気づかい
  • 思いやり

がある、ということが言える。というか、それ「だけ」があるのだ。それしかないのだ。だれも、自分のことなんか考えていない。だれかのためになにかをしたい。そう思うなら、自分など「どうでもいい」のだ。
たとえば、今期、放映中のアニメ「夏色キセキ」は、まだ、この作品の全体像が見えてきてはいないが、作品の雰囲気は前半から、十分に伝わってくる。
4人の幼なじみの中学2年の女の子が、近くの神社にある、お石さまに触り、願い事をすると、その願いが叶いストーリーが進んでいく。水越紗季(みずこしさき)がここを去り、東京の学校に転校することが決まったところから、ストーリーは始まる。
第1話で、花木優香(はなきゆか)は、小学校の頃、4人が、みんなで、お石さまにお願いして、近くのカラオケ大会に出場し優勝し、4人でいつかアイドルになろうと約束したことを思い出し、お石さまに、それをお願いしよう、と提案する。
しかし、転校する紗季(さき)は、いい年して、いまだにアイドルとか言っている優香(ゆか)が信じられない。アイドルなんて、なれるわけないじゃない。そのきつい口ぶりにふれて、優香(ゆか)は、思わず、泣き出してしまう。
第4話で、お石さまに偶然、お願いしたため、優香(ゆか)と紗季(さき)は体がいれかわる。優香(ゆか)の体になった紗季(さき)は、その日、優香(ゆか)の家の部屋に入ったとき、4人アイドルグループの「フォーシーズンズ」のグッズやポスターが部屋中にあるのを見て、そうやって今でも、アイドルにあこがれ、彼女が夢を見ているんだな、というのを実感し、いかにも、彼女らしいと思う。
アイドルとはなにか。
アイドルとは、その女の子のアイドルになりたいという夢を「叶えてあげたい」と思うファンたちにとってのなにか、なのだ。
ファンたちは、その女の子の夢がアイドルになることであって、なんとか売れて、アイドルになりたい、と思っていると思って、

  • なんとか彼女をアイドルになれるように、サポートしたい

と行動することを意味する。なぜなら、それが、その女の子の「夢」だと思っているからだ。
(まあ。キャバクラの人気投票。AKB48のセンター争いみたいなものですね。)
こんな田舎の山の中で、中学2年生にもなって、今だに、4人でアイドルグループでデビューしたい、なんていう「夢」をもっていることは
愚か
だろう。しかし、彼女が本気でそう思っているなら、きっとそんな彼女を応援したいと思うファンが生まれる。つまり、その時点で彼女は、もう
アイドル
なのだ。売れるかどうかなど、どうでもいい。
アニメ「戦う司書」において、第8話で、エンリケは、生き続けることを選択するが、それは自分が生きることを後押しした、ノロティの「ため」に生きる、ということであったことは、作品から伝わってくる。
エンリケは、それまでの人生で、多くの人々を殺し、彼は、すでに未来に生きることに、なんの未練もない。自分が生きることは、過去に自分が殺した人々を冒涜することであり、なぜ、これからも生きなければならないというのか。
それは、唯一、ノロティの「夢」のためだったと言えるだろう。彼女が、彼女の夢のために、自分を頼り、必要としてくれるという「そのこと」だけのために、たとえ、彼女の思い描く夢が、現実には叶えられそうにない「愚か」なものであったとしても、彼女がそれをあきらめていない限り、エンリケはそれに殉じることを選ぶ。
実際に、ノロティは、その信念を貫いたために、田舎の片隅で、なんの価値もない鬼畜の所業によって、死ぬことになるわけだが、エンリケは、その道のりをたどり、彼女の今際の際(いまわのきわ)の意志を実行する旅へと向かう。
ラカンは、欲望とは他人の欲望だと言ったわけだが、これを字義通りにとるなら、私たちには欲望はない、ということになる。あるのは、相手がこうあってほしいと願っていると自分が思っていることを、相手のために、なんとかやってあげたい、と思っている自分の意志だけ、ということになる。
実際に、年齢を重ねてきて、自分がなにかをしたいとか、なにかになりたい、とか、あまり思わなくなっているのに気付く。それは、どちらかというと、今やれることを、たんに、選んでやっているという「現実」的な生活となり、あまり、夢を考えなくなっている、ということなのだろう。
そもそも、「自分」という言い方が、違和感がでてきている。パフォーマティブに、「自分はどういう性格で、こういう自分になりたい」と言うこと自体に、違和感を覚えるようになる。自分に性格が「ある」ということを自分で言うことに、抵抗を覚え、なにかになりたい、というイメージが、わかなくなる。
自分なんてない。
あるのは、自分に期待をしてくれている、だれかの期待に答えてあげたい、という
気まぐれ
のようなもの「だけ」なんじゃないだろうか。
よく考えてみれば、人生って、ほんとにやることがない。やるべきことも、思いつかない。近年は、当事者主権といって、「あなたのやりたいことをやれ」と、はげまされるが、そう言われれば言われるほど、「萎える」。自分は、ダメだな、と思いながらも、でも、身の回りを振り返って、こんな自分でも、なにかの役に立つなら、と、ときどき行動してみるくらいで、そういった何かが、かろうじて、自分とこの世界を、繋いでいるのだろう。
どうも、私は、近年の、社交的肉食系のガツガツしたのが、苦手ということらしい...。