文化への不信

ここのところ、検討してきた、古典部シリーズを、とりあえず、単行本レベルで最後まで読みまして、千反田えるについての検討は、今までで、ある程度、検討はやったかな、という印象はある。
彼女は、地元の豪農として、なんとかこの衰退していく日本の農業(彼女の生きた村)を継承していきたいと思っている(そこに折木がなんらかのサポートをできるのか、というのはあるが)。そういう意味で、彼女がいつも何を考えている人なのかは、ある程度見通せる、と思われる。
そういう意味で、彼女をある程度、距離をとって考えられるだろう。
そこで、最後に残っているのが、主人公の折木奉太郎の「省エネ主義」なのだろう、と思っている。
彼はなぜ、「省エネ主義」なのだろうか。しかし、そのヒントは、さまざまなところに散見されていると思う。

小学生のころは、ほぼ毎年初詣に出向いていた。他でもない姉貴が、この手の年中行事が好きだったのだ。好きなら好きで一人で行ければいいものを、なぜかやつは俺を散々連れまわした。近所の八幡神社ならまだ付き合えないこともなかったが、姉貴が大学受験のときはひどかった。「あたしの合格を共に願いなさい」と命令され、数時間をかけて遠く離れた天満宮に連れていかれたのだ。人に願いなさいと言っていながら本人はお守りの一つも買わず、「何回連続で大吉が引けるかゲーム」に興じていたことを憶えている。
姉貴が大学に行き飛びまわる範囲がぐんと広がって、その広さゆえに俺を連れまわすことがなくなると、俺は年中行事にかかわる必然性を失った。
米澤穂信「あきましておめでとう」)

遠まわりする雛 (角川文庫)

遠まわりする雛 (角川文庫)

こういった感覚は、みなさんに、兄や姉がいるかどうかで、全然ここで言っている意味が分からないんじゃないかと思う。
兄や姉がいる人というのは、上記の言っていることが本当によく分かる。それは、実際に、彼らが、弟や妹を、ひき回すかどうか、ではないと思っている。といいますか、それは、彼ら自身の「トラウマ」であるわけで、つまり、間違いなく、幼い頃には、それなりの、

  • ひき回す

体験をしているわけです。といいますか、それを親が「推奨」してきた。なんにせよ、兄や姉は「先人」。つまり、人生の先輩であって、そういった側の言うことを「後人」が聞いて従うように進めるのは、親であれば、当然なわけだ。
しかし、実際のところは、大きくなってくると、そういった「ひき回す」行為は、ほとんどなくなるのが通例ではないかと思っています。というのは、当たり前ですが、各自、学校での「つきあい」が成熟してくるので、そもそも、兄弟での行動というのはなくなるからです。
しかし、そうやって、ほとんどなくなるから、弟や妹のその「ひき回し」にたいしての、

  • 待ち構え

の姿勢が、潜在的になくなるわけではない、と思っています。いつ、どんな場面で、そういったことを求められるかもしれない。もちろん、過去の「トラウマ」のようなものがありますから、そうなったら、今回は「成功」させたい、という感情も隠れたものとしては、あるのでしょう。
そこで、この関係を二つに分類します。

  • 兄・姉がいない:純真無垢。天真爛漫。わがまま。
  • 兄・姉がいる:相手(兄・姉)に常に気を使う。相手の行動に、うまく対応しようと考えている。

だから、折木の「省エネ主義」はシスコンなんですよね。姉の突然の要求に、常に、速攻で対応しようと、スタンバってるから、その大変さを考えると、自分の
やること
なんて、あったら、どう考えても、その任務をこなせるわけがない。つまり、なんとしても、自分を常に暇にしておかないと、ということになるのでしょう。
だいたい、組織って、上記の二つで、構成されてますよね。だから、千反田と折木のコンビも、なんやかんやで、うまくいっている。
だいたい、世の中で大成しているのは、前者(兄・姉がいない)のように思えますね。余計なことを考えずに、他人を「無邪気」に「手段」として使えるというのは才能なのでしょう。
後者(兄・姉がいる)は、あまり、なにかを「直接」、他人に言わない。自分が思っていることを、ワンクッションおいて、オブラートに包んで(相手に気を使って)説明する。また、そういったストレスがあるから、なんというか、認識が哲学的にもなっていきますよね。だから、どこか、ひねくれている。
安冨さんの言う「ハラスメント論」は、同じく、ブラコン、シスコンにも適用可能なのでしょう。
以前、ライアル・ワトソンの『思考する豚』という本を紹介した。豚は、非常に頭がよく、人間に似ている。また、養豚場の非常に密集したところで飼われても、かなり平気で生きられるところも、人間に似ていると言えるだろう。

