西尾維新『悲鳴伝』

ゼロ年代を代表する西尾維新の今回の、長編小説は、多分に、311の東北の津波を意識していると解釈される。
ある日、地球中の人々は、ある「悲鳴」を聞く。ほぼ一人の例外もなく聞いた、ということになる。そして、その悲鳴時点で、「ランダム」に、世界の3分の1の人間がそれによって亡くなる。小説では、それを「大いなる悲鳴」と呼ぶ。
他方において、この小説に代表される著者の問題意識には、ゼロ年代としても共通する、酒鬼薔薇事件の影響も感じるわけである。
この小説の主人公の空々空(そらからくう)は、野球部に所属する中学生でありながら、ヒーローとしてある組織に、誘われる。というか、彼の親兄弟、学校の友達、全員をその組織の人間が殺した後に、彼に、うちの組織に入らないか、と誘う。
もちろん、主人公は、自分の親族から知り合いをかたっぱしから殺されてから、その組織に誘われるということでは、もう彼には他に行くところはない。もう、身寄りはないという意味で、誘われるこの組織に入るしかない。しかし、それにしても、これほどの虐殺が起こされて、それでも、献身的に組織のために働くというのは、どこか、この主人公は
異様
なのだ。

卒業式で泣いている振りをした。頑張って泣いて、成功したと思った。
テストで百点満点を取って喜んでいる振りをした。嬉しいはずだと思い込んだ。
友達が苛められていることに憤った振りをした。確かに怒っていたはずなのだ。
サヨナラホームランを打ってガッツポーズの振りをした。腕のあげかたが不自然じゃないか、ずっと気になっていた。
担任の先生に反抗的な振りをした。先生に悪いという気持ちを努力の末になんとか塗りつぶした。

主人公の、あらゆる発言、あらゆる判断に、この主人公の主体は感じられない。それは、他人にどう見られているかを、本人が「想定」によって作られる「個性」だということが分かる(パフォーマティブ)。その価値基準は、そう振る舞う自分の行為が他人を
満足
させるかどうか、である。他人が自分の行為に満足している限り、「軋轢」は発生しない。
しかし、この作品がゼロ年代的なのは、そこに、一種のトリックがあるからではないだろうか。まず、主人公が住んでいた地域が「どこ」なのか、一切書かれていない。私たちは、そういった地域名が書かれれば、その地域の一般的な雰囲気と照して、この主人公を考えたはずなのだが、そういった記述は一切ない。同じく、主人公には、両親と二人の弟がいたことが書かれているが、彼らの名前は、どこにもない。この5人が、どのような、家庭環境だったのか、まったく分からない(父親が国文学の大学教授だったから、妙に、国語が得意だったという「口達者」の言い訳はあるが)。
つまり、主人公を非常に
抽象的
に描くわけである。そうすることによって、主人公のその独特の特徴が、「なにに由来しているのか」をぼかす。それだけでなく、一般的に日本中で見られる
ゼロ年代
的な特徴として描こうとする。
例えば、311によって、津波によって多くの人が亡くなった。ところが、こうやって、一年が過ぎれば、人々はまた、いつもの日常に戻っている。これを、
非人間的
ということは、簡単だ。そうすると、少なからず、私たちは、だれもが、この主人公のような「非人間性」をもっているのではないか、という疑いを問いかける。
例えば、主人公が所属する組織が戦っている相手として、「怪人」と呼ばれている相手は、
まったく普通の人と区別できない
ことが特徴としてある。つまり、ある組織が開発した特殊な眼鏡で見ることによって判別されるある特徴を除いて、まったく差異がない。つまり、「怪人」と呼ばれている存在自体も、普通の人間と区別されるような行動をすることがない。
ということは、どういうことか。
その眼鏡が「嘘」なら、「怪人」なんて存在しない、という「仮説」だって成り立つわけである。つまり、だとするなら、こういった相手を
殺せる
つまり「区別」して、一方を、なんのためらいもなく殺せるということ自体が異常なことであると考えられるわけだろう(これは、一般的な「正義の味方」というアイデアに対する、痛烈な批判だろう)。ところが、主人公は、そのことに「ためらい」がない。というか、どちらが自分の原因によって死ぬことになろうと、そもそも、苦しまない(その日の夜は、悪夢にうなされることなく、ぐっすり眠る)。
それは、彼の家族を殺し、彼と同姓することになる、剣藤犬个(けんどうけんか)が、そういった殺しを行った夜は必ず、悲鳴をあげ魘されることと対照される。
こういった、人間的な感情から離れてしまったような、機械のような、人間観というのは、非常にゼロ年代的だと言えるだろう。それは、酒鬼薔薇事件の、あれほどの残虐な行為を、本当に子供が行えるのか、という私たちの一般の感覚を超えた、非人間性への違和感を追求してきた、という側面もある。
こういった非常に、悲観的な、嫌人間的なこの作品世界において、一つの希望(というか、作者の答え)を感じさせるのが、作品最後の、剣藤犬个(けんどうけんか)との
対話
の場面と言えるのではないか。

「ごめんね、そらからくん」
そんな風に謝ることなど、本当はできないはずだったのだから。
「きみの家族を殺して、ごめん。私が間違ってた」
そんな気持ちが右手の首輪を通じて、伝わってくる。謝罪というより、それは悲鳴のようだった。その気持ちは悲鳴のように直接的に、偽りなく空々に通じてくるのだった。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね。ごめんね」

「共鳴環」という機械によることによって、本当は死んでいて、もはや、会話できるはずのない剣藤犬个(けんどうけんか)と、たまたま行われえた
対話
は、そのイレギュラーさにおいて、彼の「ふり(パフォーマティブネス)」を無効にする。
西尾作品は、一貫して、こういった「ビルドゥングス・ロマンス」が主題となっていると言えるだろう。
子供の残酷さは、子供がまだこれから成長する対象であることを意味する。もちろん、その成長の道程は、ぐねぐねとまがりくねり、いったいいつになったら、悟りを開くのか。それは、そもそも到達するものなのか。死ぬ直前なのか、わからない。
しかし、たとえそうだったとしても、西尾作品のそれぞれの登場人物はその各自の場所から、「なにか」を探し向かうことをやめない。その向かう先がなんなのかは分からないが、どんなに悲惨で残酷な場面を通過しようと、この姿勢が一貫しているのは、いかにも、週刊少年ジャンプ的な彼のスタイルだとは言えないだろうか...。

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)