川端幹人『タブーの正体!』

民主主義というのは、なんらかの合意を達成していく手段として、理解されている。しかし、それはどういうことなのだろうか。というのは、つまり、そんなものが「ありうる」のだろうか。
つまり、どういうことか。
なんらかの「合意」が、「システム」で、担保される「はずがない」ということである。あるシステムが存在すれば、そのシステムが機能する限りにおいて、合意形成が実現する、という場合の「システム」というのは、原理的に存在しえないのではないか。
つまり、合意を「システム」でまにあわせよう、まにあわせられるという発想が、すでに「傲慢」なんじゃないだろうか。
同じことは、資本主義社会における、
商品価格
についても言えるだろう。ある商品の価格はいくらになるかを、「シムテム」で決定できる考えるというのも、よく考えてみると変な話だ。
たとえば、「イノベーションのジレンマ」という本があるが、この本を読んだ人というのは、どれくらいいるのだろうか。
まあ、一言で言ってしまえば、あらゆるイノベーションは、光の速さでパクられるんだから、そのイノベーションのために、行った、あらゆる「投資」は、報われない、ということになるだろうか。
じゃあ、どうしたらいいのか?
この問題は難しい。じゃあ、逆に考えてみよう。つまり、イノベーションがジレンマになるとするなら、イノベーションの永久運動から、まぬがれている存在というのはいるのか?
安冨さんは、それを、ブローデルの概念を借用して、関所資本主義と呼ぶ。

  1. 商業金融資本主義
  2. 産業資本主義
  3. 情報流通資本主義
  4. 国家資本主義

経済学の船出 ―創発の海へ

経済学の船出 ―創発の海へ

中世ヨーロッパにおいて、封建領主の領地を移動するたびに、その間にある「関所」で、膨大な通行料をとられた。こういった慣習を嫌った、商人たちが、団結して、絶対君主による封建領主の権力の縮小を目指したのが、ブルジョア革命だと言えるだろう。
しかし、このように、「交通」の要所を、さまざまな理由をでっちあげて、「みかじめ料」をかき集めるのが、関所資本主義である。この特徴は、食いっぱぐれることがない、儲からなくなることがない、つまり、錬金術そのものなのだ。
商人はこの要所を通らなければ、外との商売をできないから、「絶対に」通らなければならない。つまり、そこで必ず、お金をまきあげれば、「絶対に」儲かるわけです。
金融業、大企業、大手メディア、公務員。どれも、国家による、資格(関所)によって運営されることで、国家によって守られた産業であることが分かる。
こういった分野は、基本的に国家の許認可によって「資格を与えられる」場所か、または、「ほぼ官営のように、国家事業として行われてきた産業」か、いずれにしろ、
国家の機能と区別「されていない」
形態を示していることが特徴だ。
国家は、こういった産業が儲かるように、国家を運営する。つまり、どんなに国民が苦しもうが、こういった産業が「絶対に」儲かるように、国家を運営する。だから、
錬金術
なのだ。こういった分野が、イノベーションのジレンマに悩まされることはない。なぜなら、競争がないからであって、競争がない(競争をさせない)から、既得権化できている、ということになる。
しかし、競争がない、というのは、

の競争を、必然的に発生させる。こういった世界に入れば、安定した収入が約束されるのだから、当然、その入口は狭くなる。公務員とは「コネ」そのものとなり、むしろ、違った「場所」において、醜悪かつ無意味な「競争」が、はびこるようになる。
それにしても、上記の分類は、ちょうど、掲題の本における、マスコミの「タブー」と、表裏の関係にあると言えるように思われる。

新聞、テレビ、週刊誌をはじめとするメディア各社には、この雑誌の「協力者」「情報源」が多数存在していて、彼らが事実をつかみながら圧力や自主規制によって報道できなかった情報が毎日のように編集部によせられていた。
「皇室内部のトラブルをつかんだが、ウチじゃ記事にできない。おたくでできないか」
検察庁の裏金問題を取材していたら、司法記者クラブから圧力がかかりつぶされた。記事にしてほしい」
「ウチの社会部が、公共工事に絡む同和団体幹部の不正の証拠をつかんだが、取材さえさせてもらえない。どうにかならないか」
「大物タレントが載った号が発売直前に刷りなおしになった。調べてくれ」
そして、『噂の真相』自体も、メディアが報道できないこうしたタブーを活字にした結果、さまざまなトラブル、リアクションを引き起こした。東京地検特捜部による起訴や警察庁のガサ入れ、エセ同和団体からの脅迫、さらには右翼団体の襲撃など、タブーにふれることがいかにメディアにとって危機的な状況をもたらすかを、私自身、身をもって体験した。

しかし、タブーとは、本当にタブーなのか? この問いの意味は、非常に重要である。たとえば、皇室問題にしても、実は、戦後すぐから、60年代くらいまでは、比較的、自由に報道されていたことが掲題の本に書かれている。それは、戦後すぐにおいて、日本は、アメリカ占領軍によって、占領されていたため、実質、日本の報道は、アメリカのコントロール下にあったからだ。
つまり、逆にそのことが、日本の皇室報道を、かなり自由にすることになった側面があったわけである。
ところが、60年代以降、アメリカの影響が薄れるにつれて、右翼団体の「暴力」行為が活発になる。