また、たいていの草食動物はほぼひっきりなしに食べているが、豚はそれとは違い、日々の活動の中で決まった時間にだけ食べ、夜はずっと眠っている。つまり、まともな人間と変わらない。
それから、豚は素晴らしく協調性に富んでいる。群れることを喜び、その相手が別の種でも構わなければ、縄張り的習性もない。私たちが移動するときには喜んで従い、大勢の子豚の世話もいとわない。こちらが集めてやる必要などなく、来させることも行かせることも、角笛や呼び声だけ簡単にできる。

思考する豚

思考する豚

こういった密集したところで、それほどの「ストレス」を感じることなく、自らの生を維持できるということは、それなりの「協調行動」をやっている、と解釈できる。
こういうふうに言うと、それを「利他」行動と勝手に解釈して、すぐ善悪の問題と考えがちだ。生物が他生物のために生きるわけがない、なにその偽善、とかいう。つまり、功利主義だ。
しかし、協調行動を利他行動と単純に決めつけることも、一つのイデオロギーにすぎないだろう(つまり、脊髄反射)。協調行動を、なぜ利他行動だと最初から決めつけるのか。そもそも、なぜ行動に「動機」が必要なのか。
私たち生命は、その始めから、ある行動をすることに「よって」、今、こうやって存在している。そういった行動を「なぜ」と問うことに、果たしてなんの意味があるだろうか? あらゆる行動は「やりたからやる」に決まっている。そういった、快不快以外のなにかを想定することは、一種のイデオロギーなのだろう。
こういった視点で考えたとき、豚の高度な集団行動は、とても示唆的だ。
それは、多くの場合、人間と動物を分けがちだからだ。人間を動物とは違った「ステージ」に位置する存在で、

  • 動物に行動において退化した人間(人間の動物化
  • 動物から行動において進化した人間(人間の人間化)

といった表現をしがちになる。ここには、明確に今ある人間が、やはり動物とは、どこかが違うんだ、という視点がある(そこに、大小の差はあるにしても)。
しかし、そもそも、そういった区別には、なにか意味があるのだろうか? 豚も高度な協調行動を行っている。他の動物でも、そういった特徴を読み取れるものもいるだろう。
しかし、そのような協調行動という極めて人間的と思われる行動を、人間以上に行う豚のような動物が存在するとして、じゃあその、人間の「優越性」とはなんなのか、ということになるだろう(それが、ライアル・ワトソンの主張であった)。
つまり、そういった意見は、どこか大正教養主義(エリート主義)への隠微な欲望を表明しているわけで、そういった「協調」を、奴隷労働的な低い「労働」と考えたがる、
価値
を表明しているにすぎないのではないだろうか。協調行動を行わないことが、人間の動物化として、その特徴は、そもそも、エリート的なエゴイズムだとして、ところが、そもそも人間以上に協調行動を行う豚のような存在がいるのだとするなら、その「動物」化って、何が言いたいのだろうか? と思わないか。
つまり、最初から、なにが動物なのかを「恣意的」に選んでいるにすぎないように思われるわけで、だったら、人間とか動物を「最初から」区別すべきじゃない。
功利主義の言う最大多数の最大幸福は、そもそも、幸福とはなにかを、どうして他人が勝手に決められるのかという点において、無意味と言わざるをえない。つまり、お前に俺が何を求めているのかを勝手に決められるいわれはない。
一種のこういったニーチェ主義は、むしろ、経済学が「理論」として要請したのであって、なんら論理的に実証されたものじゃない。だから、本末転倒なのだ。まさに、遠近法的倒錯。

ドイツ・イデオロギー』の一節「国家とは幻想的な共同体である」から着想を得たというこの概念には、マルクスエンゲルスのそれが青年ヘーゲル派批判の書であったことから当然にも、元々は、ヘーゲル的国家遺思論の唯物論的転倒が含意されていた。すなわち、国家が「幻想的な共同体」であろうことへの端的な批判である。マルクスエンゲルス唯物論によれば、ヘーゲル的な国家遺思=「幻想的な共同体」------それは、「上部構造」とも規定される-------は、それを規定・決定しているところの現実的な経済過程たる「下部構造」を参照すれば、十分にその「幻想性」を批判・解体しうるものとされていた。
ところが、スターリン批判以後の知的状況を承けて、上部構造を下部構造の「反映」と見なすソヴィエト・マルクス主義に反発していた吉本にあっては、上部構造は下部構造から-------相対的に?------切り話して論じうるという原則が立てられ、そのために、その「幻想性」を批判・解体する契機が失われるのである。
(絓秀実「幻想・政治・文化」)

atプラス12

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60年代全共闘運動は、資本主義の問題が、「政治」や「労働」の問題と考えられ、それとガチで真正面からぶつかり合った運動だったと言えると思う。
ところが、それ以降、資本主義は、それそのものとして、考えられなくなる。つまり、ある種の文化的な「昇華」が、全領域を蔽う。それは、実際の経済成長がさまざまな矛盾を止揚したこととも関係するのだろう。これによって、文化によって、あらゆる諸問題が解決するかの「幻想」が生まれる。

