千反田のぐふふ

もう一度、古典部システムについて考えてみよう。
このシステムの特徴は、いわば、千反田だけが
外部
だというところにある。つまり、折木と里志と摩耶花は、同じ中学だったわけで、ずっと、
地元のダチ
なわけだ。しかし、千反田は違う中学で、高校から同じになる。折木と里志と摩耶花は、まさに、ツーカーの関係で、彼らは同じコードを
ハイコンテクスト
の中を生きている。大事なことはここだ。折木と里志と摩耶花がいるだけでは、古典部システムは機能しない、ということである。この3人だけの場合、折木は推理を始めない。なぜなら、別に、各自が各自の必要性にもとづいて、推理すれば、それでいいだけだからだ。また、そんなことは勝手に彼らでやるわけで、つまり、そうやって、わいわいがやがややっている限りにおいては、お互いの
差異
が意識されないわけである。お互いは長い間、そういった
ハイコンテクスト
を生きてきたわけで、もう自分「独自」という感覚に意味がなくなっている。お互いを「区別」することさえ、それほどの意味がなく、お互いの意見でさえ、この3人の力学の中で、微妙に調整されて、「コモン」化されてきたわけで、もうこのシステムは完成しているわけである。
ところが、千反田は違う。彼女が「天然」に見え、もっと言えば、
幼稚
に見えるのは、民俗学的な意味での、「外の人」ということになるだろう。ある部族を訪れる外部からの訪問者は、往々に「子供」のように扱われる。その部族の言葉も分からず、なんの習俗、作法を身につけていない場合、まるで、産まれてきて日の浅い幼児に対するように、大の大人に接する。
千反田の態度が、どこまでも、礼儀正しい(儀礼的)のは、お互いがそうだから、となる。
折木の古典部の入部は、姉という超越的な場所からの、要請であった。これに折木が従うという行為を受け入れた瞬間から、その「事実」は、蓋然的な「強制力」を帯びるようになる。
つまり、折木が古典部の活動をしないということを選ぶことは、どうしても彼の姉との関係の「再検討」を促されるため、どうしても煩雑な心理的ごたごたを想起する(実際、姉は日本にいないわけで、電話するにもお金がかかることもあり、より超越的な立ち位置だったわけで、「どんな理屈であったとしても」姉のいない間に、姉の意志を握りつぶし、後で心理的な軋轢を生むことを潔しとしなかったわけだ)。
しかし、その外在的な事情が、折木においては、千反田との関係を、「なりゆき」上、既成事実化していかざるをえないという結果へとつながる。
折木と里志と摩耶花という、昔からの「ダチ」グループの中に、古典部の入部というのをきっかけとして、千反田が「機械的」に挿入されることによって、その3人の関係には、ある変化が生まれる。それが、「折木の推理」である。
折木と千反田の関係は、それほど親しくない間における、儀礼的なものである。そもそも、お互いのことを、なんにも知らないのだ。なかよくなろうにも、なれるわけがない。しかし、そのことが、
儀礼的要請
に対する、
儀礼的返礼「義務」
の感情を、折木に生み出し、「折木の推理」の動機を担保する。
しかし、この「変化」が折木には気持ち悪い。なぜ自分はこんなことをしているのか。折木・里志・摩耶花グループのこの「変化」「化学反応」が、
どうもいつもと調子が違う
という、感覚を折木に生みだし続けることになる。
千反田の「内部化」にともなう、この化学反応を理解するには、そもそも千反田とは、どういう人なのかを理解していく手続きなしには、ありえない。
このことは重要である。可及的すみやかに、千反田の内部化に成功しない限り、折木・里志・摩耶花グループの元の秩序(平穏)が戻ることはない。そもそも、元に戻ることが無理だとしても、この関係の「ぎくしゃく」がとれていくには、それが必要条件となる。