転換点は安保改定の翌年、一九六一年に起きた「風流夢譚事件」、別名「嶋中事件」だろう。事件の発端は、『中央公論』一九六〇年一二月号に、深沢七郎の小説「風流夢譚」が掲載されたことだった。
この小説は「私」が見た夢の話なのだが、問題はその夢の中身だった。井の頭線に乗っていたら、客達が「今、都内の中心地は暴動が起っている」と話しあっている。そこで、「私」が皇居広場に行くと、皇太子殿下と美智子妃殿下が仰向けに寝かされ、マサキリで首を切られている。さらには、昭和天皇や皇后も民衆に処刑されている。しかも、皇太子殿下と美智子妃殿下の首が「スッテンコロコロ」「転がっていった」と描写されていたり、「私」が昭憲皇太后に「この糞ッタレ婆ァ」と毒づくシーンもある。
もっとも、「風流夢譚」はたんなる反天皇小説というわけではない。むしろ、いっさいの現実的な価値を無化することが主題であり、その素材として、天皇制や安保闘争を使ったといったほうが正しいだろう。

しかし、この小説に右翼・民族派団体は激怒。大日本愛国党をはじめ複数の右翼団体が激しい抗議行動を開始した。宮内庁も当時の宇佐美長官が、『風流夢譚』は皇族に対する名誉毀損、人権侵害の疑いがあるとして、法務省に対応の検討を依頼した。この事態に、中央公論社は『中央公論』の竹森清編集長が、宮内庁大日本愛国党・赤尾総裁を訪問して謝罪し、新年号で遺憾の意を表することで事態の収拾を図った。
ところが、年が明けた二月一日、事件が起きる。一ヶ月前に大日本愛国党に入党したばかりの弱冠一七歳の少年が中央公論社の嶋中鵬二社長に押し入り、嶋中夫人、さらには間に入って止めようとした手伝いの女性に包丁で切りつけたのだ。そして、夫人に瀕死の重傷をおわせ、手伝いの女性を死亡させてしまったわけである。
この事件の三ヶ月半前、やはり大日本愛国党に所属する山口二矢が、日本社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺しているが、メディアに対すテロで死者が出たのは戦後初めてのことだった。

そもそも、同社の対応は事件直後から不可解なものだった。事件の五日前の二月六日には『中央公論』竹森編集長が責任をとって退社。同日深夜には、作者の深沢七郎が記者会見を開いて涙を流しながら「私の書き方が悪かったのです」と謝罪する。さらに七日には、全国紙朝刊に社長・嶋中鵬二名で、「不適切な作品であったにもかかわらず、私の監督不行届きのため公刊され、皇室ならびに一般読者に迷惑をかけたこと、殺傷事件まで引き起こし世間を騒がせたことをお詫びします」という謝罪文が掲載された。
この事件で中央公論社及び嶋中社長は被害者のはずだ。それがまるで加害者のように、謝罪と処分を次々行ったのだ。

この事件以降、日本のマスコミは、皇室報道や右翼報道を過剰に自主規制していく。なぜ、過剰な自主規制と言えるのか。それは、戦後すぐの報道と比べて、あきらかに抑制的になっていったからである。
しかし、こういうものを「タブー」と言うのだろうか? だって、戦後すぐからは、もっと自由に言及していたのだ。違うだろう。つまり、
暴力
ではないか。自らの不作為の言い訳をするために、暴力を「タブー」と言い換えているにすぎないのではないか。

要するに、メディアが宗教批判に踏み込めない最大の要因は、暴力への恐れなのである。「信教の自由」は、この恐怖を糊塗するための御題目にすぎない。

これは、たんに宗教団体だけの問題ではない。さまざなま、政治タブー、経済タブーを含め、上記の「関所資本主義」勢力が、自らの権益を守ろうとするときに、どうして、その「手段」をためらうだろうか。
どんな中間集団も、自分たちの主張を貫き通すためには、あらゆる暴力も排除することはない。なぜなら、そういった暴力を避けようとする理由がないからだ。そういった中間集団に所属する、ある個人が、その目的を達成しようと考えたとき、暴力的な脅しは、普通に考えると、愚かな戦略のように思われる。実際、その人個人にとっては、そうであると言っても、間違ってはいない(結果として、牢屋に入れられるわけで)。
しかし、往々にして、この戦略は効果覿面なのである。なぜなら、その個人をいくら、法的に「隔離」したつもりになっても、問題は、その中間集団そのものだからだ。その個人にどんなに法的制裁を加えたつもりになっても、その中間集団からの
糾弾
が終わることはない。次から次から「刺客」を送りこまれ、さまざまな「いやがらせ」を表沙汰にならない形で、陰湿に続けられれば、いずれ、「支障」をきたすにきまっている。
今でも、右翼は、もし一般市民が行えば間違いなく逮捕されるような、大きな音を拡声器で街中でオルグしているが、なぜか警察はその回りをとりかこみながら、彼らの行為をやめさせない。
つまり、タブーでは「ない」。タブーだと言っているのは、自分たちのヘタレぶりを直視できない側の「かっこつけ」であって、実際は「暴力」そのものなわけだ。
暴力と戦うことから逃げて、なにか立派なことを自分はしている、と思っているのだろう。
暴力は市民社会の悪であるわけだが、そうすると、できるだけその悪に直面しない作法が発達する。それが、タブーである。暴力をふるわれないためには、その原因を避ければいい。つまり、その問題のタブー化である。大手マスコミが、宗教タブー、経済タブー、政治タブーにふれないことで、こういったトラブルを避ける。
しかし、これが現実だとするなら、さて、民主主義だとか、価格決定メカニズムだとかは、一体なんだったんでしょうね。