人類学的に言えば、マルクス主義の言う下部構造も、「自然」ではないという意味で、「文化」に含まれることになるが、そのようにして下部構造という視点を廃棄することは、吉本が、下部構造を括弧に入れて「幻想」領域=上部構造だけを扱うことができると言った時の構えと共犯的なのである24。すべては、「文化」=「幻想」領域の問題となった。これは真の意味で「カルチュラル・ターン」(ジェイムズソン)であり、一九七〇年代前後に起こったことである。つまり、「六八年」を「文化」に回収することが、その秘めらた目論見であった。
この時、奇妙な事態が静かに生起していた。「六八年」という時代は、世界的に、しばしば「政治の季節」と呼ばれることがある。しかし実は、「文化」による「政治」の消去が進行していたのである。
(同上)
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文化大革命の戦略とは、プロレタリアートの上部構造(文化)への進駐であり、これは、いまだ社会主義化していない下部構造をも、上部構造への介入によって逆に革命するという企画を思っていた。
(同上)
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吉本隆明が、毛沢東主義グラムシ主義に対して、頑固に否定的だったことは知られている。それらはスターリン主義の亜流でしかないと見なされていた。しかし、『共同幻想論』の著者は、その主張を裏切らざるを得なかった。それは、ある種の毛沢東主義的・グラムシ主義的な転回だったのである。そのことは、これまでの論述から明らかだが、同時に、吉本の死を公的な場で哀悼した者の多くが、カルチュラル・ターン以降の時代を「文化的に」肯定したひとびとであることであることによっても、確認できるだろう。
(同上)
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吉本の死の直前に彼を文化的に注目したのが、糸井重里だったことは、非常に象徴的だったように思う。
資本主義は「広告」として、再構成され、文化に還元される。つまり、資本主義に対する「文化」の勝利である。しかし、その文化とは、
資本主義化された文化
であって、つまりは、資本主義なのだ。だとするなら、結局は、資本主義への考察なしに、文化を考察することは、不純な文化的児戯の営みだと考えざるをえないのではないか。

「サラリーマンにはなりたかねぇ」という気分には、逆に、新自由主義的な一発逆転の起業家(ロックスターであれ、お笑い芸人であれ、ITヴェンチャーであれ)の活動(アクション)」の方向へと次第に回避され、「労働」はますます隠蔽されていく。それは、「文化」や「幻想」といったパラダイムが、「下部構造」を隠蔽することで有効になっていったことと即応的である。
(同上)
atプラス12

「政治」や「労働」の体系的考察なしに、文化を称揚することは、反動的である。
つまり、文化は容易に、文化的「広告」となる。つまり、

  • 文化即広告

である。
文化を語ることは、文化という「ステマ」を語ることとなり、つまりは、自らの文化的ビジネスの成功を語ることとなる。そこにおいて、資本主義は、そういった文化的多様性の「一分野」に押し込められる。
ところが、彼らの文化戦略は、その「資本主義」的作法と切っても切れない。文化は「資本主義」によって、
汚染
されているのだ。あらゆる、文化的産物は、資本主義的成功なしには、考察の対象にすらならない。そもそも、そういった文化に注がれる「エネルギー」が、資本主義的な下部構造に規定されている限り、文化的到達点は、
資本主義
によって、フレーム化されている。資本主義的「成功」こそが、その文化的成功そのものとなる。文化的成果は、資本主義が決定する。
しかし、そのように文化の神学化を徹底するとき、往々にして、「政治」や「労働」への考察が「おざなり」にされる。つまり、「政治」や「労働」は、文化的虚飾によって、隠される。
まさにそれは、階級的風景と言えるだろう。文化と言いながら、それはたんに、ブルジョア文学であるにすぎない。ブルジョア文学を文化の
必要十分条件
ととらえ、それでなにごとか十全に語っているつもりになっている。そういった、恣意的な文学の「フレーム」化から、漏れている、彼らから不可視な場所にあるものこそ、「政治」や「労働」なのであって、ここを真剣に取り組むことなしに、文化の文化的「優位性」を、ナルシスティックに称揚するだけの、
文化幻想
によって、他者支配を行う「広告(=ステマ)」程度の価値しかない...。