いや。
俺はかぶりを振る。いまの考えを自分の頭から追い払うために。存在を知ってからたった二ヶ月の千反田に、「そういうやつではないか」とは何様だ。中学以来のつきあいの福部里志についてなら、多少は知らなくもない。つきあいは浅いとはいえ九年間同じクラスだった伊原のことも、少しは。しかし、俺はまだ、千反田の何を知っているというのか。
そうだ。千反田の行動は、その目的がはっきりしている分、ときどき読めることがある。しかしだからといって、心の内まで読み切れると考えては、これはあれだ、大罪を犯している。「傲慢」ってやつだ。慎むべし慎むべし。いつから俺はそんなに偉くなった。大体、今日一日でさえ、俺な何度千反田に意外と思わされたことか。
(米沢穂信「大罪を犯す」)

遠まわりする雛 (角川文庫)

遠まわりする雛 (角川文庫)

千反田をウムハイムリッヒな存在から、ハイムリッヒな存在にする必要がある。
しかし、その過程は容易ではない。
なぜ折木は千反田が、世の中の異常を察知する能力にたけているように思うのか。それは、折木・里志・摩耶花グループにおける
情報の縮減
が、彼らに見る必要のないものを見ないという「作法」を与えているからで、たんにそのコードを千反田が共有していないからにすぎない。
これらの理由から、千反田の「キャラ化」は必須となる。

七つの大罪って、そんなのなんだ。じゃあ、ちーちゃん完璧じゃない。控えめだし、あんまり食べないし」
「欲深とはとても思えないし、勤勉だしね」
「それに、その......、えっちでもないし」
「嫉妬するかどうかは、知りようもないけどさ」
もはやこの二人、褒めているというより、はっきりからかっている。桜色になっていた千反田の顔が、ますます赤らんできたようだ。打ち消すように両手を振って早口になる。
「やめましょう! それにわたし、おう、お腹がすいたらよく食べます」
当たり前だ。
「もう、聖エルって感じよね」
「チタンダエルって、なんか天使にいそうじゃない」
ウリエル、ガブリエル、チタンダエルって? あはは」
いつものことだが、息が合っている。
(米沢穂信「大罪を犯す」)
遠まわりする雛 (角川文庫)

そもそも、人間そのものは単純だと考える「べき」だ。複雑なのは、その「不可視」性であり、「不可知」性の方なのであって(不可知論こそ私の一貫した主張ですが)、観察側はその不可知性の方を逆に、単純化してしまうことによって、一種の他者支配、
他者への「文化的」暴力
を正当化しようとする(知なんて、そんなものだ)。カントの判断力批判ではないが、もっと快不快で、人間は説明できると考えた方が、さまざまなことがすっきりすると言えないだろうか。

俺はまわりくどい前置きなしで、いきなり本題に入ることにした。ポケットから姉貴の手紙を出す。
「俺の姉貴は古典部出身なんだが、手紙で文集の在処を教えてくれた」
千反田は、きょとんとした。意味を理解できなかったらしい。
古典部の文集がどこにあるのか、教えてくれたんだ」
噛んで含めるようにそう繰り返すと、
「そ」
千反田は目を丸くして絶句した。
「それは、本当ですか?」
「本当だ。嘘をついても得がないだろ」
断言すると、千反田のその薄いくちびるが、すうっと笑みを形作った。品位ある千反田家の御令嬢は満面の笑みを浮べるようなことはしないが、喜怒哀楽でいうならまじりっけなしの喜。欲しい欲しいと思ったなにが手に入っても、俺にはこんな顔はできないだろう。喫茶店「パイナップルサンド」で深刻そのものの表情を見せたのと同じ人間とは思えない。
「そうですか、文集が......」
小さな呟きが俺には聞こえた。
「......うふふ、バックナンバー......」
ちょっぴり危ない人、千反田える

氷菓 (角川文庫)

氷菓 (角川文庫)

私には、この「うふふ」が、舌なめずりする「ぐふふ」にしか聞こえない(デマ認定)。