第三章で述べたように、経済活動の本質は、必要なものを、必要な場所に、適切な形で届けることである。これを受け取った者は、生きる力を発揮することができる。より正確には、生きる力の発揮を阻害するものを取り除くことができる。この創発の実現を補助することが、分業経済における価値の源泉である。しかるに、利益が出るかどうかを決めるのは、貨幣的交換を支える価値体系である。この体系は、創発的価値をそのまま表現するようにはできていない。なぜなら価格体系は、参加者の納得の集積であり、どういう水準で納得するかは、文化的歴史的要因を含む、さまざまの事情によって決定されているからである。
とはいえそれはまったく勝手に決まるものではなく、人々の納得基盤にしているので、そこに何らかの合理性が働く。この合理性は、人々の効用最大化に依存するのではなく、道理に対する感覚から生じる。こういう商品なら値段はこんなもんだろう、とか、これでこの値段は高すぎるとか、こんなに良いのにこの値段は得だ、とかいった感覚である。人々の道理に対する感覚がおかしくなると、価格体系に大きな歪みが生じうる。たとえば土地価格に対する感覚が狂ってしまえば、土地バブルが起きる、という具合に。
経済学の価格理論は、労働価値説も限界効用価値説も、人間のこの感覚を無視して構成されている。そうした前提のもとに、人間以外に価格決定の主体を求めるのが、これらの理論の骨子である。
しかし、人間以外に価格決定の主体がこの世に存在する、と考えるのは、オカルトではないだろうか。人間はその価格に納得すれば買うし、納得しなければ買わない。納得できる価格なら売るし、納得できなければ売らない。そういった個々の判断の集積が価格決定機構として作動する。経済理論はこの「納得」を、投下労働との一致や、限界効用で説明しようとするが、人間の納得という極めて複雑で高度な計算過程を、そんなに単純に規格化するのは非科学的である。サーリンズのように価格を平和条約と看做し、誰もがなるべく腹を立てないところに決まる、と考えて、それ以上は追求しないのが、健全で科学的な態度だと私は考える。
このような次第であるから、人々を何らかの形で納得させて、自分に有利な価格体系を押しつけることができるなら、大きな利益を恒常的にあげることができる。そのなかで最も効率的かつ普遍的な方法が「関所資本主義」と私が呼ぶものである。関所資本主義とは、コミュニケーションのボトルネックを占拠するか、あるいは意図的にボトルネックを作り出し、そこを管理することで通行料を獲得するビジネスである。
経済学の船出 ―創発の海へ

そもそも、なんらかの合意形成が、民主主義や、価格決定メカニズムのような
システム(ルール)
によって、決定できると思うことの方が、お花畑なのではないか。
それは、「作業の効率化」という面では、有効に機能することはある。しかし、各自にとってクリティカルな問題においては、そもそも、「自動的に」合意など成立するはずがない。
つまり、みんなが「腹を立てなくなる」から、なんとなく、それが「合意」ということになったというだけで、そうでなければ、いつまでも決まらないことの方が当たり前なのではないか。
上記では、そういった抗議行動を、それが必然的に暴力的になるという意味で否定的に検証したが(その上で、むしろ、その暴力を怖がってタブー視して、無視するようになる側の問題としたのだが)、人々の生の営みからしたら、抗議することは、むしろ当然の「権利」であり、行動であり、自然そのもののことのはずだ。
例えば、ある企業の社長が、国会議員に立候補して、当選して、自社に有利な法律を次々と通したとすれば、これは、一種の「関所資本主義」だと言えるだろう。国会議員という「関所」を使っての「合意形成」なのだから。
つまり、民主主義をシステムとして考えるなら、この社長の自社の利益追求行動は、国会議員に当選しているという時点で、自動的にシステムとして成功していることになる。
しかし、どうして、そんなことを、私たち市民は許せようか。
システムやルールとは、もう一つの「関所資本主義」にすぎない。
つまり、このことは、肯定的な面においても考えられるはずなのだ。それは、例えば、現在の反原発運動のもりあがりが、確実に、間接民主制の「主体」である、国会議員の行動に影響を与えているはずで、こういった国民の盛り上がりを無視して、国会議員のKYで、政治的な意志を決定できないでいる。まさに、
みんなが「腹を立てなくなる」
だけが、政治的意志なのであって、それ以外のなにか(形而上学)がありうると夢想することそのものが反動的なのだろう...。